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イースランドの物語 ~償い~

オアシスを君に

作者: くじら

 




「私達結婚することにしたの」


 目の前にいるこの女は誰だ。

 いや、分かってる。分かってるけど。

 目の前の女はつい先週まで俺と半同棲してたセティだ。

 些細なことで喧嘩して、セティはいつものように友達んちに行くと言い残して出て行った。

 いつものような喧嘩で、どうせまた数日したら帰ってくるだろうと思ってたんだ。

 で、今週これか?


 隣の男は俺の長年の親友ジョシュア。

 ジョシュアは照れくさそうに俺に言った。


「今まで黙ってたけど、実は俺達半年前から付き合ってたんだ。

 でもセティの腹にさ………子供が出来てな………

 もうそろそろ俺も身を固める時期なんだろうなって。

 ………お前も祝ってくれるだろ?」




 親友から大事な話があると呼び出されて、

 俺にとっての大事な大事な休日の朝にのこのこ出てきた近所の喫茶店で、

 まさか親友がいの一番に紹介してくれた大事な人とやらが、

 周りには交際秘密にしてたけど先週まで俺んちで半同棲してた彼女だと誰が思うよ。

 セティはジョシュアから見えない角度で、勝ち誇った蔑みの目で俺を見据えていた。


 ああ、これがセティとの交際を1年間周りに隠し続けてきた俺への彼女なりの復讐か。

 そうかー。

 いやこういう事を平気でやる女だ、たとえ俺の子でもセティは眉一つ動かさずジョシュアの子だと言い張るだろう。

 セティは俺とジョシュアの長年の共通の友人だった。


 もうヤダ。女怖い。



「そうか………!

 お前ら本当に良かったな!

 俺、ずっとお前らの事推してたから、すげぇ嬉しいよ!

 結婚式には絶対俺も呼んでくれよ!

 てか手伝うからさ、遠慮なく声かけてくれよ?

 ジョシュアはこれから忙しくなるだろうし、セティは無理しちゃダメだろ?

 引越しとか大丈夫か?俺そういうの得意だからさぁ」




 内心の思いなどおくびにも出さず、俺は長年の親友と、昨日まで外向き友人&内実恋人設定だった腐れアマを心から祝福してみせた。


「ありがとうリカルド!俺達もお前に話して本当に良かった!俺、セティと幸せになるよ!」

「セティ、おめでとう」

「リカルド、ありがとう………これからもよろしくね………?」


 セティはジョシュアが優しく見つめる前で、嬉しそうに微笑んで涙ぐんで見せた。

 もうヤダ。女怖い。





 貴重な休日の貴重な午前中にメンタルに大ダメージを受け

(主にセティの裏切りよりも、ああいうヤバい正体が判明した女に人生をロックオンされてしまった親友に対して)

 俺は月曜日の午前中の職場以上に疲労した気持ちで喫茶店を出た。

 こんな気持ちの時には行くのはあそこしかない。







「いらっしゃいませ。あ、リカルド君、先週ぶりだね~」

「も~、マスター助けてよ~」


 俺の行きつけの喫茶店『オアシス』は職場の近くにある。

 何が悲しくて大事な大事な休日に職場の近くにまで行かなきゃいかんのと思うかもしれないが、ここはまさに俺にとっての心のオアシスだ。

 ここはコーヒーもスイーツも軽食も全部ハズレなく美味いが、それよりも何よりも、ここのマスターの人柄がな、あったかいんだよ。


 俺はカウンターに伏してマスターに先ほどの出来事を打ち明けた。


「うーん………それはリカルド君が不誠実だったからだよねぇ」

「あ、やっぱそうなの?」

「うん。どうして周りに隠す必要があったのかな?」

「うーん。なんとなく恥ずかしかったから………?あと、もうちょい俺の収入が安定するまで待って欲しかったかな………俺が堂々とプロポーズできるまで待ってほしかった」

「彼女、幾つだった?」

「28………………」

「リカルド君、適齢期って言葉知ってる?」

「はい………」

「僕らが思うより、女性にとっての年齢は宝石のように貴重なんだよ。それを無駄に削るような事をしてはダメなんだよ………」



 マスターはあくまで優しくやさしーく俺に諭す。



「でも俺は結婚するつもりだった「でも周りには隠してたんだよね?」ハイ、すみません………」

「元彼女さんはさぁ、リカルド君の態度で将来の不安を埋める事ができなかったんだよ」

「でも!だからといっても浮気は裏切りじゃないですか!」

「うん。それは分かる。浮気は裏切りだよね。だから元彼女さんが悪くないとは言わない。ただ、元彼女さんの心に歪みを作ってしまった一端は、リカルド君の元彼女さんへの不誠実な姿勢にあったことも、覚えていてくれると、元彼女さんのこともいつかは許せるようになると思うよ。許せないことはしんどいことだからね。だからリカルド君自身のためにも、ね。」



 そう話しながらマスターは俺が好きないつものマスターオリジナルブレンドの濃い目のコーヒーを淹れてくれた。

 ああ、美味い………。切ないほど美味い………。

 俺は趣味がコーヒーなので、色んな喫茶店に行くんだけど、ここより美味い喫茶店をまだ知らない。

 なんというか、豆のブレンドなの?それとも煎り具合なの?それとも挽き方なの?よく分かんないんだけど、ここのコーヒーはなんか飲んだ時すげぇあったかいんだよね。このあったかさが他の喫茶店のコーヒーには出せていない。


「そうかぁ………俺も悪かったんですよね………」

「そうだね。その上で、次の彼女さんには、もっと素直に誠実に向き合ってあげたらいいと思うよ」

「いやぁ、もうしばらく女はいいです。今回もその前もその前も女の浮気で終わったんで………」

「それは………お疲れ様………」


 マスターは困ったような笑顔で俺にそっと小さなビターチョコケーキを出してくれた。俺の大好物だ。

 このナイスタイミングすぎる優しさがマスターの人柄なのよね。

 俺はほろ苦く薫り高いコーヒーと、同じくやや苦のビターチョコ系の組み合わせを至高だと思ってる変態なので、マスターの優しさがいつもより滲みた。







 そしておまんま食ってく為には今日も仕事なわけで。

 爽やかな月曜日。


「おい、リカルド!あの書類どこ行った!」

「リカルド、ちょっとここの数字見てくれ!」

「リカルド助けてくれ!2課のお局が先週つき返した予算表についての説明求めてきてる!」


 いつものように仕事ではやや器用貧乏な俺は、課内の色んなヤツからいいように使われている。

 もうね、君達大人でしょ?早く自立しようよ。

 とか思いつつも頼まれたらイヤと言えない俺が憎い。

 俺がどんなに気持ちが重くとも週は替わるし日は沈む。




『オアシス』でマスターの愛に癒された帰り、セティから「私の荷物捨てていいから」というペラペラの紙1枚と合鍵が手紙受けに入っていて。

 そんじゃまぁとよく見てみたらセティはもうしばらく前から主な荷物を引き払い始めていたらしく、俺んちにはダサい部屋着複数と古い下着複数と古い外套2枚と古いシャツと微妙な靴3足、ちょっとした日用品と、捨てても問題なさそうなショボい棚2個、微妙なセンスかつ安物の女子系雑貨類(大量)など、マジでゴミしか残されていなかった。


 ああ、俺はこんな変化にも気付いてやれなかったんだなぁと思いながら、さらに貴重な休日の午後をセティという名のビッチが残していったゴミの整理に潰された。

 もうしばらく女は無理ですわ………。





 そんな事を思いつつも仕事に集中して、ようやく昼休憩の鐘が鳴る。

 食欲なんかどこにもないが、食わなきゃ午後の仕事がはかどらない。

 食べ物は力だ。

 他の課の人達の波に乗ってぞろぞろと食堂に行くと、いつもの風景に、いつもと違った光景。


「×××!×××ッ!!××ッッ!!」


 人ごみの向こうから誰かの言い争う声がしている。

 パン!という平手で肉を叩く音がして、人ごみが割れた。

 人ごみをかき分けるようにして憮然とした表情で出てきたのは


『オアシス』のマスター!?


 え?え?何?何が中で起きたの?!

 俺とその他大勢が呆然と見つめる中、マスターは毅然と前を向いて、人ごみの中のモブその1な俺とももちろん目が合うこともなく、そのままうちの敷地から出て行った。

 俺はその後ろ姿をその他大勢のギャラリーと共に見送るしかない。



 さらに驚くべきことは続くもので。

 人ごみの向こうで左頬を打たれて赤くしていたのは、なんと陸軍の英雄、『イースランドの金狼』ことジェイムズ中佐だった。

 中佐は何事もなかったかのように、いつもと同じ堂々とした姿勢で食堂を後にした。

 そして残されるギャラリー達。


 えーと………ここ、佐官用じゃないヒラ向けの食堂なんだけどとか、そもそもなんでここにジェイムズ中佐がとか、もしかしてマスターと………とか色々考えかけたけど、その思考の答えは誰得にもならないので一旦強制終了した。

 もういい。もう俺の脳のライフポイントはゼロだ。ご飯食べる。








 午後はやっぱりさっきの食堂の話でどこも持ち切りなわけで。

『イースランドの金狼』が実はゲイだというのはまぁこの職場の人間なら昔からみんな知ってることなので、あのシチュはやっぱりそうよねとか、

 てかジェイムズ中佐は今年45だけど『オアシス』のマスターは一体幾つなの?(見た目30後半〜40前半っぽい)とか、

 そういえば昔ジェイムズ中佐と付き合ってた尉官がいたけどアドルフ大将の横槍で無理やり別れさせられてそのまま尉官の方は退官しちゃったんだよねとか、いやそれ尉官の方がアドルフ大将を洗脳しようとしてた敵国のスパイだったんだよとか、

 もう下世話な話がヒソヒソとみんなに聞こえる声で飛び交っている。


 なんだこの空気………

 男と女も地獄だけど、男同士も結構大変なんだな~

 でも皆さんよそ様の色恋はいいから手を動かそうね。そうしないと俺に回ってくるからね。


 その日はお陰様で俺以外の人達の仕事が全然はかどらず、もちろんそれは最終的に会計課のお助けマンこと俺の所に回ってくるわけで。

 しっかりガッツリ俺だけ残業となりました。

 いいよ………どうせ家に帰っても、まとめて部屋の隅に固めて置いてるセティの残していったゴミ共を次のゴミ出しの日までなるべく視界に入れないようにしながらヤケ酒飲むしかないしな………

 でも本当は残業大嫌いです………









 鍵をかけて会計課の戸締りをし、本部の敷地を出て家に向かって暗い道を歩いていると、なんとなく『オアシス』に足が向く。

 もう閉まってるかもしれないけど、ちょっと気になった。


 するとやはり閉まってた。まぁ今日はあんなことがあったしな。

 でも人の気配がする。

 なんとなく人の気配がする裏口に回って、思わずヒュッと細く息を吸い込んだ。


 マスターが真っ暗な裏口の外でボンヤリ立ち尽くしていたからだ。


 そのまま何分か見てたけど、マスターは全く動く気配がない。

 ………これはヤバい。何がヤバいのかと聞かれるとよく分からないけど、でも相当ヤバいと俺の第六感がガンガン告げている。

 思わず声をかける。


「………マスター、大丈夫ですか?」


 マスターがゆるりとこちらを見た。

 どう見ても大丈夫じゃない。いつものマスターじゃない。


「………大丈夫じゃないように見えたかな?」

「いえ………」

「リカルド君こそどうしたの?ああ、いつものコーヒーか。ごめんね。もう閉めちゃったんだ」

「あ、そうですよね………」

「うん。明日来てくれると嬉しいなぁ。せっかく来てくれたのに本当にごめんね」


 マスターの口調はいつも通りに明るいけど奇妙に抑揚がなくて、それが一見普通に話してるマスターの状態が決して良くないことを伝えてくる。


「マスター………」

「いいビターチョコケーキのレシピを手に入れたんだよ。リカルド君ナッツ類は大丈夫かな?いいアクセントになると思うんだよね」

「マスター………」

「じゃあ、リカルド君、気をつけて帰ってね。今夜は冷えるから」

「………マスター………………………」

「リカルド君どうしたの?」




 俺は思わずマスターを抱きしめてた。

 いつどんな時も人を癒してくれるこの人が、こんなにも追い詰められてる。

 俺に何ができるんだろう。

 それしかなかった。


「リカルド君………」

「………マスター、すみません。もう見てられません………」

















 どうしてこうなったんだろう。

 俺は今『オアシス』の2階でマスターにキスしている。




 30分前、思わず抱きしめてしまった俺にマスターはやはり抑揚のない口調でこう言った。


「………もしも君が僕のことを心配してくれるのなら、今すぐ僕のことをひどくして欲しい…………」


 その言葉に対し俺に何が言えただろう。

 俺はそのまま無言でマスターと一緒に店の裏口から階段を上り、2階にあるマスターの住居スペースにはじめて入った。

 驚くほど何もない、殺風景な部屋。清潔ではあるけど、あまりに飾り気がなさすぎて異常だ。

 数日前に引っ越してきたと説明されても違和感がない。

 セティが置いていった、うちのあちこちで自己主張してた女子系雑貨類が思い出された。

 あれは『人のぬくもり』なんだ。この部屋にはそれがない。


 男とこんな空気になるのは初めてだったが、女とさして変わらないと思っていたので、そんなにテンパることはなかった。

 ただ、リクエストの『ひどく』がどこまでなのかが分からない。

 流れに任せることにした。

 だが。


 俺がどんな風にしても、マスターはうなだれてほとんど反応がない。

 ああ、この人の心はいま死にかけてるんだ。

 そう思ったら、俺の中に今までと違う熱量が灯る。

 なんとか反応を引き出さないと。どうすればいい。どうすれば。




 必死に考えていると、ふとベッド横のサイドテーブルに、昨夜マスターが寝酒に使ったのであろうほとんど減っていないブランデーが目に入った。

 俺はブランデーを手に取りながら


「飲んでください、楽になりますから」


 マスターの目の前で瓶からラッパ呑みしてブランデーを口に含み、マスターの顎を持って口づける。

 少しずつ口移しでブランデーを流し込み、2度ほど繰り返した。

 

「……どう酷くして欲しいですか………?」


 俺の言葉にピクンと震えたマスター。

 酒の力は偉大だ。ふとそんなことを思った。



 いつの間にかマスターの顔は涙と唾液でグチャグチャになっていた。

 マスターの目からとめどなく溢れ出る涙が解放の涙なのか、何かを忘れようとしてる涙なのか、それは俺には分からない。

 俺が出来るのは、マスターを望み通りの展開の中でほんのひととき呼吸させてあげる事だけ。

 夜明け頃、俺の胸の中で気絶するようにマスターは眠りに落ちた。
















「リカルド君、どうしたの~、目の下のクマすごいよ~?」

「いや、色々昨日あって寝てないんです………」

「ほう~さては彼女さんと頑張っちゃった?」

「あ、今そこ触れられたら俺泣いちゃうかもしれません。今週頭に別れました」

「………ごめん………今度飲みに行くか………?」

「先輩の奢りなら………」


 今日も元気に社畜は仕事。陸軍本部といえど事務方は会社と同じ。ひたすら勤労奉仕なのです………。

 書類は待ってはくれない。

 そして時間は止まらない。

 俺が寝てなくても。俺が疲労困憊でも。


「なんか今日のリカルドさん、ちょっとアンニュイな感じよね〜」

「いつものリカルドさんが温室育ちなら、今日のリカルドさんは野生のリカルドさんて感じ?あれで髪型がイケてたらデート誘われたら行っちゃうかも~」


 またもや聞こえるヒソヒソ話。ヒソヒソするならせめて聞こえない音量でしてくれ。頼むから。

 俺は当分女の子はいらない。女は怖いんだから。

 でも………………

 ああ!もう考えるな!考えてはいかん!

 どうしても昨日の『オアシス』のマスターの姿が浮かぶ。

 ふと思ってしまう。

 俺、なんであの時ドキドキしたんだろう………

 ああ~考えるな!考えるな~~!!

 でも………昨日のマスター………洒落にならない位色っぽかったよな………


 あああ~~!俺はこれから仕事に生きるの~~~!!











 終業の鐘と同時に俺は今日こそは残業しないぞとダッシュで本部の敷地を出た。

 寝かせてくれ。寝ないと死ぬ。

 でも帰り道、どうしても意識は『オアシス』に向かう。


「いらっしゃい」


 いつものように、マスターが笑顔で声をかけてくれた。

 そう、いつものように。



「リカルド君、昨日はありがとう」

「いえ………」


 マスターが一見普通すぎて、何故か俺の方がマスターの顔を直視できない。

 少し無理してる感じのマスター。

 あの後大丈夫だったんだろうか。いや大丈夫じゃないきっと。


 だからつい訊いてしまった。


「………もう大丈夫ですか?」

「うん、ありがとう。お世話かけちゃったね」

「いえ、そんな………」

「いつものでいいかな?」

「はい………」






 沈黙の時間。いつもは滅茶苦茶至福のはずな時間。

 俺は何を話せばいいのか分からない。

 やがていつもの幸せを詰め込んだ薫り高い濃い目のマスターオリジナルブレンドのコーヒーが出てくる。

 でもそこに添えられてるのは。



「昨日のお礼。ありがとうね」



 俺が大好きな王都の中央にある高級洋菓子店『ムーン』の限定ビターチョコケーキ。

 なんだかそれが俺にはひどく悲しくて。

 俺は………………

 でも今喋ったら、言っちゃいけないことまで言いそうな予感がして、

 ひたすらゆっくり食べることに集中した。

 正直どっちも味はほとんど分からない。



「昨日僕がそちらの食堂に行ったのはね」



 突然マスターが独り言のように話し始めた。

 俺の言葉は要らない。




「食堂にいる古い友人の妹さんに、訃報を届けなきゃいけなかったからなんだ」

「………………………」

「その友人はジェイムズの昔の恋人でね。僕とジェイムズとその友人は、古くからの友人同士でね」

「………………………」

「僕はその友人ともジェイムズとも付き合ったことがある。でも、最終的に僕はジェイムズとその友人との仲を心から応援してたんだ」

「………………………」

「その友人はね、軍神アドルフ大将………当時は少将の元に配属された時に、アドルフ少将をメロメロにしてしまってね。

 と言っても、本当は軍神が一方的に友人に対して惚れ狂ってしまったんだけどね。

 でも結果的に、友人は何も悪くないのに、『大戦の英雄アドルフをたぶらかす妖夫』とレッテルを貼られてしまってね」


 今まで何度も聞いたことがある。本部ではかなり有名な話だ。


「友人はとうとう陸軍を辞めて、出家してしまったんだ」






 俺は思わずマスターを見上げた。

 マスターは俺を見ていない。

 マスターの目はわずかに濡れて赤くなっていた。


「あんなに軍人として優秀で国と正義を愛していた友人が、一方的な汚名を着せられ、陸軍から追放されるかのように辞めさせられ、出家して。

 それでも友人は、今度は神父として頑張ってたんだよ………

 でもそれすら、軍神は奪ったんだ」

「!!」


 もしかして………訃報というのは………

 そんな俺の思いを読んだかのようにマスターはぎこちなく苦笑する。


「違うよ。友人は殺されたんじゃない。

 もしかしたら逆かもしれない。

 でも似たようなもんだ。

 友人は軍神に奪われた。

 一昨日、軍神と友人が一緒に別宅近くの崖から転落死してるのを使用人に発見されたそうだよ。

 ………そこで判明したのは、友人は1年程前から軍神の別宅に無理やり囲われていたんだ」



 吐き気がする。

 なんだこの現実は。



「それでね。

 僕は昨日食堂の厨房にいる友人のたった1人の妹さんに、友人の死を伝えに行ったんだよ。

 そしたら一足早くジェイムズが妹さんに伝えていてね。

 泣きじゃくる妹さんの前で、ジェイムズは無表情だった。

 僕は思わずカッとなってしまってね。

『お前があいつを守らなきゃいけなかったのに』って………

 ジェイムズを叩いてしまった。

 当時ジェイムズと友人はお互い将来を誓い合っていたのに。

 僕は………」



 マスターの目はここではない遠くを見つめたまま表情を変えずに落涙していた。

 俺でも分かる。

 ジェイムズ中佐に当時軍人の恋人を守ることは不可能だった。

 それは国に反旗を翻すに等しい。

 相手はあの軍神アドルフ。約10年前にあの壮絶な大戦を制した大陸の英雄だ。

 ジェイムズ中佐の『金狼』の異名も、アドルフ大将が当時指揮した、大戦を制した最後にして最大の作戦での功績からだ。

 その大陸の英雄アドルフが当時大戦の最中に恋路にのめり込み、周りが見えなくなるほどの事態が起きた時、

 その相手が将来を誓い合った恋人だったとして、

 ジェイムズ中佐に何ができたのか。

 国を取るか恋人を取るか。

 でも恋人を取ってもその先に未来はなかったのだ。

 10年前に大戦が終わったあと、大陸の治安が安定してきたのはここ数年のこと。

 それでも1番治安のいいこの国であっても、王都から一歩出たら略奪者はまだまだ跋扈している。

 ましてやイースランドの隣国であるカラハ共和国やバレリア皇国は、イースランド人に対しては当時ひどい敵対心を抱いていた。

 ジェイムズ中佐に取るべき道はなかったのだ。



「僕はひどい男だ。

 ジェイムズが辛くないはずないのに。

 ………もうすぐ軍神の国葬が発表されるかもしれない。

 僕はその日はお店を閉めるよ。

 あの男の為にじゃない。死んだマクスウェルの為に」

「俺も………ご友人の喪に服します」



 マスターは今日はじめていつものように笑った。



「………ありがとう」












 それからいつもと変わらない日々。

 おまんまの為には今日も働く。

 あれから間もなく発表された大戦の英雄・軍神アドルフ事故死の訃報は大陸を揺るがせた。

 隣国からの暗殺じゃないかとか、本当は随分前から耄碌してたんじゃないかとか、自殺だったんじゃないかとか、心中だったのかもとか、ヤクでハイになってたんじゃないかとか、色んな憶測が飛び交うのを右から左に聞き流しつつ、

 俺は今日も脇目も振らずに働く。




「リカルドさーん、ここの数字大丈夫でしょうか」


 知らねぇよてめぇで確認しろ。


「リカルド、ちょっときてくれ、資料が足りない」


 俺はキチンと渡してるんだよあとはお前の問題なんだよ。


「リカルド、マジヤバい。次の部内説明会のプレゼン資料協力頼む」


 知るかお前の仕事だろお前がやれ。







 そんな思いを押し殺してひたすら働く。

 あれから俺の腹の中にはドス黒いものが溜まりっぱなしだ。

 その正体が何なのかを知ってしまうと、もう後戻りできなくなりそうで、そこから先は思考を放棄するようにしている。



 でも時々どうしても、

 一瞬だけ書類を捲る手が止まる。

 マスターの笑顔が離れない。















 2週間ぶりに『オアシス』を訪れた。


「いらっしゃい、リカルド君」


 いつものように笑顔で迎えてくれるマスター。


「久しぶりだね。お仕事頑張ってる?」

「はい、お陰様で」

「いつものでいいのかな?」

「はい、お願いします」


 そしていつもの時間。

 心地のいい沈黙と、大好きな薫り。

 出されたいつものマスターオリジナルブレンド、濃い目。

 薫りを胸いっぱいに吸い込んでゆっくり飲んで、

 俺はマスターに言った。


「ジェイムズ中佐に会いに行きませんか?」











 多忙なジェイムズ中佐に、俺はなんとかアポをねじ込んだ。

 ジェイムズ中佐の秘書官から「用件は」と聞かれ


「マックとサミーの件で」


 と告げたら、

 なんと次の日の午前中に時間をとってもらえた。


 マスターの名前はサミュエル。

 当時お互いをマック、サミー、ジェイと呼び合ってたとお局のお姉さま方から聞いた。

 ここ2週間、俺は情報収集頑張ったんだ。

 日頃徳は積んで置くもんだね。

「いつも手伝ってくれてるリカルド君の頼みなら」と、本部の妙齢のお姉さま方は重い口を開いてくれた。

 これは本部では長く箝口令が敷かれた内容らしい。

 だから正確な事実を知る人間が少ないわけだった。












 驚くことに、マスターは当時陸軍の元諜報部員だった。

 でも10年前の大戦末期、あの事件が起きて、軍に失望し除隊したとのこと。

 そもそも話は13年前にまで遡る。

 当時大戦は激戦に次ぐ激戦で、王都から転属した幹部達もバタバタ戦死していくような状況だったという。


 そんな中、大戦史上最も難しい戦場で雌雄を決するとも言われたバレリア皇国との激闘は、当時の時点では圧倒的にイースランド側が劣勢だった。そう、アドルフ少将が出て来るまでは。

 アドルフ少将がバレリア皇国との国境戦での指揮権の全権を手にしてから、急激に戦局は逆転する。

 戦況の急激な悪化に業を煮やしたバレリア皇国側からのアドルフ暗殺部隊もすべてアドルフ少将の読みによって潜行ルートまで含めて一網打尽にされ、数日後にはバレリア皇国側に暗殺部隊全員の首が送りつけられるような展開だったらしい。

 まさに軍神。まさに鬼神。誰もがアドルフ少将にひれ伏すような状況だったという。


 そのアドルフ少将の元に配属された当時32歳の若きマクスウェル少尉に、軍神アドルフ少将は一目でのめり込んでしまったらしい。

 半ば周りから認められた仲だったジェイムズ中尉(当時)との仲をアドルフ少将は無理やり引き裂き、あらゆる権力と圧力を使ってマクスウェル少尉を自分の元に縛りつけた。

 アドルフ少将はもはや誰の忠告も諫言も訊かず、常に公然とマクスウェル少尉を傍に置き、通常尉官は入れない場所にさえ連れ歩いたという。

 マクスウェル少尉が少しでも傍から離れると発狂せんばかりに激高して周りに当り散らす有様だったようだ。

 激高する対象がマクスウェル少尉本人にではなく、マクスウェル少尉の周りの人間に当たり散らすというのは、その方がマクスウェル少尉が言うことを訊くからだというのだから、アドルフ少将はもう半分正気ではなかったんだろう。

 それは3年もの間続いたという。


 諜報部は問題発生後すぐに問題状況を把握、上層部に上申したが、上層部はアドルフ少将の軍神とも評される卓越した戦略眼と指揮能力を優先し、結果的にマクスウェル少尉を見殺し(生贄)にした。




 最終的にそこに終止符を打ったのはマクスウェル少尉自身だった。

 35歳のマクスウェル少尉は戦闘中にアドルフ少将の指示に従わず前に躍り出て重傷を負い、野戦病院に入院し、専門病院に転院後そのまま出奔。

(おそらくこの怪我はわざとだったんじゃないかとお姉さま方談)

 アドルフ少将が気づいた時には既に行方知れずになっていた。

 おそらくマクスウェル少尉の行方がしばらく掴めなかったのは、諜報部による情報かく乱もあったのだろうとお姉さま方は言っていた。

 女性は敵に回すもんじゃない。鋭すぎる。俺もそう思う。


 しかし、それも数年しか持たなかった。

 アドルフ少将はマクスウェル少尉出奔後、まともに戻ったように見えた。少なくとも表面上は。




 しかしその後さらに神がかった動きによってイースランド軍全面勝利ですぐに大戦を終結させた後、

 軍神アドルフはその軍略における千里眼とも神の眼とも称される情報収集分析能力を全振りしてマクスウェル少尉の出奔後の足取りを捕捉。

 3年後国境の寂れた町外れの教会にいたマクスウェル神父を発見、

 6年かけて説得し、

 とうとう1年前、別邸に招くと同時に養子縁組したとのこと。



 もちろんそこにマクスウェル少尉の意思があったとは思えないので、なんらかの圧力があったのは想像に難くない。

 そして、1年後の今年。

 マクスウェル元少尉と軍神アドルフは共に別邸前の崖から落ちて事故死した。




 本当は何があったのか、俺には分からない。

 分からないけど、きっとみんなが辛く悲しい思いをするんだろうと思う。

 だから俺はそれ以上踏み込まない。

 10年前にマクスウェル少尉が周りの為に汚名を着たまま軍を抜け、

 10年前にマスターが親友を守れなかった軍に失望して去り、

 ジェイムズ中佐が恋人と親友を失って尚一人軍に残った10年を、

 俺は簡単に背負えない。









 だから俺はマスターに言った。


「ジェイムズ中佐とちゃんと話してください。

 中佐は待ってくれてますから」


 マスターは、小さく頷いた。














 俺は待っていた。

 本部の通用門の外で。

 何故かその時俺は本部にいてはいけないと思ったから。

 マスターは今頃ジェイムズ中佐の応接室で話してるだろう。

(ジェイムズ中佐は大戦の英雄なので特別に個室がある)

 俺は今日非番をもらった。


 滅多に取らない休みを申請したので上司である課長に健康を心配された。

 このまま恋人に逃げられた失恋でのPTSDとでも申請して長期療養申請でもとろうかな?

 いやそんなのうちの課が絶対申請通さないけどね。

 働かざる者食うべからず。

 そんなことはどうでもい。

 俺はここで何時間でもマスターを待つつもりだ。






 数時間後。

 マスターが建物から出てきた。

 マスターの目は真っ赤だった。


「マスター、おかえり」


 マスターは話せないのか、1つ頷いて黙って歩きはじめた。

 俺はその背中についていく。

『オアシス』に入ると思いきや、裏口から2階に登る。

 ああ、そうか。今はプライベートだから。

 住居スペースに入ったマスターは、俺の手を引っ張ってベッドに座らせる。

 この部屋には普通の家には当然あるはずのソファすらないのだ。

 沈黙。

 俺の左手の袖を掴むマスターの右手は小刻みに震えていた。

 俺はその手の上から自分の右手を重ねる。

 俺の言葉は要らない。俺はマスターの言葉を待つ。







「………きちんと話せたよ………」


 俺はマスターの言葉にただ相槌を打つ。

 マスターの震える右手を俺の右手で優しくさすり続ける。


「ジェイの思い、聞いてこれた」

「なんでずっと僕はジェイの思いを聞こうとしなかったんだろう」

「僕は逃げたんだ。マックを助けられなかった自分の無力さから」

「ジェイの思いを聞くのに10年かかったんだ」

「ジェイは、今でもマックのことを愛してるって………」


 マスターは俺に抱きついてきた。俺もマスターを胸の中に包むように抱きしめ返す。

 マスターの悲鳴のような声が胸元に響く。





「ジェイッッ!!

 ジェイッッ!!!!

 マックッッ!!!!

 僕は………ッ………」


「もういいんですよ」




 俺はマスターの声にかぶせた。


「みんなが力不足だった。みんながそれぞれに罪を犯していた。

 でももう許しましょう」


 俺に全身でしがみつくマスターの背中がずっと震えている。

 俺の胸に額をこすりつけ、いやいやをしている。

 俺はマスターの背中を柔らかく撫で、時折優しくゆする。


「『許せないことはしんどいことだから』

『だからリカルド君自身のためにも』」


「………………………………………」


「マスターが俺に教えてくれた言葉ですよ」


 マスターは俺の胸で小さく頷いた。


「ここからはじめましょう。

 今からはじめられるんです。ね?」




 だから俺も。

 マスターと一緒に。
















 それから2ヶ月後。

 大陸の英雄の国葬という、どうでもいいこの時期に

 俺は職場で初めての2週間という長期休暇を申請した。

『大切な人の喪に服す為』という申請書はすんなり通った。

 さすが陸軍である。


 俺はマスターと共に国境に来ている。

 いや、ここではマスターではなくサミーと呼ぼう。

 サミーの無二の友・マックの為に

 マックが神父として最後まで居た教会で、

 マックの霊を慰める祈りを捧げてもらいたい。

 これがサミーと俺の願いだった。








 教会の若い神父に


「以前こちらにおられたマクスウェル神父の御霊の為に」


 とお願いすると、

 しばらく待たされ、

 やがて通用口から数人の妙齢のシスターと、まだ若い20代前半と思われる青年が出てきた。



 職業柄軍人を多く見てきた俺には、この青年が背負う『昏さ』と『血の臭い』、そして『何かを守る覚悟』が少しだけ分かった。

 サミーもそうだったのだろう。

 ただしそれは顔に出さない。

 おそらく青年が出てきたのは、俺達を[見定める]為だ。

 青年から見て俺達がこの教会を害する者と判断されたら、青年は俺達に容赦なく牙を向くだろう。

 俺は、それが嬉しくもまた悲しかった。

 マクスウェル神父の名前を出す事でこの青年が出てきた理由は。

 それが示す事実が悲しい。


「あなた方はマクスウェル神父と生前どういったご関係だったのでしょうか」


 青年の質問にサミーは俺の手を握り締めながら答えた。

 俺もサミーの手をしっかりと握り返していた。



「マックは僕の人生でとても大切な人でした。生涯で無二の友でした。

 今は遠方の地を守るマックの生涯の伴侶・ジェイと、

 同じく遠方にてこちらまで来れないマックの唯一の肉親である妹・オリヴィエの分まで

 マックが守っていたこの教会で祈らせてください」






 青年はシスター達に頷くと、サミーと俺にはじめて微笑みを向けた。


「ありがとうございます。どうか私達もマック神父様の為に共に祈らせて戴く事をお許しいただけますでしょうか?」








(終)









最後まで読んでいただき、まことにありがとうございました!



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