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混沌とした夜に文字を刻め


 俺の名前は上浦仁かみうら じん


 つい最近、30歳になったばかりだ。それと同時に、俺は結婚を果たした。プロポーズはもちろん俺から。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。何度もシミュレーションし、何度も言葉を練り直し、緊張しながら指輪を差し出した。琴葉は驚いた顔をして、それから少し泣いて、そして笑って「うん」と答えてくれた。あの瞬間、俺の人生は大きく変わった。


 結婚してからの日々は、思った以上に充実している。だが、会社では中堅社員という立場になり、仕事の負担は増える一方だ。上司からの頼みごと、後輩の指導、膨大な業務……。期待と希望の眼差しを向けられながら、俺は日々、重荷を背負い続けている。


 そして今日も、気苦労を抱えながらの帰り道だった。


 夜の電車の中、俺はぼんやりと考え込んでいた。


 「はあ、今日くらい定時で帰りたかったな……。てか、あの上司、定時過ぎに急ぎの仕事振るなよな。くそ、だるいわ……しんど……」


 静まり返った車内で、そんな独り言が漏れた。考えたくもないことを延々と考えていると、自然と妻の顔が浮かんだ。


 「琴葉、今何してるんだろ? YouTubeでも見てるのかな……?」


 そう思った矢先、スマホの通知を思い出す。数分前に琴葉からメッセージが届いていた。


 『今日のご飯はカレーだよ!』


 その瞬間、俺の顔に笑みがこぼれた。


 「楽しみ!! 待ってて!」


 即座に返信する。俺は昔からカレーが大好物だ。王道中の王道だが、特に琴葉の作るスパイシーカレーが一番好きだ。あの香り、あの味わい……想像するだけで、仕事の疲れが吹き飛ぶようだった。


 「早く家に帰って、琴葉のカレーを食べたい!!!」


 そんな想いが溢れ、思わず声が漏れた。車内にはほとんど乗客がいない。誰にも聞かれていないだろう。


 ──そう思ったのも束の間だった。


 異変は突然、訪れた。


 『ジ……ジジ……チカチカ』


 「……?」


 照明が不自然に点滅し始める。まるで虫の息のように、明滅を繰り返していた。一つだけではない。隣の照明も、次第にチカチカと瞬き始める。


 「……気味が悪いな」


 そう思った瞬間だった。


 『ジジ……パリィィンガガッシャーン!!! ドッゴォォォォォォォオン!!!』


 耳をつんざくような破裂音。車両の後方で爆発が起こり、強烈な衝撃波が襲いかかる。


 「ッ……!」


 身体が宙に浮いたかと思うと、壁に叩きつけられた。背中に激痛が走り、そのまま座り込む。


 「カハッ……! クソ、なんだよ……これ……」


 吐き出した息に混じって、赤い液体が滴る。喉の奥が熱い。肺が圧迫され、血管が裂けたのかもしれない。


 視界が歪む中、前を見ると、煙が立ち上っていた。配線がむき出しになり、断線したコードが火花を散らしている。


 「……なんで、こんなことに……」


 意識が朦朧とする。それでも、周囲の異変を感じ取ることはできた。


 『カツ……カツ……』


 規則的な足音が響く。


 煙の向こうから、一つの影が現れた。


 ──そして、その人物の顔を見た瞬間、俺は息を呑んだ。


 見覚えがある。いや、馴染み深い顔だった。だが、誰なのか思い出せない。


 男は無表情で、ただ荒々しくこう言い放った。


 「お前は、この世界の主人公ではない」


 ──何を言っている? 俺は主人公じゃない? それはどういう──


 『バンッ!!』


 鋭い破裂音とともに、何かが俺の身体を撃ち抜いた。


 視界が揺れる。血の飛沫が舞う。砕け散ったガラスの破片が光を反射し、きらめきながら宙を舞う。


 ──その一片一片に、様々な風景が映し出されていた。


 知らない顔、知らない景色。だが、何か懐かしいような、既視感のある映像。誰かの記憶なのか? 誰かが語りかけているのか?


 「文字を刻め……」


 その声を最後に、俺の意識は深い闇の中へと沈んでいった。


 どれほどの時が経ったのか。


 鼻を刺激するのは、泥と血の匂い。


 ゆっくりと目を開くと──


 そこには、俺の知る世界とはまるで違う景色が広がっていた。






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