朝霧桜編(9)
しばらく桜の様子を伺っていたが、とりあえず直恵がそばにいる限り、悪霊も悪さが出来ないようだった。少なくとも学校にいる間の桜は、大丈夫そうだった。
「へぇ。直恵って聖書研究会っていう部活入っていたんだ」
「うん。そうだけど?」
なぜか桜は聖書研究会に興味を持ち、今日の放課後見学したいと言ってきた。桜は今入っているコーラス部の上下関係が厄介で、新しく部活を探しているという話だった。
「顧問は英語の藤崎先生なんだ」
「桜は知ってる?」
真澄は今は直恵達の英語のクラスを受け持ってはいなかった。
「私は授業受けた事ないけど、意外と授業が楽しいっていう噂を聞くわね」
「意外と面白い先生だよ。朝霧さんも仲良くなれると思うよ」
そんな事を言いつつ、エレミヤ塔の部室に二人で向かう。
部室に入るとすでに顧問の真澄がいた。しかもペラペラの英語でどこかに電話をかけていた。
直恵と桜はとりあえず丸テーブルの座席に座り、真澄が電話を終えるのを待った。
「ごっめーん。婚約者のお母さんとちょっと電話してた」
真澄はスマートフォンを上着のポケットに入れながら謝る。
桜と真澄は自己紹介していた。同じ学校といっても会うのは初対面みたいなものだろう。
「今日は聖書研究会に興味があってきたんです」
「珍しいわねー。聖書に興味があるなんて」
真澄はなぜか桜がここに来たのか、首を傾けていた。
「ところで真澄先生、英語ペラペラじゃないですか。どこで勉強したんですか?」
直恵は話題を変える。どうも桜に憑いている悪霊は真澄に苦手意識を持っていた。そのせいか桜も珍しくちょっと緊張しているようだった。
「本当、英語上手です。留学経験とかあったんですか?」
桜が質問すると、なぜか真澄は苦笑していた。
「うーん、留学ってわけじゃないけど……。一応婚約者がアメリカ人の牧師だからねぇ」
「真澄先生は牧師さんと結婚決まってるのよね」
直恵の説明に桜は軽く頷く。
「どこで知り合ったんですか?教会で?」
「もー、朝霧さん、恥ずかしいからいいじゃない」
真澄は顔が少し赤くなっていた。確かにこの話題は、ちょっと恥ずかしいかもしれない。
「英語は実は洋書で勉強したの」
「洋書!?」
それは直恵も予想外だった。てっきり留学とか英会話教室だと思った。
「いわゆるアメリカのロマンス小説ね。貧乏なモサいヒロインが医者と恋に落ちるようなロマンス小説が依存気味に好きだったのよ。穴が開くひど洋書の英文読んだから、いつに間にか英語を覚えてしまったのよねー」
真澄は遠い目をしながら語る。
「おススメのロマンス小説あります?私、読んだ事ないんです」
桜はなぜかこの話題にくいつく。桜に憑いている正体不明の悪霊が、そう言わせている事は直恵は見逃さなかった。
なぜロマンス小説に食いつく?そういえばアイドルの話題にもこの悪霊は反応していたが、何か関係があるのだろうか?
直恵はしばらく桜の様子を観察する事にした。
「いえ、今はロマンス小説断ちした」
「え……」
その真澄の表情は晴れやかだった。
「うん。もう結婚するしねー」
「結婚しても趣味ぐらい持ってもいいじゃないですか」
桜は口を尖らせる。
「ロマンス小説は私にとって毒なのよ。読んでいればそこそこ恋愛欲が満たされちゃうしねー。ロマンス小説読んでると実際の恋愛なんてしたくないのよ」
「そういうものですかね」
あまり娯楽を楽しまない直恵は、いまいちピンとこない。
「なんかうろ覚えだけど、メス蝶々にイケメンの蝶々の写真見せてたら、繁殖行動しなくなったらしい」
「えー!」
真澄の情報に直恵も驚く。隣にいる桜は、微妙な表情を浮かべている。やっぱりこの話題は、桜に憑いている悪霊にとって都合が悪そうだ。
「私はきっとロマンス小説を読みながら現実逃避をしていたの。本当は人生を生きていく上で辛い事もいっぱいあるのに、見て見ぬフリして逃げていたのね、きっと」
真澄に言葉に本格的に悪霊が騒ぎ始めた。桜の体に攻撃しているようで、気分が悪そうだ。
可哀想だとは思ったが、悪霊の正体を掴む為にあえて無視して、真澄の話を促す。
「たぶん、私ってコミュ障だったのよ。人との関わりを避けるのにフィクションの世界って最高に居心地いいからねー」
「意外。真澄先生がコミュ障には見えませんけど」
直恵は素直にそう思う。
「彼の影響で聖書を読んだの。聖書読んだらさー、困ってる弱者に手を差しのベない私って悪いヤツじゃんって思った。他にも心の中で人に悪口言ったりさ。そういう汚い自分を見るのも嫌でロマンス小説の世界に現実逃避していたんだよねぇ。淡雲は、困ってる人に勇気もって自分から話せる?」
直恵は頷く。悪霊ついているホームレスは助けたいと思う。
「ちょ、私気分悪くなってきた」
桜に憑いている悪霊は、真澄から聖書の事を聞くと、明らかに攻撃していた。悪霊はこういった攻撃もよくする。朝の電車の中で具合が悪くなっている人は悪霊の攻撃も多い。朝の電車の中はびっしりと悪霊が棲みついている。
「大丈夫? 朝霧さん」
さすがの直恵も声をかけた。
「なんだろう。最近、聖書開くとすごく眠くなったり、妙に疲れるのよ」
桜の悪霊は本格的に攻撃を始めたようだ。そばで直恵が監視しているとはいえ、このまま放っておけない。
一つ悪霊が住み着くと、他の罪に手を出しやすくなり、次から次へと悪霊を招く事になる。
早く手を打たなければ。
気づくと直恵の手の平は汗が滲んでいた。