そのなな
俺の彼女はとてもかわいい。
これは決して惚れた弱みや欲目なんかではなく、俺と彼女がクラスメイトとして同じ教室で共に学問に励んでいた一年間と、名実共に恋人として隣を歩くようになった三か月という膨大な時間から得たデータに基づいて導き出した、ごく客観的な事実と言っていい。
まず、見た目がとてもかわいい。
性格もいい。
当然男にもてる。
というか女にも、もてる。
だがもちろんそれだけではない。
彼女は意外と思い込みの激しいところがあるようだし、問題を抱えても一人で何とかしようとする。そして結構笑い上戸だ。
これから知る、意外な一面もあるのかもしれない。もっと彼女のことを知って、もっと彼女のことを好きになる。そういう時間がずっと続けばいいと思う。
◇
今日返却された数学のテストは、いつもより少し難易度が高かった。
その証拠に、酷い点数だったのであろうクラスメイトの悲鳴がそこかしこから聞こえてきて、ただでさえ効き目の薄いエアコンが届けるなけなしの冷涼さを台無しにしていた。
後ろの席の高城からは、「おい山本、なんでお前は補習じゃないんだよ?!」と言う叫びが聞こえてくる。
いくらいつもより難しい試験だったと言っても補習をくらうやつはそこまで多くないし、俺は赤点を取りそうなどと言った覚えはない。
そして高城は、今日返却された教科以外でもいくつか補習をくらっていたはずだ。
俺は高城が進級できるのか、にわかに心配になった。
高城の夏休みが補習にまみれて終わるのも哀れで、八月のフェスにでも行こうと話していると、後ろから彼女の可愛い声が聞こえてきた。
「山本くん、帰ろう!」
声を弾ませて教室の後ろの扉から手を振る彼女は今日もかわいい。その笑顔はいつか世界を照らし、苦しみに満ちたこの世を救うだろう。
「なんだよお前ぇ。彼女と仲良く下校とか、すかしてんじゃねーよ! アホ! 女友達紹介してもらえないか聞いといてくれ!」
急に拝み始めた高城を無視して彼女の方へ駆け寄る。俺が思うに高城は、そのあふれ出る邪念を隠す術を学ぶべきだ。
「お待たせ、行こっか」
俺はそう言って、彼女とともに教室を後にした。
もう七月も後半に入り、セミのやかましい声が鳴り響いている。
校舎を出た途端、刺すような日差しとまとわりつくような暑さが襲ってきて、もうじき夏休みなのだと実感した。
彼女が突然、思い出したように「そういえば山本くん、ケーエフシーって聞いたことある?」と言った。
思わぬ単語が耳に飛び込んできて心臓が止まりそうになる。
「……なんで?」
思わず聞き返すと、彼女は首をかしげて、不思議そうに語りだした。
「委員会が一緒の先輩いたでしょ?この間の、渡り廊下の……三組の長谷川先輩っていうんだけど」
渡り廊下と聞いて、彼女にしつこく付きまとっていたくそ野郎の記憶がよみがえった。なぜか長谷川という名前にも聞き覚えがある。
なんでもその長谷川と偶然すれ違ったとき、長谷川が彼女の姿を認めた途端、「けっ、けーえふしー」と呟いて青ざめ、次の瞬間には「ご、ごめんっ!」と叫んで走り去っていったらしい。
「どういう意味だと思う?」
一瞬、今日もクールに授業の挨拶をしていたクラス委員長樋谷さんの顔が脳裏に浮かんだが、俺は
「さあ……腹でも減ってたんじゃないかな」
とだけ言った。
俺が思うに、この世には知らなくていいことも結構ある。何より俺は、自分の身が可愛い。得体のしれない秘密組織の存在には、なるべく関わらないほうが安全だろう。
とにかく、長谷川とやらが彼女に付きまとうことが無くなるのなら何よりである。
◇
俺の部屋に着いて、しばらくはいつも通り話していた。
部屋にエアコンが効き始めた頃、ふいに会話が途切れて、俺と彼女はどちらともなく手を握った。傍から見たら、壊れかけのロボット同士が寄り添うような、ぎこちなく奇怪な動きだったであろうと思われる。
彼女の手は、大理石の彫刻のような見た目に反して、柔く温かい。今に限ってはむしろ熱いくらいだ。
俺の緊張が伝わってしまうのではないかと内心恐々としていたが、繋いだ手から彼女も同じなのが分かって、かえって少し落ち着いてきた。
俺が横を向いて彼女に軽く口づけをした。突然だったので驚いたのか、彼女はしばらく固まっていた。その隙に、彼女の顔をまじまじと観察した。
「ど、どうしたの?」
我に返った彼女に慌てたように聞かれたので、俺は半ば独り言のようにしみじみと呟いた。
「いや……。この間の俺、ほんとに余裕なかったなと思って……」
彼女が家に来た時、表面を取り繕うのに必死で彼女のことをちゃんと見ていなかった気がする。
何を血迷ったか、煩悩をはらうために紳士という言葉を擬人化したり、天使と悪魔を脳内に登場させたり、一年の時の高城を思い出したりしていたのだ。ここ最近の俺は本当にどうかしていた。
今までの失態を挽回するように、彼女の存在の輪郭を確かめるように、彼女を抱きしめて名前を呼んだ。そう言えば最近呼んでいなかった気がする。
それだけで、彼女の存在がさっきよりも鮮明になった気がして、俺は気持ちが溢れるままに、好きだよとつぶやいた。
彼女は「私も」と言ったきり黙り込んで、それからしばらくの間、部屋の中にはエアコンの無機質な音だけが響いていた。
「ね、ねぇ!」
沈黙を破るように、彼女が唐突に声を上げた。
「私の心臓の音、すごい響いてない? は、恥ずかしいんだけど……」
言われてみれば、耳の奥でクラブ音楽並みの重低音が鳴り響いている。なるほどたしかにすごい音だと思ったが、よく考えるとこれは俺の心臓音な気がする。
「いや、自分のがうるさくて分かんないかも……」
俺が正直に申告したところ、彼女がまた笑いだしそうな気配がして、俺はそれを塞ぐように唇を押し付けた。
エアコンの調子が悪いのか、さっきよりも随分とあつい。
外はまだ太陽が照り付けているし、セミも遠くで鳴いている。
俺はふと、彼女のファンクラブのことを思い出した。今日のことがバレたら大変なことになるだろう。
真面目に授業を受ける横顔や、学校で友達と笑っている姿が思い浮かぶ。
今この瞬間、彼女は俺のものだという、わるい優越感に背中がぞくぞくした。
顔を見たくなって、少しだけ唇を離した。
瞳は潤んでいて、頬は真っ赤に色づいている。
目が合って、彼女が微笑んだ。笑うとき目尻が少し下がるのはいつものことで、そんなところも好きだと思った。
だがいつも通りの笑い方の中に、俺の知らない、彼女の持つ熱情のようなものが、確かに滲んでいる。
もっと見てみたい。俺の中にどろりとした欲望が湧き出すのを感じた。
やっぱり彼女は、とてもかわいい。
その気持ちのままに、俺は彼女をベッドに引きずりこんだ。