そのろく
俺の彼女はとてもかわいい。これは世間一般の常識である。したがって彼女の良さを知る人間は、悔しいことに俺以外にもそこら中に存在する。
そのせいで巻き込まれる厄介ごとも多く、とくに彼女に言い寄ってくる男達は後をたたない。俺は彼女に、面倒なことになりそうならすぐに相談してくれと言っているのだが、彼女は迷惑をかけるのを良しとせず、俺の知らないうちに一人で解決してしまうこともしばしばあった。
日頃から俺は、それをもどかしく感じていた。
◇
樋谷さんの言っていた通り、二階の渡り廊下に彼女はいた。三年生らしき男に腕を掴まれている。
うむついていて顔は見えないが、彼女が明らかに困っているのが気配で分かった。空気の読めないくそ野郎は、そんな彼女に構わずべらべらと喋り続けている。
その光景を見て俺が真っ先に感じたのは、苛立ちだった。
目の前で繰り広げられている最悪な状況への怒りが呼び水となって、ここ数日溜め込んでいた不安や焦りが、矛先のわからないまま溢れそうになるのを感じた。
「何してるんですか?」
彼女と男の間に割って入るようにして声をかける。
突然口を出してきた俺を見て、男はあからさまにめんどくさそうな顔をした。
「何って、ちょっと話してただけだよ。君に関係なくない?」
「いや、彼氏なんで関係はあります」
男は一瞬だけばつの悪そうな表情になったが、すぐに誤魔化すように薄く笑った。
「なんか誤解してない? 委員会の仕事で話してただけなんだけどな」
「でも嫌がってるみたいなんで。とりあえず腕、離してもらえますか?」
俺が固い声で言うと、男はあからさまに顔をしかめた後ぱっと手を離し、誤魔化すようにへらへらと笑い出した。
「ほんとに仕事の話だったんだけどなー。勘違いさせちゃってごめんね! じゃあ、また委員会でね」
面の皮の厚いことに彼女に手を振りながら、男がそそくさと去っていく。
その背中を睨みつけながら、俺は彼女に
「なに、あの人」
と言った。
「……同じ委員の先輩。委員会のことで連絡とってたんだけど、引き継ぎのことで休みの日に会いたいって言われてて……」
彼女が俯いたまま答える。委員会のことで休日に個人的に会う必要があるなんて、聞いたことがない。彼女のいい方からしても、ただの方便なのだろう。
「いつから付きまとわれてたの?」
「……最近のことだよ。ここ一週間くらい」
「……こういう時はすぐ相談してって、俺前に言わなかったっけ」
彼女に非が全く無いのは理解しているのに、少し咎めるような口調になってしまう。
似たようなことは今まで何度かあったし、その時はこんな言い方せずに済んだはずなのに、今の俺は自分が思っていた以上に余裕がなかった。
「でも相手先輩だし、断っておけばすぐ止めてくれると思って……。ごめんね、迷惑かけて」
「……迷惑とか、思ってないよ」
そこで一旦会話が途切れて、彼女は思い出したように「でも、どうして山本くんがここに?」と聞いてきた。
「……クラスメイトにここにいるって教えてもらって。あと、今日話したいって連絡したんだけど、なかなか返事来ないから」
俺の言葉に彼女は少し慌てた様子でスマホを見て、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん、委員会のときスマホ見れないから、気づかなかった。……話したいって、なんのこと?」
彼女にそう聞かれて、まずいと思った。教室で彼女を待っている間は穏やかに、あくまで冷静に話し合おうとしていたのに、今、俺はそれを出来る自信がない。
だがそこで言葉を止めるほどの冷静さもなくて、結局俺は愚直に
「最近、俺のこと避けてなかった?」
と言った。
なるべく軽い調子で話そうと思っていたのに、どうしても声が固くなった。
彼女の顔色が分かりやすく変わる。返事がなくてもそれだけで十分だった。
「えっ、と……」
気まずそうに言い淀むくらいなら、嘘でも「そんなことしてないよ」と言えばいいのに、彼女は嘘が下手だ。正直すぎるのも残酷だと思った。
「先週のことが原因? 俺が悪かったのなら謝るから……何も言わないで会わなくなるのは、やめてほしい」
俺の言葉に、彼女は下を向いたままかぶりを振った。
「山本君は悪くないよ」
「じゃあ、なんで避けるの?」
言葉を探すように口を開けて、結局黙り込んでしまう彼女を見て、また不安が募る。
一度溢れ始めた負の感情は簡単には止められず、自分でも何に対してか分からないまま、俺は苛立っていた。
彼女に絡んでいた三年の男にか、何も話してくれない彼女にか、それとも、不機嫌を隠しきれない、子供っぽい自分にか。
「あの先輩のことも話してくれなかったし……あの人に付きまとわれるより、俺と会うのが嫌だった?」
「ち、違うよ! なんでそうなるの?!」
彼女は慌てたように言うが、それでも理由を答えてくれそうにない。
痺れを切らした俺は、ずっと燻り続けていた、不安や焦りの一番底にあったものを言葉にしてしまった。
「俺のこと、嫌いになった?」
言ってからすぐに後悔が押し寄せてくる。同時に曖昧だったものが輪郭を持ち、不思議と気持ちが落ち着くのも感じた。落ち着くというよりは、あきらめがついたと言うほうが近いかもしれない。
これ以上宙ぶらりんのままでいるのは限界だとも感じていた。
「……急にこんなこと言ってごめん。でも、そうならはっきり言ってほしい。言ってくれたら俺だって」
もう連絡したりしない。と後から絶対に後悔することを言いかけたところで、ふいに彼女が声を上げた。
「違う!!」
彼女の声が渡り廊下に響き渡る。
今までこんなに大きな彼女の声は聞いたことがないと言える程の声量で、驚いて思わず言葉が止まった。
見ると、本人も驚いたように目を丸くして固まっている。
そして彼女ははっとして我に返るなり、勢いよく、実に深く頭を下げた。彼女の声が再び渡り廊下に響き渡った。
「ご、ごめんなさい!!」
深々としすぎてそのうち土下座をしだすのではないかと思える勢いだ。
「え……ちょっ、ちょっと!」
思いがけない行動にすっかり毒気を抜かれ、俺は要領を得ないままとりあえず彼女に顔を上げてもらおうとしたのだが、彼女は深々と下げた頭を一ミリも動かそうとしない。
「顔を合わせるのが恥ずかしくて逃げてました! ごめんなさい!」
「……え?」
俺が呆気に取られている間にも、彼女は言葉を続ける。
いつのまにか彼女はしゃがみ込みんでいて、頭を抱えるような姿勢になっている。
「いやだ! 別れたくないぃ!」
最後のほうはほとんど涙声になっていた。
「ちょ……ちょっと待って!」
彼女の言っている言葉がようやく頭に届いて、俺はとりあえず浮かんだことをそのまま口にした。
「恥ずかしいって……なんで? 別れたくないとか、そんなんこっちの台詞なんだけど……」
「……え? なんで」
彼女が勢いよく顔を上げた。驚いたように見開いている大きな目には、うっすらと涙がにじんでいる。
なぜだか分からないがこの時俺は、久しぶりに彼女の顔を見たなと思った。
◇
「……山本くんの家に行ったとき、私、手叩いちゃったでしょ」
彼女は幼い子供が言い訳するように、小さな声でぽつぽつと話し始めた。
いったん言葉を切ったあと、微かにこちらを向いて、
「ごめんね、痛くなかった?」
と聞いてくるので、俺が全然痛くなかったと答えると、彼女は安心したように、少しきまり悪そうに小さく笑った。
とにかく場所を変えて話そうと入った手近な教室は普段使われていないらしく、空気がこもっていて埃っぽい。夕焼けが教室のほとんどを赤く染めていて、俺たちはそれを避けるように窓の下に並んでしゃがみこんでいた。
「あれのせいで、せっかくお家に呼んでもらったのに変な空気にしちゃうし、そのあとすぐにこっちの都合で帰ることになるし……。そういうのが色々申し訳なくって、合わせる顔ないなあとか思ってるうちに、ずるずる時間だけ過ぎて言っちゃって、こんなことに……」
「え? それだけ?」
拍子抜けするほどくだらない理由に思わず気の抜けた声が出た。問い詰めるように彼女を見つめたら、
「そ、それだけっ!」
と言って彼女らあからさまに顔をそらした。やっぱり彼女は嘘が下手だ。どうやら他にも何かわけがあるらしい。
でも嫌われたり、怖がられたりしていた訳でないのなら、もうそれでいい。
「……俺はてっきり、変なこと考えてるのがバレたせいだと思った」
「へんなこと?」
「なんていうか……やらしいこと」
どうせならもっと気取った言い方にしたかったのだが、上手い言い方が見つからなくて結局そのまま言った。
言ってしまってから恐る恐る彼女の表情を伺ったが、そこに嫌悪感のようなものは見えなかったので、とりあえず胸を撫でおろした。
だが、彼女が
「え、山本くん、全然そんなこと考えてなかったでしょ?」
と追求してくるので、やっぱり言わなければよかったかもとちらりと思う。
いまさら後戻りもできないので、
「…………いや、けっこうそればっかり考えてた……」
と白状してしまった。安心した反動で、全部ぶちまけてしまいたくなったのかもしれない。
そこでふと気が付いて、
「あのときは純粋に目が心配だったんだけど!」
と慌てて付け足す。
彼女が苦しんでいる時に性欲を優先するような卑劣な男と思われるのは心外だ。
だが彼女は俺の弁明は耳に入らなかったように、目をまるくしてこちらをじっとみている。
「や、山本くん、そういうこと考えてたの?」
「そう」
「本当に?」
「……うん」
「ほんとのほんとに?」
「……だからそうだって」
「なんだあ、山本くんも、いやらしいこと考えてたんだ」
「あのなあ……」
何度も繰り返されてさすがに恥ずかしくなってくる。だが何か言い返そうとしたとき、彼女がぽつりと
「私だけかと思った」
と言ったので、出かかった言葉がどこかに行ってしまった。
彼女はちらりと俺の方を見たあと、視線から逃れるように抱えたひざに顔をうずめた。彼女の耳が赤いのは、きっと夕日のせいだけじゃない。
「キスしようとしたら避けられるし」
「え、そうだったっけ」
「そうだよ」
彼女が恨めしそうに、目だけちょっとこちらに向けた。
「私、家に行くって決まった日からずっとそんなことばっかり考えてたのに、山本くんいつもと全然かわらないし……。そ、そういうこと考えてるの、私だけだったと思ったら、すごい、恥ずかしくなって……」
彼女の声はどんどん小さくなっていく。
「私そんなに魅力ないかなとか、あんなことして山本くん引いちゃったかなとか、そんなこと考えてたらわけわかんなくなってきちゃって」
彼女は顔を上げて、俺の方に向き直った。
「山本くんの手振り払っちゃったのも、そういうの意識しすぎたら過剰に反応しちゃったからだし……、会えなかったのはそのせいもあるの。さっきのも嘘じゃないけど……ちょっと見栄張ったっていうか……ちゃんと言えなくて、ごめんね」
俺は彼女の顔を見て少しぼうっとしたあと、
「いや、俺も見栄っていうか、ずっと格好つけてたから……」
と言った。
彼女はとてもかわいくて、俺じゃなくてもいい男なんて幾らでも見つけられるだろう。
一人で舞い上がって先走って、おかしな態度で幻滅されたくない。格好悪いところを見せて、彼女に嫌われるのがとても怖かった。
そんなことをぼそぼそと、やっぱり少し格好つけた言い回しで説明したら、
「なにそれ、バカみたい」
と言われた挙句、くすくすと笑われて少しムッとしてしまう。
「バカとはなんだよ」
「バカだよ。だって……」
彼女は言いかけたあと、なぜか少しだけ神妙な面持ちになった。いったい何事だろうかと、俺は身構える。
その時にはすでに彼女の顔が見えなくなっていて、なぜだろうと思う前に彼女が俺の腕の中にいることに気がついた。
触れ合った場所から熱がじわりと広がってゆく。
彼女の思わぬ行動に、俺はしばらく金縛りにあったように動けなかった。
こういう事はこれが初めてではないのに、体の動かし方は忘却の彼方へ消え去ったようだ。壊れかけのロボットみたいにぎこちなく腕を彼女の背中にまわした。
相変わらず、同じ人間とは思えないほど華奢な身体に驚く。そういえばいつだったか俺が、うっかりしたら折れてしまいそうで怖いと言って、「そんなわけないでしょ」と彼女に笑われたことがあった。
しばらくそのままでいたが、彼女はおもむろに、顔が見えるくらいの距離までちょっと離れた。彼女は始めうつむいていたが一瞬だけ俺の目を見て、すぐにまた下を向く。
彼女はうつむいたまま、ポツリと「すき」と言った。その声はとても小さかったはずなのに、俺の頭の中でバカみたいに反響して、痺れた。
くらくらして、なにかすごい引力が働いてるみたいに彼女の頬に俺の手が触れた。
視線が絡まる。というより、熱さでくっついたように目が離せない。
触れたい、と考えるよりも先に唇が触れ合って、俺の頭ははたらくのを止めた。
ふと唇を離して、彼女の顔を見た。赤く染まっていて、他人事みたいに暑そうだな、と思った。
また不思議な力に引き寄せられて、顔を近づけようとした時だ。
「あちぃなー」
男子生徒の呑気な声が耳に飛び込んできて、ぎくりと動きを止める。
扉の向こうで生徒達が通り過ぎる足音と話し声が聞こえて、現実に引き戻された。そういえば、ここは学校だった。
「もう夜になるとこなのに全然涼しくならないなー」
さっきの声とはまた違う、だるそうな声がする。その後すぐに別の誰かの、「あっそうだ!」という、いかにも重大なことを思い出したような叫びが聞こえた。
「なあ、知ってるか? 南半球では南にいくほど寒いんだぜ!」
見知らぬ男子生徒が得意げに言う声が響いて、力が抜ける。
なんだそれは。
俺の気持ちの声を代弁するように、別の誰かが呆れたように「そりゃそーだろうよ」というのが聞こえた。
足音は遠ざかり、会話する声もそのうち聞こえなくなる。
彼女との間に、なんとも言えない沈黙が流れた。
続きをしようにも理性が戻ってきていて、照れが入って出来そうにない。なによりそういう雰囲気に戻そうにも難しい、絶妙な脱力感のある空気が漂っていた。
さっきの男子生徒の、気の抜けた発言のせいだ。そんなに涼を求めるなら、お望みどおり南極でもどこでも行ってしまえ。
俺が見知らぬ男子生徒を呪っていると、突然、弾けるような笑い声が耳に入ってきた。
みると、彼女が肩を震わせて笑っている。
「たしかに……南のほうが涼しいよね……」
どうやらさっきの男子生徒の発言が面白かったらしい。俺は、彼女の笑いのツボはちょっと浅過ぎやしないかと思った。だがそんな彼女もべらぼうにかわいい。
完全に弛んだ空気のなか、俺は言うべきことを言ってないことに気づいた。
「言い忘れてたけど……」
「なに?」
「俺もすき」
「えー、いま?」
彼女は完全にスイッチが入ってしまったようで、何がおかしいのか笑い続けている。
どうにも格好がつかない。でも彼女が隣で笑ってくれているのが単純に幸せで、俺もつられて笑ってしまった。