そのさん
気持ちを新たに部屋へ戻ると、彼女は先程と全く同じ位置で膝を抱え、腕に顔をうずめて小さくなっていた。
一体どうしたのだろうか。とりあえず「お待たせ」と声をかけてみると、彼女はぱっと顔を上げた。
相変わらずすごく顔が赤い。赤い顔のまま、彼女は眉尻を下げて小さく笑って、「ううん」とゆるく首を振った。
「ありがとう。実は、けっこう喉乾いてて」
彼女は実際それを証明するように、俺が麦茶を渡すやいなやグラスのふちを唇に触れさせた。
冷たいお茶の入ったグラスは早くも汗をかき始め、細かな水滴が彼女の細い指を湿らせている。
彼女がひとくち口に含むたびに薄茶色の透き通った液体がゆらゆら揺れる。窓からの光が揺れる液体の中で屈折し、彼女の白い喉元をチラチラと照らしていた。
なんでもない麦茶を天国の飲み物か何かのように美味しそうに飲んだ彼女は、グラスから唇を離すとほとんど分からないくらい微かに息をついた。
なんとはなしに一連の動きを見ていただけのつもりだったのに、いつのまにか彼女の濡れたくちびるに視線が向いている自分に気がつき罪悪感が募る。
たった今頭を冷やしてきたばかりなのに、どうやら俺はまだ懲りていないらしかった。
努めて明後日の方向を見るようにして、「今日は特に暑いもんな。朝のテレビで真夏日になるって言ってた」と誤魔化すように言う。
「やっぱり? テスト中もずっと暑かったもんね」
彼女は思い出したように少し顔をしかめて笑った。
俺は頷いて「だよなぁ。7月後半にならないとエアコン使えないとか、付いてる意味あるのかね」と言った。
経費削減のためとかで、うちの学校では教室のエアコンを使える期間が決まっている。
「ほんとにね……。まあ、これさえ乗り切れば夏休みだし」
「だな」
話しているうちにいつもの調子を思い出してきて内心ほっとする。
そのうち俺は平常心でいるためのコツを掴んできた。要はここが俺の部屋、密室、二人きりだと意識しなければいいのだ。ここは公共の場、ここは学校、そう、ここは一年の時、かつて隣の席だった頃の教室であると自己暗示をかける。
あの頃は授業中ずっと彼女が隣にいて、毎日が幸せだった。今の方が数百倍幸せなのは言うまでもないのだが。
彼女と共通の話題を少しでも増やしたくて、彼女が好きだと言ったバンドの曲を聴き漁って寝不足になったのもいい思い出だ。
俺と彼女の話が盛り上がっていた時には、必ずと言っていいほど一列とんで左斜め前の席の高城が憎々しげに睨みつけてきていたという、果てしなくどうでも良いこともついでに思い出した。
ともかく、俺は平常心を保つ方法を習得し、今日は平和かつ清らかな、初、家デート記念日になると安心しかけていた。
◇
せっかくの夏休みなのだからどこか遠出しようという話題になり、海にでも行こうかと話しているときだ。ふいに彼女が、小さく「痛っ」と言って左目を押さえた。
「え、どうした? 大丈夫?」と俺が聞くと、彼女は「うん、大丈夫……なんか目に入ったみたい……」と、しきりに瞬きをした。
埃でも入ったのか、確かに彼女の目は少し赤くなり、うっすらと涙が滲んでいる。
俺は自分を張り倒したい気持ちにかられた。なんと言うことだ、俺の掃除が不十分であったばっかりに。だが俺の自己満足でしかない反省などより彼女の目の健康を優先すべきなのはこの世の摂理だ。
「見せてみて」
一刻も早く彼女を苛む異物を取り除かんと、俺は勇んで彼女の顔を覗き込んだ。
だが、彼女は慌てたように「え、いや大丈夫だよ! ほっとけばそのうち取れるよ」と言って顔を逸らした。戻っていた顔色がなぜかまた赤くなっている。
しかしここは譲るわけにはいかない。これが原因で彼女の目が悪くなってしまったら、俺は悔やんでも悔やみきれないのだ。
俺が「いいから」と言って、やや強引に彼女の顔に触れた時だった。
「やっ……!」
と声が聞こえて、パシッ、と何かが叩かれたような乾いた音がした。
一瞬、何が起こったか分からず、数秒経ってようやくどうやら俺の手が彼女に払いのけられたらしいと気がつく。
痛みは全くなかったが、突然のことに思わず彼女の方を見た。本人も驚いたように目を見開いていた。
やがてハッとして、真っ赤だった彼女の顔がスッと白くなる。
彼女は呆然としたまま、小さな声で「ごめんなさい」と言った。
俺の手がはたかれたことなどは全くもってどうでも良かったのだが、彼女の動揺ぶりにこちらの頭も真っ白になった。
俺はとっさになんと返せばいいのか分からず、自然と口が動くままに「いや、こっちこそ、ごめん」と言った。自分の声が思った以上に乾いているのに驚く。
エアコンの無機質な音がやたらと響くので、言葉の選択を誤ったことが分かった。
その時になってようやく俺は、いつのまにか彼女を半ば押し倒すような姿勢になっていたことに気がついた。慌てて身を離して距離をとる。
あんなに気をつけていた彼女との距離を、間違えてしまったことに愕然とした。
「いや……いやいや! 山本くんが謝ることないよ! ほんとごめんね! なんか、びっくりしちゃって」
不自然に空いた間を誤魔化すように、彼女がわざとらしいほど明るい声でくり返す。それがかえって静けさを強調していた。
今更俺が謝りなおしたところで、ますます気まずくなるだけだろう。ここで何か気の利いた相槌でも打てればよかったかもしれない。
だが俺は何秒か考えた挙句に、「……目のゴミは? 大丈夫そう?」というアホみたいな確認しか出来なかった。
彼女は一瞬固まったあと、壊れた人形のように、勢いよく何度も頷いた。
「あ……うん! 大丈夫。取れたみたい!」
「そう……よかった」
「うん、ありがとう……」
そこでまた会話が途切れて、沈黙が流れようとしたときだ。突然、スマホの通知音が響いた。
息苦しさのあった空気が一瞬ゆるむ。
俺と彼女は弾かれたように素早い動きで、各々のスマホを確認した。俺の方は、今来たと思しき通知は見当たらない。鳴ったのは彼女のスマホのようだ。
彼女はしばらく画面を見た後、申し訳なさそうな顔でこちらに向き直った。
「……ごめんね。なんかお母さんの仕事が長引いてるみたいで、これから妹迎えに行かなきゃいけなくなっちゃった」
「あ……そうなんだ」
彼女の父親は単身赴任中であり、今は母と妹との三人暮らしなのだと言うことは以前から聞いていた。母親の仕事が忙しい時は、まだ幼い妹の面倒をみていることもよく知っている。迎えに行くと言うのは、幼稚園のお迎えのことだろう。
彼女は今年幼稚園の年長になった妹をいたく可愛がっていた。月替わりで妹のベストショットをスマホの待ち受けにするくらいの溺愛ぶりだ。
「ごめん、もう帰るね。今からだとお迎えの時間、けっこうギリギリで」
彼女が急いで帰り支度を始める。
「そっか、残念だけどしょうがないな」
俺の言葉に嘘はなかった。
しかし、本当は安堵しているくせに白々しく取り繕おうとしている自分がいるのも分かっていて、嫌悪感が湧いた。
さっきまでの静けさが嘘のように慌ただしくなり、何もかもがもとに戻ったようだ。
ただ、それは表面のだけの話で、俺と彼女の間に今までなかった、つかえのようなものができた気もした。
俺は彼女に「駅まで送るよ」と声をかけたが、「いいよいいよ、そんなに遠くないし」とあっさり断られる。
普段の俺ならばそんな言葉には耳を貸さず、送っていくと言い張るところだ。
だが彼女は今、俺と一緒にいたくないのではないかと言う考えが頭をかすめ、それ以上強くは言えなかった。
玄関先で靴を履いている彼女の背中を黙って眺める。彼女が帰ってしまう前に何か話すべきことがある気がしたのだが、それが何なのかは一向にわからない。分からないならそのままでもいいような気もして、結局何も言わないことにした。
彼女は立ち上がってドアに手をかけ、至っていつも通りの笑顔で、「お邪魔しました。じゃあ、またね」と軽く手を振った。
俺も「うん。また」と手を振りかえす。
ガチャンと扉が閉まる音がしたとき、俺は決定的な間違いを犯したのかもしれないと気づいた。