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そのに

「ここが俺んち。別に面白いものもないけど、ゆっくりしていって」

「わあ、ここが……お邪魔します」


 何の変哲もない一軒家。この家に人が来るというだけでこんなに緊張するのは初めてだ。

 とりあえずリビングに案内するべきかと逡巡していたが、彼女が「山本くんの部屋はどこにあるの?」などというものだから、そのまま俺の部屋に連れ込んでしまうことにする。


 部屋の掃除はばっちりなはず。彼女に見られてはいけない類のものは全てクローゼットの奥の奥にしまい込んだはずだ。と、片付けに明け暮れた記憶を反芻しながらドアノブを引いた。


 朝から締め切っていた部屋は蒸すような暑さで、急いでエアコンをつける。

 それはそれとして部屋を閉めきったままなのはなんだかまずい気がして窓を開けようとしたが、彼女に「電気代がもったいないよ」と止められた。彼女はかわいい上にしっかりとした経済観念を持ち合わせているのだ。


 俺の部屋は奥の窓際にベッドがあり、その手前にローテーブルとテレビ、右手に机とクローゼットがあるという極々平凡なつまらない部屋なのだが、ありがたいことに彼女は非常に楽しそうにしてくれた。


 彼女が俺の部屋にいる。

 何度も妄想していたそのシチュエーションに、途中で寄ったコンビニの冷房で冷やされていた頭がまたぐらぐらしてきて、俺はエアコンの設定温度を下げた。

 あろうことかベッドのすぐ側に座った無防備な彼女にむかって言う。


「アイスでも食べない?」







「あ、この子でしょ、中学時代の山本くん。髪が短い!」


 卒業アルバムの写真の中の一枚を指して、彼女が意外そうに声を上げた。


「ああ、中学の頃は野球やってたんだよ。そっか、中三の夏に引退して、そっからは髪を伸ばしてたから、高校に入学するときには普通の長さだったな」

「そうそう、初めて会ったときにはもう今くらいの長さだった!中学生の山本くん、かわいいなあ」


 そういって嬉しそうに笑う彼女の横顔の方が何倍もかわいい。

 俺の中学時代の写真なぞ眺めて何が面白いのか皆目わからないが、彼女が嬉しいのならば俺も嬉しい。本棚の隅で埃をかぶっていた卒業アルバムも本望だろう。



 やっぱり、彼女の言動に含みがあるというのは、俺の考えすぎだったらしい。

 かじりかけのアイスと効いてきた冷房によって、冷静になったはずの頭でそう考える。

 家に来てからずっと彼女の出方を伺っていたが、彼女の様子はいつもとまったく変わらないように見えた。


 この二週間おかしなことばかり考えていたのは俺だけだったようだし、机の引き出しにこっそりと忍ばせておいたものは、今日は出番がないだろう。

 彼女が純粋な気持ちで部屋の訪問を楽しんでくれているというのに、俺の方が邪な気持ちを抱いているのは申し訳がない。今日は彼女に楽しんでもらうことだけ考えよう。


 がっかりしたような少しだけほっとしたような、自分の気持ちを覆い隠すように、俺は改めて紳士的な気持ちを思い出そうと努めた。というか唱え始めた。紳士紳士紳士紳士……。






 シンシであろうと決意して三時間ほど経過した。俺が頭の中でシンシシンシと訳の分からないことを唱えている間に、彼女は卒業アルバムも隅々まで見終えてしまったし、俺がおすすめだと言って流した映画も無事ハッピーエンドを迎え、エンドロールが流れ始めている。


 ここに来て三時間以上経ったとはいえ、今日は学校が早めに終わったから、彼女が帰宅しなければいけない時刻にはまだまだ余裕がある。


 この部屋で他に彼女が楽しめそうなことといえば、ゲームか他の映画のサブスクくらいだろうか。そんなことを考えていたら、彼女がいつもより少し静かなことに気が付いた。

 いつも楽しそうに微笑んでいる口が今はほんの少し引き結ばれ、なんだかぼんやりしていて、上の空の様子だ。

 もしや映画がつまらなかったのだろうか。もしくは俺の邪念が毒ガスのように漏れ出てきて気持ち悪かっただろうか。


「どうかした?……もしかして、映画つまんなかった?」


 恐る恐る聞いてから、俺は自分のことを殴りたい衝動に駆られた。こんなこと聞いて優しい彼女が「つまらん」などと言うわけがないだろうが。このアホンダラ。


 彼女は驚いたように「えっ」と呟き、慌てたように「ううん! そんなんじゃないよ! 楽しかった」と言った。

 そして、何だかんだでほっとしている単細胞の俺を尻目に、もごもごと口籠り始めた。


「ただ、な、なんていうか……」


 彼女はぽつりとつぶやいてうつむき、しばらくの間身じろぎひとつしなかった。

 もしや具合でも悪いのかと心配になってきたころ、彼女は突然ギシリと顔を上げた。


「……な、なんか暑くない?」


 彼女はそう言いながら、何故か旧型のロボットみたいにギクシャクとした動きでこちらに近づいてくる。その顔はとても赤く、確かにすごく暑そうだ。

 彼女は俺の隣に、肩が触れ合うくらいの近さで座った。暑いというのになぜ。


 これはまずいと思った。

 この部屋に来てから一番、彼女の顔が近い。

 とてもかわいい。とてもまずい。


 この距離だと、部屋に入ってから意識しないようにしていた、制服の襟から覗く細い首筋に目がいってしまうし、まるい頬に触りたい欲求に抗えそうにない。

 濁りのない大きな瞳を縁取る長い睫毛が瞬くたび、俺の脳みそはぐらぐらに揺れた。

 形のいい唇がとても柔らかいことはもう知っていて、その甘い記憶が俺の理性を溶かそうとする。


 彼女の顔がゆっくりと近づいてきて、もう間もなく俺は本能だか煩悩だかの奴隷になろうとしていた。




 が、そのとき、幸か不幸か俺の脳裏にとある言葉がデカデカと浮かび、俺を引き留めてきた。

 颯爽とやってきたその言葉は、イカすサングラスをかけてコートを肩に着て、本来その言葉の持つイメージとはややかけ離れた、まさに『アニキ』といった風格でもって「ちょっと待てよ」と俺を正気に戻してくれた。ように俺は感じた。


──紳士!!!


 脳内の叫びと共に俺は勢いよく立ち上がった。


「そういえばもう麦茶もないな! 気がつかなかった! 新しいの持ってくるよ!」


 煩悩を振り払うように声を張り上げた俺は、冷蔵庫から冷たい麦茶を持ってくるべくキッチンへ走った。


 後ろから彼女が蚊の鳴くような声で何か言った気もしたが、今止まったら己の欲望に呑まれることは確実であり、そもそも願望による幻聴である可能性も大いにあったので気にしないことにした。

 ついでに頭を冷凍庫にでも突っ込んでこよう。




 



 さっきの行動は、やっぱり「そういうこと」だったのでは。

 開け放した冷蔵庫から伝わる冷気で頭を冷やし、彼女の言動をしつこいくらいに反芻してもそう思ってしまう。

もしやこれは、このままいっちゃっていいのでは。

 今さっきまであんなにも頼り甲斐があった魔法の言葉が一瞬でしなしなとみすぼらしくなり、そいつを足蹴にして現れた悪魔と天使が手を取り合って「いいじゃないか」とささやき始める。


 黒いライダースジャケットを羽織り葉巻をくわえた悪魔らしきものが、「おい、カッコつけてないでスナオになれよ」と言う。

 白い布を巻きつけたパンチパーマの天使らしきものが、「そうだよ。今更なにを取り繕っているんだい?」と言った。


 バランスを取ってどちらか一方は止め役になれと思うのだが、そもそもこれは俺の脳内でのやり取りだから、救いようがない。おれの頭が。

 天使と悪魔はボワンボワンと増殖していき、孤立無縁の俺の理性を取り囲んでいく。ついには輪になっておちょくるようにぐるぐる周りをまわり始めた。


「たまにはホンノウのままに動いてみな。ワルいようにはならんと思うぜ」

「そうだよ。自分の気持ちを尊重するのも大事だと思うなあ」

「そんなわけないだろう。お前たちはもっと言葉に責任を持て。理性を働かせろ」


 俺の必死の抗議も奴らは鼻で笑うだけだ。


「リセイだって? そんなものオマエに働いてたらそもそもオレらは登場してないんだな、これが」

「君は僕ら、僕らは君。つまりこれは君の意志なんだよ」

「そんなはずはない……」


「だいたい」と、悪魔が葉巻をふかしながら言った。


「カノジョの方からウチに来たいと言ったんだろう? 向こうもそういうテンカイを望んでるんじゃないのか?」

「そうだよ。彼女の気持ちを蔑ろにする気かい?」

「そんなこと……」


 言いよどむ俺の耳元で奴らがささやく。


「もっとラクに考えろよ。あの感じならダイジョウブだって」

「そうだよ。いけるいける」

「そうかな……」


 俺の抵抗もむなしく、理性や自制心といったものは脆くも崩れ去ろうとしていた。

 が、しかし、俺が奴らの誘惑に膝を屈しそうになったその瞬間。脳内に憎たらしい声が響いたのだ。


 それは全くもって天啓というに相応しく、またこれほどしょうもない天啓などあっていいはずがなかった。


『お前なぞ、どうせがっついて一ヶ月以内に振られるに決まってるね。俺がいうんだから間違いない』


 これは約三ヶ月前、俺が彼女と付き合い始めた頃に後ろの席の高城からかけられた言葉である。

 後光と共にデカデカ登場した記憶の中の高城は、相変わらず憎たらしく口をひんまげていた。




 当時、高城は一月ほど付き合っていた彼女から「なんか前のめりで怖い」という理由で振られた直後だった。

 立ち直りかけていたところに俺と彼女が付き合い始めたと言う情報が耳に入ったらしい。あの時の高城は嫉妬と孤独に完全に支配されていた。


「おい山本お……お前は俺を裏切らないって、彼女からなんてつくらないって約束しただろうがあ……。なんでお前なんかがあんな可愛い子と……」

「そんな約束、した覚えはない」


 首を絞める勢いで背後から掴みかかられ、俺は憮然として答えた。

 高城はしばらくの間、「なんだとこの野郎!」などと騒いでいたが、そのうち元気もなくなったようで、今度はしくしくと泣きながら呻くように言った。


「俺だって少し前まであの子と仲良くやってたんだよ……なんだよ怖いって、前のめりって……。ちょっと人のいないとこに行きたいって言っただけじゃねえか……」


 あまりに気色の悪い発言に、俺が思わず「それは言われても仕方ないだろ。むしろよく一ヶ月もったな……」と言うと、高城は大げさに泣くのを止め、こちらをジロリと睨んだ。


「お前、他人事だと思ってるだろ」

「そりゃ、他人だからな」

「いーや! 違うね!」


 高城がビシリと俺を指差して言った。


「俺には分かる、お前は俺と同類だ……。お前なぞ、どうせがっついて一ヶ月以内に振られるに決まってるね。俺がいうんだから間違いない」


 高城はケケケと妖怪のように笑い、暫くするとヘナヘナと崩れ落ち、再びしくしくと泣き始めた。


 今考えると腹の立つ発言だが、あの時の俺はこのどうしようもない男への憐れみに、ただただ胸を熱くしたものだ。




 結局のところ付き合って三ヶ月たった今も別に俺は振られていないし、あいつの発言はどう考えてもただの八つ当たりだ。

 ただ、前のめりになって彼女を怖がらせてはいけないという点だけは、高城の言葉も一考の余地があるかもしれない。

 少なくとも俺は、あんな風にはなりたくない。


 彼女の無垢な笑顔を思い出す。

 彼女はとても愛らしく、俺のような下賤の輩とは似ても似つかぬ純粋な心の持ち主なのだ。

 勘違いをしてはいけない。ここで自意識過剰の暴走ヤロウと化して彼女に嫌われたくないし、怖い思いをさせるなど以ての外である。


 心頭滅却。明鏡止水。煩悩退散。

 俺は大きく深呼吸をして、麦茶のポットを取り出したのち、勢いよく冷蔵庫の扉を閉めた。


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