そのいち
俺の彼女はとてもかわいい。
これは決して惚れた弱みや欲目なんかではなく、俺と彼女がクラスメイトとして同じ教室で共に学問に励んでいた一年間と、名実共に恋人として隣を歩くようになった三か月という膨大な時間から得たデータに基づいて導き出した、ごく客観的な事実と言っていい。
まず、見た目がとてもかわいい。
ごく平均的な身長なのに手足が長く、顔が小さいからなのかとてもスタイルがよく見える。
その小ぶりな顔には、大きな瞳と美しい鼻筋、いつも微笑んでいるような唇がバランス良く配置されていて、一見するとどこぞのご令嬢かのような気品すら感じられる。
笑う時、目尻がほんの少し下がるのがまたかわいい。
性格もいい。
とにかく優しく親切で、困っている人を放っておけない。体育で怪我をした女子がいれば率先して手を貸して保健室に付き添い、このままでは赤点だと嘆く生徒がいればノートを貸し、勉強を教えてやる。彼女は成績までいいのである。
それはともかく、女子にはいいとして野郎共にも平等に親切なのだからこちらは気が気でない。かく言う俺も、彼女に思いを寄せることになったきっかけは教科書を見せてもらったことだった。
一年の頃、教科書を忘れてきたことを授業が始まる直前に気が付いた俺は大変慌てていた。時間がないため他のクラスに借りにも行けない。その時、教科書を一緒に見ることを申し出てくれたのが、当時隣の席だった彼女である。たったそれだけのことだったが、「良かったら一緒に見よう」といった時の、彼女のはにかんだような笑顔に俺は悩殺された。
当然男にもてる。
先月も五組のバスケ部キャプテン松村に告白されていたし、その前は一組の爽やか男子澤田に呼び出されていた。彼らだけでなく、彼女がこの高校に入学してから今まで、彼女に思いの丈を伝えては撃沈する生徒が後を絶たない。
俺が彼女を射止めたという情報が学校中を駆け巡ったときは彼女に思いを寄せていた奴らが男泣きし、俺の下には大量の恨みつらみ呪いの言葉が寄せられた。
その後も、彼女にあわよくばという不埒な気持ちを抱く輩が頻繫に出没しており、俺はそいつらを撃退するのに忙しい毎日を送っている。
というか女にも、もてる。
なにやらこの学校には女子生徒のみで結成された彼女のファンクラブなるものがあるらしい。
普段の活動内容は秘されているようで実態が見えないが、彼女と交際を始めた際、俺はその謎に包まれた組織の一端を否応なく知るところとなった。
正直男どもの恨み言などより、校舎裏に呼び出され女子生徒十数名に囲まれた方がよほど怖かった。俺はその場で彼女を悲しませないこと、彼女を邪な男どもから守り抜くこと、彼女に指一本触れないことを誓わされ、和平の証に組織の長なる人物と固い握手を交わした。
俺は未だに、その組織の長が俺のクラスの委員長樋谷さんであったことを、誰かに言いたい衝動に悩まされている。
ここまでだらだらと書き連ねて何が言いたいのかというと、今日、そのかわいい彼女が俺の部屋にあそびに来るのである。
ちなみに親は留守にしている。
◇
今日が最終日の期末テストは、いつもより少し難易度が高かった。
その証拠に、出来が悪かったのであろうクラスメイト達の怨嗟がそこかしこから溢れ出ていて、夏の始まりの暑苦しさを助長している。
後ろの席の高城からは「なあ山本、数Ⅱの最後の問題、答えは16だよな?」という叫びが聞こえてくるが、俺の書いた答えは全然違った気がしたし、そもそも俺も最後の問題は全く分からなかった。
そして今の俺は数Ⅱの試験の答えなんぞにかかずらっている場合ではないのだ。
そう思いながら適当に高城の相手をしていると、後ろの方から彼女のかわいい声が聞こえてきた。
「山本くん、帰ろう!」
声を弾ませながら教室の後ろの扉から手を振っている彼女は今日もかわいい。その笑顔はこの世の汚らわしいことなど欠片も知らないような清らかさだ。
「なんだよお前ぇ。かわいい彼女と一緒に下校とか、余裕かよ! ばーか! 留年しちまえ!」
椅子を蹴ってくる高城を無視して、鞄を持って彼女の方へかけよった。彼女を前にして優先すべき友情など存在しないのである。
「お待たせ、行こっか」
俺はそう言って、彼女と共に教室を後にした。
まだ一応七月の初旬だというのに、もうどこかでセミが鳴いている。
校舎を出た途端、とろりとした熱気とうすい気だるさが体を包み、夏の匂いが一段濃くなった気がした。
彼女がのんびりとした口調で「今日の数Ⅱと数B、どっちも難しかったねえ」と言った。
「確かに、うちのクラスのやつらも皆死にそうな顔してたな」
難しかったとは言いながらも、彼女は今回の試験にそれなりの手ごたえを感じているらしい。直前に友達と確認したところがちょうど出てきたと、嬉しそうに話す彼女に相槌を打った。
何気ないふうを装いながらも、俺の頭はアスファルトが焼けるにおいと照り返す太陽の熱、彼女が俺の家へ来るという事実とで、ぐらぐらに茹で上がりそうだった。
あまりにも暑いので、コンビニでアイスでも買っていこうかと提案した。
テスト明けの午後に彼女を俺の部屋に招くことが決まったのは、もう二週間ほど前のことだ。
彼女と図書館で試験勉強している時に突然提案されたその話に、俺は笑って「ああ、いいよ。掃除しとかなきゃな」などとうそぶいていたが、頭の中では緊急事態発生のアラームがけたたましく鳴り響いていた。
彼女は今、どういうつもりで「山本くんの家に行ってみたい」と言ったのだろう。
この時俺と彼女は付き合い始めて七度の逢引を済ませていて、三週間ほど前に夕方の誰もいない公園で初めての口付けをしたところだった。口付けはその後も何度かしていたが。
健全な高校生の男として、その先に興味がないわけではない。というより、恥じらいを捨てて白状すると、大変、大いに興味がある。今の彼女の言葉は、その先を示唆することものなのだろうか。いやしかし、彼女の表情にはそういったことを考えている様子が微塵も感じられない。
そんなことを考えていると、だんだん彼女の顔が赤くなっていき、ふいに顔をそらされた。
「どうしたの?私の顔に何かついてる?」
少し慌てた様子で聞かれて、次はこちらが慌てる番だった。どうやら俺は彼女の顔をじっと見つめてしまっていたらしい。
「ごめん、何でもない」
そういって急いで顔をそらす。
少しの間、沈黙が流れた。俺はせめてこれだけでも確認しておこうと、大して進んでもいない問題集に視線を落としたまま口を開いた。
「うち、基本夜まで親いないけど、いいよな」
「うん。全然いいよ」
全然いいよ。その「全然」とはどういうことなのか。普段気にしたこともない言い回しに、いちいち意味を探してしまう。
その後、一言二言言葉を交わし、じゃあ試験終わりにそのまま行こう、ということでその話は終わり。俺は勉強に集中するふりをしてシャーペンを泳がせた。
その後の二週間、問題集の頁は一向に進まず、試験の役に立ったとは言い難い。