大谷田商店街物語
はじめに〜
亀有の事は漫画でだいぶ有名にはなっているが、そこからバスで10数分乗った大谷田町の事を知っている人はかなり少ないだろう。
東京都足立区大谷田町、そして私がこれから、お伝えしたいと願っている大谷田商店街。私はその一角に昭和32年に生まれて9才迄を過をごした。物心付いた4〜5歳から埼玉県に転校する9才までがテーマである。恐らく「映画ー3丁目の夕日」の様な風景は当時多くの日本人が目にしたと思うが、大谷田商店街は私にとってどうしても書き残して置きたい記憶なのである。
最近、末期がんで現在緩和ケアを受けている私に、40を超えた息子から何気ない質問を受けた。私が生まれ育った足立区の生家は今も残っているのかと言うものだ。「数年前見たときはあったから今もあると思うよ」とこちらも何気なく返答した。
便利なアプリがあり幸い50年以上経っていると思われる増築に増築を重ね、おまけに建物の2階へ入るための中川堤防に私設の入口兼橋まである、お世辞にも立派な生家とは言えないが懐かしい木造住宅があった。
勿論、今は売買が重ねられ複数の所有者へ入れ替わっていると思われるが、スマホ画面にあるのはまさしく私が生まれ育った粗末な家であった。
良く残してくれたとの感謝と感慨も束の間、では遊んだお寺や商店街は?と言うと、息子がお散歩モードで追ってくれた。お寺は勿論だが、何とお寺の正面にセキ床屋さんと、隣には角の酒屋さんがあるではないか。勿論シャッター通りになってはいるが。。。。。
ここは大谷田商店街のドン付き側なのだがずっとお散歩モードで入口側に歩いて見たが当時の面影が何処にも無くて急に寂しくなってしまった。
じゃあ、あの毎日雑踏の中で遊んだ大谷田商店街は何処あるのだろうか。勿論写真や映像にも残っていない。その時、ホンの一瞬だが大谷田町商店街が全部見えた様な気がした。そうか、あと幾ばくでも無い私の脳内にしかないのだ。脳内から解き放ってやりたい。
そう思うと無性に残して置きたい。いや私が残して置かねばならないと思えて来たのだ。
但し、体裁は記録でも想い出でも無く小説とした。唯でさえ曖昧な記憶に加え、今は病床を出て何の検証の術もないからだ。小説なら記憶や固有名詞が錯綜や創作があっても責められまいと思っての甘えであるが許して欲しい。
小学校入学前後
幾ら記憶が曖昧とは言っても一応の時間軸を決めて見た。小学校入学前後。場合よって内容や出来事で学齢が分かるものはそのように入れ替えた。
1、ボットン事件
これは本人が一番書きたく無い内容である。昭和人でタイトルを見れば大体分かるだろう。自分の生涯のセルフイメージを決定したとも言える事件なのだ。要は田んぼで遊んでいて、あそこへ足だけ落ちた様な経験は結構あるが、3〜4歳の子が全身転落。父親が直ぐに引揚げて何とか事なきを得た。極寒の時期では無く両親二人で水道で全身を洗い、翌日から母親が明るい内にお風呂屋に毎日連れて行ったが匂いが消える迄かなり時間が掛かったと聞かされた。
2、増築と怪我事件と小児麻痺
さて、あれほど木造住宅が増築に増築を重ねて行った原点と理由が今回記憶やインターネットを探って見て、少しだけ見えて来た。要は大谷田町商店街の立地がそもそもの理由だ。従業員数2万人を数える日立製作所亀有工場の存在である。近隣にも井セキ農機や日本紙業(亀有駅南側で遠いが当時は自転車で通う人もいた)の工場があり、半分の1万人以上、場合よってはそれ以上の従業員が通っていたとして妻子家族を含めれば3〜4倍、3〜4万人の人口が周囲にあったと想像しても許されるだろう。
亀有は確かに経済と文化では近隣では大きな街であったと思うが、実は底辺でのモノ作りや経済活動、庶民生活は大谷田のような街があってこそ成り立って居たのだろうと思う。
さて、我が家の原点は実は6畳と4.5畳の平屋であった。そこへ日曜学校を開くため10畳程の板の間が増築され、その板の間は3〜4才頃の私の補助輪付き自転車の格好の練習場であった訳だ。
怪我事件というのは、まだ足元が覚束ない幼い私が、家屋の一部解体後、釘の刺さった木切れをアルマイトの洗面器に集めている時に起きた。飼っていたシロという犬の鎖に、足を引っ掛けて思い切り木切れの中に転んでしまったのだが、折悪しく板切れに刺さった3〜4寸ほど(10cm程)の釘が柔らかい幼児の膝に刺さった。結果として膝のお皿を掠めて貫通しそうな程の刺し傷を作った。現在なら外科で縫う程だがそこは昔の事で病院が近所に無かったような時代である。父がヨードチンキで消毒してメンソレータムをこれでもかという程たっぷり塗り、油紙と包帯でグルグルに巻いて緊急治療した。それは歩けるようになるまで3ヶ月程続いた。
その増築の理由が平屋から2階建てにして一階をアパートにして店子に貸し1階にあった我が家の住居と日曜学校場を2階に移すと言うことであった。それだけ急激なアパート需要が生まれたのだが、私は日立亀有工場の影に生まれた小さな犠牲者とも言えるかも知れない。だが、後々を辿ると犠牲者は実はサバイバーであったとも言える。実は足立区のこの周辺は特に水捌けが悪く、下水は側溝(ドブと呼ばれた)を流れ下水整備が行き届かない、小児麻痺や伝染病の多発地帯であった。
毎週のように、何処そこの子が入院したとの噂が囁かれたと母親が言っていたが、実際、100m程先の飯塚橋に程近い地主さんの同い年の女の子が、同時期、小児麻痺に掛かってしまった。その女の子はそれからずっと、道路を走る車を見ては「あーあー」と言って指差す事しか出来なくなっていた。
本来は泥だらけで遊んでいたかもしれない私は、一番危険な3ヶ月間を自宅で厳重隔離されていた。その後、暑い夏が来て近隣消毒も行われ小児麻痺騒ぎも何時しか収まって行った。
3、お風呂屋の火事とお風呂屋通い
さて、やはり、出来事発生の前後関係からお風呂屋の火事は後々まで強烈な記憶として残っているため入れて置く。
我が家は中川土手の下と言うか際に建っていた。お風呂屋は商店街のほぼ右端近くにあったから直線距離にすれば80m〜100mだったと思う。そのお風呂屋が夜中に焼けたのだ。季節は良く覚えていないが皆土手に上がり真っ赤に挙がる焔を外で見て心配していたから、それ程寒い時期でも無かったと思う。良くある事だが消したつもりのボイラーの火の不始末が原因と父が後に言っていだ。
その夜は土手に見たことも無い数のポンプ車とパトカーが中川土手などにところ狭しと並んで消火活動を続けた。中川の水を汲み上げ火事場へと送るためだ。またパトカーは現場全体が見渡せる場所を選択したのだろう。消火活動は夜中まで及んだ。お風呂屋も大きいし裏にはボイラー用に多量の古材木が置かれており鎮火には時間を要した。
この火事の経験は幼い私には長い間トラウトとして焼きついた。夜中に突然泣き出す。昼間でも昼寝の後に床にボーッとして座り泣き出す事も後々まで続いた。勿論、おねしょは折込済み。特に日立のポー(5時の就業サイレン)が鳴って昼寝から起きると暫く床の上で泣いていたようだ。当時はトラウマなどと言う概念も無いので、私のこの状態を見て母は「おかしな子だね」と言ったは、幼い私には家事の強烈な恐怖やサイレンの記憶が蘇っていたのかも知れない。
実はその後、小学校に通うようになってからもお風呂屋の裏には一人では近づけなかった。ごく一部だが焼け焦げた材木などが積んであったからだ。勿論、お風呂屋にはお寺を回って商店街に入り、表の入口から普通に通っていたし、2年生になって友達だけでお風呂屋に行けるようになってからは夕方の遊び場が一つ増えた。
但し湯船のお湯が熱いので私達子供が湯船に入れる場所は水が出る青色の蛇口のそばだけと決まっていた。それでも沢山水でうめると湯船の奥の方で赤い顔をしてるおじさんに「コラ!ボウズ!」と睨まれた。あの蛇口を押して貰って両の手の平で受けて替わるがわる飲んだ井戸水の甘さは今でも忘れられない。後に父親の商売が上向いて「十字電気店、電気工事請負、電化製品月賦販売、電話〜」などと言う黄色の小さな広告看板が他の商店のと一緒に大きな富士山の下にチョコんと並んで掲げられていて、ちょっと嬉しかった。
4、我が家のモータリゼーション
と幼稚園最短記録
当時、初めてエンジン付きの乗り物が家に来たと言うか、あったのがオートバイであった。父親は結構早い時期からオートバイには乗って居たらしい。スズキだかの125cc、2サイクルの黒々したやつである。いつ頃か良く覚えていないが暖かくなる頃にはガソリンタンクの上に乗せられていろいろ連れて行ってもらったが、少し大きくなって後ろの荷台に載せられた。時に、スタート時に荷台のハンドルに捉まるのが一瞬だけ遅れてクルンと思い切り落ちた事があった。しかし体も柔らかく交通事情もノンビリしたものだったので「お父さん、子供落ちたよー」で父親は戻り私も怪我一つせずに済んだ。
さて、このオートバイ出動には3回に一回は燃料を入れる訳だがガソリンスタンドと言う物は環七とバス通りとの交差点に一軒あるだけだった。オートバイはどうしたかと言えば炭屋に「混合一升」を入れに行った。炭家の店先には薄っすらと赤い混合ガソリンが詰まった一升瓶がズラーッと並んでいて、おじさんが酒瓶のキャップを外してタンクに入れ、大きくグルンと回すと混合ガソリンが勢いよく入って行った。因みに炭家には炭、薪、灯油、練炭、豆炭も置いてあり、夏や急病人が出たとき氷枕で冷やす氷も扱っていて当時は結構身近な存在だった。
さて、小学校入学半年前の事、ある日、父親がホンダカブにリヤカーを繋いで帰って来た。来春小学校入学予定の息子のため、母親が教会の経営する幼稚園へ半年でも通わせた方が良いと聞いて来て、父親は敷地の広い祖母の家(以前養豚をしていたので我が家では豚のおばあちゃんちと呼んだ)の庭で2日間かけてリヤカーを改造しペンキを塗ってお化粧し、子供が乗れるようにした。それはお世辞にも格好の良いものでは無かったが取り敢えず雨風は凌げた。
10月のある晴れた日、周囲ブリキで覆われ息苦しい揺れるリヤカーに乗せられて私は亀有のキリスト教系幼稚園へ無事登園となった。しかし2日だか7日で辞めたと親からはずっと聞かされた。(自分では2日だと思っている)
幼稚園では秋の運動会の練習で赤白帽を振って「フレーッ、フレーッ赤帽! フレーッ、フレーッ白帽!」等とやっていたが、同級生に幾ら教えられても、私にはどうしても身体が固まってしまいできなかった「教えられた事をただ考えもせずやる」という事に子供ながら嫌悪感を覚えたと言えば聴こえが良いが、団体活動というものを生まれてから殆ど経験していなかった私には異質に見えた。
両親には直ぐに「あそこにゆくと馬鹿になるから行かない」と突っぱねたが2日だか7日後だかという訳だ。急造のホンダカブ通園車は、それ切りお払い箱になった。元々、朝夕の2時間近くを子供の送迎に割くのが乗り気でなかった父親も「そんなに嫌なら辞めろ」とあっさり同意してくれ私はホッとした。
その後に来たホープスターに付いては後ほど書くが、ホンダカブは軽くて燃料もガソリンだけで良く結構父親のお気に入りとなって我が家ではそれ以降、長く乗られた。おかげで黒々した混合ガソリンの125ccオートバイは何処かに売られ、同時に炭屋へも行かなくなってしまったのは、ちょっと寂しい思い出である。
5、セキ床屋
さて、内容からして絶対に小学校入学前だと思えるセキ床屋さんについて書いて置きたい。また、当時の我が家からは土手を少し歩き、お寺との間にある広い下り坂を少し下った左側にあったから一番近いお店だった。また、セキ床屋の看板を息子と一番最初にアプリで見つけて、この小説を書こうと決断した事も大きな理由である。
たぶんこのセキ床屋には物心ついて自分で、あの赤い底上げ椅子アタッチメントに座れるようになる3〜4歳から、それを卒業して普通に座れる9歳頃までずっとお世話になっていたと思う。髪型は一貫して坊っちゃん刈り。昔は男の子は皆どこも、正月、入学、新学期などの前、またその都度、髪が伸びると床屋に連れて行かれた。大きくなればお金を渡されて一人で行ったが、私は髪が伸びるのが早い方で一年に10回程はお世話になっていたと思う。特に母親が「男の子は髪が伸びると熱を出す」と信じていたせいもあってもかなり頻繁に散髪に行かされた。
さて入学前との理由だが、私は産毛ソリが終わってパタパタと首と、おでこの周りにまぶすシッカロールに加えて、鼻筋に白粉をスッーと入れて貰っていた。というよりも予め母親から床屋のおばさんに頼んで貰っていた。あれを入れて鏡を最後に見ては「大人になったみたい」な良い気分になって帰った。弟が生まれて母親が忙しくなると床屋のおばさんに「終わったら家まで送ってね」と言い残して先に帰った。
で、白粉は、どう考えても入学前であったと気づいたのだ。長じて七五三に鼻や首に白粉を入れた女の子を見た事はあっても、普段、鼻筋に白粉を入れた男の子を見た事は一度も無かったからだ。もしも、あんな白粉を付けて商店街を歩いたらいっぺんで同級生の笑いものになったと思う。
但し白粉は別として、9歳で転校するまで私はずっとセキ床屋さんで散髪のお世話になっていた事は付け加えて置きたい。ヒゲは無かったが、剃刀を整える革ベルトを使う音、顔剃りの石鹸入れと刷毛で頬を塗ってくれてるなんとも言えない感触。ジョリっと調子よく産毛や眉を当たって貰うのはことさら大好きな時間であった。今考えるとあの頃は子供時分から随分と贅沢な時間を過ごしていたのかも知れない。
6、入学祝いとコーリン鉛筆削り
もう一つ小学校入学前の出来事が入学祝のプレゼントである。母親は元々浅草の出で、年に数度のハレの日は浅草、上野、御徒町で買い物をするのが好きであった。勿論、どの家庭も泊給を切盛りしていたが、母親はココぞとというときの為には貯めて置いて使う人であった。増して長男の入学祝には何か残る品をと考えて、買いに出かけた先が浅草松屋デパートである。
入学前の3月の声が聞こえた暖かいある朝、母親と私は久しぶりに大谷田車庫前から、東武バス、北千住経由〜浅草駅前行に乗車した。母親とバスに乗るのは亀有の病院か、今回のような特別な買い物の時しか無かったが、私はバス酔いするので苦手であった。特にバスの木製床に塗られたホコリ防止のワックスの匂いで何度も吐き気を堪えるのに苦労した。大谷田車庫発のバスは殊更、ワックス塗りたてである。暫くしてヒーターでワックスが乾き、ヒトイキレで匂いが緩和される頃には、バスは北千住駅で客を降ろし、目的地の浅草駅前に向かった。
約20分も走るとバスは浅草松屋デパート前に到着し、私達は他の客と同様、吸い込まれるように立派なデパートに入った。石造りの階段や造形に見とれている暇もなく、母親はエレベーターに向かい5階の文房具売り場を目指した。昔から母親は単純明快が好きな人であった。有閑マダムのように自分の洋服や化粧品等にも一切興味を示さないキリッとしたところが有って、その日もお目当ての鉛筆削りと鉛筆を買って地下の惣菜売り場で2〜3品買うと、また大谷田車庫行のバス停から自宅に取って返したのだ。勿論、私が4歳と5歳の時に生まれた弟達2人の面倒を父親に託していたせいもある。これで正味、往復約4時間弱の私の入学祝購入の行事は終わったのであるが、購入したコーリン鉛筆削りが中々の物であった。
さて当時、電気鉛筆削りは、まだ、殆ど出回っていなかった。それで、鉛筆削りと言えば、頭にどれも当たり前のようにバネで鉛筆を抑える「鉛筆抑え」なる物が着いていた。しかしこのコーリン鉛筆削りは、何とその「鉛筆抑え」がついていなかったのだ。機構的には鉛筆を入れてハンドルをグルグル回すと内部のローラーが回転して自動的に鉛筆を直角に削り機に押し込む。丁度鉛筆が良い具合に削れて、削り機内部の角度と一致すると、ハンドルを回しても鉛筆はそれ以上進まなくなるという、良くできた仕掛けであった。デザイン的にも「鉛筆抑え」が無いため真四角でスリムで格好良かった。母親はそう言った新しい物が好きな人であった。
さて、プレゼントされた当の私は、その鉛筆削りが好きで中学になるまで、結構長く愛用した。但しそれで良く勉強したかと言えば怪しいがコーリン鉛筆削りはとても気に行っていた。
7、ホウソウ(種痘)予防接種
多少時期的には前後するが、入学前の出来事として鮮明に記憶に残っているのが予防接種、特にホウソウ「種痘予防接種」である。世界的に撲滅したとの事で今は天然痘の予防接種はやらなくなったが昭和30年代は、まだまだ現役であった。
会場は東縁江小学校という所で、大谷田からバス通りを環七との交差点を真っ直ぐ突っ切り日光街道(国道4号線)方面へ10分ほど歩いた左側だったと思う。家からは徒歩30分位だったろうか。旧地域の小学校で接種を受けた。時期は年明けか2月頃でまだ寒く会場には石炭ストーブが炊かれていた。
昇降口で受付を済ませ、体温測定と医師の問診を済ませて接種会場の教室に入ると一種異様な雰囲気であった。子供は皆、左肩を出して、白衣を着た看護婦さんがチクチクと柄のついた針のような物で肩に種痘菌を植えてもらっている。あちこちで痛むのか、幾人かの子供がシクシク泣いていた。
とうとう私の順番が回って来てアルコール消毒の後、チクチクが始まった。最初はそれ程でも無く痒くもあったが直径が13〜15mmに広がって終わり頃になると違和感で結構堪えた。それでも泣くほどの痛みでは無かったと思う。終わりに傷口を油紙とガーゼと絆創膏で覆われ、今後の注意事項の紙をもらった後、母親ともと来た道を戻り家に着いた。
しかし種痘予防接種との戦いはその後に厳しい物になる。軽い発熱が続くのは仕方無いが、例のチクチクされた部分が化膿して白、黄色の膿がジクジクとちょっとずつかなり長期間滲み出した。その後は次第に乾燥してゆくのだが物凄く痒い。痒みでかき壊すと血が出てカサブタになり、そんな事を何度か繰り返し1ヶ月〜1ヶ月半後にようやくカサブタが取れてチクチクされた点々だけが顔を出す。その間、お風呂や肩にあたるシャツには度々膿が着いたりで母親も洗濯で大変だったと思う。でも良くした物で入学前にはあのチクチクされた寒い日を何時しか忘れていた。
予防接種のもう一つイベントが入学後にある、ツベルクリン反応とBCGであるが、こっちは入学後の方で書いてゆく。
8、教科書配布とお道具箱
入学前最後のイベントが教科書配布である。教科書など入学後に配れば済みそうだが、話しはそう簡単では無いのだ。学校から生徒に配布や購入させる全ての物に名前を付けなければならない。それを入学式前一週間位で行うのであるが、教科書や地図帳、ワークブックなどの名前付けなら1時間程で終わるが、お習字セット、絵の具セット、更に1番大変なのが算数セットであった。
当日は決められた午後の時間に夫々の教室に親子が入ってゆくのだが、昇降口には既に組と出席番号、名前が張り出されている。また、廊下には教科書や地図帳などが既に並べられていて、一冊ずつ取って教室に入ると担任の先生の挨拶が始まり、今日の予定と注意事項、始業式の持ち物などが書かれたわら半紙が渡され解散となる。時間にして正味30分位で、ここ迄は易しいものだが実際の親の苦労はそれからである。
先ずはお習字セット、絵の具セットと画板、算数セットの購入。これらは既に別教室で業者が机に並べて待っていて現金と引換に渡される。金額は覚えていないが全部で1万円を超えていたと思う。それらが終わると全員が配布された教科書や購入物をひっ提げて帰途に就くが、現在のように車で来る人は全くいないから全員徒歩、増して弟妹を連れていたらそれこそ母親はおんぶしたりで重労働であったと思う。
しかし母親の労働はこの後も続くのである。お習字セットの炭、硯箱、筆、絵の具一本ずつ、筆一本ずつ、ケースは勿論全てに名前を付ける。最も大変なのが算数セットである。プラスチックの棒のような物やカード、細々した全ての物に紙に我が子の名前を書き、はさみで小さく切って糊で貼ってゆく。一晩や二晩では終わらなかった。私はと言えばそもそも字が汚くて役に立たず、算数セットに入っていた小さな時計で遊んでいた。最後には名前張りに父親も駆り出されて午前3晩くらいに終了したと思う。
9、一年一組、出席番号2番
一年一組の担任は足踏オルガンの上手な鈴木先生であった。お歳は40歳を少し超えていたと思うから低学年の担任としてはベテランだ。鈴木先生は兎に角オルガンが上手で何時も生徒に小学唱歌を歌わせた。
お得意は「カモメの水平さん」と「雨ふりお月さん」どちらもオルガンの高音とコードを使って間奏を入れ、生徒を飽きさせなかった。もちろん音楽の教科書に載っていた唱歌は1学期の内に歌って皆覚えた。だから音楽の時間はあっという間に過ぎた。しかし国語、算数はそもそもが退屈で嫌いだったし、理科は虫や植物などがテーマでそれなりに面白いが、社会は色々な地図が出てきたり写真があるページはよく見たがそれ以外はどちらでも無かった。
1〜3年生の通信簿は体育と音楽を除き、何時もオール3だった。但し、私は相当発達が遅れていたと思う。何せ3月29日生まれだから4月生まれの子と比べれば約1年間全てが遅れている事になる。自分でも1年生の一年間は何をしているか分からず、あっという間に時が過ぎていったと感じていた。
特に机の中はぐちゃぐちゃになったプリント類がぎっしり詰まっていたり、乾燥しきったパンも出て来たりした。年度末になって皆で其々の机の中を掃除するのだが恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
10、終わらない「悪漢探偵」ゲーム
それでも2学期になれば良く遊ぶ友達もでき、彼らに誘われて遊ぶ内に自然と大谷田商店街にもデビューとなる。先ず行ったのは商店街の探検である。テレビでは「少年ケニヤ」など探検ものが人気だったので、大体どこにどの店があって、どの道がどの道に繋がっているかを調べて置くことは重要だったのだ。次第に裏道やら店の裏口などもわかるようになると、定番の「悪漢探偵」が始まる。
地域や時代によっては「警ドロ」や「泥警」になったらしいが私の時代は一貫して「悪漢探偵」であった。ルールは有って無いようなもので、最初に悪漢側と探偵側を決める。後は、悪漢が逃げて、探偵側は少し間を空けてから悪漢を追う。で、悪漢の最後の一人が捕まるとゲームは終了となる。
但し大谷田商店街での「悪漢探偵」ゲームはそう簡単には終わらなかった。先ずは開始時間だが、学校から一度家に帰り、ランドセルを置くと3時近かった。それから何時もの待ち合わせ場所の駄菓子屋周辺に皆が集まるのが3時半頃になるので、おっ付けそれからの開始である。
しかし3時半頃からは商店街には今晩のおかずを買い求めるお客がちらほら出てきて4時、日立の終る5時には既に数千人のオーダーを数えピークを迎える。それで探偵側の視界は一気に遮られ、小さな小学生には大人の足やお尻越しに目標物を探す事になる。一方、悪漢側にはこの雑踏は非常な好都合である。そんな訳で、探偵、悪漢が其々3人ずつだったとしても最後の一人を探すのは至難の業で、ゲームは終わらない事になるのが屡々と言うか当然の成り行きであった。それに最初からそんな事は百も承知で遊んでいた。
また遊びのルールも自由で途中で家のトイレに寄ったり、近くにある駄菓子屋を覗いたり、どうしても腹が空いて2人で1個5円のコロッケを分け合って食べたりなどでゲームはその都度中断、やがては当然のように自然消滅する。しかし、誰も文句を言わないし、待っている訳でも無く、時間が来れば三々五々其々の家に帰って行く。先ず身動きさえ難しい、あの雑踏の中で誰かを探すこと自体不可能。で、明くる日は「また昨日の続きやる?」という事で悪漢探偵ゲームは続くのである。
しかし私達はあの数千人のるつぼ。活発な売り買いの声や奥さんと店主の遣り取り、新製品や色んな商品、そう言う興奮に日々身を置くことを何より楽しんでいたのかも知れない。臨場感という言葉があるが、同じ野球ゲームをテレビで観戦するのとスタジアムで観戦するのでは雲泥の差があるが、あの高度成長時代を前に激しく突き進んで行く国の臨場感みたいなもの。恐らくあの時代、あそこにいた者にしか、きっと誰にも分からないだろう。
11、大谷田商店街見取り図−その1
本当なら大谷田商店街の見取り図を描けたら楽しいのだろうけど、今の病床では既に不可能だ。で、見取り図は文章で描く事にしたい。その方が却って想像が広がる気もするし。
先ず、大谷田商店街の入口は東武バス大谷田車庫入口とバス通りを挟んで対面していた。日立亀有工場の正門は車庫入口から環七方面に少し歩いたところだ。バスは環七を左に折れて5分も走れば常磐線亀有駅北口であるが、この頃は常磐線がまだ高架になっていなかったので行止りである。
さて大谷田商店街をバス通り側から入ってずーっと歩けば、ドン付きが常善院さんと足立区第十二中である。通りの長さにして200mちょっとだろうか。両側に間口4m程の店舗が並んでいたとして約100軒である。規模的には恐らくその程度だったと思う。店舗の他にはちょっと大型の建物、母子寮や引揚寮、お風呂屋などもあった。因みに我が家、十字電気と増殖中のアパートは大谷田商店街と並行する中川土手の中間位に位置していた。こっち側は飯塚橋と常善院さんを繋いでいる。
さて、セキ床屋の事を以前に書いたから、そのお隣り、お寺の坂と大谷田商店街の角の酒屋について書く。確か「大関酒屋」だったと思うが「大関」の立派な銅看板が掛かっていたので、そう呼んでいたのかも知れない。我が家は一切アルコール類を飲まなかったから酒屋との取引は醤油、みりん、油だけだったが、大関には面白い御用聞きがいて、我が家に良く寄ってはアブラを売っていた。それで「シーチョ」と呼んでいた訳だが。後になって「シーチョ」さんは正しくは「C調」さん。要は「ハ長調のように調子が良い人」というのを知った。
ごく偶にだが、真夏のプール登校の帰り道、汗だくになって角の「大関」の前に出ると、シーチョが大きな籠とゴムカバーの着いた配達用自転車を横に店先の縁台に座って涼んでいてた。むこうも配達で汗だくになって一息入れていたのだろう。コチラが「シーチョ! 暑いねー」と挨拶したら、何とよく冷えたプラッシーを一本ご馳走してくれた事がある。
さて私が家に帰るには「大関」の前とセキ床屋の前を通り、真っ直ぐに土手に出て右に曲がるか、大関の右隣の肉屋と風呂屋の間を抜けて土手に出るしか無いのだが、暑い日は少しでも近道をして肉屋と風呂屋の間から抜けた。家に着いて母親に「シーチョからさっき、プラッシー貰ったー」と告げると「悪いわねー。お醤油とプラッシー1ケース、後で届けといて」という電話を既に入れている。まあこれがシーチョが「C調」たる所以である。母親の人柄であった。
さて「大関」の隣の肉屋は家から最も近い肉屋なので母親は良く買いに行った。
但し子供に取っての最大のメリットは出来立てコロッケが物凄く美味しい事である。しかも1年生の時代、1個が5円であった。夕方前にコロッケを揚げる準備で店先では、蒸したジャガイモを大きなボールにあけて冷まし、玉ねぎと挽肉を炒めた具と混ぜて小麦粉をまぶして、コロッケの形に整形している。店内ではおばさんが衣を付けて油に投入し揚げて行く作業の真っ最中である。私達はその匂いと音で既に参ってしまっている。残念なのは2年生になると1個5円にから7円に値上がりした事だ。つまり貴重な10円玉で2個買えなくなってしまったのだ。
12、大谷田商店街見取り図−その2
肉屋の隣は土手に向う道を挟んでお風呂屋だが、これは以前書いた。その先は洋服屋、履物屋などが有って、母子寮が続いていた。周りを店舗に囲まれているので中はよく見えないが一度覗いたが結構大きな建物で、オシャレな窓があり壁はモルタル仕上げであった。やはり母子が安心して暮らせるようにと建てたのだろう。敷地内では小学生の女の子数人が遊んでいた。但し私達とは別世界のように感じた。道の反対側は良く覚えていないが乾物屋や米屋、お菓子屋のような店が並んでいたと思う。
母子寮の先には引揚寮があったが終戦から15年以上も経っており黒く暗い大きなアパートのような建物であった。普段は行く事も無いが、ごく偶に給食のパンを届けるために先生に言われて行った。当時給食費は月600円位であったが、食パンかコッペパン、アジや鯨の揚物なども、本人が休むと献立に応じて藁半紙に包まれて輪ゴムで閉じられたお休みセットを近所の子が届けさせられた。
さてこの引揚寮の隣には電気屋と写真屋もあった。写真屋については別の機会に書くとする。更に進みごく一般的な駄菓子屋が一軒あった。店はそれ程広くは無く、主な商品は平台の上に置かれていたが、結構多くの商品が紐で上の方に結んであった。小さい子のイタズラ防止のため高い位置に下げていたのかも知れない。誰かがおヨネさんと店の名前とも店主とも区別が付かないが呼んでいた。通りの左側にはその先、バス通りに向かって八百屋や魚屋もあったが私達の興味を惹くものは無かった。
さて商店街の反対側バス通りから入って数軒の所に、大谷田商店街きっての名物パン屋があった。その名も「日立屋」である。何が名物かと言えば先ず焼き立てのコッペパンが蒸気をたっぷり含んでいて柔らかく美味しかったのだ。焼き上がる度にこれまた名物おばさんが半分に切れ目を入れてクリームやチョコ、ジャムやピーナッツクリーム、あんこやマーガリン等を目にも止まらぬ速さで塗って行く。焼き立て塗りたてのコッペは日立がお昼時や朝夕には飛ぶように売れてゆくのだ。他にもサンドウィッチやハムかつ、ソーセージパン等沢山のパンが所狭しと置いてあって直ぐに売れてゆくが、私達はおばさんの手が一斗缶の1/8位の高さのクリームやジャムの缶から木のヘラでコッペパンが塗られて、袋に入れられて行く魔法のような手さばきに魅せられていた。確かその後日立屋は大谷田商店街がシャッター通りになってもかなり長く細々と営業されていたように思う。因みに今回お散歩アプリでお店の看板が確認出来た数少ない店舗である。
13、大谷田商店街見取り図ーその3
日立屋を戻るように反対側を進むと今度は大きな間口の魚屋があった。1m程のまな板は何時もホースで水が流され、サバやアジ、マグロなどがお客の注文に応じて出刃包丁裁かれて、経木と新聞紙でくるまれ次々に渡されて行った。この店の特徴は店主が長いゴム前掛け捻りはちまきで、いつも魚の名前と値段、「〜安いよー」がちょっと変わった声室で繰り返しアナウンスするので、お客は催眠術にでも掛かったかのように「アジ3枚ー」「サバ2本ねー」と合の手のように注文を入れて行く事であった。もちろん釣り銭はゴムで庇から下がっていた。
商店街通りと同じ幅の路地を挟んでこれまた威勢の良い兄弟が切盛りする八百屋があった。八百屋も新鮮さが勝負だから5時を過ぎれば値段をどんどん下げて魚屋と競争で、どんどん売り切って行く。折から日立を出た女工さんや奥さん達が次々と買い求めてゆくからこっちも大変な人だかりになる。この路地の先にも多くの店が立ち並び、多くの売る掛け声とおばさん達の注文を入れる声が呼応して、この一角はいつも大谷田商店街では随一の人出と活気で賑わっていた。
14、学校帰り、商店街、近所での遊びと「ピー子」の思い出
だいぶ大谷田商店街に割いてしまったので、普段の遊びに着いても書きたい。
その頃、学習塾やそろばん塾、お習字などへ通う子もチラホラいたが、大方の小学生には十分に遊ぶ時間があった。大きく分けて、学校帰り、ランドセルを置いてから、家の近所の3つに分かれる
学校帰りの物買いや買食いは禁止だが、週に2〜3度は学校の裏に物売りが即席の店を構えた。おもちゃ、流行のキャラクター下敷、色鮮やかな消しゴム等が売られていたが私達が時々寄ったのが「型屋」である。
型屋は自転車にみかん箱を2段くらい積んでやって来て、粘土と素焼の型でしばらく遊ばせる。もちろん型を借りるのも粘土を買うのも5円から10円くらいだったと思う。粘土を伸ばしたりするのに水を使うので学校際の用水(路)、橋の際などで結構商売をしていた。用水(路)と言っても幅10m以上ありコンクリートの護岸も無いので土と水たまりが出ていて水も綺麗だった。好きなデザインの型を借りるが、あまり難しいデザインだと粘土を詰めて、ならして外す時に割れてしまう。飛行機、船など色んな型があった。それから粘土を買って型に詰め、最後には上手に外して色粉を掛けて完成。赤、黃、青、銀粉、金粉などもちろん有料である。上手くできると小さな型がもらえたが殆どは上手く外れなくて失敗だ。型遊びは30分くらいで終わるので結構人気だったが私は自分で殆ど遊ばなかった。お金を持っていないのもそうだが、良い出来だと点数の入った小さな紙切れ渡していたが、それをもらっても意味が無いように思えたからだ。
さて人気があったのがやはり5月頃に来るヒヨコ売りだった。ヒヨコの可愛さに負けて買って帰って親に叱られる子もいて罪作りな商売だが、あのヒヨコの感触と可愛さに触れたらどの子もイチコロだった。但し一羽50円もして、子供にしては高額だったので一度家に帰り親の許可とお金を貰ってから買いに来ることになる。業者もそれは分かっていて「○○時頃まで居るから、お家に帰ってお家の人に聞いてからまたおいで」と言っていた。
さて2番目のランドセルを置いてから商店街と駄菓子屋での遊びは既に書いたので、3番目の近所での遊びを紹介する。
皆、夕ご飯に呼ばれるまでの極短時間、家の廻りで近所の子と良く遊んだ。殆どは路地で自然に始まる缶けりである。近所の子だから6年生〜幼児もいて、小さい子は「おまめ」と言って一緒に逃げるだけで鬼に見つかってもカウントされない。
偶には、棒切れがマイクになって橋幸夫や三田明、ザ・ピーナッツの歌謡ショー、土手の階段では大鵬と柏戸の一番勝負実況中継になったりしたが、其々の家から「ごはんだよー」と言う声が掛かると一人減り二人減って自然にお開きとなった。
さて、ヒヨコ売りの事を書いたが、実は我が家でも珍しく父親の許可が出て一度だけヒヨコを飼った事がある。最初はピヨピヨ鳴き、可愛いが2週間もすれば小さな鶏冠がついてやがて若鶏になり、1ヶ月で鳴き声も鶏に近くなる。3ヶ月も過ぎれば体も重く、大きくなり立派な白色レグホンの成鳥である。我が家に来たピー子も最初の1ヶ月くらいまでは可愛く、母親が買って来た日立屋のピーナッツクリームパンを私と一緒に啄いたりしたが、夏休みの終わり頃には毎週1キロの鳥の餌を食べ、その都度私が鳥餌を買いに行った。
少し肌寒くなった秋の始め、事件が起きた。朝、鶏のけたたましい悲鳴と犬の吠える音で目を覚ますと野良犬が急ごしらえの鳥小屋の網を破り、ピー子の首を噛んでいた。父親が野良犬を追い払い助けたが、既にピー子の体は力無くグターとなっていた。その日、父親が電気屋の店先でタライに水とお湯を張りピー子をサッと捌き、夜、母親が白菜を入れ醤油と砂糖で甘辛く煮込んで思いがけない鶏鍋のご馳走となった。私は最初「可愛そうだから絶対食べない」と言い張ってたが母親に「生命を貰うって言うのはこう言う事なんだよ」と諭され私は一頻り「ワーっ」と泣いた。その後、お茶碗にピー子の肉と白菜が取分けられ「食べてあげなさい」と母親に言われると私は涙を流して食べた。ピー子の肉は柔らかく味があってとても美味しかった。
15、中川土手探検と桜土手の御花見
それ程頻繁では無かったが、川風が穏やかになる頃は、自宅近所の中川土手付近で遊ぶ事があった。良く歩いたのが中川土手を佐野くらいまで行き、小さな駄菓子屋で2B弾を少し買って、今度は中川の川岸に降り飯塚橋下までを何をするでも無く歩くのである。
中川の護岸にはポンポン船が着けられるように木造で1m巾の岸が着けられていた。所々、木が腐って土が壊れていたが概ね川伝いに歩けた。中川の岸に降りると急に川臭くなった。フナや時々は50cmもあるコイの死骸が、キューピーやセルロイド人形が打上られていた。そんなゴミを見ながら他愛のない話をして歩くのも気の置けない近所の幼な友達だったからだと思う。
誰かが蛙を見つけ2B弾を口に入れて火を点け餌食にもしたが、2B弾の主な目的は度胸試しだ。一人一本づつ順に火を点け投げる体制で、爆発目いっぱいギリギリまで我慢して中川に投げる。その間全員で「イーチ、ニー、サン」とカウントする。余り引っ張って耳の辺りで爆発させると手は結構な痛みだが、耳が「キーん」となって暫く立ち直れ無くなる。それと住宅や商店街の近所では2B弾をおいそれとは爆発させられない事情もあった。その後2B弾は火事を起こすという理由で買えなくなった。2B弾にはマッチの頭のような部分に着火剤が塗ってありマッチ箱で擦ると簡単に火が点いた。爆竹のようにマッチで導火線に火を付ける手間が要らず、爆発までの数秒間大きなマッチの頭から焔を吹き黄色い煙を上げる。その焔が燃えやすい物に移ると確かに危険で中川小学校の学区でも廃屋に2B弾が投げ込まれ実際火事が起きていた。
さて、中川には大きな舵輪があるポンポン船が焼け玉ディーゼルエンジンの音を「タッ、タッ、タッ」と気持ちよく響かせ、砂や砂利を運んでいたが、我が家の近くにも船の仕事をする家族が10軒以上あって夕方には結構な数のポンポン船がもやいであった。船は岸に対して一列では無くて数艘が並列に太いロープで繋がれており、巾40cm位の板が其々渡されていた。船仕事の家族は長時間、船にいるので私達には船の中で生活しているように見えたが皆ちゃんと家があった。
さてある時「靴隠し」という鬼が全員の片方の靴を隠し、皆で見つけるという遊びをした。何と一人の子の靴を船に隠したが船は直ぐに出て行ってしまった。鬼は最初はモジモジしていたが遂に船に隠したと謝って、今度は全員でその子の家に行って謝るというハプニングもあった。
もう一つ中川土手で忘れられない思い出が毎年4月の桜が咲く頃にあった御花見である。お寺の先から車が通行止めになり、佐野の手前、我が家で言えば「豚のおばあちゃんち」の辺りまでの約1キロちょっとが御花見会場になった。
私が物心付く3〜4歳には父親が肩車して母親と歩いたそうだ。土手の両側にはリンゴ飴や、焼そば、どんどん焼き、おめんやおもちゃ屋など様々な店を広げて多くの人で賑わっていた。たぶん私が引っ越す3年生位までは結構賑やかだったと思う。しかし、その後起ったアメリカヒロシトリの大発生によって飯塚橋の近辺から我が家の辺りも順々に桜が枯れて切られて行った。家の前などで何度かエンジン噴霧器の駆除を見たがアメリカヒロシトリが幾重にも絡んで桜の葉を食べている姿に寒気がした。残念だったがかくして中川桜土手の御花見も無くなってしまった。
16、我が家とアパートとホープスター転落事故
我が家は中川土手の十字電気店という電気屋を営んでいた事は以前書いたが、副業にアパート業もやっていた。一階には4世帯、2階には我が家と単身者用の今で言うワンルームが2〜3室あったと思う。
私は1階には回覧板を届ける以外は行かなかったが、2階の単身者、電気屋の住込みさんの所には時々レコードを聞かせてくれたりして時々寄った。但し、その頃大流行だったザ・ピーナッツにしても他の歌手の歌もどうも好きになれなかった。
このアパートを引越す直前には我が家は電気屋の店一室と炊事、風呂場を除き3階の屋根裏へ移った。幾らかでもアパート面積を増やす為であったが3階は南北に小さな窓があるだけで蒸し暑く最悪な空間であった。ある時期、母親が妹の出産、父親は今で言うインフルエンザに罹りかなり寝込んだ。私はご飯を炊いたり、父親の氷枕の氷を毎日一貫目を買いにブリキのバケツを下げて炭屋へ走ったりした。何日間くらいかは忘れたがその期間おかずを作る事もできず、卵かけご飯ばかり食べたので、後に食べられなくなった。
さてその頃、十字電気店のホープスターという3輪軽トラックが中川へ転落するという事故が起った。ホープスター社は、今では大人気の四駆「スズキジムニー」の母体を作った会社である。
ある日の夕方、エンジンを掛ける音がしたと思うと大きなザザーツと擦れるような音がして外を見るとホープスターがバックで真っ直ぐに中川に落ちて行った。一瞬の出来事で物凄く驚いたが親も店の外に飛び出していた。但しホープスターが三輪車であったため、前の車輪が木製の岸に食い込み車体は奇跡的に川に落ちないで止まっていた。
暫くするとサイレンを鳴らしてパトカーや消防車も来たがホープスター救出は大勢の人海戦術となり、野次馬も入れ2〜300人は有に超えた。中川土手の道路が狭く大型のレッカー車は入れなかったのと車が小さいので人力で十分に上げられると皆が判断したようだ。
引揚げには皆で桜の幹にロープを縛り付け、チェーンブロックと三又、滑車などを使って2時間くらい掛かった。引揚げは主に船のおじさん達が担ってくれた。ロープやその他の道具も持っていたし何よりも、毎日船でロープを使っているプロであった。その間父親はバランスが崩れて車が浮いて傾くと危ないため、ずっと車内に座っていた。丁度、上げ潮の時間だったからだ。父親は警察の聴取にブレーキを踏んだが全く効かなかったと応えた。警察は父親がハンドルを切らずに真っ直ぐに落ちた事と車が三輪車であった事が大事故にならず不幸中の幸いと言った。
おかげで修理したテレビ1台が破損し、車は前輪の車軸が酷く壊れて修理不能となった。翌日、父親は直ぐセールスマンを呼び返す事になった。私はホープスターでテレビや洗濯機などの仕入れのため父親に良く連れて行って貰ったので突然のお別れはちょっと寂しかった。秋葉原の綺麗な電器店ヤマギワで良く冷えたジュースを貰ったり、浅草、上野、秋葉原の目の覚めるようなネオンサイン、金属製で無くジープのようなビニール製のドア、助手席の持ち手や手動ワイパーも懐かしい思い出である。
その後、我が家では軽自動車は危ないという事になり、直ぐにダットサンに変わった。また弟妹が増えトラックだけでは病院通いなどの移動が難しいという事で、4ドアでクリーム色のダットサンのバンも増え、かねてから母親の希望でもあった家族で福音教会に通うようになった。
17、1学期と夏休みと医者通い
1年生の1学期、どうしても外せないのがツベルクリン反応とBCG注射である。ツベルクリン反応注射は結核の免疫があるかどうか調べるもので注射自体は殆ど痛く無かった。しかし一年生に取ってはとても重要な意味を持っていた。もしBCGを打っても陽性にならないとその年のプール授業はずっと見学という事になる。楽で良いと思うがプール見学というのは男の子に取ってはとても屈辱的だった。
それで一回目のツベルクリン注射の後、叩いたりつねったリして躍起になって大きくしようと試みるが医者の目は誤魔化せない。直径10ミリ以上は陽性でBCGも無し。10ミリ以下は陰性で7〜8ミリの子はまだ余裕だが3ミリなどは絶望的であった。
陰性の子は一律BCG注射を肩に打たれたが、あのズンと来る痛さと薬品の量は半端では無かった。男の子は口々に注射の後「B29にヤラれたー」と意気消沈して教室に戻って来た。その後BCG注射のあとは盛り上がって腫れ、膿が溜まって壊れたりで落ち着くまでの1ヶ月ほど子供達を悩ませた。私は最初は7ミリ程で陰性だったが、最終的に12ミリ程になり見事陽性となってプールにも入れる事となった。
また夏休み前にある嬉しく無い行事が身体検査であった。体重や身長などはどうでも良かったが、複数の校医が看護婦さんと目、耳、鼻、歯を次々と調べて紙に記入してゆく。栄養状態や衛生面も「まだまだ」だったので鼻を垂らしたり、味噌っ歯だった子もいたのである。その後終業式前に先生との面談がありそれらの結果が親に渡された。
私も先生から目の傷と虫歯を夏休み中に治療するように言われた。目の異常は本人も分かっており、汚れた手で目を擦るので右目が何時も涙目であった。親から眼帯を渡されて毎朝登校したが、家から少し離れたら眼帯はポケットに突っ込む。当初は笹薮で遊んでいて笹が目に入った事が原因であったが何時までも治らなかった。
おかげで夏休みは忙しかった。目医者は2日おき、歯医者も数日おきにバスで亀有まで通った。目医者は軟膏を塗ってから目を温めるヒーターを10分ほど当てるだけで済んだが、歯医者はそう簡単では無かった。ドリルで虫歯を削り、穴を開けて消毒綿を詰めたあと、アルコールランプで柔らかくしたゴムを詰める。当時の歯医者のドリルは水が出ないので口の中は歯を削る煙が漂い恐怖であった。そんな事を毎回行うが虫歯が3本も4本もあると永遠に終わらないような気になった。それでも歯医者も良く分かっているようで夏休みが終る頃から9月中頃には治療終了の紙をくれた。
一つだけ良かったのは母親から言われない時はバス代や医者代のお釣りを本当にちょっとずつ貯められた点だ。但し、その間にもラジオ体操、学年登校日、全体登校日、プール授業もあり、小学生と言えども結構忙しかった。
18、亀有の思い出その1 出会いと亀の甲煎餅
医者通いの事が出たので亀有についていくつか書いておく。
大谷田に住んでいる私達に取って亀有はまさに別世界であった。汽車や国電が走る。病院や歯医者、目医者、映画館がある。レーシングカー場がある。売っている商品も大谷田と比べたらどれも高級であった。
私に取って一番最初の亀有との出会いは汽車を見た事だ。恐らくまだ小学校に上がる前だったと思うが、終点前の環七左側でバスを降り、左に2、3分歩いたと常磐線の踏切で待っていると北千住の方向から蒸気機関車が物凄い勢いで走って来て、目の前を通過した。足元にゴトゴトと伝わる重い振動と盛大な爆発音と通過音、高く舞挙がる真黒な火の粉が混じった煙、吹き付ける蒸気などで何が起きているか分からないほど驚いたのを覚えている。この場所で汽車を見たのはそれから数回で次第に消えて行った。
他は売っている物が大谷田では見られない物が多くあった。私が好きだったのは味噌屋の樽味噌が樽の中で綺麗に山型にならされ、その上に透明なプラスチックのコーンのカバーが掛かっている姿だった。濃い色の味噌や明るい色の味噌があり、10以上の樽が店先に並べられてお客の注文に応じて樽から味噌が取分けられて買われて行く。終わると味噌はまた綺麗な山型に整えられカバーが被せられた。大谷田ではあんな多くの種類の樽味噌も売り方も見たことは無かった。
もう一つ忘れてならないのが亀有名物「亀の甲煎餅」だ。先程のバス停から線路脇、踏切につながる斜めの道にもいくつか煎餅屋が並んでいたが看板には大きな亀が描かれ「亀有名物、亀の甲煎餅」と太く跳ねるような黒々と力強く書かれていた。亀の甲煎餅は名前の如く丸や四角でなく亀の甲羅を模した6角形をしていた。店にも高級感がありガラスのケースの中に海苔、醤油、ザラメ、白砂糖掛け、あられなど幾種類もの煎餅が並んでおり、店先には包装済みの黒青や紫色の立派な箱が積まれていた。
我が家で亀の甲煎餅を食べる機会はほんとに稀で、珍しい訪問者かメーカーの人が持って来るなど年に一度あるかないかであった。しかし厚い煎餅生地と硬めの食感、分厚い程の海苔などは確かに高級なお煎餅であった。
偶に母親と買物や医者に来てバスで帰る途中に煎餅を買うとすれば決まって久助であった。久助は煎餅の製造過程でできる半端品や不良品を集めた商品である。たいがい店先にちょっと大きめの紙袋に入れられ「久助、特売品」などと書かれて売られていたが、我が家では正規品よりずっと人気だった。先ず安いし量は多いし色々な味と形が楽しめる。私が好きだったのが、いびつでカリカリの醤油煎餅だった。醤油の濃さが食べる場所によって異なり割れが入って醤油がたっぷり染み込んでちょっと焦げた部分は香ばしくて特に美味しかったし、醤油にザラメをまぶしたザラメ煎餅も割れて小さかったりしたが正規品より色々な味が混じって面白いかった。久助が無くなる頃になると私は母親に袋をねだった。ザラメやら煎餅やあられのカケラ、剥がれた海苔最後は煎餅の粉を指で摘んで口に運ぶのが好きだった。
19、亀有の思い出2 北口交番にお世話になる
2つ目は北口交番で一回だけお世話になった事だ。最もまだ小学生だったから悪さでは無く怪我である。
2〜3年生になると夏休みから10月頃にかけて私は亀有の目医者やら歯医者に結構な頻度で通っていたが、時々レーシングカーのサーキット場を覗いたりする小さな楽しみも増えた。レーシングカーサーキット場は1/24スケールの電動レーシングカーをコントローラー使って競争する高学年から中学生の遊び場で、たいがい4レーン位あって一周10m程の曲線コースの上を各々、自分のレーシングカーを走らせていた。コントローラーを上手く使いカーブを綺麗に回り、直前コースでは最速にすると格好良くゴール出来た。
その日は10月の午後だったと思う。私は目医者の治療を終えてサーキット場に寄ってから亀有駅北口のバス乗り場へ向かって常磐線の線路とは反対側を歩いていた。交番から50m位手前に消火栓のポールが立っていたので、何気なく左手を中心にぶら下がるようにくるット回ったあとに、暫くして異変が起きた。痛みは殆ど感じなかったが右側のおでこの上を板塀で擦ってしまった。暫く交番に向かって歩くと右足に履いていた白い運動靴の上に結構な血が垂れていた。頭を擦った辺りに手の指やるとヌルっと生暖かい血がかなり出ており母親が編んでくれた水色のセーターの肩にも血が付いていた。一瞬何が起ったか分からず立ち止まっていると、一人のおばさんがすかさず驚いたように結構大きな声を掛けた。「ボク、どうしたのー」
それから直ぐに交番に連れて行かれ、お巡りさんが救急箱のガーゼや絆創膏を出して頭に当てて止血された。横になった方が良いと言われ交番の奥の畳に寝かされ、怪我の原因を聴かれたが、私は消火栓のポールを持ってくるット回った後に出血したと伝えた。要は板塀の釘が一本だけ斜めに打ってあり私は少し飛び出た釘の頭で額を切ってしまったという訳だ。事件性が無いことが分かり、お巡りさんから住所、電話番号を聞かれ、母親にことの顛末と、これから治療する病院名を伝えてくれた。
それから3分もしないうちに「ウーッ」と大きく低いサイレンを鳴らして救急車が交番の前に着いた。今のような背の高い車では無く、どっしりとしたクラウンの救急車で、後の方の天井が高くストレッチャーが出入りするドアが観音開きになっていた。直ぐに私は白衣の係員に交番から救急車に乗せられたが、北口駅前の黒山の人だかりに驚いた。それでも事件性がないと知り皆解散する途中だった。
それから直ぐ長門病院に連れて行かれて3針額を縫われた。傷を水で洗い、麻酔が打たれ、髪の毛がちょっと剃られた。針と糸で縫う時は引きつるような違和感を感じたが痛みは無かった。油紙、絆創膏、包帯を斜めに巻かれ最後にネットのような物を被せられ30分ほど待合室で待っていると母親が息を切らして玄関を入って来た。叱られる事も無く、母親が一頻り看護婦さんの説明を聞いて、それから精算をして薬を貰い、私達は家に帰るため再び亀有駅北口まで結構な距離を歩いた。途中母親がお巡りさんに渡すお茶菓子の包をお菓子屋で買い、二人で交番に挨拶をした。お巡りさんから「お大事にね」と声を掛けられバスに乗って家に帰ったが、もうすっかり夕方になっていた。
20、亀有の思い出3 オデオン座の東京オリンピック
この出来事はオリンピックの後なので2年生の時だと思う。昭和39年、1964年のオリンピック東京大会の事はテレビやラジオで連日盛大に放送されていたが、アベベ、チャフラフスカ、円谷、三宅などの名前を覚える位で大谷田の街には殆ど影響は無かった。カラーテレビは庶民にはとても買える値段では無く、ナショナルなどのメーカーが駅前に街頭カラーテレビを設置していると聞いた程度だ。それでも我が家でもテレビが多く売れて私も運搬のため結構手伝わされた。
さて東京オリンピック閉会式もとっくに終わり、もう冬になり掛けた頃、中川小学校にオリンピックの映画を見る機会が突然訪れた。上映会場は亀有北口の映画館オデオン座であった。それまで白黒映画は疎か映画館に行った事さえも無い私達は学校の大盤振る舞いに狂喜した。今、想像すれば当時の国が当初から計画し国威発揚のため予算を取っていたのだろうが子供たちには、そんな裏はどうでも良い事で、映画館で全編カラー映画が見られるというだけで幸せだった。
映画館までの交通は中川小学校から皆で行き帰り行軍した記憶が無いので、恐らくオデオン座へ現地集合だったのではないかと思うが、私の記憶は定かでは無い。それと秋から冬に向う結構気温が下がる時期であったことや片道3kmも歩いて映画を見に行ったら生徒が疲れて居眠りしてしまうという配慮もあったと想像する。
むしろ亀有駅北口のバス停降りて直ぐのオデオン座へ現地集合した方がよほど現実的である。
私が覚えているのは土曜日の朝9時頃、母親に連れられてオデオン座の直ぐ前の亀有公園に行き、先生と名簿を確認して暫く待たされた後、映画館に全員で入った事だ。組ごとにフカフカの椅子に座らされ上映を暫く待つと、古関裕而作曲のオリンピック行進曲が「チャーン、チャッ、チャーン、チャッ、チャララ、チャンチャチャーチャーン♪」と日本晴れの青空に舞う白い鳩の映像と共に勇ましく始まった。
私達は一斉に身を乗り出して外国選手団の入場、聖火の点火、天皇陛下の開会宣言等に目を見張った。後で知ったが市川崑監督のこの「東京オリンピック」は記録映画で娯楽性を目指してはいなかった。
途中は地味なトラック競技になり、金属の留具を土に打ち込むところや選手が転んだり、幅跳びや棒高跳び、審判員や裏方の働きも映っていて子供に取っては退屈なシーンも多く眠ってしまった時間もあった。
しかし終盤になり三宅の重量挙げ、日本対ソ連の息を呑むバレーボールの攻防、最後のクライマックス、マラソンで円谷やアベベの姿が映し出される頃には皆、目を擦って応援し観戦した。映画が終わると最後に校長先生が少しだけ話し直ぐに解散となった。親と来ている子は連れ立って亀有商店街の方へ買い物へ行ったりしたが、私は直ぐにバス停に向かい家に帰った。見終わって東京オリンピックについてそれまでは殆ど知らなかったが、何か満足感と心に自信が生まれたような気がした。
21 友だち、下田先生の事
さて、60年の時が経つので記憶はかなり曖昧だが、何人かの名前を思い出したので書いておく。
一人目は今思うと雲のような上流階級と言うか大谷田にはとても似つかわしくない様な加藤君という子だ。普段あまり付き合ったり遊ぶことは無いが成績はオール5で抜群に頭が良く、美男子でスタイルも良く運動も良くできるので女の子のあこがれの的であった。
何でも旧家で彼の家はその昔おじいさんが600円で建てたと聞いた。もちろん私達には600円の価値など知る由もなかったが一度だけ家の前を通った事があり、敷地が広く立派な門と松などが植わった武家屋敷のようだった。
文章で人柄を伝えるのはとても難しいが、決して完璧で冷たい子ではなく、優しい目をしていて話し方も穏やか、まだ幼いのに男の子でも誰もが好きになってしまうような不思議な包容力と魅力を持っていた。
ただ問題だったのは隣の席に座った女の子が時々「ポーッと」なって加藤君に持たれかけてしまったり、膝の上に倒れ込んでしまうという珍現象が起きて先生が困ってしまうことがあった。
二人目は林君である。彼とも普段遊んだりした事は無いが、小柄で痩せているが、いつも小綺麗な格好をしていた。遠足か社会科見学だったと思うが、私がひと騒動起こしたので今でも名前を覚えている。確か3年生になって担任がビンタで有名な下田末子という怖い中年の先生の時だったと思う。
場所は正確には覚えていないが谷津遊園か何処かの熱帯植物園内を順々に回って植物の名前をノートに採るなどの見学している時だった。5〜60cm程の幅で水も2〜3cm程度の、ごく浅い研きコンクリートの平坦な水路がそれぞれの植物の周りに廻らされていた。林君は水路の中間に落ちている黒い石に革靴の爪先をチョコんと乗せていた。恐らく植物園廻りも先生の説明も退屈だったのだろう。
すぐ隣を歩いていた私は、何気なくそれを見て、右手の人差し指で林君の肩をごく軽く押した。転ばせるとか驚かせる意図は無く、軽いいたずらのつもりだったと思う。しかし不意を突かれバランスを崩した林君は着ていたグレーのコートを大げさに翻し、水路で滑って水しぶきを上げ転倒しそうになった。ズボンもコートにも水が大げさに跳ねたが、幸い周囲が手を貸し大きく転んで怪我をすることはなかった。本人もまわりも大層驚いた。今思うと平坦な水路に僅かにコケが生え「つるつる」になっており、そこを革靴で入ったので大きく滑ったのだろう。
すかさず「何してるのー」という下田末子先生の大声とビンタに私はかなり飛ばされ、林君は水路から助け出され既に他の組の先生や養護の先生にタオルで拭われて通路にいた。
皆が暫くして騒ぎも落着いた頃になって、私は林君に「さっきはゴメン」と小さな声で謝ると林君は恥ずかしそうに苦笑し、互いに笑って顔を見合せた。あんな小さな事で大さわぎになった事がとても可笑しかった。
さて下田末子先生の事にも触れよう。たぶん30歳過ぎでピンク色のメガネを掛け、見た目も、時々ビンタ飛ぶので怖かったが決して悪い先生では無くものすごく真面目な先生だったと思う。1、2年生は持ち上がりのため鈴木先生で、下田先生になったのは3年生からだった。
思い出すのは音楽の教科で私の歌をとても褒めてくれた事だ。ある授業で私は皆のお手本となって音楽室で独唱させられたりしたが私の声は努力の結果ではなく、父親からの遺伝であった。父親も教会で朗々とテナーで讃美歌をよく歌っていた。
ある時、私は休み時間に校庭の鉄棒で遊んでいて手を滑らせ私は顎を鉄棒にぶつけてしまった。すぐ保健室に連れて行かれ養護の先生に観てもらうと3cmばかり、ぱっくりと傷が開いていて縫わないといけない事が分かった。直ぐに下田先生も観に来て、私は用務員さんの自転車の荷台に座布団を敷いて乗せられて大谷田の小さな医院に行き顎を3針縫った。その後、用務員さんと学校に戻り、午後、給食が終わってからその日は早退することになったが、今度は用務員さんの自転車の荷台に乗せられて下田先生が自転車を押して私の家まで歩いた。自転車は当時のがっしりした鉄製の重たい物で二人乗りで自転車を走らせる自信が先生に無かったのかどうか分からないが、家まではかなりの時間が掛かった。実はその頃既に我が家の家族が増えて大谷田のアパートが手狭になり、水元のごみ焼却場の手前の一軒家に仮住まいをしていて飯塚橋を渡って暫く行かねばならなかったからだ。先生と私は仮住まいの我が家に着き、先生は母親に生徒に怪我をさせてしまった事を一頻り謝り、顎を縫った怪我の状態を伝えたあと、今度は自転車に乗って帰って行った。
22、思いがけない本栖湖旅行
その年の夏休みのある日の朝、突然、父親がこれから本栖湖へゆくと言い出し、私はリュックを背負わされて急いで水元のバス停からバスに乗り亀有駅まで行った。何でもアパートの店子の一家、佐藤さんが出稼ぎで暫く飯場に行っており家賃を滞納しているため様子を見に行くとの事だった。既に行き先は聞いてあったらしく、そこが本栖湖の建設現場であった。後で分かったがそこはモーターボートレースの練習場であった。
父親と私は亀有から新宿で乗り換えて大月まで行き、更に私鉄の登山鉄道で河口湖で電車を降りてからバスで延々と本栖湖へ向かった。
途中、チョコレート色の国電は通勤ラッシュ時間帯でかなり混んだ。私は車内中央に設置された手摺に掴まっていたが乗客が乗り降りする度に手摺に押付けられて身体が痛かったが周りの大人たちが少し空間を作って助けてくれた。
さてバスが本栖湖に着くと本栖湖周遊バスに乗換えるためバスを降りたがそれからがものすごく大変であった。父親がバスの時刻表を見ると周遊バスは既に出ており次のバスは2時間も先だと分かった。既に昼も過ぎていたので私達は休憩所で母親が握ってくれたおにぎりを食べ、少し休んでから歩くことにした。
はじめは景色も綺麗だし、何しろ夏だというのに湖からの吹く風がとても涼しい。歩調もだいぶ快調だったが1時間も歩くと少し不安になりだした。途中殆ど無い売店に寄って目的地を訊ねると遥か向こう岸に見える隠れする白い建物だと教えてくれる。それから再び歩きはじめるが本栖湖の外周道路が折れ曲がっていて建物は見え隠れたりしたが、歩いても歩いても白い砂利と砂ぼこりの道は単調で一向に近づかなかった。
さて暫くするとバスが近づいて来たので乗せてもらおうとしたが近くに停留所が無い。私達は仕方なく貴重なバスを見送ったが、後で聞くと停留所以外でも手を上げれば何処でも止まって乗せてくれたそうだ。一縷の望みだったバスに乗れなかった父親と私は諦めて、仕方なく目的地まで歩き通すことに決めた。
もう2時間近くは歩いたと思うが午後の日差しとなってゆき山からはヒグラシの「カナカナ」という鳴声が聞こえ始めた。私は目を上げると抜けるような青空、山の深い緑、そして雄大な富士山と白い外周道路、本栖湖が湛えた深い深い紺碧の水が目に飛び込んで来た。私は今まで見たこともない本栖湖の水の碧さに一瞬息を呑んだ。今ならウルトラマリンブルーとでも呼ぶのだろうが、当時はそんな言葉も知らなかった。とにかく水はこの世の物とは思えないほど只々深い深い碧色をしていた。私はあの時見た以来、あれ程美しい碧色を見た事が無い。それ程日本の空と水が綺麗だったのだろう。
さて、もう陽もだいぶ傾き「カナカナ」の合唱が大きく響いて寂しくなった頃、私達はやっとの事でモーターボートレース練習の場建設現場に着いた。有に3時間以上、4時間近く歩いたかも知れない。父親は現場の佐藤さん会え、滞納の家賃についてもなかなか郵便局に行けなったなどで佐藤さんは恐怖していたが、上手い具合に話が付いたようだった。私はといえば既に薄暗くなり掛けていた本栖湖の岸辺に降り、飯場にいた数人の子供たちと魚取りをして少しの間遊んだ。「オイカワ」という魚でオスはからだが虹色をしていて大きなヒレがあった。産卵期だけオスの体色が変わる魚らしかった。「オイカワ」は岸にまで沢山の魚が群れ、小さな、たも網ですくうといくらでも取れたが直ぐに弱って死ぬので湖に逃した。
魚取りをしていると既に夕方になって周囲は薄暗く暗く、飯場の子供たちが夕ご飯に呼ばれると私も飯場の炊事場でカレーライスをご馳走になった。沢山歩き、お腹が空いてペコペコで、飯場の大きな炊事場で食べるカレーライスが本当に美味しかった。
その晩は空いている飯場の一室に布団と毛布を借りて父親と眠った。翌朝は早く目が覚めて、湖の岸に降りて一頻り遊んだ後で、飯場の簡単な朝ごはんを頂いてから、私達は今度はちゃんとバスに乗って本栖湖を後にした。其の頃、我が家は弟二人に加え、妹二人も生まれて既に子供が5人になっており、家族旅行などは考えられなかったが、本栖湖への思いがけない父親との旅は私の貴重な思い出となった。
23、福音教会の千葉県養老渓谷キャンプ
教会のキャンプはキャンプとは呼ぶがテントではなく旅館やバンガローなどを貸し切りで行われた。私達は8月のお盆休みのころ、千葉の五井駅で乗り換え、上総小湊鉄道で養老渓谷で降りて亀有の教会から4〜5時間、電車とバスで乗り継いで私達はやっとの思いで着いた先は50人は泊まれる大きさの養老川河畔に建つ旅館であった。河幅は50mはあり旅館の直ぐ横にはコンクリートの橋が掛かっていたが道路は舗装されておらず、たまにバスや車が通ると土煙がしばらく舞い上がった。
私達は旅館脇のバス停でバスを降り、旅館に案内されると東京の'8月の暑さとは打って変わり蝉しぐれに乗って窓を抜ける川風がとても涼しく感じた。母親のお弁当は既に小湊鐵道の中で平らげていたので、少しの時間旅館ではうがいと手洗いへ行くなどの後、旅館の1階の養老川に面した大広間でキャンプの先生や仲間の紹介、注意事項、そして2泊3日を寝起きを共にする班と担任の先生、最後に其々の部屋名が告げられ皆で10帖ほどの和室の部屋に入った。
部屋に入ると30代後半の木村君のお父さんが私の班の担任であった。木村先生は優しい日曜学校の3、4年生の先生で、他にも班には古谷長老さんという、この先生も優しい人柄の年配の先生が就いてくれた。荷物を片付けた後、先生も一緒に短い時間、旅館の脇の階段を下った養老川の広い河畔で石投げや岸辺の散策をした。清流にはハヤなど渓流の魚が泳いでいたが目にも止まらない速さでとても私達には捕まえられないと思った。
やがて私達は夕ご飯前、早めに班ごとにお風呂に入れられ一日の汗と埃を落とした。夕食は定番のカレーであったが家のよりも肉が多く子供は涼しいところで食べる事も手伝って何度もお替りした。
さて、夜の集会が7時からあって私達は旅館の上にある村の分校に各々持って来た懐中電灯で足元を照らしながら10分程なだらかな坂を登った。その晩は月が出ていなかったのか木が生い茂っていたのか東京では経験した事が無いほどの暗闇を生まれて初めて経験した。あれを掴めるほどの、鼻を掴まれても分からないほど暗闇と呼ぶのだろう。途中で女の子達は懐中電灯の光で飛び立つ蛾にキャーキャーと奇声をあげたりしたが程なく皆が裸電球が灯る分校に着いた。
教室には古い足踏オルガンがあり日曜学校の女の先生が元気に「救いの主イエスに今来たれ子供よ!」を弾いていたが、私達も直ぐに小学校と同じような椅子に腰掛けて「救いの子ども聖歌集」を各々が開き元気に歌った。その後も「来たれなれをきよむればとの」などイエス様の十字架のを歌い更に女の先生のお祈りされ、聖書のヨハネ3の16節を、その晩司会だった古谷長老が読んだ。
直ぐに少しかん高く元気な声で高木輝夫牧師先生が「皆さん今日は、この養老渓谷キャンプによくおいでくださいました」と大きなきく目を見開いで歓迎された。高木先生のお話は普段の日曜学校でも子ども達によく分かる程面白く、私達にとっては日曜学校がとても元気で活気があり楽しい所であった。
例えば天地創造の創造のヶ所を高木先生は「神様が手で粘土をよく捏ねてゴーロ、ゴロ、ゴーロ、ゴロと延ばして先ずアダムの脚と手を造りました。〜最後に神様はアダムの鼻を持ち上げてフーっと大きく息を吹き入れました、、、」などなど子供が分かる仕草や擬音、擬態語を入れてお話しされたが、その晩もイエス様の十字架に掛かられるお話しをとてもリアルに話され私達は、次第にそのお話に引き込まれた。
「イエス様が頭に長く鋭い棘のある茨の冠を被らされ、背中に沢山のムチを打たれ、重い重い木の十字架を背負われてご自分がつけられるゴルゴダの丘にゆっくり進まれる姿に、私達のお背中にゴトゴトと重い痛みを負われるイエス様の苦痛、、、」
それは更にイエス様の両手と両足に太い釘がローマ兵によってゴンゴンと大きな槌で手足を貫き通して打たれる音、イエス様の悲鳴も聞こえたように感じる程だった。
やがて十字架が丘に立てられ最後にイエス様が「父よ彼らを赦したまえ、彼らは何をしているかわからずにいるのです。」と祈られて息を引き取られたが、天の神様にそこにいたローマ兵やユダヤ人たちだけのために執り成しただけで無く私達のためにも祈られたのだと高木先生は語られた。
それは聖書にある様に全世界の人々が両隣に掛けられた犯罪人と同じく神様の前に罪を犯しており、しかし片側の犯罪人と同じようにイエス様に願うなら誰もが全く罪が赦されて天国に入るためであった。それが「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」の意味であったが、その時私は罪という言葉に、もう心が傷んで仕方なかった。なぜなら私も片側の泥棒と同じだと分かったからで、実は自宅の日曜学校で献金袋残っていた十円玉を銀玉鉄砲を買うため何度か盗んでいた。神様の物だと知ながら悪漢探偵遊びのために誘惑に負けて盗む自分の姿に本当は嫌気が刺し、銀玉鉄砲と玉は家と中川土手とを繋ぐ橋の下に隠していた。それだけで無くすぐ下の弟が同じ悪い事をしても何時も叱られず私だけがげんこつや叩かれた。その事で私は弟を憎み実は陰で泣かせていじめていた。
それらの罪だが私は自分が十分に地獄にゆく程の悪い子供だと分かり涙を流した。それから「都の外の遠い道、カルバリ丘にイエス様は十字架を背負いゆかれます。イエス様ほんとに重いでしょう」という「」字架」が、が歌われ、私は高木先生がお祈りの終わりに「この中で自分が罪人だと分かり、イエスにお願いして天国に入りたい人はユックリと手を上げて下さい」と言われると手を上げて救いを求めた。一人ずつ先生方が隣に来てくれて、私は古谷長老のあとについて、一緒に罪のお詫びとイエス様を救い主として信じるお祈りをした。「十字架の上でイエス様は皆のために祈られた、イエス様どうぞ深い私を赦してくださいなー」という歌詞はそのまま私の祈りとなった。
私は今までの誰にも言えなかった心の汚れた物や重荷がイエス様が全てきれいにして下さり神の子にされた事がものすごく嬉しかった。その晩分校から戻る脚がとても軽かった。
翌朝は川原でのラジオ体操があり私達は川原に降りた。その後、班ごとに短い聖書とお祈りの時間が持たれ、班の皆で川原の岩に腰掛けて木村先生が導いて下さった。私達は一人ひとり昨日の夜の集会で心に残ったことを話した。私は自分の罪が全部赦されて今は神様の子にして貰い、とても嬉しいと班の皆に伝えた。それから木村君や牧師先生の子の道也君、他の生徒数人と一緒に川を背景に写真を木村君のお父さんに撮ってもらった。私は一人で目の前にそびえる空と木々そして養老渓谷を見上げて「天のお父様、僕を神の子してくれてありがとうございます。」と生まれて初めてのお祈りをした。その時、空も山もすべての物を神様が造られた事が自然に分かり、とても大きな全世界の神様が今自分の天のお父さんになって下さった事を本当に嬉しく思った。
24 後書き
以上が、ほぼ私が生まれてものごころ付いた時から9歳までの大谷田町での事である。但し最後、大谷田の我が家がとても手狭になり水元に避難した時期もあったが思いは大谷田商店街と友達にあった。
また実は後書きはすでに翌年三郷町に転居した時の出来事であることを先に述べお詫びしたい。わたしが4年生で転校する三郷町は年度直前の3月まで、まだ三郷村であったと知った。同級生が授業中に「魚の図鑑」を私の机まで持ってきて「お前のさぁ、居たところにこういう魚いたか?」と聞く。先生も特に咎める様子もなく自由奔放さにちょっと驚いたのを覚えている。
三郷町では転校生へのいじめの洗礼や、農家の建て前、用水路で魚採り、船での川遊びなど色々な難事珍事や新しい事や沢山の楽しいことも経験したが、今、最も心に残っているのは、亀有の福音教会の人達と一緒に参加した確か1967年の「ビリーグラハム東京国際大会」だった。その大会は当時関東近県は勿論、それ以外からも数万人が参加した。ビリーグラハムは当時アメリカは勿論、世界各国でイエス様を伝える伝道者であった。
私が大谷田と亀有が別世界と以前表現したが、日本武道館の大会は文字通り別世界を超える別世界であった。建物の規模は当然だが、行われたプログラムも聖歌隊の賛美歌、ジミー・マクドナルドの黒人霊歌も私はその美しさに魅了された。特に「青き牧場と清きみぎわ、主イエスは共にいまして♫」や、「冷たい罪の道をさまよっていたのに主イエスは愛のみ手で私を救われた♫」等は新しい賛美歌でとてもきれいだった。私はビリーグラハムの鋭い目とお話に魅力を感じたが、英語なのと通訳付きで忙しく殆ど理解が出来なかった。
ただ、心に残った言葉が「私に従って来なさい」とイエス様が漁師の弟子たちに告げたものであった。集会の終わりに決心した事を表すため私はビリーグラハムの招きに応じてイエス様に、生涯従うため手を上げた。その後、決心した人は前に出て来るように言われたので2階席からコンクリートの広い階段を降ると、教会の信者さんに見つけられた。既に私は昨年の養老渓谷キャンプでイエス様によって救われていたので、青色のリボンを肩に着けられた。それは献身を表すための印であった。
「別世界」とは将に、このための言葉であった。大谷田で生まれた私の本当の生活は実は教会の献金を盗むような泥棒と同じであった。しかし、イエス様に罪を赦されて神の子にしてもらい天国に入れて頂く確信とで心は平安であった。勿論、まだ兄弟喧嘩はするし決して良い子では無かったが、夜眠る前にイエス様にお詫びのお祈りをした。それは今でも同じである。
誰でもイエス様にお祈りすれば罪が赦されて天国に迎えて頂ける。日本人はそんなイージーな事で良いのか、厳しい修行が必要ないのかときっと思うが、人間の深い罪は修行で少しも良くはなら無いのでイエス様が十字架で人類すべての罪を身代りとなって神の前に裁かれた。そこには無限の神の愛と犠牲があった。私は今、確かに「別世界」である天国の直前にいる。
終わり。
宇田川献一
2022年 7月28日
三郷市の緩和ケア病院にて