新しい仕事
甚太郎の引っ越しはスムーズに完了し、中野伯爵の邸宅での生活が始まった。
当初は伯爵家に世話になる者として最低限のマナーを身につけるということで、食事作法や挨拶、立ち居振る舞いなど細かく指導を受けたが、元から行儀の良い、というよりも行儀よく振る舞う方法を理解していた甚太郎は極めて飲み込みが早く、1か月も経たないうちに接遇の手伝い程度はこなせるようになった。計算や書き取りも人並み以上にできる人材だったため、仕事の要領を覚えれば即戦力。1か月を過ぎると、伯爵を始め屋敷の誰とも気軽に話せる程度の信頼関係を築いていた。
ある日、甚太郎は伯爵から声を掛けられた。
「甚太郎君、ちょっといいかな」
「はい」
「来週から港のほうで帳簿と荷物の突き合わせをお願いしたいんだが、大丈夫かい?」
「はい、基本的な内容はシオリさんに伺っているので大丈夫です」
「ほう、シオリが教えてくれたのか…」
「はい、ですので大体のところは頭に入っています。あとは実際にやってみるだけだと思います」
「そうか、それは頼もしいな。そうか、シオリがなあ…」
伯爵は目を細め、心底嬉しそうな微笑みを湛えていた。
土曜日の午後は以前と同じように弁当の献立作りと日曜日の弁当の仕込みだ。甚太郎は弁当屋「明治屋」で文子嬢と共に新しい献立を考え、煮物の下拵えを済ませ、以前と同じように雑談を楽しんでいた。
「ほな、来週から中野さんとこの倉庫を任されるんか!甚太郎出世したやん!」
「出世なんですかね?新しい仕事なので色々学べるとは思うのですが…」
「当たり前やろ!でも調子に乗ったらあかんねんで。甚太郎は常に謙虚に伯爵の言うこと一つ一つ真摯に応えたらええねん。そしたら超一流の商売人になる。ウチが保証する」
また似合わない決め顔で得意気になったお嬢に苦笑しつつ、甚太郎は質問を投げた。
「わかりました。お嬢が言う事はちゃんと守ります。ところでお嬢、シオリさんの名前って漢字でどう書くんですか?書類仕事するのに必要になるかもしれないのですが、聞いたことがなくて…」
「…はぁ?あんたアホちゃうか!?何で今の今まで知らんねん?しかもウチに聞くか?」
予想以上の怒りっぷりに怯んだ甚太郎だったが、引くことはなかった。
「今更聞こうにも、お嬢くらいしか頼れる人がいないんです。お願いしますよ。知ってますよね?」
「…せやったら、まあええねんけどやな…。シオリさんの名前は、『詩を織る』でシオリや。ハイカラな名前やろ?羨ましいわ」
「そうなんですね。私は文子さんの名前も真っ直ぐで綺麗な名前だと思いますよ。名前のとおり物知りですし」
「な…!お、煽ても何も出えへんぞ!まあ、ウチも自分の名前が嫌いな訳やないけどな…」
お嬢は詩織との関係を教えてくれた。
「お祖父ちゃんが伯爵家と縁があったらしくて、ウチはお嬢様と小さい頃は仲良うしてたらしいんやけどな、いつの間にか赤の他人や。2人とも文学少女みたいな名前やし、一緒に勉強したり遊んだりできたらええなとは思たんやけどな。詩織さんがそういう病気やからしゃあない、って聞いたけどウチには分からん。ええ子やけど気難しいからなぁ思て遠くから見守るだけや。ま、ウチが教えられるのはそれ位や、堪忍な」
「…いえ、大事な話を聞いたような気がします。ありがとうございました」
甚太郎はお嬢にお礼を述べた。お嬢はまだ何か話したいようで、甚太郎の前でモジモジしていた。少しして、ようやく口を開いた。
「と、ところで甚太郎さん…お嬢様とは何かあったん?」
「…何かというのがよくわかりませんが、以前と変わりませんよ。お嬢と一緒に居る方が楽しいと思いますよ。」
お嬢は何故か嬉しそうにしている。
「仕事仕事で一緒にいる時は遊ぶ暇なんかありませんし。休憩時間にしても、なにしろ…」
「「会話がない」」
甚太郎はお嬢と目を見合わせて、笑った。
いよいよ新しい仕事場に出る日が来た。
屋敷の使用人に付き添われて港の倉庫に向かい、甚太郎はそこで倉庫の管理人と会った。が、「詳しい話はクーリーの責任者に聞いてくれ」と言われ、途端に戸惑う甚太郎。中国語を話せないのに大丈夫だろうか、と余計な不安をかき立てられる。
「ヤン兄貴!ヤン兄貴!」
使用人がクーリーの取りまとめ役らしい人間を呼んできた。
「你究竟是谁?」
不敵な笑みをたたえながら男が近付いてくる。ああやっぱり…頑張って中国語を覚えよう、と甚太郎は思った。
明けましておめでとうございます。




