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笹原甚太郎はスカウトされる

「うちで働いてみないかい?」

伯爵の誘いを唐突に受けた甚太郎は、思考停止に一瞬陥った。

「突然済まない。おいおい話をできれば…と思っていたのだが、どうしても私は堪え性のない性格なものでね」

苦笑しながら伯爵は話を続ける。

「知っての通り、私は陸軍に籍があり過分な地位を戴いていたのだが、どうしても何かの形で生きた証を残したくてね。因縁もあってシナとの貿易でこの国とシナの市民の懐を潤そうと思ったんだよ」

「…はぁ」

貿易で相手を儲けさせるのが目的、というのはどうにも腑に落ちないが、伯爵はまだ説明を終えていない。とりあえず最後まで聞こう。

「戦争で殺し合うより経済で競い合ったほうが死人は少ないからね。貿易で互いの結びつきを強めて、殴り合いでなく算盤の弾き合いで戦うようにしたいんだ。還暦をとうに過ぎた爺が大人気ないかもしれないが、これが私なりの息子の敵討ちだよ」


目の前の紳士が既に60を過ぎた老人だったという事実に甚太郎は驚いた。しかし、それよりも「戦争ではなく経済で戦う」という考えに興味を持った。

「伯爵、そのために私が必要なんですか?」

「ああ、話が飛躍してしまって申し訳ない。君には私の夢を叶える仕事を手伝ってほしいんだ。私の跡取りはここにいるシオリが勤めてくれる。しかし、その…」

「旦那様、どうぞお話しください」

シオリが表情を変えずに伯爵を促す。

「シオリは頭の良さでは誰にも負けないんだが、人付き合いが極端に苦手でね、うまく人を使役したり、お客さんと上手く商談を進めたりというのは難しいんだよ。大人になれば改善するかもしれないが、目下のところどうすればいいのか手探りでね。そこで、手助けというか、手本となる人材が欲しかったんだ。それも、なるべく歳の近い」

「歳の近い?」

「込み入った話はいずれしようと思うが、大人よりも同い年の友達のほうが良いだろうということだよ。今話せるのはここまでだが…」

「わかりました。仕事というのは具体的にどのようなことをするんですか?」

「シナ人のクーリーと段取りを調整したり、帳簿と品物の突き合わせをしたりが当面の主な仕事になる。あとは書類仕事だな。週に4日か5日、働いてくれたらあとは自由にしていい。明治屋の主人にも話は通すから、料理の勉強や弁当売りの手伝いをしたければやっても構わない」

あまりの好条件に甚太郎は即食いついてしまった。

「出来る限りお手伝いします。しかし明治屋にも義理があるので、週に何日かは弁当を作ったり売ったりしますのでご容赦ください」

「ありがとう、協力してくれて助かるよ。では早速だが引っ越しの準備を始めよう。来週には荷物を運びに人を遣るが、いいかな?」

「…引っ越し、ですか?」


甚太郎はどうやら大事なことを確認し忘れていたらしかった。

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