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笹原甚太郎は平穏を楽しむ

甚太郎はそれなりに楽しみながら働いていた。目標は未だに決めきれていないが、いつか故郷の連中をあっと驚かせるような事を成すという目的に向かって、出来ることを片っ端からやっていくつもりだった。弁当を売り、料理人を手伝い、時には同年代の女子の話し相手…と言うには色気が足りないものの、仕事熱心な同僚と真剣に語らうという充実した生活を楽しんでいた。

そう、生活が楽しいのである。甚太郎はその事実に気付き、衝撃を受けた。夜逃げという屈辱的な逃走劇の末に辿り着いた先としては、あまりに恵まれ過ぎているのではないか。ほんの数ヶ月前までは、金策に奔走し、やくざな客にどやされ、まともな客に同情され慰められるという神経を擦り減らす生活を送っていた。結局は逃げて正解だったというのであれば、あの苦労は一体何だったのか。

まあ、今更考えても仕方ないので今出来ることをしっかりやろうという結論に至り、甚太郎は今を楽しむことにした。


ある日、午後の販売が思いがけなく早く終わり、さっさと引き上げてきた時のこと。何気なく厨房を覗くと、文子が割烹着姿で料理をしていた。

「お嬢、こんな時間に料理ですか?」

「ああ、甚太郎さん!ご苦労様。これは料理の練習を兼ねて夕飯の支度をしてるとこで、…恥ずかしいからあまりじろじろ見んといてくれる?」

「これは失礼しました。それでは」

文子は未だに時々「さん」付けで甚太郎の名を呼ぶことがある。癖で出てしまうだけなので気にするな、と言われているため甚太郎は気にしないでいた。呼び方がどうであれ、お嬢がお嬢であることには変わりない。甚太郎も「お嬢」と呼ぶのをやめるつもりはなかった。


夕飯の席では、何故か文子が給仕の真似事をしており、珍しい光景に思わず頬が緩んでしまった。

「最近のまかないはウチが作ってたの、気付いてへんかったやろ?」

「はい、失礼しました。弁当の余り物が出ることが少ないとは思っていましたが」

「そやろ?そういうとこ気ぃ付けなあかんで」

「承知しました」

気を付けて何になるのか知らないが、一応忠告を聞いておくことにした。


夕飯はいつも通り美味かった。夜逃げした結果こんなに美味い食事を毎日出してくれる職場に拾って貰えるとは、一体どれだけ幸運だったのかと感慨にふけってしまった。

「甚太郎、どないしたん?」

「いや、お嬢の作ったご飯が美味しくて堪能しています。家族以外の女性の手料理をいただくのも初めてなので感動しますね」

変に同情を誘うようなことを言いたくなかったので、誤魔化しも兼ねて精一杯ジェントルな感じで大袈裟に感想を述べてみた。すると文子が顔を真っ赤にして、

「そういうことはいちいちこんな所で言わんでもええんちゃうか…」

と酷く照れていた。というか、プルプルと震えていた。

「お嬢、もしかして失礼でしたか…?」

「…そういうとこ気ぃ付けやって何遍も言うとるやろ!」

と嬉しいのか恥ずかしいのかよくわからない顔をして文子は去っていった。

案外褒められるのに慣れてないのかもしれないな、と甚太郎は少しだけ反省した。怒っている訳ではないようなので大丈夫だろう。


甚太郎は束の間の平穏を満喫していた。

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