二人分
ねえ! カミさま? あそこに何かいるね黒い虫? なんだろう?
ふむ?
お賽銭箱の下の石段の上!
ふむ、 おお! これはコクワガタだな。
コクワガタ?
お前さん、 クワガタを見たことがないのか?
うん、 生で見るのははじめて! へええー! どこから飛んで来たのかな? この子だけ?
ふむ、 この場所でクワガタを見るのも珍しくなってしまったな、 昔はよくそこの御神木にも留まっていたんだが……。
ねえ! こんなコンクリートの上で大丈夫? 木のところに戻してあげましょう、 ね、 カミさま?
お前さん、 なんだその、 はい!どうぞ、 というような視線は? ふむ? 俺が掴むのか? コクワガタとはいえこいつはなかなか歯が立派で強そうだな……。
——もしかしてカミさま、 虫、 苦手なの?
ふむ、 むかしは掴めたんだが今はなぜかな、 まあ任せろ、 神に不可能はない、 よっと、 お、 こいつは固いくせにちょっと、 つるつるとして 滑るぞ……。 あ。
ああああああ! ちょっとおおー! ねえ、カミさま! 落とさないで! かわいそう!
ふむ……御免。 思ったより滑るのでな……。
そんなふうにおそるおそる掴んでるからでしょ! もう! わたしがやります! ほっ! わ! 固い! 確かに滑るけどおお〜そのまま大人しくしててねええ、 ……ど、 どの木がいいかな、 カミさま?
ふむ、 そのしめ縄のついた太い御神木がいいだろう。
オッケー! じゃあこの木の、 下のところに……はい、 無事、 着地!
ふむ、 よくやった。
ねえカミさま? この子なんで? 地面に降りていくよ? 木に登らないのね?
ふむ?
下に潜りたいみたい、 土を掘って……あらら……潜っていっちゃった。
ふむ、 クワガタは夜行性だからな、 やつら昼間は土の中か、 木のうろの中で休んでるよ。
へええ、 そうなのね、 おやすみなさいクワちゃん!
ふむ? クワちゃん?
じゃあなんであの子はあんなところにいたのかな? やっぱり迷っちゃったのかな?
ふむ、 腹がへって、動けなくなったのかもしれんな。 夜は拝殿に灯が点いている、 だからそれを目掛けて飛んできたんだろう。 クワガタどもには走光性があるからな。
ソウコウセイ? コウコウセイ?
ふむ、 やつら光に向かって飛んでくるだろう。
ねえねえ? じゃあどうして昼間は太陽が出ているのに土に潜っちゃうの?
ふむ、 太陽に向かって飛んだら焼け落っこちてしまうぞ。
知ってる! それってイカロスでしょ? そうよね、 太陽……木の下にいてもこんなに熱くてまぶしいもん。 わたしがクワちゃんなら日陰で涼んでいるわきっと。 でもじゃあなんで夜の灯は平気なのかな?
ふむ、 やつら月が好きなんだろう。
あ、 なるほどー! 月の光と思って集まるんだ? ね! カミさまは、 神様だったら、 クワちゃんとは話せないの?
ふむ。 俺が人の形をとっていないときは話せるが、 今は、 人の形をとっているので話せんのさ。
ひとのかたち?
ふむ、 つまりお前さんたちにもこの身体が見える状態のときだ。 それにそもそも、 人間の言葉とクワガタの言葉はまったく別物で発声器官の構造からして……。
へえええ……ふううん……なるほどおお? じゃあ今度ぜひその、 人の形をとってないときに聞いてきてね?
ふむ、 いつかな。
いつかね、 約束よ! えへへ。 ね、 カミさま、 この木がゴシンボク?
ふむ、 御神木だな。
うわー大きい〜! たか〜い! 上の方が見えないよ……!
ふむ、 葉が茂ってるからな。
うーむ、 わたしの直感、 高さ二十メートル! ねえ、太さは? どのくらいの太さなんだろう。 ……ねえカミさま! ちょっとそっちに立ってみて!
ふむ? どこだ?
わたしここに立って、 カミさまは木の反対側に!
お前さんは……何をしてるんだ?
……早くううう〜! カミさまも手を周して!
ふむ?
木に体をつけてそっち側から手を伸ばして早くううー! 腕がしびれるー!!
ふむ、 手をつなげばいいのか。
ほら……んんん……やっぱり! この木! ちょうどわたしたち二人分の太さだよ!
ふむむむ、 なるほどな……もう、 いいか?
……っはあー! つかれたあ〜! もう手が限界、 腕を伸ばすのって大変ね、 届かないかと思った!
ははははは、 俺の腕が長くて助かったな。 しかしお前さん、 髪も頬も服も苔だらけになっているぞ。
え? わ! やだ! わたし緑色になってるー! どうして?
お前さんが御神木にへばりついたからだろう? 雨上がりの湿気のせいで苔も剥がれやすくなっていたからな。
うそー! やだあああ。
ふむ、 見てみろ、 お陰で御神木のほうは苔が落ちて綺麗になったぞ ははははは!
だって、 だって必死だったの! ねえ! カミさまの着物はどうして緑色になってないの? ねえずるいー!
ふむ? 俺の腕が長いからだ。 それに苔は押し当てたくらいではつかない。 それでも少しついてしまったがな。 お前さんがそれほど頑張って抱きついていたということだろうな。 はははは!
もうー! カミさまがもう少しゴシンボクにくっついてくれたらわたしがこんなに必死にへばりつかなくてもよかったんだわ! ねえ……苔って、 洗えば落ちる?
ふむ、 さて、 苔まみれになったことはないからわからん。
そう、 そうよね、 わたしがちょっとバカだったの、 わたしだって人生の中で苔まみれになったことなんてないもん。
ははははは!
笑わないで? ほんとうのバカではないの、 ただ、 ちょっとだけバカだっただけ……。
ふむ? いや、 楽しかったぞ、 まさかそんな測り方をするとは思わなかったが。 二人分の太さか。
うん、 ぴったり二人分だったよね! あ、 カミさまは少しヨユウがあったみたいだけど……でもどのくらいでこんなに成長するんだろう?
ふむ、 まだ百年も経っていないんだよ、 この木は。
へええそうなんだ……それでもこんなに大きくなるのね。
ふむ、 今では御神木として立派になってくれたが、 この神社の建物よりもだいぶあとにこの場所に植えられたからな、 もとは本当にちいさなちいさな苗木だった。
……っていう言い伝え?
ふむ、 言い伝えではなく、 俺が見ていた光景だよ。
だって百年も前からあるんでしょう? それなら今頃カミさまはおじいちゃんのはずじゃない?
ふむ、 だから神は不老不死であると何度……。
もうわたし行かなきゃ、 こんなに緑色になっちゃったし恥ずかしいから……また、 来ますね、 カミさま。
ふむ、 待て、 ……ほら、 お前さんの髪に御神木のかけらが付いていたよ。 持っていきなさい。
わ、 ゴシンボクのカケラ、 いいの?
ふむ、 御神木のほうは少し白くなってしまったが、 剥がれ落ちたのもまたご縁だ。
ありがとうカミさま! ゴシンボクさま!……じゃあ行くね、 またね!
ふむ、 またな、 行ってらっしゃい!