ヴィシュヌとの出会い
「かっ、…はっ…!」
掌に伝わる鈍い感触、切り殺されると思っていた俺はその感覚に混乱していた。
目の前には、焦点の合わない目で彼方を見つめる男。そして其の男の首に刺さる刀身。
「あ…。」
俺は無意識に刀を引き抜く…。すると、男の首から大量の血が噴出し崩れ落ちた。
其の光景にもう一人の男が狼狽した。恐怖で顔を歪ませ、此方と距離を取っている。
そして、男はおもむろに石を拾い上げ、俺に向けて投げつけてきた。
「クソッ!クソッ!!何なんだテメエは!?」
「ガッ!ぐっ!ひっ!?」
未だに混乱していた俺は、投石をまともに食らってしまう。
ガン!
そして、大きな石を頭部に受けた俺は、そのまま意識を遮断されてしまった。
――――――…
気が付くと俺は、薄暗い洞窟の様な場所で倒れていた。
な、んで?か、体が動かな、い…。
朦朧とする意識の中で、何とか体を動かそうと全身系を集中させる。
や、やっぱり、指一本動かない…俺、このまま死…
『やっと、目を覚ましおったか。』
ふと、気が付くと俺の顔を覗き込む者がいた。
艶やかな長い黒髪の少女。其の顔は凛々しく、中世的なイメージがあった。ただ…
その少女の体長は15cmもない。とても人間とは思えない幻想的な姿に俺は暫く呆けていた。
……妖精?
『何を言っているんだ?お前は。』
あれ?じゃあ、お前は何なんだ?
『我が名はヴィシュヌ。』
…ヴィシュヌ?確か、シヴァと並ぶヒンドゥー教の神だっけか。
『それはお前の世界での話。我は関係ない。』
えっと…、じゃあ、同名の別の神って事か?
『そうなるな。』
……。
『……。』
脳内での会話が止まり、暫く沈黙が訪れる。正直、俺は混乱していた。
しかし、其の状態でも思考を止める訳にはいかない。
光に包まれ、気が付いたらあの空間に居た事、そして声が聞こえたと思ったら森へ…
声の主は間違いなく目の前に居る自称神のヴィシュヌだ。
ぐるぐると回る思考の中で、それだけははっきり分かっていた。
幾つか質問をしたい。
『言ってみよ。』
許可が下りたので俺は順次質問を開始した。
俺の所に降って来た青い光はお前か?
『如何にも。』
あの”空間”に送ったのは?
『あれは手違いだ。』
なら、其れを暫く放置していたのは?
『…力の多くを失っていて、眠っていたからだ。』
……じゃあ、いきなり襲われる様な場所に転移させたのは?
『…それは…追手に見つかりそうになって、急いでいたからで…。』
質問を続けるたびに余裕が無くなっていく自称神様。
愛らしい妖精のような姿をしているだけに、最早、威厳の欠片もなかった。
まぁ、いいや…。とりあえず俺は元の世界に還れるのか?
『今は無理だ。』
予想通りの返答が返って来る。再転位をする為に眠っていたのなら今も余裕はないって事だろう。
なので、俺が心配すべきなのは当面の事になる。
…俺切られたよな?しかも何度も…終いには頭に石をぶつけられて…
記憶が無いんだけど、どうやって俺は此処まで来たんだ?
後、今体が動かないのは何でだ?…そんなに深手を負っているのか?痛みをまったく感じないんだけど…。
『いっぺんに質問をするな…順次説明をしてやる。』
そう言って、ヴィシュヌは腕を組んでふんぞり返る。
その姿に俺は駄目神臭を感じ取っていた。
『先ず、お前が無事なのは、お前の体を使ってあの男を始末したからだ。』
始末…、殺したという事だろう。…俺がしたように…。
そして、此処で休んでいたという所か。
『うむ、お前が持っていた得物の使い勝手が良かったから、あの後の攻撃を受けずに済んだが
お前の体自体は使いにくかったからな!苦労したのだぞ?感謝するといい!』
そう言って胸を張ってドヤ顔をするカミサマ。
…やっぱり、こいつ駄目神なんじゃ…。
『…不敬な奴だな、お前。」
俺に呆れたような目を向けた後、カミサマは最後の回答に入った。
『お前が今、痛みを感じないのは我が体を支配しているからだ。』
そっか…、助かったよ…滅茶苦茶痛かったからな…。この後は傷も治してくれるんだろ?
『……。』
あれ?あ!もしかして、もう治してあるのか?
『済まないが、今の我にはその様な力はない。』
え…?じゃ、じゃあ!自然治癒するまでずっとこのままか!?っていうか、
このままじゃ破傷風とかになるんじゃ?いや、それだけじゃなく別の病気だって!?
『安心しろ、自然治癒能力は私が憑依しているお陰でかなり早い筈だ、それと病気にはならん。ただ…。」
ただ?
『我が管理出来る時間は此処までだ、何、死にはせんよ。貴様に死なれると我が困るのでな。』
はあ!?ちょっと待て!死なないって!?
消え失せていくカミサマに俺は必死に呼び掛ける。
そして、完全に消えた瞬間、体の感覚が戻ってきた。
「ガッ!?ぐぅ…!!」
体の感覚が戻るという事は痛覚も戻るわけで…
「ッッッ!?」
俺は悶え苦しみ、声にならない悲鳴を上げ続ける…。
何度ものた打ち回り、それすらも苦痛になる。
顔面が蒼白になって、体の力が抜けて汚物が垂れ流しになり、俺は苦悶の表情で痛みに耐えていた。
一体どれぐらいの時が過ぎたのだろう…
時折、光が差し込んで来た事から一日か二日か其れぐらいは経ってそうだ。
そして、痛みがある程度引いてくると、今度は強烈な喉の渇きに襲われる。
数ヶ月は居たあの空間では、これ程の渇きは感じなかった。多分あの空間は時が止まっているのだろう。
み、水は何処だ…?
水流が流れる音は聞こえている、俺は痛みに耐えながら首を動かし、近くに水が無いか探す。
…最悪自分のを…!?
そして、非常手段まで考えていた俺の目に、石段の上に乗ったある物が映った。
あ、コンビニ袋!?…ヴィシュヌが回収していてくれたのか!?
俺は這うようにして、近づいていく。
確か、1Lボトルのお茶と500の紅茶、そして直ぐに飲もうと思っていたホットの珈琲が!?
俺は必死に手を伸ばし、ガサゴソとコンビニ袋の中を漁る。
あった!…お茶…がいいか?出血時って糖分は必要なんだっけ?珈琲は駄目か!?
…悩んでいても仕方ない、手に取った物を飲もう。
手に取ったのは紅茶のペットボトルだった。
少しずつ口に含み、ゆっくりと流し込んでいく。
こう言う時に、がぶ飲みすると水中毒になると聞いた事がある。合っているかは分からないが…。
一息ついた俺は、今度は空腹感をどうしようかと考えている。
スナック菓子が数点あるが、今食べてしまっても良いものなのか…。
それよりは先ず、体の状況を何とかしたい…
痛み自体は大分引いてきたが、その…ケツがかゆくて…オマケにこの異臭では…
暫く考えた俺は、行動に移す事にした、幸いな事に、水流の音は今も聞こえている。
「どこかに水源…、もしかしたら川があるのかも?」
刀を杖代わりにして、俺は引き摺るように歩く。
俺が居た洞窟は狭く、水源は見つからなかった。なら、やはり川がある筈。
重い足取りで洞窟を抜けると、時刻は昼頃だった。
俺は森には入らず、洞窟があった崖沿いを歩き、水音に向けて歩みを進める。
進む事10数分…、俺は渓流の川に到達していた。
荷物を置き、ポケットに何か残っていないか確かめる。
「…あいつって、結構気が利くんだな。」
煙草やライターはコンビニ袋の中に入れられていた。
多分、血で濡れて使い物にならなくなるのを避けてくれたんだろう。
今の状態での火の有無は生存確率に大きく影響する。
駄目神とか思っていたけど、案外頭は回るらしい。
服を全て脱いだ俺は、中身を取り出したコンビニ袋を持って、川に近づいた。
「痛ぅ…。」
体を曲げるとまだ痛い…、でも泣き言を言っている場合じゃない。
俺はコンビニ袋に水を入れて、地面に移動して下半身に水を掛けた。
「っっ!?つめてええし!いてえし!!」
のた打ち回る程ではないが、かなりの苦痛だった。
「つ、次は…。」
ビチャビチャと音を立てながら、川に近づく。そして水を汲み今度は衣服に水を掛けた。
その、作業を繰り返し、なんとか表面的な汚れと、異臭がしなくなった衣服を乾かす。
「ふう……。異世界転移…夢ではあったんだけどな…。」
現実は世知辛かった。ヴィシュヌのお陰?で死ぬことが無い上に自然治癒能力が高いらしいのだが…
「異能とか、高ステとか何かギフトは無かったのかね…。」
そんな事をぼやいていると、脳内に声が響いた。
『あるぞ。』
「うわっ!?吃驚した!?」
『驚き過ぎだ!…で、伝え忘れていたお前の能力なんだが。』
「な、何だ?どんな事が出来るんだ!?」
『落ち着け、余計な事に力を使わせるんじゃない!?』
「わ、分かったから…詳細を教えてくれ。」
『うむ、お前の能力は”ソウルドレイン”。と言っても魂を吸収する訳ではないのだが。』
「……。」
俺は余計な事は言わず、黙ってヴィシュヌの言葉に耳を傾ける。
『相手の血液を浴びる事によって、其の者から力を奪い取る…と言っても微々たるものではあるが。』
「…全てを奪う事は出来ないのか?」
『自分が殺した相手であれば、…どちらにせよ、我を経由する訳だからお前が獲得出来る力は僅かであるがな。』
「……で、お前がその殆どを吸収するってか?」
『うむ!…説明の続きだが、手に入れた力が増えていくと、お前の体に変化が起きる。
先ずは細胞の活性化、つまり肉体が若返る。そして、お前が切望していた異能に目覚める。』
「!?そ、其れはどんな!?」
『さあ?其れは分からぬよ。お前が何の適正を持っているかも知らないのだから。』
「……その時にならないと分からないのか、ちなみにソウルドレインが使える相手は?」
『ヒト種は勿論、動物や魔獣の類、竜種相手も可能だが、何を倒そうとお前が得られる力は変わらん。』
その言葉に俺はがっくり膝を付いた。…かなり痛かったが。
「どんな強敵と戦っても、得られる経験値は一緒って事かよ…。」
『一緒ではないぞ、我にとっては!』
そう言うヴィシュヌに、さっきのドヤ顔を思い出す。
「…兎に角、分かったわ…。」
『そうか!では、今度こそ我は休むとしよう。精々励むのだぞ!』
それを最後にヴィシュヌの声が聞こえなくなった。
「はぁ…、……ふう…。」
煙草に火をつけ、一気に吸い込む。
「…煙草もあまり無駄に吸えねえな。」
そう言って俺は刀を手にして、川辺に座る。
「殺しか…。」
掌を見つめ、呟く。
あの時の感触がまだ残っている。肉を突き刺す鈍い感覚。そして男の死相。
錯乱状態だったあの時とは違い、人一人を殺したと言うのに今は落ち着いている。
「意外でもないか…。」
所詮は赤の他人、そして、自分に敵意を持ち殺そうとした相手。
そんな奴相手に感傷に耽る事はないし、また、同じような目に遭ったら躊躇い無く殺せると思う。
まあ、女相手は躊躇うかも知れないが…。そこはフェミニズムというよりは俺のエゴだろうな。
暫く、考え事に没頭していると、ぐーっと腹がなった。
「…飯、どうしよう?」
川か…魚獲れないかな?
「うーん…、岩場に袋を設置して…、いや、流されたら悲惨か…。」
コンビニ袋にはまだ活躍してもらわないと困る。となると…
俺は手にした刀に目を落とす。
「此れでやるしかないか。」
岩場の上で仁王立ちをして、水面を見つめる。直ぐ突ける様に刀を水面に向け、得物が来るのをジッと待ち構える。
「っ!?」
外した!?クソ、次だ。
「ふ!」
惜しい!
「ほっ!」
また、逃げられたー!?
結局、其の後一時間以上粘り、何とか2匹の魚を獲る事が出来た。
「へっくしゅ!!」
…そろそろ服を着よう…。
枯れ木を集め、其の上に枯葉を乗せる。焚き付け代わりの細い枝にライターで火を点けて薪にくべる。
「……サバイバル知識なんて、にわか程度だからな…。釣りは一時期していたから魚は捌けるけど…。」
手持ちのライターは4本、普段持ちの3本に加えてカートン買いのオマケが付いていたのは幸いだった。
「とりあえず、人里に出て何か仕事をするしかないか?動物相手だろうが人相手だろうが殺し合いをするのはなぁ。」
正直、またあんな怪我をしたんじゃ身が持たない…いや、心が持たない。
「当面の資金もないんだよな…、盗賊に身を落としたくはねえし、どうすりゃいいんだろ…。…あ。」
そうだ!盗賊!俺を襲ってきた連中から、何か回収出来ないか!?
そう考えた俺は記憶を巡る。ヴィシュヌが説明をした時に意識が無い時の記憶が蘇っていた。
「うん、場所は分かる!食ったら探しに行ってみよう!」
味気の無い焼き魚を食べ終わった俺は、一旦火の処理をして、男達の遺体を捜しに行った。
そして、30分程移動した俺は、目的のモノを発見する。
「うっ……。」
思わず吐きそうになった。
俺は鼻を摘まみ、遺体を見ないようにしながら男達の遺体を漁る。
結果、俺は銀貨の様な物が入った袋二つを見つけ、連中の剣を回収した。
そして、その場からそそくさと離れ、渓流のキャンプ地へと戻った。
「……はあ…、ふう…、…しかし、でかい月だな…。」
煙草を咥えながら、自分の行動について考え込む。
「俺のやってる事ってサイコパスに近いよな…。いや、考えない方がいいか…。」
生き延びる為だから”仕方ない”とか言うつもりはない。
それに、俺は正義の味方と言う訳でもないし、聖人でもない。
自分の行動を理解していれば、それだけで十分だ。
そう考えをまとめて、俺は木を背にして眠りについた。