父死す
織田信長が京・本能寺に滞在中、明智光秀の謀反により討たれた。
堺にいた神戸信孝の元にその知らせが来たのは、まさに信長が討たれた日、天正10年(1582)6月2日だった。畿内は梅雨に入る頃であろう。
それを聞いた信孝は声を呑んだ。父の死を知らされたのだから、そうなるのも無理もないだろう。
「・・・そうか。そうなのか。父上・・・」
声は震え、目は一点を見つめたまま固まってしまっている。
そこに、信長の訃報を知った丹羽長秀・津田信澄が信孝のもとに来た。長秀が3回呼び、ようやく信孝は庭の枯れた紫陽花から目を離した。
「信孝様、上様が本能寺にて討たれたというのは誠でござるか!」
長秀にしてはかなり取り乱しているようだ。信澄も信長の甥かつ光秀の娘婿ということもあり、動揺を隠しきれないでいる。
「伯父上のみならず、信忠様も二条城にて奮戦されましたが、討たれてしまわれたとのことでござる」
「ああ、兄上まで・・・」
「私が義父上の乱心に気づいていれば」
「いやなに、そちは何も悪くない・・・。今はただ、一人にしてくれ」
「お待ちくだされ!」
長秀が呼び止めたが、信孝は肩を落としたまま奥に行ってしまった。
(光秀・・・、なぜ謀反など起こしたのだ。何があったのだ)
信孝は南蛮椅子に浅く腰をかけ、深いため息をついている。全身の力が抜けてしまっているらしい。光秀の謀反と父の死を受け入れられず、延々と思慮に耽っている。いや、何も考えられていない。思考が堂々巡りになっている。
一刻ほど過ぎ、突然長秀が信孝のもとに駆けつけていた。
「信孝様!1万4千ほどいた我が軍が、半分ほどまで減っておりまする」
信孝は長秀・信澄とともに四国の長宗我部攻めを命じられ、大坂に兵を集結させていたのだが、信長が討たれたことを知った兵が次々と逃散したという。逃散した兵のほとんどは臨時で徴収された百姓や土豪だったのである。
百姓たちにしてみれば、何の義理もない負け戦で命を落とすことなど御免なのである。
これを聞いた信孝は唖然とした。信孝は父信長のように兵たちにとって命を預けることができる存在ではないことを思い知らされたのである。
(わしは父上のように偉大な存在にはなれぬのか・・・)
「それに信孝様、津田殿のことでございまするが、陣中にて良からぬ噂が広まっておりまする」
「ん?信澄がどうした」
「あくまで噂でござるが、津田殿は光秀より密命を受けており、我らを討つつもりであるらしいとのこと」
信孝は信澄が内通しているとの噂を聞き、目を丸くした。
「信澄が?信じられぬ」
「しかし、兵たちの士気を下げるようでは、ただではおけませぬぞ」
「では、どうすれば良いのじゃ」
「今こそ信孝様の力を兵たちに示すのでござる。某が時機を見て先手を打ちまする」
長秀の言葉によって信孝は腹をくくった。信孝は無言でうなずいた。
そして5日朝、長秀が動いた。100人の兵を率いて大坂城に程近い野田城に向かい、そこにいた信澄を襲撃した。信澄は自ら槍を振りかざして奮戦したが、長秀の家臣・上田重安が背後から飛びかかり、組打ちとなった。
重安が信澄の体をとらえると、信澄が横に転がり抜け出しては重安を突き倒した。重安はとっさに抜刀、槍の穂先を空に振り上げた信澄の脇腹めがけて太刀をはらった。
太刀は信澄の胴を横に貫き、信澄は槍を落として倒れた。
「なかなかの強者よ」
信澄が重安に討ち取られた後、信孝らの軍から兵が逃散することは無くなった。
こうして、傾いた士気を立て直した信孝は、父信長の仇討ちに動き出すべく大坂城に入るのであった。