第2回
新しい家となったアパートから、健人の通う小学校までは歩いて10分弱。
最寄りの駅へは15分。父の職場へも少し近くなったらしい。
健人はこれまで父の職場へ行ったことなどなかったので、これまでがどれほど遠かったのか、引っ越してどれほど近くなったのか、見当もつかなかった。
駅にして五つ分。時間にすれば20分ほど。
「ずいぶん楽になったんだがなぁ」
と、父がぽつりとつぶやいた時、職場へは近くなったものの、母のいなくなった家で健人と二人暮らしていくことへの大変さが増えたと言われているような気がした。
ずきんと確かに胸の奥が痛んだが、それでいて頭はカッと熱くなった。
「ぼくだって大変なのに」
そう言おうとして言葉を飲み込んだ。
生意気なことを言って叱られるのもいやだったし、父が大変なのも事実だったからだ。
親しかった友だちとの別れ、新しい学校ではまだ友だちらしい友だちもできていなかった。
以前のように母がいる家に友だちを呼んで、ゲームをしたり、おやつを食べたりといった当たり前の楽しい日々が、今の健人には皆無だった。
父にしても、母の葬儀、引っ越し、転校の手続き、家事・・・・・・
ほとんど食事は外食かスーパーの総菜だったけれど、風呂やトイレを洗って、洗濯をして、健人の宿題や学校のプリントを見て必要があればサインをして提出する書類を整えるのがとても面倒なことくらい、健人でもわかった。
ぼんやりと自身に起こったことを振り返れば、つうーっと涙が頬を伝ってくるような、鼻の奥がツンと痛くなる感覚に襲われた。
そんな時は決まって、わざとイーッと顔をしかめながら痛みをどこかに追いやった。
そんなことを何度も繰り返すうちに、なんとか涙をこらえるすべも身につけた。
泣いても何も変わらない。
母はもういない。
しかし、母がいたあの幸せな時間は、何も邪魔されることなくずっと健人の心の中に変わらず残っている。
いつか、幽霊でも何でもいいから、もしも母に会えた時、笑って会えるようにしようと健人は変な目標を立てた。
新しい家で暮らすようになって一週間が経った。
ひとりで学校から帰り、ランドセルを下ろしたその時、ふいに玄関のチャイム、といっても乾いたブザーのようなものだが、の音がした。
そして続いて、
「あのー、ごめんください。隣に引っ越して来た者です」
という若い男の声には少し不釣り合いの、丁寧な台詞が聞こえてきた。
隣の人・・・・・・?
出た方がいいのだろうな、と健人は判断して部屋のドアを開けた。
「やあ、こんにちは」
ドアの向こうに、優しそうな明るい笑顔の背の高いお兄さんが立っていた。
「遠山清志郎って言います。アルバイターです」
「アルバイター?」
健人が聞き慣れない言葉を繰り返した。
「うん。決まった会社には就職してないけどね、いろんなバイトしながら夢を追いかけてる、みたいな感じかな」
遠山と名乗った青年は、相手が小学生とわかったせいか、急に親しげな口調で話しかけてきた。
健人の方も、初対面だというのにニコニコと優しげな笑顔を向けてくる青年に警戒心すら抱かなかった。
あれほどいつも学校や親から、知らない人には気をつけろ、と言われているにもかかわらず。
アルバイターって・・・・・・
それって、フリーターっていうんじゃないのかと健人は思ったが、口にしなかった。
「夢はね、小説家を目指してるんだ、オレ。ところで、君、何て名前?」
遠山という青年の口調は少し変わっている上に、妙に馴れ馴れしく、恥ずかしげもなく自分の夢まで口にした。
小説家になりたい、なんて初対面の人にいうことじゃないくらい健人にもわかったが、健人にはそれが返って嬉しいくらいだった。
ちょっと変わってるけど、きっと悪い人じゃない。
健人の直感だった。
それにもうひとつ、夢を語る遠山の言葉をすんなりと受け入れられたのは、引っ越してきた時に出会った大家さんのせいでもあるかもしれなかった。
アパートの隣で古書店を営むおじいさん、それが大家さんだった。
きっとこの人も本が好きなんだ。
だからこのアパートを選んだんだ。
ちょっと変わってるだけで、きっと悪い人じゃない。
健人が名前を告げた。
「篠原健人です」
「へえーいい名前だね」
これが遠山と健人の出会いだった。
つづく