策謀 Ⅵ
【天神の巫女 シンシア・リオール】
夕陽に照らされた大通りを歩きながら、行き交う人々や建物の様子を眺める。いや、確認するといったほうが正しいだろうか。
第二十八闘技場で今日の勤めを終えたシンシアは、その光景を半年前の記憶と照らし合わせる。それは、もはや習慣となった行為だ。俯瞰的に街並みを確認していたシンシアは、自分に近付く影に気付いた。
「アリエルさん……?」
呼びかけられると、その人物はニコリと微笑んだ。そして、ヒラヒラと手を振る。
「シンシア司祭、お疲れさまー。あ、ノアちゃんもお疲れさま!」
「ピッ!」
「お疲れさまです。アリエルさんも三十七街区にご用だったんですか……?」
小さな羽をぱたぱたさせたノアに少し遅れて、シンシアも挨拶を返す。彼女はマーキス神殿の同僚であり、シンシアが緊張せずに話すことができる数少ない存在だ。
厳格な人間が多いマーキス神官の中では、彼女は奔放的な部類に入る。と言っても、他の組織であれば目立つことはないのだろうが、マーキス神殿ではそういった人物が目立つ。
「そうなのよ。それで、ちょうど今日はシンシア司祭が闘技場に行く日だったな、と思って」
「わざわざ探してくださったんですね、ありがとうございます」
「お礼なんて言わないでよ。二人で帰ったほうが楽しいかな、って思っただけだもの」
彼女は屈託なく笑うと、周囲を見回した。
「それにしても……だいぶ復興が進んだわね。私が最後に来たのは巨人騒ぎの直後だったから、ちょっと驚いたわ」
「はい、みなさんのおかげです」
シンシアの顔に自然と笑みが浮かぶ。三十七街区を拠点とするマルガ商会のセイナーグを中心に、多くの人々が復興のため走り回っている。そのことを知っているだけに、彼女の感想は嬉しいものだった。
シンシアの視線は復旧された街並みから別の場所へ移る。それは事件前の三十七街区にはなくて、今となっては大きな存在感を誇る建物だ。そして、シンシアがさっきまで勤めを果たしていた場所でもある。
「正直に言えば、さすがにこの街区は寂れるだろうって心配してたのよ。そうならなかったのは、やっぱりあの闘技場のおかげなんでしょうね」
その視線に気付いたのだろう。アリエルもまた、シンシアの後ろにある巨大な闘技場を見上げた。彼女自身が剣闘試合を観に行くことはないようだが、他のマーキス神官のように否定的なわけでもない。
「セイナーグさんの話だと、事件前より活気があるそうです。移住希望者も増えていて、そのうち前の人口を超えそうだって……」
それは、当時の荒廃した様子を知っている人間からすれば、にわかには信じられない話だろう。その例に漏れず、アリエルも目を見開いて驚いていた。
「それ、あの支配人にも伝えたの?」
「はい! とても嬉しそうでした」
闘技場の用地取得の際、セイナーグと相対したミレウスは三十七街区の復興・発展に闘技場が役立つと断言していた。それだけに、ほっとした様子も見せていた。
ただ、そんな約束をしていなくても、彼は三十七街区の復興を喜んでいただろう。そんな確信はあった。
「シンシア司祭、幸せそうに笑うわね。やっぱり――」
アリエルが意味ありげにニヤリと笑う。その時だった。
「おーい! シンシアちゃん!」
そんな呼びかけが大通りに響く。声の主とは少し距離があるが、彼は二人に向かって……というかシンシアに向かって元気に手を振っていた。
その姿を目にした通行人は興味深そうに彼を眺めている。それはそうだろう。この剣闘試合が盛んな帝都において、若くして剣闘士ランキング第七位まで上り詰めた天才。
それが『剣嵐』エミリオ・ローデスという男であり、この街の有名人の一人でもある。
「……あ、また出た」
最初に反応したのはアリエルのほうだった。そして、彼女はシンシアの耳元でこそっと囁く。
「よっぽどシンシア司祭が好きなのねぇ……」
「ふぇっ!? い、いえ、エミリオさんにそんなつもりは……」
「そんなつもりにしか見えないわよ。闘技場の帰り道、しょっちゅう出くわすんでしょう? たまに神殿にも来るし」
「それは、『極光の騎士』さんの話をしたいからで……あの、そんなに警戒しなくても大丈夫、です」
シンシアがフォローしても、アリエルはまだ疑っているようだった。
「でも、剣闘士は女癖が悪い人が多いって言うじゃない。……あ、シンシア司祭も彼のことが好きなら、もちろん止めないけれど」
「そ、そんなことは、ぜんぜん……!」
シンシアはぶんぶんと手を振る。その様子を見たアリエルは、近付きつつある『剣嵐』に視線を移した。
「……彼もかわいそうに。と思うべきかな」
そんなやり取りを交わしている間に、遠くにいた『剣嵐』エミリオがやってくる。
「――『天神の巫女』様に何かご用ですか?」
最初に口を開いたのはアリエルだった。口調は丁寧だが、シンシアを守るように一歩前へ出る。その背に隠されて、シンシアからはエミリオの顔が見えなくなった。
「あ……」
アリエルがシンシアを守ろうとする。その場面は珍しいものではなかった。普通に接してくるよう何度も頼んだおかげで、普段は屈託なく相手をしてくれるアリエルだが、それでも『天神の巫女』に対する敬意は強い。
そのことに申し訳なさや寂しさを感じる時はあるが、敬意を抱くなと伝えるわけにもいかない。自分はともかく、歴代の『天神の巫女』は敬意を受けるに値する存在だったのだから。
「用ってほどじゃないが……シンシアちゃんを見かけたからな」
言いながら、エミリオは彼女の横をひょいっと通り過ぎる。さすがは剣闘士ランキングの上位ランカーだけあって、その何気ない動作にアリエルは対応できないようだった。
「なあなあ、次の試合の情報聞いた?」
「いえ……まだです」
誰の試合のことか、とは聞くまでもない。二人が主語抜きで話題にするのは、『極光の騎士』をおいて他にはいないからだ。
「そっか。いつものタイミングだと、そろそろだと思うんだけどな。……なあ、二人ともチケットが取れたらさ、今度こそ一緒に観に行こうぜ」
「ええと……」
その誘いに口籠もる。頻繁にこういった誘いをしてくるエミリオだが、そこまで社交的ではないシンシアにとっては、戸惑いのほうが大きい。
「……そういった約束は、実際にチケットが取れてからにしてはいかがですか?」
そこへ助け舟を出してくれたのは、ずっと隣に立っていてくれるアリエルだ。彼女の言葉を受けて、『剣嵐』はおどけたように肩をすくめた。
「ま、そりゃそうだな。まずはチケットを取ることからだな。……次の試合いつなんだろうな」
「ミレウスさんは、決まったらすぐに教えてくれるんですけど……」
話が戻ったことにほっとしながら、シンシアは相槌を打った。三か月に一度しか戦わない『極光の騎士』の試合チケットは、非常に入手が困難だ。新しい闘技場になって飛躍的に収容人数は増えたものの、それでも凄まじい倍率であることに変わりはない。
「二十八闘技場の支配人か……」
『剣嵐』はぼそりと呟く。なんとなく反応がおかしい気がして、シンシアは首を傾げた。
「ミレウスさんが、どうかしましたか?」
「い、いや、別に? 頼んだらチケットを融通してくれないかな、って」
彼は慌てた様子で首を横に振る。
「よっぽどのことがないと難しいと思います。貴族のみなさんからのお願いも断っているみたいですし……」
それはヴィンフリーデから聞いた話だ。縁故用のチケットもある程度用意しているが、貴族は面倒なため、貴族用の枠をあらかじめ設けておいて、その分配は帝国政府の闘技場担当役場に丸投げしているのだという。
それ以外のチケットは売りに出してしまったため、今さらどうにもなりません、という姿勢だ。
「それじゃ難しいな……というか、シンシアちゃんがチケットを貰えてないんだから、俺に融通してくれるわけないか」
「……」
エミリオの言葉に沈黙する。実際には、ミレウスからそういった提案をされたことがあったのだ。巨人騒動の後、『極光の騎士』が「ともに戦ってくれた彼女になんらかの形で報いてほしい」と言われたらしい。
ただ、その言葉だけでシンシアは充分だったし、『極光の騎士』の試合を楽しみにしている他の大勢のファンを押しのけるようで申し訳なかったため、「今後の『極光の騎士』の試合チケットをすべて融通する」というミレウスの提案を断ったのだ。
シンシアの沈黙を同意と捉えたのか、エミリオはチケット獲得の難しさをひとしきりボヤいていた。
「――けど、貴族でも特別扱いしないってのはいいな。そこは気に入った。……あの支配人、意外と骨があるじゃねえか」
珍しく、エミリオが好意的な言葉を口にする。それがなんだか嬉しくて、シンシアの口角が自然と上がった。
「ミレウスさんは、自分の考えを持っていますから」
すると、再び彼の表情が曇った。そして拗ねたように口を開く。
「……少なくとも、うちの新しい支配人よりはマシかもな」
「新しい支配人さん、ですか?」
思わず訊き返す。『剣嵐』が所属するディスタ闘技場は、闘技場ランキングでずっと一位に輝いている闘技場だ。そう言えば、以前に代替わりがどう、という話を聞いた気もする。
「そそ、前に言ったじゃん? 今までの支配人が寝込んじまって、息子の一人が代わりに仕切ってるんだけどさ……なんか合わないんだよな。ずっとピリピリしてるし」
「そうなんですか……」
「前の支配人も貴族だけどよ、あの人は戦士だったからな。けど、新しい奴はお貴族様って感じがする」
いつも快活な彼にしては珍しく、その表情には翳があった。前はこうだったのに、今はこうだ。そんな言葉が次々とこぼれる。
「……けどまあ、一つだけ評価できることを言ってたな」
そんな中で、ふと彼は笑みを浮かべた。
「いいことが、あったんですか?」
シンシアが問いかけると、エミリオは楽しそうに頷く。
「詳しくは秘密だけど……そのうち分かると思う」
そう言うと、彼はシンシアの前方へ歩き出した。そして、くるりと身を翻す。
「さ、行こうぜ! マーキス神殿に帰るんだろ? 送ってくよ」
「ええと……」
シンシアはアリエルと顔を見合わせる。断ったところで、どうせ付いてくるわよ。アリエルの表情がそう物語っている気がした。
「おーい、置いてくぞー」
すっかり暗くなった道で、『剣嵐』は大きく手を振る。彼に先導されるように、二人はゆっくりと歩き出した。
◆◆◆
シンシアがマーキス神殿の神殿長室に呼ばれることは珍しくない。それは彼女の役職上の理由ではなく、ガロウド神殿長がシンシアを気にかけてくれているためだ。
神殿長が受けた神託によって、シンシアは『天神の巫女』として見出され、さらにこの帝都へ呼ばれたのだから、それを依怙贔屓だと考える神官は少数派だった。
そんなわけで見知った神殿長室ではあるが、そこに初対面の人間がいるなら話は別だ。座り慣れたソファーが、今日に限っては柔らかすぎるように思えた。
「マーキス神殿には闘技場の存在を快く思わない方が多いことは承知しています。ですが、シンシア司祭は現在も第二十八闘技場で立派に勤めを果たしている。素晴らしいことです」
向かい合っている初対面の人物は一人。ディスタ闘技場の支配人代理であり、帝国の重鎮であるヴァリエスタ伯爵の子でもあるジークレフだ。その優雅な物腰と、自信に満ち溢れた様子はいかにも貴族らしい。
その彼が持ってきた話は、シンシアにとってあまりにも予想外のものだった。
「――そんな訳でして、『天神の巫女』様には是非とも我がディスタ闘技場でお力を振るっていただきたいのですよ」
「それはそれは。シンシア司祭も見込まれたものですな」
救護神官の派遣依頼。それだけなら珍しくもない光景だが、なんと言ってもここはマーキス神殿だ。剣闘試合に否定的な神官が多いことを彼は知らないのだろうか。
それに、シンシアは現在、第二十八闘技場で救護神官として務めを果たしている。その彼女を派遣するよう求めるということは、実質的には引き抜きだ。
シンシアにとっては衝撃的な提案を、隣のガロウド神殿長はにこやかに受け流していた。物腰は穏やかだが、一部では古狸とさえ呼ばれている老獪な人物だ。この程度で驚きを露わにするはずはなかった。
「ご存知のとおり、我がディスタ闘技場は帝都……いや、大陸最大の闘技場です。『天神の巫女』の名声に相応しい舞台と言えましょう」
ジークレフの声には自信がみなぎっていた。長らく闘技場ランキング一位を不動のものとしてきただけあって、そこには大きな自信があるのだろう。
「私とマーキス神殿が手を携えることができれば、闘技場界――いや、社会に大きな影響を与えることも可能でしょう。連携の仕方によっては、闘技場の観客を天神教徒として取り込むことだってできる」
「ふむ、その第一歩がシンシア司祭だと?」
「おっしゃる通りです」
言葉を操って如才なく質問に答え、こちらにとっての利点を強調する。自信を持って話を進める様子は、第二十八闘技場支配人であるミレウスを連想させた。
年齢もあまり変わらないように思えるし、同じように闘技場の運営に関わっているのだ。似ていて当然なのかもしれない。
――けれど。シンシアは内心で首を傾げていた。似た要素はいくつもあるのに、ミレウスとジークレフは何かが決定的に異なっている気がするのだ。その差異はなんだろうか。そんなことを考えていると、ジークレフが問いかけてくる。
「シンシア司祭、どうでしょうか。貴女に来てもらえるなら、うちの救護室を拡張してもいい。専用の部屋だって用意できます」
「あの……どうして私なのでしょうか……?」
答える代わりに質問を投げかける。シンシア以上の神聖魔法の使い手はほとんどいないが、闘技場の救護神官が務まるレベルの神官は他にも大勢いるはずだった。
「卓越した治癒魔法の腕前と、『天神の巫女』としての名声。これらは帝都で最も大きな闘技場でこそ生かすことができるでしょう」
そして、ジークレフはソファーからぐっと身を乗り出した。
「第二十八闘技場は気付いていないようですが、貴女には非常に大きな価値がある。私であれば、シンシア司祭を輝かせることができます」
「……だそうじゃ。シンシア司祭、どう思うかの?」
「それは……」
シンシアは口ごもった。帝都最大の闘技場。輝かしい自分。そんな言葉につられた訳ではない。第二十八闘技場以外で救護神官をする自分など、まったく想像できないくらいだ。
彼女が口ごもっているのは、単に断り方を考えているに過ぎなかった。
「あの……私は、二十八闘技場以外の所へ行くつもりはないです」
とは言え、上手い言い訳など浮かんではこない。結局、シンシアは素直な心情を伝えることにした。
「なに?」
ジークレフは驚きに目を見開いた。やがて、貴公子然とした容貌にうっすらと怒りの感情が浮かぶ。
「……いかに第二十八闘技場が業績を伸ばしているとは言え、我が闘技場の足下にも及ばぬのは事実。理解できませんね」
彼は含みのある表情をシンシアへ向けると、わざとらしく溜息をついた。これ以上、なんと言えば伝わるのか。シンシアが困惑していると、助けるようにガロウド神殿長が口を開いた。
「――若いのぅ。跡継ぎを決める重要な時期ともなれば、はやる気持ちも分からぬではないが、それでは逆効果じゃよ」
「はて、なんのことでしょう」
ジークレフはわざとらしく首を傾げてみせる。シンシアにも意味は分からないが、彼の大仰な動作は図星を突かれたためであるように見えた。
「シンシア司祭は、闘技場の規模や自らの名誉といったものには無頓着でな」
その言葉は事実だ。『天神の巫女』という称号すら重荷だと感じるシンシアからすれば、名誉などというものに興味はない。
「それに、今の話はディスタ闘技場がすべてにおいて二十八闘技場より優れている、という前提の下に成り立っておる。あまりに一方的ではないかな」
「そうでないと? ディスタ闘技場が長らく闘技場ランキング一位であることは、ガロウド神殿長もご存知かと思いますが」
ジークレフは身を乗り出していた。貴族とはいえ、まだ家督を継いでいない人物と、大きな影響力を持つマーキス神殿の神殿長。本来であれば、つまみ出されても文句は言えない立場だ。だが、ジークレフに退く様子はなかった。
「ランキングはあくまで一側面の尺度に過ぎぬよ。そして、それは優劣も同じことだ。例えば闘技場の規模は、大きいほど優れているとされる。じゃが、小さな闘技場で行われる試合が好きな人間もおるじゃろう。そういうことじゃよ」
「……では、具体的に何が駄目だというのか伺いたい」
「好みの問題もあるでな。儂からどうとは言えぬよ」
そう答えた神殿長とシンシアの目が合う。後は任せたと、そう言っているような気がした。だが、何を言えばいいのか。
シンシアはジークレフをじっと見つめた。年齢も同じくらいだろうし、闘技場の支配人という立場も同じ。ジークレフのほうがやや尊大な口調には思えるが、丁寧な口調はあまり崩さない。
それでもやはり、ミレウスとジークレフが似ているようには思えなかった。闘技場の救護神官をするなら、第二十八闘技場がいい。
沈黙するシンシアに苛立ったのか、ジークレフは早口でまくし立てる。
「規模も客数も剣闘士の質も、すべてディスタ闘技場のほうが上だ。私と組めば、お互いに今以上の名声が手に入ることを約束しよう。いったい何が不服だというのだ」
その言葉を聞いた瞬間。シンシアはジークレフと彼との大きな差異に気付いた。そのことに後押しされて、彼女はようやく口を開く。
「それでも、私の気持ちは変わりません。……私は、第二十八闘技場で勤めを果たしたいです」
「……理由はなんだと聞いている」
ジークレフは少し険のある口調で尋ねてくる。普段なら怯える場面かもしれないが、シンシアの口は勝手に動いていた。
「……ミレウスさんなら、そんなことは言いません」
「何を――」
ジークレフの眉根が寄る。だが、シンシアは構わず話し続けた。
「ミレウスさんのお話は、『闘技場』が主語なんです。闘技場のことを大切に思っていて、どうしたらもっとお客さんが楽しんでくれるかを考えていますから……」
シンシアの脳裏にミレウスの姿が浮かぶ。闘技場の存在自体については神殿内で議論があるが、少なくとも彼は誠実に支配人として努力している。それはマーキスの教えにも適うことだ。
その虚像に力を貰ったかのように、シンシアはまっすぐジークレフの瞳を見つめた。
「でも、あなたの主語はあくまで『私』でした。闘技場のためじゃなくて、まるで自分のために闘技場があ――」
「なるほど、もう結構です。……シンシア司祭の派遣については諦めましょう」
ジークレフはシンシアの言葉を遮ると、深くソファーに座り直した。あっさり前言を引っ込めたことには驚いたが、シンシアにとっても気が乗らなかった話だ。諦めてくれるならそれが一番だった。
やがて、彼は窓の外を眺めて呟く。
「ミレウス支配人か……たしかに彼は逸材です。闘技場を受け継いだ支配人の多くが没落していく中で、あれほど闘技場を発展させた者はいない」
「ええと……」
思わぬ好意的な発言にシンシアは戸惑った。第二十八闘技場から自分を引き抜こうと言うのだから、もっと敵視していると思ったのだ。
「……ですが、彼は非常に危険です。客を集めるために手段を選ばない彼のやり口は、マーキス神が説く道と真っ向から対立している」
シンシアの勧誘は諦めたからだろう。彼は再び神殿長へ向き直った。
「第二十八闘技場が剣闘試合に魔術師を出場させているのはご存知ですね? ……あれは危険です」
「ふむ? それはどういう意味かの?」
「マーキス神は無用の犠牲を好まないはず。……魔法試合は剣闘士の戦いと異なり、観客席への被害が甚大です。今のところ死傷者の数は目立っていませんが、それも時間の問題でしょう」
「でも、闘技場には結界が……」
シンシアは思わず口を挟む。だが、ジークレフは馬鹿にするように小さく笑った。
「試合で使われるのは、相手の魔術師の魔法防御を抜くための魔法ですよ? 観客席全体を覆う必要がある以上、結界の強度は著しく低下する。いつ結界が破れて死人が出てもおかしくないのです」
シンシアは返答に詰まった。古代装置の結界装置を使用している二十八闘技場については、その心配はほとんどない。だが、それは公にできない情報だ。
「それで、何が言いたいのかね?」
シンシアのほうを向いていたジークレフは、その言葉で再び神殿長へ向き直った。
「第二十八闘技場の行いは、マーキス神の教えと相容れないものです。それどころか、対立していると言えるでしょう。非常に由々しきことです」
そして、大げさに首を横に振ると、ジークレフは言葉を続けた。
「ですから、この街の天神教徒に二十八闘技場の利用禁止を呼びかけるよう、ご一考いただきたい」
「え……?」
無茶苦茶な提案にシンシアは声を上げた。主神格だけあって、戦神信仰が盛んなこの街でも天神教徒は多い。彼らが闘技場を避けるようになれば、客数は一気に落ち込むことだろう。
「そのような扱いはできぬよ。信徒の行動をいたずらに制限するべきではないし、そもそも君の根拠はすべて推論に基づいているものだ」
だが、ガロウド神殿長は彼の提案を一蹴した。そのことにほっとしつつ、シンシアはジークレフの様子を窺う。
「……そうですか。ガロウド神殿長ならご賛同いただけると思っていたのですが、残念です」
ジークレフの瞳に昏い光が灯る。その様子に胸騒ぎを覚えながら、シンシアは黙って二人の会話を聞いていた。