策謀 Ⅲ
帝都のディスタ神殿は人で賑わっていた。と言っても、何かのイベントがあるわけではない。剣闘試合が盛んであることが影響しているのか、常にディスタ神殿は参拝客で溢れているのだ。
自分の誓いを新たにする者もいれば、他者の躍進を祈る者もいる。大陸でも屈指の規模を誇る帝都のディスタ神殿には、他国からも巡礼者が訪れるという。
そんな神殿に足を踏み入れた俺とシンシアは、ディスタ神官であるベイオルードに先導されて歩を進める。
なお、いつもシンシアと一緒に行動しているノアだが、さすがに他宗派の神殿に連れていくことは躊躇われたらしく、今回はシンシアの部屋で留守番をしてもらっている。
「中はこうなってるのか……」
仕事柄、この神殿を訪れることは多々あるが、それは救護神官の派遣絡みか、闘技場としての寄進がほとんどであり、それ以外の用件で神殿を歩くことは珍しい。
まして、神殿の裏側とも言える食堂や鍛錬場ともなれば、足を踏み入れるのは初めてだ。三年前の襲撃の際には開放されていたらしいが、俺は早々に神殿を抜け出してしまったからな。
「ええと……俺たちも入っていいのか……?」
「某が同行していれば心配無用である!」
ベイオルードは迷いのない様子で鍛錬場の扉を開けると、満足したように頷いた。そして、いつも以上の声量でトレーニングをしている神官に声をかける。
「ヴァンデス司祭! ウェルシュ助祭! 話をしたいのである!」
その言葉に反応して、二人の神官がこちらを見る。この二人こそが、フィエルが死んだ日にディスタ神殿の救護神官を務めていた人物だった。
「ベイオルード司祭、どうした?」
「客人ですか。鍛錬場にお連れするとは珍しいですね」
二人はこちらへやってくると、興味深そうに視線を当てる。特に興味を引いたのは、やはりシンシアの法服であるようだった。
「その法服……マーキス神官ですか?」
比較的若いウェルシュ助祭が口を開いた。それを受けて、シンシアは慌てて名乗る。
「あの、マーキス神殿司祭を務めているシンシア・リオールと申します」
「司祭……?」
二人は驚いた様子だった。まだ年若いシンシアが司祭位にあることが意外だったのだろう。
「左様、シンシア殿は『天神の巫女』であるからして」
「そう言えば、『天神の巫女』はまだ十代だと聞いたことがあるな」
ヴァンデス司祭は納得したように頷く。だが、そうなると別の疑問が浮かんだのだろう。彼は余計に訝しんだ様子だった。
「その『天神の巫女』が、いったいなんのご用かな?」
「その前に、支配人を紹介しておきたいのである」
ヴァンデス司祭の問いかけに被せて、ベイオルードは俺の肩を叩いた。それを受けて、俺は一歩前へ出る。
「初めまして。ルエイン帝国第二十八闘技場の支配人、ミレウス・ノアと申します」
「二十八闘技場……」
その瞬間、二人の空気が戸惑ったものに変化した。やがて、年かさのヴァンデス司祭が口を開く。
「二十八闘技場の支配人が、私とウェルシュ助祭に用事となれば……先だっての交流試合のことかな?」
彼らの雰囲気は少し変わり、わずかに警戒心を滲ませていた。
「その通りです。……彼の死について、お二人を責めるつもりはありません。ただ、私たちは真実を知りたいのです」
「真実、とは?」
「フィエル……『疾風迅雷』の遺体には、治癒魔法を使った痕跡がありませんでした。最初は即死だったからだと思いましたが、傷口からすると、即死というほどではなかったはずです」
最初から本題を切り出す。ディスタ神官はあまり回りくどいことを好まないし、前置きは不要だろう。
「そうか……」
ヴァンデス司祭の表情が神妙なものに変わる。彼はウェルシュ助祭と目を合わせると、小さく頷いた。
「……治癒魔法が間に合わなかったことは事実だ。それについては、誠に申し訳なく思っている」
「間に合わなかった、とはどういう意味でしょうか?」
「あの日、ディスタ闘技場に詰めていた救護神官は三人いた。だが、いくつかアクシデントがあったのだ」
そう語る司祭は渋い顔をしていた。
「まず、私に支配人から呼び出しがかかった。今後の救護神官の派遣について相談があるが、今しか時間が取れない、と言われてな。
他にも救護神官は二人おり、救護活動に支障は出ない。そう判断した私はジークレフ支配人代理が待つ支配人室へ向かった」
ジークレフ支配人代理。その名前で蘇る嫌な記憶に蓋をすると、俺は言葉の続きを待った。
「そして次に、観客同士が殴り合いの喧嘩をして、流血沙汰になった。怪我の程度がひどく動かせないということで、マディラ助祭が客席へ赴いた」
「なるほど」
マディラ助祭というのは、三人目の救護神官のはずだ。彼女もディスタ神官らしいから、後で話を聞く必要があるな。
そして、観客同士の喧嘩はうちでもよくあることだ。大怪我を負った例は珍しいが、皆無というわけではない。
「そして、神官がウェルシュ助祭一人になったタイミングで、さらなる出動要請があった。観戦に来ていた貴族が突然意識を失ったのだ」
「私まで救護室を出てしまうと、治癒魔法の使い手が誰もいなくなる。一度はそうお断りしたのですが、相手は貴族であり、遅くなると不興を買って従業員が報復されるかもしれないし、支配人室のヴァンデス司祭がすぐに戻ってくる予定だと懇願されまして……」
そう話すウェルシュ助祭の表情は沈んでいた。彼の話を引き継ぐように、再びヴァンデス司祭が口を開く。
「……だが、私に救護室に戻るようにとの話はなかった。さして急ぎでもない話を、長々と支配人代理から聞かされていただけだ」
「連絡ミス、でしょうか……」
「さあな……」
呟くシンシアに曖昧に返事をすると、俺はウェルシュ助祭に視線を向けた。
「ちなみに、その意識を失った貴族の容態はどうだったのですか?」
「それが、よく分からなくて……。治癒魔法を使っても目を覚まさないし、見た感じではどこが悪いかも分かりませんでしたから。こんなことは初めてだと、ご家族も困惑するばかりで……」
「その貴族は、今は元気なのですか?」
「しばらくして、突然目を覚ましました。記憶が混乱していたようで、何が起きているのか把握できず、私に色んな質問をしてきました」
「……ご家族ではなくウェルシュ助祭に、ですか?」
「ええ、そうです」
一瞬きょとんとした表情を浮かべてから、彼は素直に頷いた。ということは……。
「それで、フィエルが救護室に担ぎこまれた時には、誰もいなかったわけですね」
「……申し訳ない」
「私の判断ミスとなじられても仕方ありません」
二人の謝罪を受けて、俺はゆっくり首を横に振った。
「先程も申し上げた通り、お二人を責めるつもりはありません。事実を教えてくださってありがとうございます」
答えながら、俺は今までに得た情報を整理していく。だが、どう考えても不愉快な結論になりそうだった。
「あの、ミレウスさん……?」
服の裾をきゅっと引っ張られて、俺は我に返った。見れば、シンシアが不安そうな面持ちで俺を見上げている。
「どうした?」
「その……また、凄いお顔をしていましたから……」
その言葉で、慌てて表情筋を緩める。正直に話してくれた神官二人に、この顔を見せるのは申し訳ないからな。
「ヴァンデス司祭、ウェルシュ助祭、本当にありがとうございました。今日はこれで失礼します」
「ああ。……彼の死については本当にすまないと思っている。ディスタ神は死を恐れぬ勇気を貴び、戦死者を祝福するが、救える命を見捨てたいわけではない。何か聞きたいことがあれば、いつでも訪ねてくれ」
「ありがとうございます」
答えると、俺はベイオルードの先導に従ってもと来た道を戻った。
◆◆◆
「マディラ助祭も似たような感じだったな……」
「はい……どうして、よりによってフィエルさんが致命傷を受けた時に……」
ディスタ神官への聴き取りを終え、ベイオルードと別れて神殿の正門をくぐった俺とシンシアは、同時に小さな溜息をついた。
ヴァンデス司祭たちに話を聞いた後で、もう一人の救護神官であるマディラ助祭にも話を聞いたのだが、大きな進展はなかった。
彼女は喧嘩が起きていると言われた場所へ赴いたが、そこには誰もおらず、血の跡が点々と付いていたという。そして、場所を移して再び殴り合っていた二人を探し出して仲裁し、治癒魔法ついでに説法を一つして戻ってきたらしい。
ディスタ闘技場は広いため、彼らの捜索に思いのほか時間がかかり、フィエルの試合終了には間に合わなかったのだという。
予想通りと言えば予想通りだが、今後どう対処するべきだろうか。そう考えていた俺は、向こうから来る人影に気付いて、思わず眉根を寄せた。
「あれは……」
「おや、ミレウス支配人ではありませんか」
「ジークレフ支配人代理、ご無沙汰しています」
それはディスタ闘技場の支配人代理であるジークレフだった。その様子からすると、ディスタ神殿へ向かうところだったのだろう。
今日は何も言わずにおこう。そう考えて歩き出した俺だったが、すれ違いざまにジークレフはぼそりと口を開く。
「『疾風迅雷』のことは残念でした」
「……!」
言いながらも、彼の表情に哀悼の色はない。むしろ笑顔を隠しているように思えた。腰の剣を抜き放ちたい衝動を堪えながら、俺は仕事用の笑顔を浮かべる。
「ええ、本当に残念です。ディスタ闘技場ともなれば、確固たる救護体制を確立していると思っていたのですが」
さすがに黙って流す気にはなれず、俺はちくりと嫌味を混ぜる。
「ほう……それでディスタ神殿を訪問したわけですか」
嫌味はしっかり伝わったらしい。ジークレフは俺たちの後ろにある神殿へ目をやった。
「あれは不幸な事故でした。まさか、たまたま神官全員が場を離れていようとは。支配人として忸怩たる思いですが、彼らディスタ神官を責めるわけにもいきませんからね」
「ええ、私も彼らの責任を追及するつもりはありません」
その言葉を受けて、ジークレフはニヤリと笑った。
「ミレウス支配人が冷静な方でよかった。彼らディスタ神官はサボっていたのではなく、各々が職務を果たしていたのですからね。責任を追及するのはお門違いというものです」
「まったくです。……責任を追及するとすれば、その相手はディスタ闘技場の支配人ということになるでしょうからね」
笑顔で告げるジークレフに、俺も笑顔で応じる。その言葉にジークレフの表情が強張った。
「何を……」
「聞けば、試合中に救護神官を支配人室へ呼びつけていたとのこと。通常ではあり得ない話です」
「それは、急ぎの用件があったからです。私とて無闇に救護神官を呼びつけるようなことはしない」
「先ほどヴァンデス司祭にお伺いしたところ、急ぎの用件ではなかったかのような口ぶりでしたが」
「……私と彼らでは立場が違います。私にとっては火急の用でも、彼らには急ぎの用件に思えなかったのかもしれません」
「また、最後に一人しか残っていない神官を、無理やり貴族の治療に向かわせたことにも違和感があります」
「違和感、とは?」
笑顔を浮かべたままのジークレフだが、その表情は強張っており、声には焦りが感じられた。何も後ろめたいことがなければ、こんな反応をすることはないだろう。
俺はこっそり周囲を確認すると、少しずつ声のトーンを上げていった。
「ディスタ闘技場との交流試合で『疾風迅雷』が死亡したことについては、仕組まれたものではないかと、そういう声が内部から上がっているのです」
「何を……!」
ジークレフの目が見開かれる。気付かれないとでも思っていたのだろうか。
「救護神官の一人は支配人に不急の呼び出しを受け、一人は喧嘩で動けないレベルの大怪我をしていたはずの観客が動き回り、所在を探り当てることに時間を取られた。
そして、最後の一人は原因どころか本当に体調を崩していたかも不明の貴族の救護で不在。……意図的に救護室から神官を排除していたように感じられます」
俺は声を荒げた。その内容に驚いたのか、それとも俺の剣幕に驚いたのか、シンシアが俺を見上げる。
「こうなってくると、『疾風迅雷』が今回の相手と対戦前に揉めていたことも怪しく思えてきますね」
「それは言いがかりだ。ミレウス支配人は有力な剣闘士を失って悔しいのだろうが、ただの推論で非難するのはやめてもらいたい」
俺につられたのか、それとも言いがかりに憤ったのか、ジークレフの声も大きくなる。
「それでは、三人もいた救護神官がたまたま出払い、偶然にもそのタイミングで『疾風迅雷』が致命傷を受けたとおっしゃるのですか?」
「その通り。すべては偶然が重なって起きたことだ」
彼の言葉を受けて、俺はわざとらしく溜息をついた。
「今回の事件について私は二つの可能性を考えました。……意図的なものだったのか、それとも支配人の失態によるものだったのか、の二つです」
「私の失態、だと……?」
その言葉にジークレフの眉がつり上がった。どうやら彼のプライドを刺激したらしい。
「意図的なものでない場合、救護体制の構築や従業員の教育に問題があったということですからね。ディスタ闘技場での剣闘士の死亡率が高いことは存じていますが、それが救護体制の甘さにあるということであれば、それは特色ではなく手落ちと言うべきでしょう」
「いい加減にしろ! 剣闘士は試合で命を落として当然だ。それを受け止める覚悟がないなら、闘技場の支配人になどなるな!」
ジークレフはカッと目を見開いて言い返してくる。だが、こちらも黙るつもりはない。
「戦いの末に命を落とすことは否定しません。ですが、意図的に剣闘士を殺すことは容認できませんね」
「甘い男だな。観客は剣闘士の死という刺激的な娯楽に熱狂するために、闘技場に足を運んでいるのだ」
「昔はそうだったかもしれません。ですが、今は違います。研鑽を積んだ技術のぶつかり合いこそが、闘技場の醍醐味でしょう。
それほどに死が尊いとおっしゃるのであれば、罪人の処刑でも眺めていればよろしい」
「貴様――」
俺の挑発的な物言いに、ジークレフがなおも言い募ろうとした時だった。俺たちの間に逞しい巨体が割って入ってくる。俺の記憶に間違いがなければ、このディスタ神殿の幹部クラスのはずだ。
「お二人とも、それぐらいにしてはいかがですかな。参拝に来られた人々が驚いていますぞ」
「申し訳ありません」
素直に謝罪する。周りを見れば、かなりの数の人間が俺たちを遠巻きに見つめていた。
「少なくとも、この場での口論は不適切でした」
そう答えると、ディスタ神官は満足そうに頷いた。
「場所を変えますかな? ご要望とあれば、神殿の一室をお貸ししますが」
「不要です。ミレウス支配人の一方的な言いがかりですからね。根拠のない話に付き合うつもりはありません」
俺より早くジークレフが口を開く。気まずい様子に見えるのは、無数の視線が周囲から注がれているためだろうか
実際にはずっと前から注目されていたのだが、冷静になってはじめて気付いたのだろう。
「当て推量で非難されてはかないません。私は失礼します」
ジークレフは不機嫌な様子で宣言した。この男に言ってやりたいことは山のようにあるのだが、彼の言葉は正しい。
俺の予想通りだとしても、関わった当人が自白しない限り、こちらの疑念は偶然の一言で片付けられてしまうのだ。
確実性に欠ける殺害計画だが、その分証拠は残りにくい。そういう意味では、ジークレフは狡猾だった。
「それでは、失礼」
演技がかった口調で、ジークレフは俺の脇をすり抜けていく。その背中に向かって、俺ははっきりと宣言した。
「第二十八闘技場は、今回の疑念が解消されるまで、ディスタ闘技場との交流試合を中止します」
「……」
ジークレフは振り返らない。俺を完全に無視するつもりなのだろう。だが、それでも俺が本気だということを伝える必要があった。
……ただし、それを伝えたいのはジークレフではない。
「ディスタ神殿にご迷惑をかけて、誠に申し訳ありませんでした」
神官に、そして周囲の人々に丁寧に謝罪すると、俺はシンシアを目で促す。
「あの、ミレウスさん……?」
「行こう」
「は、はい……!」
そして、俺たちはディスタ神殿を後にした。