異変 Ⅰ
【支配人補佐 ミレウス・ノア】
「最近の街の様子?」
「ああ。見かけない顔が増えた気がしねえか?」
親父がそう切り出したのは、ユーゼフを含めた三人で朝食を取っているときだった。まだ朝の早い時間帯だが、早朝からトレーニングをしていたおかげで、目はすっかり覚めている。
「そうかな……あまり意識してなかった」
親父に問われて記憶を検索したものの、俺は首を傾げるしかなかった。
「それがどうかした?」
そう尋ねたのは、親父の表情が世間話にしては真剣なものだったからだ。だが、親父は首を横に振る。
「ちょっと気になることがあってな。……ま、気のせいだろうがよ」
「来月には建国祭があるし、その関係じゃないかな」
今度はユーゼフが言葉を返す。一年前にランキング十三位だった彼は、今では剣闘士ランキング八位という押しも押されもせぬ大物剣闘士だ。
その爽やかな性格や容姿も手伝って、女性ファンを中心として非常に高い人気を誇っており、商人や貴族の催しに呼ばれることも多くなっていた。
「それにしちゃ、少し早すぎねえか? それに顔ぶれだけじゃねえ。空気もどこか張り詰めてる気がする」
その言葉に俺とユーゼフは顔を見合わせる。気配の察知についてはかなり自信がある俺たちだが、街全体の空気となれば話は別だ。
しばらく悩んでいた親父は、食事の手を止めて口を開いた。
「ミレウス、今日の仕事は任せていいか?」
「……それは構わないけど、どこへ行くんだ? 支配人の居場所くらいは把握しておかないとな」
「ちょいと神殿に行こうと思ってる」
「ディスタ神殿?」
「いや、ティエリア神殿だ。ついでにマーキス神殿にも行くかもしれねえ」
「へえ……珍しいね」
元剣闘士であり、闘技場の支配人である親父は戦神ディスタと縁が深いが、地神や天神とはあまり馴染みがない。それどころか、天神マーキスの神官に至っては闘技場を快く思っていない者も多いはずだ。
「マーキス神殿に行くかどうかはティエリア神殿次第だが……天神の古狸は話が分かりにくいからな。伝手のあるティエリア神殿で用事が済めばいいんだが」
「伝手?」
「ああ、フェルナンドさん、だっけ」
ユーゼフが首を傾げる横で、俺は一人納得する。一年ほど前に、親父が冒険者をやっていた頃のパーティーメンバーがこの街を訪ねてきたことがあるが、その時に紹介された一人がティエリア神殿の重鎮だったはずだ。
本人はとっくに自分の神殿へ帰ったはずだが、やはりこういった人脈はものを言う。
「とにかく分かったよ。今日は親父抜きの体制で仕事を回すことにする」
目的を話そうとしない態度は親父らしくなかったが、神殿絡みの話に機密が付きまとうことは珍しくない。今回もそうなのだろうと納得すると、俺は皿の上に残っていた肉を頬張った。
「ユーゼフは伯爵邸でお茶会だったよな?」
そして、ユーゼフの予定を確認する。本来、試合と訓練以外のスケジュールは剣闘士任せなのだが、ユーゼフは家族同然ということもあり、俺も把握することにしていた。と言っても、如才ない彼が予定を忘れることはないのだが。
「そうだよ。僕以外にも上位ランカーが何人か呼ばれているらしい。どうせなら彼らと戦いたいものだね」
「お疲れさま。今月中にもう一度あるんだっけ? 最近多いな」
「ご婦人方と会話することは楽しいからね。悪いことばかりじゃないさ」
「ユーゼフらしいぜ」
ユーゼフの言葉を聞いて親父は笑い声を上げる。だが、その目は何事かを思案しているようだった。
◆◆◆
「今日もイグナートは用事か。最近多いな」
親父がちょくちょく闘技場を空けるようになってから、十日ほどが過ぎていた。俺の報告を聞いて、副支配人であるダグラスさんは不思議そうに口を開いた。
「すみません……」
「ミレウスのせいではない。それにイグナートのことだ。何か理由があるのだろう」
ダグラスさんは窓の外に目を向ける。まだ第一試合が始まるまでに時間はあるが、観客席は少しずつ埋まってきていた。
その光景を目にしていた俺の脳裏を、ふと親父の言葉がよぎった。
「ダグラスさん。この街のことなんですが、最近見かけない顔が増えたと思いますか?」
「突然どうした。……言われてみれば、そうかもしれん」
ダグラスさんは驚きながらも、律儀に問いかけに答えてくれた。そして、少し悩んだ後で言葉を追加する。
「見かけない顔が増えたというよりは、妙な空気を感じる、と言うべきか」
「妙な空気?」
「うむ。具体的なことは分からぬが……」
ダグラスさんの回答は不安を煽るものだった。親父とダグラスさん。俺が尊敬する二人の剣闘士が、揃って違和感を覚えているのだ。それを一笑に付す気にはなれなかった。
親父が同じような話をしていたと告げると、ダグラスさんの眉が顰められた。
「私はともかく、イグナートの勘は当たるからな。ということは、ここ数日の用事はそれか」
「そうだと思います。……ただ、何を気にしているのかが分かりませんけど」
「ティエリア神殿か……伝手のない私では、何も聞き出すことができなさそうだな。そういったことはユーゼフに任せるしかあるまい」
「たしかにそうですね」
俺は頷く。親父が公にしていないため、俺もユーゼフも積極的に謎を探ろうとはしていなかった。だが、少し独自に探りを入れたほうがいいかもしれない。
ティエリア神官に知己はいないかもしれないが、ユーゼフの人脈なら間接的に情報収集に当たることはできるだろう。
社交界で引っ張りだこのユーゼフは、今日も皇子主催の茶会で皇城に招かれており、戻ってくるのは夕方になるはずだ。だが、帰ってきたらその話をしてみよう。
俺はそう決めると、支配人業務に取り掛かった。
◆◆◆
――それは唐突に始まった。
闘技場では今日の第二試合が終了し、昼休憩をはさんで第三試合に移る頃合い。闘技場の歓声とは異なるざわめきが聞こえた気がして、俺は支配人室で首を傾げた。
「なんだ……?」
誰かが『試合の間』に上がったのかと思ったが、そこには次の試合を控えた石床があるだけだ。それに、声は闘技場の外から聞こえるように思えた。
訝しんだ俺は『試合の間』に面した窓から身を乗り出す。同じ疑問を抱いているのか、周りをきょろきょろと見回す観客の姿が目に入った。
そのざわめきは止むことがなく、それどころか次第に大きくなっている。胸騒ぎを覚えた俺は、外の様子を確認しようと支配人室の扉を開いた。
「ん?」
ドタドタという足音とともに、息せき切ってこちらへ走ってくる従業員が視界に入る。彼は俺の姿を見るなり、大声で叫んだ。
「支配人補佐、大変です! 街が襲撃されています!」
「襲撃……?」
それは一大事を伝える報だったが、あまりピンとこないのも事実だった。諸外国がこの帝都を攻めようとすれば国境を越えた時点で見つかるし、途中にある街を無視することもできないはずだ。
「詳しいことは分かりませんが、武装した兵士やモンスターが無差別に街を襲っています!」
従業員は切迫した声で報告を続ける。俺は開けっ放しの扉から支配人室へ戻ると、再び観客席を確認した。
「あれは……!?」
まず視界に入ったのは、空を飛ぶ十体ほどの虫型モンスターだった。とは言え、そう強い部類ではない。俺も倒したことがあるし、鍛えた戦士が数人いれば遅れをとることはないだろう。
……だが、ここにいるのは戦士ではない。
「うわっ!? なんだよあれ!?」
「モンスター!? どこかから逃げ出したの!?」
自分の命を脅かすモンスターの登場に、観客席が色めき立つ。そう思ったのも束の間、巨大な昆虫たちは手当たり次第に観客を襲い始めた。
「うわあああっ!? 誰か助けてくれ!」
「や、やめてよ! こっちに来ないで……きゃぁぁぁっ!」
瞬く間に怒号と悲鳴が飛び交う。俺は簡単な指示書を扉に貼り出すと、支配人室を駆け出して放送室へ向かった。
「誰もいないか……」
到着した放送室は無人だった。実況者は昼食を食べに出ていたのだろう。構わず実況用の拡声魔道具を手に取ると、俺は意図的に落ち着いた声を出した。
『闘技場支配人室です。現在、十体の飛行モンスターを確認しています。モンスターの近くにいる方々は、落ち着いて距離を取ってください』
続いて、内部に指示を出す。
『業務連絡。従業員はモンスター周辺のお客様を安全な場所へ誘導。剣闘士はモンスターの討伐に向かってください』
そう言っている間に、客席を襲っていたモンスターの一体が弾け飛んだ。その傍にいるのは、次の試合に出場予定だった剣闘士だ。すでに動き出していたのだろう。
俺は彼に感謝すると、客席の様子を窺う。未だ混乱している客席だが、一体とはいえ、剣闘士がモンスターを仕留めたことで少し落ち着いたように見える。
このまま残る九匹も倒すことができればいいが……。そう思った矢先だった。二体目の巨大虫を倒そうと、槍を振りかぶった剣闘士の胸元が爆発した。
「何が起きた!?」
爆発で重傷を負ったのだろう。槍を失い倒れる剣闘士に、形勢逆転とばかりにモンスターが襲いかかる。その様子を目の当たりにした観客たちから悲鳴が上がった。
「うわああああっ!」
「なんだ!? モンスターの特殊能力か!?」
混乱する彼らに答える者はいない。だが、俺の目はその答えを見つけていた。
『Cブロックに侵入者を確認。遠距離攻撃手段を保持している模様。付近の方は退避してください』
怒りを押し隠して現状を伝える。侵入者は二十人ほどだろうか。剣などの近接武器を持つ者から、杖や弓を持つ者までおり、役割分担がなされているようだった。
いくら闘技場とはいえ、有事の際の戦力などたかが知れている。擁する剣闘士は多くても、その日に出場予定の剣闘士はほんの一握りだからだ。
対して、相手は二十名からなる部隊に、九体のモンスターのおまけ付きだ。数ではすでに負けているし、個々の戦闘力で剣闘士が勝っているという保証もない。唯一の希望はダグラスさんだが、ちょうど用事で出かけており、戦力として数えることはできなかった。
「た、助けてえええ!」
「ひっ! 止めてくれ! 殺さないでくれっ!」
部隊とモンスターは瞬く間に闘技場を蹂躙し、客席は大混乱に陥っていた。他人を押しのけて、我先にと闘技場から逃げ出そうとする人々。その過程で突き飛ばされ、踏みつけにされる人々。そして、そんな彼らを容赦なく手にかけていく兵士やモンスター。
地獄絵図のような闘技場を、俺は歯を食いしばって見つめていた。慣れ親しんだ闘技場は赤黒く染まり、禍々しい処刑場と化している。
全身が沸騰するような怒りに呑まれ、奴らを一人残らず叩き斬ってやりたい衝動に駆られる。だがその一方で、俺では勝てないだろうという冷静な分析をしている自分もいた。
これが親父なら。ユーゼフなら。数の差をものともせずに押し返すことが可能だろう。だが、親父はティエリア神殿にいるし、ユーゼフにいたっては皇城だ。同じ帝都とは言え、かなり離れた場所にいる。この事態を収めることはできない。
そう悩んでいる間にも、一人の剣闘士が兵士の群れに突撃していく。血の気は多いが、兄貴肌で他の所属剣闘士にも好かれている人物だ。
『待っ――』
だが、彼が兵士と斬り結ぶことはなかった。兵士たちの後衛から火炎球が放たれ、なんとか回避した彼目がけて続けざまに矢が突き立つ。
矢の何本かは剣で弾いた剣闘士だったが、そこまでだった。そうして動きの止まった戦士は、奴らにとっていい的でしかなかった。
敵の後衛から雷条が迸り、剣闘士の胸を貫く。崩れ落ちた彼にとどめを刺すべく、前衛が得物を持って殺到した。
視界の向こうでばっと血が噴き上がる。遠目からでも、彼が致命傷を受けたことは間違いなかった。
「……っ」
そして、邪魔者は消えたとばかりに、二十名からなる集団は殺戮を再開する。逃げ惑う観客たちを一方的に手にかけて、彼らは悠然と闘技場内を練り歩く。たまに襲い掛かる剣闘士や観客もいたが、最初の剣闘士のように集中砲火を浴びるだけだった。
『単独で立ち向かっても数で圧倒される! 立ち向かうなら連携を――』
そう叫んだ時だった。奴らの気配が放送室へ向けられた。直後、複数の魔法がこちらへ向かって射出され、放送室を焼き尽くす。
「――っ」
すんでのところで放送室を飛び出した俺は、自分が何を為すべきかを考える。全体を見ることができて、なおかつ場内に声を届けることができた放送室はもうない。支配人室も全体を見ることができるが、あそこからでは働きかけができない。
観客は出口に向かって殺到しているため、上階であり、奥まったところにあるこのエリアはがらんとしていた。その中を進み、闘技場の様子が見えるポイントを探す。
やがて観客席の最上層にたどり着いた俺は、事態が何も好転していないことを知った。逃げまどう観客の数は減っているが、それが無事に逃げ切ったからだとは限らない。
そして、もはや避難誘導をしている従業員の姿も見当たらない。命を落としたのではなく、逃げたのであればいいが……。
「気付かれたか」
場内の様子を確認していた俺は剣を抜いた。虫型モンスターの一体が俺の存在に気付いたのだ。
こちらへ一直線に飛んでくる甲虫を確認すると、俺は廊下へ繋がる通路へ数歩下がる。俺の狙い通り、突貫してきた甲虫はその巨大さが仇となり、通路に入ることはできなかった。
壁に激突して動きが止まったモンスターの下に潜り込むと、比較的柔らかい腹部に剣を突き立て、そして一気に切り裂く。
「ジイィィィッ!」
じたばたともがく太い脚に打たれ、俺は観客席のほうへ押し出される。次の攻撃を警戒した俺だったが、それは杞憂だったらしい。緑色の体液を噴き上げていた甲虫は動きを止め、耳障りな鳴き声が聞こえなくなる。
――と。
次の瞬間、俺の視界がカッと明るくなる。熱気とともに迫るそれは、敵部隊が放った火炎球だった。モンスターが倒されたことで、こちらへ関心が向いたのだろうか。
「くっ!」
顔が強張る。モンスターに気を取られて、周囲への警戒が甘くなっていたことを悔むが、もう間に合わない。せめてダメージを最小限にしようと、俺は傍にあったモンスターを盾にして――。
「……ミレウス、怪我はないか」
だが、その必要はなかった。俺の視界には、巨大な魔法盾を構えた背中が映っていたのだ。
「ダグラスさん!」
「遅くなった。……場所を変えるぞ」
ダグラスさんは言葉少なに答えると、即座に動き出した。ダグラスさんや俺を目がけて魔法や矢が浴びせられるが、『金城鉄壁』の守りを貫くことはできない。
ダグラスさんが向かった先は貴賓席だった。中のお客はとっくに脱出しているようだが、何を考えているのだろうか。
試合を観やすいようにと、試合の間に向かって突き出す形の貴賓席にたどり着くと、俺たちはその裏へ回った。
「緊急事態だ。ミレウス、手荒に行くぞ」
「え?」
俺が首を傾げる間もなく、ダグラスさんは魔法盾を掲げた。俺たちを追いかけてきた敵部隊が散発的に遠距離攻撃を放つが、貴賓席の陰に隠れる形の俺たちに当たることはなかった。
「攻性解放」
ダグラスさんの言葉を受けて、魔法盾が凄まじい光を放った。目が眩むような輝きに、俺も直下に来ていた敵部隊も動きが止まる。
そんな中で、ダグラスさんは盾を床に叩きつけた。
「え――!?」
直後、周囲の床や壁面に無数のヒビが入る。そして、その力を正面から叩きつけられた貴賓席エリアは、接合部を砕かれて真下へ落下していった。――俺たちを追いかけてきた敵部隊の真上へと。
「うおおおっ!?」
「退避しろ!」
「でかい! 間に合わ――」
重たい響きとともに貴賓席エリアが地面に激突する。そして、巨大な石塊と地面に挟まれた敵部隊の末路は語るまでもなかった。
「ダグラスさん、ありがとうございました」
「気にするな」
「それで……街の様子はどうですか?」
俺はずっと気掛かりだったことを尋ねた。用事で外に出ていたダグラスさんなら、周囲の状況も分かっているだろう。
「……酷い有様だ」
ダグラスさんはしばらく言葉を探すように沈黙した後、ぽつりと答えた。
「この闘技場と同じく、謎の部隊やモンスターが帝都中で虐殺を行っている。大人はおろか、赤子まで容赦なしだ」
その言葉からは憤りが窺えた。死と隣り合わせの剣闘士だが、一般人が死ぬことを良しとするわけではない。
やがて、ダグラスさんは闘技場の出入口に目を向けた。
「……行くぞ」
「行くって……どこにですか?」
この闘技場に留まっていてもメリットはない。それは俺にも分かっている。入場料を取る関係で闘技場の出入り口は限定されているため、そこに守備要員を置けば侵入を防ぐことはできるが、それができるだけの人員はもういないし、さっきのように空から侵入されると手の打ちようがない。
だが、ならばどこへ行けばいいというのか。
「ここへ戻ってくる途中で見た限りでは、ディスタ神殿だろうな」
「ディスタ神殿へ?」
「あそこの神官は戦闘能力が高いからな。回復魔法の使い手も多いうえに、距離も他の神殿よりは近い。避難先としては理想的だ」
実際、道中でも多くの人々がディスタ神殿を目指していたという。たしかに、逃げ込む先としては申し分ないだろう。後は衛兵の詰所くらいだが……人々が逃げ込むには狭すぎるか。
そう尋ねると、ダグラスさんは渋い顔で首を横に振った。
「詰所はすでに占拠されていた。真っ先に狙われたのかもしれん」
「そうですか……」
敵は帝都の防衛戦力に対して備えをしていたということだ。迅速な応援は厳しいかもしれないな。
「では、行くとしよう。言うまでもないだろうが、くれぐれも慎重にな」
その言葉に頷くと、俺たちは外へ向かった。