結果
「ねえ、そろそろかしらね」
「もう少し時間がかかるんじゃないか? そろそろディスタ闘技場に順位が貼り出されるとは思うが……」
それは、今日幾度となく繰り返されたやり取りだ。ソワソワした様子のヴィンフリーデに、俺は笑いながら言葉を返した。
「ユーゼフ、早く帰ってこないかしら」
「いくら本気で走ったとしても、もうしばらくかかるさ」
「それに、関係者が多く集まっているだろうからな。ユーゼフに声をかけたい人間も多いはずだ」
今度はダグラスさんが口を開く。その顔もまた小さく笑っていた。
俺たちが支配人室に集まり、浮足立っている理由は一つ。今日は、ルエイン帝国の闘技場ランキングが更新される日なのだ。
三か月に一度更新される剣闘士ランキングと異なり、闘技場のランキングは一年に一度しか更新されない。観客の興味は剣闘士に向いているのだから、その差は当然のことだ。
そのため、闘技場ランキングの結果を気にするのは、俺たちのように闘技場運営に関わっている人間のほうが多かった。
「人選を間違えたかな」
冗談めかして呟く。闘技場ランキングを確認する役目に立候補したユーゼフだが、たしかに彼は人気がある。事あるごとに呼び止められる可能性はあった。
「……いくらなんでも、十位以内には入っているわよね?」
「どうかな……集計期間で言えば、一年のうち十カ月半は前の闘技場での算定だからな。その辺りをどう計算するかは、担当者も悩んでいるようだったし」
「しかし、もう二か月近く経つのか。早いものだな」
俺の言葉を受けて、ダグラスさんがしみじみと呟く。それはもちろん、この新しい闘技場に移転してからの期間だ。
初日こそ予想外の事件が起きたものの、それ以降の興行は順調だった。今は少し落ち着いたが、移転後の一か月は客席が満席になることも珍しくなかったし、今もかなりの稼働率を誇っている。
おかげで収益は大幅に上がっており、扱う金額の桁も変わっていた。あまりの変化に計算誤りを疑い、何度も検算したくらいだ。
「ええ、怒涛のように過ぎ去った二か月でしたね……」
興行は順調だが、もちろん仕事が楽だったわけではない。移転に伴い、今まではルーチンワークと化していた部分もすべて見直す必要があったため、支配人としては大忙しだった。なんとか落ち着いたのは、それこそ数日前の話だ。
なお、古竜の一件については、紛らわしい興行だと支配人を非難する声も多少あったものの、大多数の観客は『極光の騎士』と『大破壊』のタッグマッチを観られた満足感のほうが強かったようで、ほとんど問題にはなっていなかった。
また、貴族等の問い合わせに対し、帝国政府が「事前に許可済みの案件」だったと回答したことも大きかったのだろう。そのせいで「竜を生け捕りにした者の名前を教えろ」だとか「モンスターを操る方法を教えろ」などと言ってくる貴族や同業者もいたが、『極光の騎士』の伝手だと答えれば、それ以上追及してくる人間はほとんどいなかった。
そして、一番気になるのは黒幕の存在だ。ウェルヌス闘技場を中心に探りを入れているが、そもそも古竜を操ること自体があり得ないとされているため、調査は難航していた。
そのためか、極秘裏に動いている帝国も何も掴めていないようであり、これについてはまだ時間がかかるだろう。
「――あの、失礼します」
みんなと話をしていると、支配室の扉からシンシアが顔を出した。どうやら開きっぱなしだったらしい。
「ピィ!」
そして、胸元に抱かれていた雛が元気に鳴き声を上げる。羽をぱたぱたと動かしていたのは挨拶代わりだろうか。
「あら、いらっしゃい」
それを見るなり、ヴィンフリーデは即座に立ち上がった。彼女はいつも通りにノアを受け取ると、幸せそうに羽毛を撫でる。闘技場ランキングのことでソワソワとしていた彼女だが、その顔はすっかり穏やかになっていた。
「ところで、どうしたんだ?」
「それが……」
シンシアは周りに小さく視線をやると、そっと俺の近くへ寄ってくる。そして、小さな声で用件を口にした。
「あの神託のことで、神殿から調査をするように、って言われて……」
「あー……」
なんの神託か、とは聞くまでもない。闘技場を強大な存在が襲うという神託は現実のものとなったのだ。そのことを懸念したシンシアが闘技場にいてくれたおかげで、俺と『大破壊』は古竜と戦えるだけの力を取り戻したのだ。
だが、世間や帝国政府への建前もある。正直にアレが古竜だとは言えないし、第二十八闘技場の興行の一部だったとのスタンスも崩すわけにはいかない。シンシアはすべてを知っているが、正直に話すわけにもいかず、困って相談に来たのだろう。
シンシアを支配人室の隅へ連れていくと、俺たちは小声で会話をする。ダグラスさんは不思議そうな顔をしていたが、ノアをかわいがるヴィンフリーデのほうに意識が逸れたようだった。
「……『極光の騎士』の伝手で竜を手配したが、予想より強大な竜が現れて対応に苦慮した。……こんなところでどうかな。
どうせ、襲来した竜が古竜だったことを知る人間は少ない。支配人の俺が知らなくても、おかしいことはないだろう」
「ええと……」
悩むシンシアを見て、俺ははたと思い当たる。『極光の騎士』に濡れ衣を着せることが嫌なのだろう。
「この口裏合わせについては、『極光の騎士』の了解も得ている。竜を興行のために手配したと言って信じてもらえるのは、『極光の騎士』だけだ」
だが、それでもシンシアは不安げな表情を崩さなかった。
「それは分かりますし、『極光の騎士』さんなら大丈夫だと思いますけど……ミレウスさんはいいんですか?」
「俺……?」
首を傾げていると、シンシアは困ったようにこちらを見る。
「だって、それじゃミレウスさんが悪者になっちゃいます。神託が下されるほどの存在を興行に使おうとした、って……」
「あんな大物だとは分かっていなかった、ということでどうかな。支配人の確認不足が招いた惨事だったということなら、一応筋は通るだろ?」
「そう、ですけど……ミレウスさんは何も悪くないのに」
「今回の件を丸く収めるためには、誰かが割を食うことになるからな」
肩をすくめながら、マーキス神殿を敵に回した場合のデメリットを考える。まず、シンシアの救護神官としての派遣は打ち切られるだろう。天神教徒は第二十八闘技場を利用しないよう呼びかけることもできるし、場合によっては帝国政府をも動かしかねない。さすがに営業停止になるとは思わないが、マーキス神殿の威光は強い。
ただ、意図的にマーキス神殿と敵対したわけではないし、死傷者が出たわけでもない。神託を大っぴらにしていたわけでもないから、面目が潰れることにもならないはずだが……マーキス神官は闘技場が嫌いな人間が多いからな。どう転ぶかは分からなかった。
俺の言葉にまだ納得していないのか、シンシアは顔を俯かせて何事かを考えている様子だった。
「……分かりました」
やがて、彼女は小さく頷くと顔を上げる。
「今回の事件は、あの神託とは関係ないです」
「……え?」
「神託自体が私の勘違いか、解釈間違いだったんです。……だって、神託が下されるほどの存在を、たった二人で討伐できるはずないです」
シンシアは穏やかに微笑む。その表情からは芯の通った強さが感じられた。
「それで……いいのか?」
それはつまり、虚偽の報告をするということだ。それに、『天神の巫女』が神託を誤ったとなれば、立場が悪くなったりしないのだろうか。
「虚偽は罪ですけれど……ミレウスさんが悪者にされるのはもっとおかしいです」
シンシアはきっぱりと言い切った。彼女に負担をかける申し訳なさと、そこまで言ってくれる嬉しさが相まって、どうにも複雑な気分だった。
「……ありがとう、シンシア。助かる」
そして、素直に礼を口にする。あの微笑みを見た後では、それ以上何も言えなかった。
「……戻るか」
「はい!」
そして、俺たちは支配人室の中心へ向かう。ノアとじゃれていたヴィンフリーデたちの視線がこちらを向いた。と――。
「ダグラスさん、鳥がお好きでしたか」
「……なんのことだ」
ノアの頭を恐る恐る撫でていたダグラスさんは、高速で手を引っ込めた。そして、わざとらしく咳払いをする。
「ピュイ?」
突然なくなった手を不思議に思ったのか、ノアがきょろきょろと周囲を見回す。
「……!」
その様子を名残惜しそうに見ながらも、ダグラスさんは俺のほうに向き直った。ちょっとからかってみようかな。
「ほら、ノアが探してますよ?」
「何か勘違いしているようだな。……私はヴィンフリーデに勧められて、頭に手を置いてみただけだ」
「そんなに照れなくても、誰も笑ったりしませんよ」
「ミレウスだって、誰もいない時は緩みきった顔でノアちゃんを撫でているものね」
すると、ヴィンフリーデが即座に裏切る。ダグラスさんの目が光った……気がした。
「ほう……緩みきった顔、か」
「それはヴィーの勘違いです。ノアが支配人室へ来ると、即座にヴィーが抱きにいきますからね。俺が触れる余地はありません」
咄嗟に弁解するが、ヴィンフリーデは余裕のある表情で口を開いた。
「私がいる時は、でしょう? シンシアちゃんしかいない時は、もっとノアちゃんに構っていると聞いたわよ」
「誰がそんなことを――」
言いかけて口を閉じる。言うまでもなく、それが分かるのは一人しかいない。
「えっと、あの、緩みきったお顔だなんて言ってないです。優しそうなお顔だなって……」
今度はシンシアがあたふたと口を開く。彼女は弁解しているようだが、どう考えても逆効果だった。
「……ミレウス、私たちのことは気にしなくてもいいのだぞ。気兼ねせずノア君を撫でるといい」
表情こそいつも通りだが、ダグラスさんの目は笑っていた。……いつの間にか攻守が逆転したな。どうしてこうなった。
どう切り抜けるか悩んでいたところ、支配人室の扉がノックされた。それを幸いと俺は扉へ向かう。
「ユーゼフか……?」
「どうかしら……支配人室に入る時、ユーゼフはあまりノックしないから」
ダグラスさんとヴィンフリーデの会話を耳に入れながら扉を開く。すると、そこに立っていたのは『紅の歌姫』だった。
「あら、みんな揃っているのね」
「どうしたんだ?」
「今日って、闘技場ランキングの発表日でしょう?」
言いながら、レティシャは支配人室へ入ってくる。彼女を入れて五人と一羽が部屋にいるが、新しい支配人室にはまだまだ充分なスペースがあった。
「そうだが……レティシャが闘技場ランキングを気にするのは意外だったな」
剣闘士ランキングならともかく、闘技場ランキングだからな。彼女にはそう面白い情報でもないだろう。正直なところを口にすると、レティシャはわざとらしい上目遣いで俺を見上げた。
「それも気になるけれど、最新の闘技場ランキングを知った時のミレウスの顔を見に来たのよ」
「なんだそりゃ……そんなに面白い顔はしないぞ」
「うふふ、楽しみにしているわ。今度は空間転移したりしないわよね?」
「必要がないからな」
俺は肩をすくめる。レティシャが言っているのは、興行初日の古竜討伐時に、俺が不在だった理由だ。
彼女の問いに対して、最初は古代装置を操作していたと答えたものの、地下階段の入口にも結界を展開していたと言われたことから、咄嗟に「古代装置の非常用機能で空間転移した」とごまかしたのだ。
それ以上追及してくることはなかったが、その後もちょくちょくこの手の話を振ってくるあたり、疑いは晴れていないのだろう。
単刀直入に聞いてこないのは、確証を得てからと思っているのか、それとも気を遣ってくれているだけなのか。レティシャの性格ならどちらもあり得た。
すでに彼女は多くのことを知っている。『極光の騎士』の正体に最も近い位置にいると言ってもいい。今後、彼女とどう付き合っていくかは、大きな課題となっていた。
「あら……?」
俺がそんなことを考えている間に、レティシャは支配人室を見回した。
「そう言えば、『金閃』はいないのね。こういう時にはいつもいるイメージだけれど」
「ああ。ユーゼフは闘技場ランキングを見に行ってる」
先程までの悩みをかき消すように頭を振ると、レティシャの問いに答える。
「贅沢な使いっぱしりね。……すぐ戻って来られるかしら?」
「それなんだよな……」
そして、最近の試合の話や新しい魔法、魔術ギルドの話をしていると、バン、と扉が開かれる。それは、今度こそユーゼフだった。
「やあ、みんなお待たせ。祝ってくれる人を無下に扱うわけにもいかなくて、少し遅れてしまった」
急いで走って来たのだろう、彼の髪はだいぶ乱れていたが、それもまた様になっている。美形は得だな、などと関係のないことを考えながら、ユーゼフが懐から紙を取り出すのを待つ。
祝ってくれたということは、順位が上がったと考えて間違いないだろうが、問題はどの程度上昇したかだ。せめて十位以内には入りたいものだが……。
「ほら、これさ」
言って、ユーゼフは綺麗な字で書かれた順位の写しを広げる。そこには、十位までの闘技場が記されていた。
一位【玉 廷】 ディスタ闘技場
二位【黄金廷】 バルノーチス闘技場
三位【白銀廷】 マイヤード闘技場
四位【赤銅廷】 ルエイン帝国第十九闘技場
五位【黒石廷】 ルエイン帝国第二十八闘技場
六位【黒石廷】 ウェルヌス闘技場
七位【黒石廷】 ルエイン帝国第三十闘技場
八位【白砂廷】 ルエイン帝国第九闘技場
九位【白砂廷】 ルエイン帝国第四十七闘技場
十位【白砂廷】 ルエイン帝国第六十二闘技場
写しを何度も見て、自分の目が間違っていないことを確認する。すると、自然と言葉がこぼれた。
「五位か」
「凄いじゃない! 本当に称号をもらえるなんて……!」
ヴィンフリーデは顔を輝かせる。ランキング十位以内の闘技場には、順位に応じて「玉廷」「黄金廷」のような称号が与えられることになっており、栄誉なこととされているからだ。
「それに、補助金が出るのだったか? 『上位の闘技場なんざ金が余ってるんだからよ、それ以外のとこに寄越せよな』と、イグナートがよく言っていたな」
ダグラスさんは懐かしそうに口を開く。たしかに俺も聞いた気がするな。闘技場移転のために多額の負債を抱えている俺としては、補助金の存在は非常にありがたい話だった。
「おめでとう、ミレウス。ふふ……ウェルヌス闘技場より上位なのね」
耳元でレティシャが囁く。以前の一件もあって、あまりウェルヌス闘技場にいい印象を持っていない彼女としては、溜飲が下がる思いなのかもしれない。
「セルゲイ支配人は、今頃怒り狂っているだろうな」
「せっかく妨害行為までしていたのに、報われなかったのね」
そんな会話をしていると、シンシアがひょっこり顔を出した。
「ミレウスさん、おめでとうございます……!」
「ピピッ!」
そして、胸元のノアと一緒に祝いの言葉をくれる。事情が分かっているのか、ノアの鳴き声もいつもとは少し違う感じだった。
「ありがとう。この一年は、シンシアにも色々助けられたな」
「いえ、私は何も……」
照れた様子でシンシアは謙遜する。どちらかと言えば、『極光の騎士』として助けられたことのほうが多いが、救護神官としても大活躍していたことは間違いない。
「マーキス神殿の意向もあるだろうが、今後もうちに来てくれると嬉しい」
「は、はい……!」
「ピィッ!」
控えめな主を補うかのように、ノアが胸を張って小さな羽をぱたぱたと動かした。いつの間にかシンシアの腕の上に立っていたようで、ぴょんぴょんと飛び跳ねるおまけ付きだ。
「ピィ!?」
「――おっと」
そして、懸念通りにシンシアの腕から墜落したノアを受け止める。ほわほわとした羽毛の感触が伝わり、頬が緩みそうになるのを必死で堪えると、きょとんとした様子のノアに話しかける。
「……ノアもよろしくな」
「ピピッ! ピィ!」
ノアは元気に鳴き声を返すと、今度は俺の腕の上をちょこちょこと跳ね回ろうとする。もう慣れてきたが、本当に元気な雛だな。
「……ミレウス、あれだけノアちゃんに興味のないフリをしているくせに、美味しいところは持っていくんだから」
恨めしそうな声の主は、もちろんヴィンフリーデだ。俺は跳ねるノアを落ち着かせると、そのまま彼女に手渡す。
「別に催促したわけじゃないけれど……ありがとう」
そう言いながらも、ヴィンフリーデはノアを嬉しそうに抱きしめていた。あれはしばらく離す気がないな。
「ミレウス、この結果をどう思っているんだい?」
そして、ヴィンフリーデと入れ替わるようにユーゼフが声をかけてくる。
「欲を言えば、三位以内に入って闘技場の命名権を得たかったが……」
闘技場の命名。それは親父の夢の一つだ。帝都では、闘技場ランキングで三位以内に入らなければ、闘技場に独自の名前を付けることができない。
親父はその仕組みに憤慨していたものだが、同時にそれを目標にもしていた。
「この調子で行けば、来年は三位以内を狙えるさ。親父にいい報告ができそうだね」
それを知っているユーゼフは、明るい顔をしていた。そして、少し真面目な顔で付け加える。
「僕もランキングを上げていかないとね。ミレウスにばかりいい格好はさせられないよ」
「ユーゼフのランキングが上がれば、擁する闘技場のランクも上がるからな。ぜひ頑張ってくれ」
「ミレウスは本当に仕事熱心だね」
そして笑い合う。三位以内に入っておきたかったのは本音だが、五位という結果に意外と高揚しているのも事実だった。
「ところで、ユーゼフ? この綺麗な字は誰が書いたものなの? あなたの字じゃないわよね」
と、そこへヴィンフリーデの声が飛んでくる。彼女は闘技場ランキングの写しを手に持って、しげしげと眺めていた。
「ああ、ランキングを書き写していたら、隣にいたお嬢さんがくれたんだ」
「ふうん……手間が省けてよかったわね」
ヴィンフリーデの声は落ち着いていた。嫉妬しているように見えなくもないが、それは穿った見方かな。
「相変わらず、ユーゼフはご婦人に贔屓にされるな。試合の間の外で刺されぬようにな」
そこへダグラスさんが口を挟む。すると、ユーゼフは笑顔で首を横に振った。
「心に決めた女性の刃以外は受け入れませんよ」
「刺される可能性は否定しないのね……」
今度はレティシャが感心したように呟く。
「レティシャだってファンは多いし、他人事じゃないだろう?」
「私は『金閃』ほどファンサービスをしないから、そこまでの事態にはならないんじゃないかしら」
「そうか……?」
「でも、心配してくれてありがとう。嬉しいわ」
そんな話をしていると、ふと甘い香りが鼻腔をくすぐった。いつの間に持ち込んだのか、ヴィンフリーデが机の上で大きなチョコレートケーキを切り分けていたのだ。
「珍しいな」
「うふふ、今日のは自信作よ。お祝いのつもりで頑張ったんだから」
難易度や材料、日持ちの関係で、この類いはあまり作らないヴィンフリーデだが、今日は気合が入っているようだった。
「楽しみです……!」
真っ先に反応したのはシンシアだ。だが、目を輝かせていた彼女は、すぐにはっとした様子で赤面する。
「えっと、あの……すみません、私のことは気にしないでください……勝手にお邪魔した身ですから」
突然の訪問客である自分は、人数外だと考えたらしい。そんな彼女にヴィンフリーデは笑顔を向けた。
「こんなに大きいんだから、シンシアちゃんが遠慮する必要なんてないわ。もちろんレティシャもね」
「ありがとう、ヴィンフリーデ」
言葉を受けたレティシャは、微笑むと意味ありげな視線を俺に向けた。
「そうでなくても、ミレウスの分を分けてもらうつもりだったけれど」
「勝手に決めるなよ……」
「あら、くれないの?」
「二口までだな」
そんな会話にヴィンフリーデが吹き出す。
「一口じゃないところに優しさを感じるべきなのかしら」
「最初から譲る代わりに、これ以上は譲歩しないというメッセージかもしれないよ」
「ミレウスならありそうね」
ユーゼフと楽しそうに話しながら、ヴィンフリーデはチョコレートケーキを綺麗に切り分けていく。全員に行き渡ったことを確認すると、俺たちはケーキに手をつけた。
「美味しいです……!」
「うん、さすがヴィーだね。美味しいよ」
「本当に美味しいわ……お店を出せるんじゃないかしら」
みんなが口々にヴィンフリーデを褒め称える。さすがに慣れているため、ヴィンフリーデは必要以上に謙遜することなく、笑顔で称賛を受けていた。
「こんなお菓子まで作れるんですね……ヴィンフリーデさんは、お店で働いていたんですか?」
問いかけたのは、誰よりも早く皿を空にしたシンシアだ。
「母から教わっただけよ。食べることにはお金を使う家だったから」
「それでこんなに美味しいなんて、凄いです……!」
シンシアは目を丸くして驚いていた。何やら考え込んでいるが、自分でも作れないか検討しているのだろうか。そんなことを考えながら、残りのケーキを口に入れる。
「……それにしても、本当に美味いよな。そろそろエレナ母さんを抜いたんじゃないか?」
「そんなことを言うと母さんが拗ねるわよ。『私だって上達しているのに』って」
「とは言っても、エレナ母さんのケーキを食べる機会がないからなぁ。帝都まで持ってくると、途中で傷むだろうし」
「会いに行ってあげなさいよ、喜んで作ってくれるわ。むしろ、ミレウスが一度も会いに来てくれないことを嘆いていたもの」
「それは……ほら、闘技場の運営があるからさ」
「けれど、父さんはたまに顔を出してくれたわよ?」
そんな会話をしていると、ユーゼフがひょっこり顔を出す。
「エレナさんに会いに行くのかい? それなら僕も顔を出したほうがいいかな」
「いや、日程的にそれは厳しいな、って話をしてたんだ」
「まあ、遠いからね……いつかは行くべきだろうけど」
ユーゼフは遠い目で頷く。このままヴィンフリーデとの仲が続くなら、俺以上に顔を出す必要があるだろうからな。
「あ、この闘技場に命名をする時には、母さんも来ると思うわ。この前会いに行ったら、そんなことを言っていたもの」
「え? 病気は治ったのか?」
エレナ母さんがこの街を去った理由は、喧騒病というこの辺り特有の風土病だ。治療法は今だに確立していないと聞いていたが……。そう尋ねると、ヴィンフリーデは首を横に振った。
「相変わらずね。だけど、短期間ならこの街を訪れることはできそうよ。……ほら、あの時みたいに」
「ああ……」
その言葉をきっかけに当時の記憶が甦る。俺は頭を軽く振ると、意識が過去に向かいそうになるのを押しとどめた。
「たしか、特別な水薬を服薬してたんだっけ?」
「それ以外にも、薬草や護符、呼吸法まで、効果があると噂されているものは大抵試したわ。どれが効いたのかは分からなかったけど、多少の効果はあったみたいね。あと、長い間この街を離れていたのがよかったみたい」
「そうか。それでも、無理にこの街に来てもらうのは……」
そう返すと、ヴィンフリーデは溜息交じりに首を振った。
「来てもらう、じゃなくて、母さんが来たいのよ。みんなで作り上げた闘技場なんだから、命名に立ち会う権利はあるでしょう?」
「もちろんだ」
即座に頷く。彼女が黎明期の第二十八闘技場を支えた重要人物であることは間違いないからな。
「……それなら、余計に頑張らなきゃな」
自分に言い聞かせていると、ケーキを食べ終えたユーゼフが会話に入ってくる。
「ミレウス、真面目な顔をしてどうしたんだい?」
「次こそ一位を目指そうと、気を引き締めていたところだ」
「へえ、さすがだね。差し当たってどうするつもりだい?」
「そうだな……今のままでも三位以内を狙える気はするが、もっと攻めていかないとな」
答えると、ユーゼフは興味深そうに身を乗り出す。
「攻めるって、例えば?」
「新しい演し物や仕組みを考えていきたいな。集団戦なんかの新興行や、ランキングの更新頻度変更のような体制変更、魔術師を忌避する風潮の改革……考えることは色々ある」
「闘技場が広くなって、できることが増えたものね」
「もちろん多額の融資を受けている身だが、投資も必要だ。動かせる資金が増えたことは大きいな」
ヴィンフリーデの言葉に頷く。今までは二の足を踏んでいたアイデアも、今後は形にすることができるだろう。
「……ここからが正念場だな」
これまでは規模という言い訳があった。だが、これからは違う。同じ規模の闘技場を相手に、どんな手段でこの闘技場を盛り立てていくのか。そんな思考が渦巻いていく。
新しくなった支配人室の窓から、俺は試合の間を眺め続けた。