初興行 Ⅱ
「ピィ!」
『大破壊』に挨拶をするべく、訓練場へ向かっていた俺は、もはや聞き慣れた鳴き声に足を止めた。
「ノア?」
見れば、薄緑色の羽毛に包まれた雛が、闘技場の廊下をぴょこぴょこと歩いている。それは闘技場に似つかわしくない光景だったが……なんだか慣れてきたな。
「なんだあの鳥。雛か……?」
「なにあれ、かわいい……!」
廊下に居合わせたお客たちの視線がノアに注がれる。当のノアは、彼らの視線を気にせずきょろきょろと周りを見たり、浮力を生まない小さな羽をぱたぱたさせたりしていた。
「ピィ、ピ!」
そして、俺の姿に気付いたのか、こちらを向いてしきりに鳴き声を上げる。これは保護しておくべきだろうか。そう悩んでいると、飼い主であるシンシアが近くの救護室から飛び出してきた。
「ノアちゃん、一人でお外に出ると危ないから……」
シンシアはノアを抱き上げる。そして、俺の姿に気付いて笑顔を見せた。
「あ、ミレウスさん」
「ピッ!」
「シンシア、お疲れさま。さっきの試合の余波で観客が負傷したという報告は受けてないが……誰も救護室には来てないか?」
訊きながら、さりげなくノアの頭を撫でる。ほわほわとした手触りに、張り詰めていた緊張の糸が少しずつ緩んでいく。
「はい! お怪我をした人はいませんでした。本当に、すごい結界です」
俺たちが話題にしている試合は、注目の一戦である『紅の歌姫』対『魔導災厄』の組み合わせだ。
もちろん最大の目玉は最終試合である『極光の騎士』と『大破壊』の組み合わせだが、他の闘技場では観られない魔法戦を楽しみにしている客層にとっては、それに匹敵する価値があるだろう。
また、古代装置の結界を試すという点においては、最も重要な意味を持つ試合でもあった。
「そうか、それはよかった。これで観客の安全は確保できそうだな」
「そうですね。ただ……」
「ただ?」
その言葉にさっと気持ちが切り替わる。何か事件が起きたのだろうか。
「さっきの試合で興奮しすぎたのか、お二人のファンの間で争いになって、お怪我をされた方が何名か……」
「……まあ、それは仕方ない」
シンシアの回答に脱力する。どれだけ結界が強固でも、外にいる者同士の喧嘩による負傷までは防げないからなぁ。まあ、それだけ盛り上がっていたんだと考えておこう。
結界のおかげで観客への被害を考えなくてもよくなったため、『紅の歌姫』と『魔導災厄』の試合は、今までとは比較にならないほど派手な魔法が飛び交っていた。
『魔導災厄』は昔から試合で大規模な魔法を使いたがっていたから、これ幸いと派手な魔法を連発していたし、レティシャも合わせて大規模魔法で対抗していた。
結界が破られるのではないかと心配していた面もあったが、その心配は杞憂に終わったようで、二人の豪華な魔法合戦は観客への被害ゼロで済んだのだった。
「『魔導災厄』に怪我はなかったんだよな?」
「はい、スタッフさんが確認に行ってくれたんですけど、ペンダントが割れただけみたいです」
なお、試合は『紅の歌姫』が勝ちを収めたのだが、その理由は『魔導災厄』の自爆だ。
魔術師の勝敗は、本人の降参宣言か、胸に提げたペンダントの破壊で決まる。大規模魔法を連発して試合をやや優勢に進めていた『魔導災厄』だったが、そのペンダントが突然割れたのだ。
後でレティシャに聞いた話では、大規模魔法ともなれば詠唱中も魔力が荒れ狂うため、なんの防護魔法もかかっていないペンダントはその余波で破損するのだという。
彼女はそれを懸念して大規模魔法の使用頻度を落としたり、得意の呪歌による二重詠唱でペンダントに防護魔法をかけたりしていたようだが、『魔導災厄』はそういうことに頓着しない。それが今回の勝敗を分けたのだろう。
ただ、ペンダントが勝手に砕けるという予想外の結末にお客が盛り下がったかといえば、そんなことはなかった。なぜなら、ペンダントが砕けたことを気にせず、『魔導災厄』は唱えていた大魔法を放ったからだ。
それに対抗してレティシャも強力な魔法を放っていたため、多くの観客はその魔法の激突によってペンダントが砕けたと思っているはずだった。
「あの二人の試合で結界が破られていないなら、次の最終試合も問題ないな」
俺はほっとする。次の試合は、今日の最終興行である『極光の騎士』対『大破壊』だ。戦闘スタイル的に問題はないだろうが、それでも結界の強固さを確認できたことは嬉しい話だった。
「でも……『極光の騎士』さんは、あの結界を突破して三十七街区に入ったんですよね? もし『極光の騎士』さんが誰かを怪我させてしまったら……」
シンシアは不安そうに眉を顰める。どうやら、彼女は『極光の騎士』が他の観客を負傷させることで、彼に非難が集まることを心配しているようだった。
「大丈夫だ。『極光の騎士』も『大破壊』も遠距離攻撃は得意じゃない。相手を無視して結界を破ることに専念すれば可能だろうが、そんなことをする理由も余裕もないからな」
「よかったです……あの神託も、今のところ関係なさそうですし」
シンシアはほっとした様子でノアを抱きしめる。そもそも、本来なら非番の彼女がここにいるのは不穏な神託を受けたからだ。だが、この闘技場での初興行は順調そのものだ。
シンシアの神託を疑うつもりはないが、その解釈は難しいと聞くし、何か別の案件だったのかもしれない。
「そうだな。気を抜くわけにはいかないが……」
観客席で『極光の騎士』の試合を観る予定だったシンシアには申し訳ないが、彼女が救護室にいることは心強かった。
「……と、時間を取らせてしまったな。あと一試合、よろしく頼む」
「はい!」
シンシアは笑顔で頷くと救護室へ戻る。救護室の向こう側は試合の間に面しており、何かあればすぐに駆け付けられる造りになっていた。
シンシアが救護室へ入っていく後ろ姿を見送っていると、部屋の中から彼女に声が飛んで来るのが聞こえる。
「シンシアちゃん、こっちこっち! 監視窓の一番手前に来なよ! 『極光の騎士』の大ファンだろ?」
「え……? でも、皆さんだって……」
「シンシアちゃんが瞳をキラキラさせて『極光の騎士』の話をしてるのを聞いたら、邪魔するわけにはいかないわよ」
「それに、巨人事件の時は一緒に戦った戦友でもあるのでしょう? おそらく試合の余波による負傷はないでしょうが、もし要救護者が出てもこちらで対応します。シンシアさんは試合監視を担当してください」
「交替要員がいないから、最初から最後まで監視しなきゃいけないけれど、頑張ってね」
他の救護担当者たちの声が聞こえてくる。どうやら、シンシアはだいぶ可愛がられているようだな。和気藹々とやっているようで何よりだ。
結界装置のおかげで、新しい救護室は監視窓を大きくすることができたから、シンシアが視界を占領することはないだろうしな。
やがて、開いたままの扉が閉じられ、救護室内のやり取りが聞こえなくなる。閉まった扉を通り過ぎると、俺は訓練場へと向かった。
◆◆◆
訓練場を訪れた俺は、『大破壊』バルク・ネイモールと向かい合っていた。
「このたびは、交流試合の申し出を受けてくださって誠にありがとうございます」
「礼を言う必要はない。俺は『極光の騎士』と戦いに来ただけだ」
『大破壊』はそう告げると、手にしていた巨大な金属製の棒を軽く振った。『破砕柱』と呼ばれる鈍器だ。もちろん柱ほどの太さはないが、生み出される破壊力に敬意を表してそう呼ばれている。
かつては巨大な斧を使っていたこともあるそうだが、『大破壊』の腕力に耐えられず刃がすぐ欠けてしまうことや、将来有望な若手剣闘士をあっさり絶命させてしまうことから、本人が自発的に得物を変えたという。
とは言っても、それを扱うのは『大破壊』だ。刃や刺はなくとも、その一撃は全身鎧を容易に砕く。まったく油断できないことに変わりはなかった。
「……『極光の騎士』はもう着いているのか」
「到着は確認しています」
「ならいい」
彼は言葉少なに答える。『極光の騎士』が現れるまでは、帝都ランキング一位の剣闘士は『大破壊』だった。
だが、一位を奪われた『大破壊』が、そのことに憤っているという話は聞いたことがない。むしろ、全力で戦える相手が見つかって嬉しそうだという。
すでに俺に対する興味を失った様子の『大破壊』は、不思議な動きで破砕柱を振り回す。彼独自のウォーミングアップだろうか。
ゆっくりとした動きではあるのだが、筋骨隆々の巨漢にかかれば、それすらも凄まじい圧迫感を生む。その様子をしばらく眺めると、俺は恭しく頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。……『極光の騎士』との戦いを楽しみにしております」
そして、訓練場を後にする。『大破壊』は長話を好まないことを知っている以上、長居するわけにもいかない。
「さて、気を引き締めないとな……」
俺は小さな声でぽつりと呟く。魔導鎧の援護を受けてランキング一位に上り詰めた『極光の騎士』ではあるが、それでも『大破壊』に敗北することはあり得る。それほどまでに『大破壊』は規格外の存在なのだ。
その彼とどう戦うか。『大破壊』に対する戦術を考えながら、俺は闘技場の地下へと向かう。
『極光の騎士』として、彼と戦うために。
◆◆◆
新しい闘技場でも、魔導鎧は地下の隠し部屋に保管されている。誰にも気付かれないように隠し部屋へ入り、鎧一式を身に着けていく。
「今日はこの闘技場での展覧試合だから、隠密行動の必要はない」
『了解しました、主人。新しい闘技場での戦いは初めてですね』
「そうだな。……今回の相手は強い。以前にも一度戦ったことがあるが、確実に当時より手強いだろう」
『そう分析する理由はなんでしょうか?』
「『極光の騎士』の戦い方が色々とバレているからな。無名だった当時はともかく、今は対策を考えているはずだ」
『たしかに、今日の主人はいつになく緊張しているようですが……負ける可能性もあると?』
「ある」
真剣な声色で返答する。それは自分自身への戒めでもあった。
『……主人、一つお伺いしてもよろしいでしょうか』
しばらくの沈黙の後、クリフから念話が伝わってくる。
『以前に、主人は闘技場の最高責任者だと仰っていました。敗北する可能性のある試合を組まなければよいのでは?』
「勝てる試合だけに出場する剣闘士なんて、すぐお客に愛想を尽かされるさ」
『そういうものですか』
俺の答えを聞いても、クリフはピンと来ていないようだった。魔導鎧が作られた当時は、そもそも闘技場という施設が存在しなかったそうだからな。闘技場の概念を伝えるのにも苦労したくらいだ。
「なんにせよ、今日は新しい闘技場の初興行だ。頑張ってくれている皆のためにも、絶対に無様な試合はできない」
すでに五試合が終わっており、闘技場スタッフの動きも明らかによくなっている。それは彼らの努力の成果だ。イレギュラーがない限り、彼らは自分たちでやっていけるだろう。
だが、トラブルは必ず発生する。その時に必要となるのは、咄嗟に対応策を考え、いざという時に責任を取ることのできる人間だ。
にもかかわらず、この最終試合の間、支配人は存在しない。結界発生装置がおかしいとヴィンフリーデに言い残して、支配人室を出てきたのだ。
従業員には、俺がいない場合はヴィンフリーデやダグラスさんに指示を仰ぐよう周知しているが、どうしても混乱は避けられないだろう。
それを覚悟の上で出てきたのだ。最高の戦いを繰り広げる必要があった。
「……行くか」
緊張を高揚に変えながら、俺は試合の間へと向かった。