移転 Ⅶ
「シンシア、今日は助かった。ありがとう」
「いえ、私はなにも……」
仕事の関係で出かける予定があった俺は、神殿へ帰るシンシアと闘技場の外へ出てきていた。
「それじゃ、次の試合もよろしくな」
「はい!」
「ピィ!」
主に合わせたのか、ノアの元気な鳴き声が響く。そのことに小さく笑うと、シンシアは身を翻した。
闘技場が移転すると、マーキス神殿との距離は少し遠くなってしまう。まさか、今さら神官の派遣をやめるとは言い出さないだろうが、シンシアにも負担をかけるな。
そんなことを考えていた時だった。シンシアの行く手から声が聞こえてくる。
「あんた、『天神の巫女』だよな……?」
「え? は、はい……」
どうやら、シンシアに用事があったらしい。まだ十歩程度しか離れていないせいで、俺にも会話の内容が聞こえてくる。
男性に突然呼び止められたシンシアは、不思議そうに目を瞬かせていた。
「どうして……」
対して、男の表情は陰気そのものだった。万が一の事態に備えて、俺はそっと数歩近付く。
「あの、どうしたんですか……?」
「どうして……」
同じ言葉をうわ言のように繰り返しながら、男はじっとシンシアを見つめる。よく見ると目の下には大きな隈ができており、頬もこけていた。
「何かお困りなんですか……?」
シンシアも困惑しているようだったが、それも無理はないだろう。
「どうして――」
と、不意に男の顔が歪んだ。それと共に、繰り返されていた言葉もぷつりと途絶えて、不思議な静けさを醸し出す。
そしてどれくらい経っただろうか。――突然、彼の感情が爆発した。
「どうして! 俺の家族を助けてくれなかったんだ!」
今までの陰気な無表情が一転して、負の感情に彩られる。
「え……?」
突然の言葉にシンシアは目を丸くした。それに構わず、男は感情を吐き出し続ける。
「あんたに助けられたって、そう言ってる奴がたくさんいた。命の恩人だ、さすが『天神の巫女』様だってよ」
怒っているのか泣いているのか分からない顔で、男は言葉を続ける。
「けどよ、あいつらは誰も助からなかった……! どうして! どうして俺の家族は見殺しにしたんだよ!」
その言葉で、大体のところを察することができた。あの巨人騒動の時に、この男性は家族を失ったのだろう。シンシアも気付いたようで、はっとした表情を見せる。
「すみません……私の力が足りないばかりに……」
そして、沈痛な面持ちで声を絞り出す。本来なら、死力を尽くして住民の生存に貢献した彼女にとっては言いがかりに近い話だ。
シンシアがそのことを指摘しないのは、彼の感情の行き場がどこにもないことを理解しているからだろう。
「すみませんじゃない! あいつらはもう帰って来ないんだぞ!?」
「……」
シンシアは黙って糾弾に耐え続ける。俯くこともなく、彼女は男の視線を真っ向から受け止めていた。
彼女が自分の意思で反論しないことを選んだのであれば、俺が出るべきではないかもしれない。そんな思いを胸に、俺は二人のやり取りを黙って見つめる。
「偉い奴らはいつもそうだ! 俺たちみたいな平民が何千人死のうが気にも留めず、気が向いた奴を助けて悦に入っているだけじゃないか!」
「っ……!」
その言葉を聞いたシンシアは、はっと息を呑んだ。
「ん……?」
俺はその様子を見て一人訝しんだ。今まで静かに言葉を受け止めていた彼女が、明らかに動揺していたのだ。
「そんなことはありません……! 私は、一人でも多くの人に助かってほしくて……」
ずっと静かに耐えていたシンシアだったが、一転して真剣な表情で訴える。しかし、さっきの男の発言に、彼女が特別に動揺するほどの言葉があったとは思えない。俺の頭の中を疑問が駆け巡った。
だが、そうしている間にも事態は進展していた。
「じゃあ、どうして俺の家族はその中に入ってないんだよ!」
そしてついに、男は怒号を上げてシンシアに掴みかかった。
――ここまでだな。
俺はスッと二人の間に割り込んだ。口論だけならともかく、手が出るのは放置できない。シンシアに伸ばされた手を捌くと、激高した様子の男が声を上げる。
「なんだお前は!? 邪魔するな!」
「ミレウスさん……?」
俺がそばにいることに気付かなかったのだろう、シンシアが驚きの声を上げる。すると、男が大げさに鼻を鳴らした。
「人の家族を奪っておいて、自分は男連れだったのか? ……へっ、いいご身分だぜ」
「ええと……最初の質問にお答えしますと、私はこの闘技場の支配人です。そして、彼女は救護担当神官として勤めを果たしてくれていたのですが……何か問題がありましたか? だとすれば、闘技場の責任者としてお詫び申し上げます」
シンシアに向けられた言葉を強引にこちらへ向ける。水を差された男は、苛立ちと共に俺を睨みつけた。
「お前には関係ない!」
言葉とともに伸ばされた腕を、再び捌いて空振りさせる。本職の剣闘士ならともかく、一般的な成人男性をあしらう程度なら、特に苦労することはない。
「だから邪魔するんじゃねえ! 消えろよ!」
「とは言いましても、目の前で暴力沙汰が起きている以上、さすがに見過ごすわけにもいきませんしねぇ……」
真剣に困った顔を演出しつつ、意図的に間延びした口調で答える。すると、男は訝しげに俺をジロジロと眺める。
「ちっ、紳士面しやがって」
男は露骨に舌打ちをする。だが、狙い通り、彼の勢いは少し削がれたようだった。
「お話だけであれば放っておくつもりでしたが、手が出るなら話は別ですからね」
「……」
男は沈黙する。苦虫を嚙み潰したような顔をしているあたり、自分でも八つ当たりをしている自覚はあったのかもしれない。
「私の力が足りないせいで……すみません」
さらにシンシアが声をかけると、男は居たたまれない様子で顔を背けた。彼の中では、様々な思いが渦巻いているのだろう。
「ちっ……」
そして身を翻すと、無言のまま去っていく。同じような経験がある俺は、その背中を複雑な気持ちで見送った。
「……シンシア、悪かったな」
男の後ろ姿がすっかり小さくなってから、俺はシンシアに謝った。
「そんな、ミレウスさんが謝ることなんてないです」
彼女は慌てた顔で首を横に振る。だが、余計なことをしたのは俺のほうだ。
「あの人の行き場のない感情を引き受けようとしてたんだろ? 邪魔したのは俺だ」
そう告げると、シンシアははっとしたようにこちらを見た。
「それは……」
「手が出なければ、割って入るつもりはなかったんだが……落ち着いてから後悔するのはあっちのほうだからな」
つい弁解じみた口調になる。そんな俺を見て、シンシアは微笑んだ。
「ありがとうございます。……ミレウスさんが言った通り、あの人の苦しみを少しでも和らげることができれば、と思ったのは本当です」
ただ、とシンシアは言葉を続ける。
「掴みかかってきた人は久しぶりで、ちょっとびっくりしましたから……ミレウスさんのおかげで助かりました」
「久しぶりってことは、今までにもあったのか……」
そう呟くと、シンシアはしまった、というように口元を押さえた。
「いえ、その、よくあることじゃなくて……たまにしかないです。それに、そういう時は他の住民のみなさんが仲裁してくれますし……」
なるほど。三十七街区の住民はシンシアに命を救われた人がほとんどだ。さっきの男性のように、家族を失ったが自分は無事、というケースは意外と少ない。
今回のようにシンシアが絡まれたとしても、近くの人間が止めに入っていたのだろう。
だが、それが分かっても、俺は晴れやかな気持ちにはなれなかった。
「物理的な怪我がなかったのはよかった。……けど、シンシアは大丈夫なのか?」
「はい! 掴まれることはあっても、怪我をしたことはありませんから……」
胸を張るシンシアを前にして、俺は困ったように頭をかいた。
「俺が言いたかったのは、身体じゃなくて精神的な部分……心のほうなんだが……」
「心、ですか……?」
思いがけない言葉だったのか、シンシアが目をぱちくりさせる。
「負の感情を受け止めるんだ。精神的に辛いだろう?」
「それは……その、私は『天神の巫女』ですから……」
シンシアの答えは歯切れの悪いものだった。まるで自分に言い聞かせるような言い方に、俺は首を傾げた。
「こう言ってはなんだが、『天神の巫女』って闘技場の二つ名みたいなものだろ? そんなに気負わなくてもいい気がするが……」
正直なところを伝える。『天神の巫女』は由緒ある称号だが、シンシアが望んで襲名したとは思えない。いくら神聖魔法の才能があるとはいえ、押し付けられた称号に縛られていては不憫というものだ。
「……というか、『天神の巫女』の称号ってどういう基準で与えられるんだ?」
ふと浮かんだ疑問が口をついて出る。彼女は神聖魔法の優れた使い手だが、それだけなら他にも候補はいるはずだ。
「その……大勢の人々を助けただとか、世界の役に立つ発見や改革をしたとか……『天神の巫女』は、そんな方に贈られる称号です」
「なるほど。まあ、そうだよなぁ」
それは頷ける話だった。しかし、シンシアを雇用した際の調べでは、彼女がその手の大活躍をしたという情報はない。この前の巨人騒動は……時系列が逆か。
「じゃあ、シンシアもどこかで活躍してたんだな。凄いじゃないか」
彼女はこの街の出身じゃないし、俺が集められる情報にも限界があるからな。実は、すでに世界を救っていたりするのかもしれない。
そう口にすると、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべた。そして、しばらく沈黙した後、ぽつりと口を開く。
「……実は、もう一つ『天神の巫女』と呼ばれる場合があるんです」
「もう一つ?」
彼女は小さく頷くと、決まり悪そうに言葉を続ける。
「たまに、徳の高い神官に神託が降りることがあって……」
「この人が『天神の巫女』だ、みたいな感じか?」
口を挟むと、彼女は控えめに頷いた。神託か。巨人騒動の時には彼女の神託に助けられた身だが、やっぱりピンと来ないな。
「ただ、具体的な神託じゃないことが多くて、見つからないこともあるそうです」
「そうなのか……」
口ぶりからすると、シンシアはこっちの枠なんだろうな。ガロウド神殿長を通じて神託があったとか、そんな感じだろうか。神託の内容が気になるが、さすがに聞くのは失礼……というか、たぶん機密事項だよな。それにしても――。
「実績もなしに称号をもらうのは重圧だな……。それで名に恥じないよう頑張っていたのか」
俺は素直に納得した。彼女らしいと言えば彼女らしい。
「けど、称号をもらったところで、感性が変化するわけじゃないんだから、負の感情を向けられれば傷つくさ」
仕事柄、俺も負の感情をぶつけられることはあるが、慣れることはあっても辛くないわけじゃないからな。
「まして、平民が何千人死のうが気にしてないんだろう、なんて言われるとな……」
俺はふと先程のやり取りを思い出す。俺がもっと早く『極光の騎士』として動いていれば、助かる命はあったのかもしれない。
途中から参戦した俺でさえそう思うのだ。最初から現場に居合わせたシンシアはもっと気にしていることだろう。
そんな思いからかけた言葉だったが、シンシアは予想外の反応を示した。伏し目がちになった彼女の瞳から、光が薄れていく。
「そんなこと……ないのに……」
それは、まるで消え入りそうな声だった。過剰とも言える彼女の反応に、先程抱いた疑問が甦る。
やはり、シンシアの過去にはそれに類する事件でもあったのだろうか。そうとでも考えないと、彼女の反応には説明がつかなかった。
だが、ここ十年ほどで、数千人が死亡する事件が起きたことはほとんどないはずだ。例外はこの街だが、彼女は当時ここにいなかったと聞くし、マーキス神殿が平民を見殺しにした記憶もない。
「シンシア……?」
「……」
シンシアは何かに耐えるように目を伏せると、ノアを抱く手に力をこめた。ノアが驚いたように身じろぎしていたが、主を慮ったのか、やがて大人しくなる。
それからどれくらい経っただろうか。ゆっくり目を開いたシンシアは、気まずそうに俺を見上げた。
「あの……すみませんでした」
「こっちこそ、嫌な過去を思い出させたみたいで悪かった。……大丈夫か?」
そう答えると、シンシアは驚いた様子で俺を見た。半ば当てずっぽうな言葉だったが、どうやら正しかったらしい。気にはなるが、あまり詮索するわけにもいかない。
そう思って沈黙していた俺だったが、説明を求められているように感じたのだろう。彼女は申し訳なさそうに口を開く。
「あの……詳しいことは言えなくて……すみません」
シンシアは口籠もった後、窺うように俺を見る。その瞳には怯えたような色があった。そのなんらかの事情を詮索されたくないということだろうか。そこで、俺は安心させるように笑顔を浮かべる。
「誰にだって、言いたくない事情の一つや二つはあるさ。俺なんて、そんな事情が山積みだからな」
少しおどけた口調で、後半の言葉を口にする。すると、シンシアはほっとしたように笑った。
巨人騒動の一件もあって、『天神の巫女』として称賛されている彼女だが、なんと言っても大陸で最大の勢力を誇る宗教組織の要職にあるのだ。
あまり表立った活動はしていないようだが、人には言えない苦労もあるのだろう。場合によっては、神官にこそ明かせない事情だってあるのかもしれない。
そういう意味では、『天神の巫女』の称号を持ち、四六時中マーキス神官に囲まれているシンシアは孤独なのかもしれない。そんな思いから、俺はつい口を開いた。
「……なんなら、皆には秘密で愚痴を聞くぞ? マーキス神官には言いにくいこともあるだろう」
俺にはユーゼフやヴィンフリーデがいるからな。あの二人は愚痴を聞いてくれるし、それに救われている部分は大きい。だが、シンシアはどうなのだろうか。そう思ったのだ。
「え?」
思いがけない言葉だったのか、シンシアの目が見開かれる。
「今回もそうだが、一人で抱え込み過ぎてるんじゃないか、って思ってな」
それは、今回の一件のことでもあるし、彼女のなんらかの過去の話のことでもあった。
シンシアとの付き合いもそれなりに長くなってきたからな。自分の心が悲鳴を上げたとしても、弱っている他者を見捨てることはできず、自分のことは後回し。そんな性格であることは分かっている。
「これでも支配人として色々苦労しているつもりだが、経験上、口に出すだけでストレスは減るぞ。……まあ、根本的な解決にはならないけどな」
とはいえ、根本的な解決ができないものだからこそ、心に溜め込んでしまうとも言える。それなら、せめて負担の軽減を図るくらいは必要だろう。ありふれた案だとは思うが、何もしないよりはマシだ。
「……」
今だに驚いているのか、シンシアは無言で俺を見つめていた。抱いている力が緩んだのか、胸元のノアが頑張ってバランスを取っていることにも気付いていないようだった。
俺がそう言い出したことに驚いているのか、それともそんな発想がなかったのか。なんと言っても、マーキス神官は生真面目な人間が多いからな。愚痴をこぼすことを悪だと考える人が多そうな気はする。
「あ、もちろん強制じゃないからな? 同僚に相談相手がいるなら、そっちのほうが適役だろうし……」
シンシアの沈黙があまりにも長いため、余計なことを言い過ぎたか、と焦って口を開く。すると、彼女はようやく動きを見せた。
「あの……ありがとうございます。そんなに心配してくれるなんて思わなくて……」
彼女はうっすら微笑む。だが、その表情はすぐ翳りを見せた。
「私はミレウスさんに隠し事をしているのに……」
やはりそこが気になっているのか。その言葉に、俺は首を傾げる。
「さっきのことか? 知り合いに逐一自分の過去を説明している人間なんていないだろうし、気にしなくていいさ」
「でも……」
なおも申し訳なさそうなシンシアに、意図的に笑顔を作ってみせる。
「……何があったかは知らないが、その過去を踏まえて今のシンシアがあるんだろう? 俺は今のシンシアを信用しているから、それで充分だ」
それは口先だけの言葉ではない。闘技場での態度や、巨人騒動の時に見せた覚悟。それらを見れば、どんな過去であれ、彼女が悪人とは到底思えなかった。
「……!」
シンシアの目が見開かれる。その瞳が揺れたと思った瞬間、その視線は薄緑色の羽毛によって遮られた。ノアを顔の高さまで持ち上げると、その羽毛に顔を埋めたのだ。
「すみ……ません……っ」
視線を遮る壁となったノアの向こうから、泣き声交じりの言葉が聞こえてくる。なんと言っていいか分からず、俺は沈黙を貫く。
シンシアがノアを顔から離したのは、しばらく経ってのことだった。
「本当に、すみませんでした……」
目を赤くしたシンシアが恥ずかしそうに謝ってくる。そしてハンカチを取り出すと、今度は湿ってしまったノアを拭きはじめた。
「ノアちゃんも、ごめんなさい……」
「ピュイ!」
動じた様子もなく、ノアは元気に鳴き声を上げた。……本当に賢い奴だな。その様子はとても雛に見えないが、本当にどんな成鳥になるんだろうな。
そんなことを考えていると、再びシンシアが口を開いた。
「でも……嬉しかったです。ミレウスさん、ありがとうございます……」
シンシアははにかんだ笑顔を見せる。その素直な物言いに、俺はつい視線を逸らした。
「……闘技場の支配人として、従業員の体調には気を配る必要があるからな」
「私は従業員じゃありませんけど……」
そう言いながらも彼女の顔は笑っていた。そして、小さく付け加える。
「その……もしその時が来たら、お話を聞いてくださいね」
「ああ、遠慮しなくていいからな」
シンシアは言葉の代わりにもう一度微笑む。そのやり取りがなんだか落ち着かなくて、俺は事務的な言葉を探した。
「……それじゃ、まだ完成まで一月半はあるが、またよろしくな」
「はい! こっちこそよろしくお願いします……!」
もう一度嬉しそうな笑顔を浮かべると、シンシアはくるりと身を翻した。
「……まあ、人には色んな事情があるよなぁ」
遠ざかる彼女の姿を見て呟く。
『極光の騎士』であること。事件の発端となった古代遺跡を利用しようとしていること。剣闘士になる夢を諦めたこと。
俺自身、人に言いたくないことはいくらでもある。隠し事をして生きるなら、それなりの覚悟は必要だ。そして、それは相応の負担を伴う。
「それでも、いつかは……」
その言葉が誰に向けられたものなのかは、俺自身にもよく分からなかった。