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移転 Ⅰ

【支配人 ミレウス・ノア】




 第二十八闘技場の支配人室は、かつてない緊張感に包まれていた。


「この闘技場を……引き払う……?」


 三人しかいない支配人室にヴィンフリーデの声が響く。俺は彼女に視線を向けると、静かに頷いた。


 この闘技場を引き払って、新しい闘技場を建設する。この闘技場に見切りをつけるような俺の発言に、二人の幼馴染は顔を強張らせていた。


 ユーゼフは看板剣闘士、ヴィンフリーデは支配人秘書としてこの闘技場に深く関わっているうえに、ここを建設した親父と密接な関係にあるのだ。そう反応するのも仕方のない話だろう。


「引き払うと言えば聞こえが悪いが、要は移転だ。他の闘技場でも移転した例はあるし、帝国の許可は下りるはずだ」


「……理由を聞かせてもらってもいいかな」


 しばらく沈黙していた二人だったが、やがてユーゼフが口を開く。


「この闘技場を帝国一の闘技場にするために、どうしても必要だと判断した」


「具体的には? 結界に当てができたと言っていたけど、それが理由かい?」


「最終的な決め手はそこだが、もちろんそれだけじゃない。……先に言っておく。移転先は三十七街区だ」


「三十七街区って……さっきまで巨人が暴れていた所じゃない」


 ヴィンフリーデが目を丸くして驚く。それは当然の反応だろう。光の壁に閉じ込められ、数十体の巨人に蹂躙された区画。普通に考えれば、そんなところに移転する理由はない。


 そして、隣のユーゼフも驚いているが、驚きの種類は別物であるようだった。


「ミレウス、まさか――」


極光の騎士()』やユーゼフが三十七街区で巨人を屠っていたのは、つい数刻前のことだ。そして、光壁という強力な結界が事件の発端だったことに気付かないユーゼフではない。


「念のため言っておくが、俺は一連の事件とは無関係だ」


「そこは疑ってないよ。だが、それなら術者は別に存在していたのかい?」


「首謀者は奴だが、術者じゃない。操作者はいても、術者はいなかったんだ」


「それは、つまり――」


 俺たちの視線が何度も交錯する。ともに戦っていたユーゼフだが、三十七街区を隔離した光壁が、事件を起こした術者によるものではなく、古代遺跡の装置によるものだとは知らない。

 だが、今のやり取りで大体のところを察したようだった。


「……二人とも、なんの話をしているの?」


 俺たちのやり取りにヴィンフリーデが首を傾げる。『極光の騎士(ノーザンライト)』のくだりはともかく、それ以外は彼女にも説明しておく必要があるか。


「面白い装置を見つけたんだ。古代文明の遺産のようだが、ちょっとした結界を発生させることができる」


「それが、ミレウスの言っていた結界の当て?」


 その言葉に頷く。


「闘技場の試合の間(リング)を覆うことは可能だと思う。もちろん、それですべての余波をカットすることはできないだろうが、今までとは比較にならないほど安全になるはずだ」


 あの装置は、結界の規模や密度、性質なんかをある程度操作できるみたいだからな。

 たとえば、光壁は眩しくて内部が見えなかったが、あれはペイルウッドが外部から状況が分からないように、意図的に明度を上げていたものだ。そこを変更すれば、理想的な結界発生装置になりそうだった。


「その古代文明の装置が三十七街区にあるのね。……どうやって見つけたの?」


「たまたま、としか言いようがないな。……ただ、古代遺産を使用することはできるだけ知られたくない。帳簿の上では、結界魔法を得意とする魔術師を雇用したことにしておく」


「なるほどね……その結界装置があれば、魔法の撃ち合いなんかに遠慮が必要なくなるわけだ」


 ユーゼフは頷くが、まだ納得している顔ではなかった。


「そういうことだな。……ただ、移転のメリットはそれだけじゃない。むしろ、他の部分によるところが大きい」


「と言うと?」


「一番重要なことは、観客の収容人数を増やすことだ。うちの闘技場は満席率が非常に高いが、収容人数が小さいせいで大きな利益が見込めない。

 それに、帝国の闘技場ランキングにおいては、規模や客数といった要素は非常に重要な指標となる」


「たしかに、それは事実ね。所属剣闘士の優秀さや満席率で言えば、この闘技場は高い評価をもらっているけれど、それでも十位以内に入れていないもの」


 ヴィンフリーデが俺の言葉を肯定する。それは何度も話し合った事柄であり、ユーゼフにも異論はないようだった。


「……ミレウス、本気で闘技場ランク一位を狙うつもりなんだね? ……今までだって疑っていたわけじゃないが、闘技場の移転は、下手をすればすべてを失いかねない」


「剣闘士や従業員の反発、移転による客足の遠退き、移転費用の捻出……問題はいくらでも出てくるわ」


「それでも、だ。規模の問題を解決しない限り、この闘技場の発展は頭打ちだ。俺はこの闘技場をそこで終わらせたくない」


 二人の言葉を受け止めて、俺は静かに答える。この闘技場の支配人となって以来、ずっと考えていたことだ。今さら迷いはなかった。


「失敗すれば、従業員たちが路頭に迷う可能性もある。それは自覚しているよね?」


「もちろんだ。……もし、どうしても立ち行かなくなった場合は、あの結界装置を帝国政府に高く売りつける。当面の生活費には困らないはずだ」


 その言葉を聞いて、ユーゼフが小さく笑った。


「それは思いつかなかったな。ミレウスにしては勝率の低い賭けだと思ったけど、最低ラインは確保されているわけか」


「それどころか、新しく闘技場を建設できる額になるかもな」


 なんと言っても、国防を左右しかねない装置だからな。怖いのは、帝国が無理やり装置を没収しようとする可能性だろうか。


「……それで、みんなにはいつ話をするんだい?」


「まだ先の話だ。用地を取得できなければ意味がないし、資金繰りもある。下手に情報がもれると困るからな。

 建設が始まれば隠しようがないから、それまでに内部の人間には話をするつもりだ」


 答えた後で、俺は二人を見つめた。


「ところで……いいのか?」


「それは、闘技場の移転について賛成か、ということかい?」


 俺が頷くと、ユーゼフは支配人室をゆっくり見回した。


「……長年出入りしている闘技場だ。ここには愛着があるし、思い出も詰まっている。だけど、それはミレウスも同じことだ」


 そして、真剣な顔で俺を見る。


「君はずっと、この闘技場の先を見つめ続けてきた。剣闘士や従業員が納得するかは分からないけど、僕はミレウスを支持するよ」


「そもそも、ミレウスがいなければ、この闘技場はもっと前に潰れていたかもしれないもの。父さんなら、『好きにしろ。ただし全力でやれよ』って言うはずよ」


「それはもちろん、全力でやるが……」


 二人があっさり了承したことに、俺は戸惑いを覚えていた。そんな感情を見透かしたかのように、ヴィンフリーデが口を開く。


「私たちがここにいるのは、父さんの闘技場だからという理由だけじゃないわ。ミレウスと一緒に闘技場を支えていこうって、そう思ったからよ」


「ヴィー……」


 思わず言葉を失う。すると、今度はユーゼフがおどけた口調で言葉を足した。


「だから、僕らが賛成するのは確定事項みたいなものさ。僕らが賛成したからって、他の従業員たちの説得が上手くいくとは限らないよ?」


 その言葉に俺は小さく笑い声を上げた。


「ああ、頑張って説得材料を揃えておくよ。少しでもデメリットを潰しておきたいところだな……彼らに伝えるかどうかは別として、質問された時に狼狽えるわけにはいかないからな」


「そうね、思い当たる問題点は――」


 俺たちは移転にかかる様々な事項を書き出し、整理していく。この場で片付くものばかりではないが、今後の動きを考える上でも重要なことだ。


 支配人室の明かりが落ちたのは、夜も更けてからのことだった。




 ◆◆◆




「ミレウスさん、昨日はすみませんでした!」


 巨人騒動の翌日。支配人室へやってきたシンシアは、勢いよく頭を下げた。


「……なんのことだ?」


 俺は首を傾げる。昨日、彼女は巨人騒動で住民を守り抜くという大活躍をしており、『天神の巫女』シンシアの名は今まで以上に高まっていた。

 まして、古代遺跡の地下施設にまで同行してもらったのだ。お礼を言うなら俺のほうだろうが……。


「ミレウスさんのお気遣いは嬉しいですけど……事実は事実ですから」


「えーと……」


 言葉に困っていると、秘書のヴィンフリーデが口を挟んでくる。


「シンシアちゃん。ミレウスの顔からすると、本当に分かってないわよ。昨日の欠勤を謝りにきてくれたんでしょう?」


「は、はい……」


 ヴィンフリーデの言葉を聞いて、ようやく俺は思い当たった。そうか、昨日は『極光の騎士(ノーザンライト)』として一緒に行動していたからピンと来なかったが、支配人としては彼女の欠勤を責めるなり心配するなりするべきだったかな。


「気にしないでくれ。代わりの神官は手配できたから、特に問題はないさ」


 言ってから、慌てて言葉を付け加える。


「……あ、シンシアがいなくても問題ないというわけじゃないぞ。シンシアがいないことは非常に痛手だが、気にする必要はないと言いたかっただけだ」


 少し早口で言い切ると、シンシアは口元に手を当てて小さく笑った。


「ありがとうございます。……やっぱり、ミレウスさんは優しいです」


「……支配人の務めだからな」


 まっすぐな瞳に見つめられて、つい視線を逸らす。俺が無言でいると、再びヴィンフリーデが口を開いた。


「シンシアちゃん、昨日は大変だったんでしょう? 三十七街区の住民は『天神の巫女』のおかげで全滅せずにすんだって、街じゅうで話題よ」


「でも、私だけじゃ守りきれませんでしたから……そんなことを言われる資格はないです」


 シンシアは申し訳なさそうに答える。だが、そうではないはずだ。


「『極光の騎士(ノーザンライト)』たちが来るまで、千人近い命を一人で預かっていたんだから、讃えられる資格はあるさ。

 いつ救援が来るかも分からない中で、重い責任を投げ出さなかっただけでも、シンシアは立派だったと思うぞ」


 そう伝えると、シンシアははにかんだ笑顔を見せた。


「ありがとうございます……あの、ちょっとびっくりしました」


 俺はその言葉に沈黙する。俺って人を褒めないイメージがあるんだろうか。こっそりそんなことを思っている間にも、彼女は言葉を続ける。


「その、『極光の騎士(ノーザンライト)』さんも同じようなことを言ってくれたんです」


「あー……」


 思わず声を上げた。はっきり覚えていないが、同じ人間が同じ状況下の人物に声をかけるのだ。似たような言葉が出てきてもおかしくはないか。


「複数の人間に同じことを言われたのなら、他のみんなも同じことを思っているはずだ。だから、もっと誇っていいと思うぞ」


 そう言ってごまかす。実際、大多数の人間はそう思ってるだろうしな。


「あ、『極光の騎士(ノーザンライト)』と言えば……ねえ、シンシアちゃん。『極光の騎士(ノーザンライト)』ってどんな人だったの?」


 と、ヴィンフリーデが興味津々といった様子で問いかける。すると、シンシアは不思議そうに首を傾げた。


「ヴィンフリーデさんのほうが、よく知っているんじゃ……」


「『極光の騎士(ノーザンライト)』とは、ほとんど話したこともないわ。直接試合の間(リング)に上がって、いつの間にか帰っているんだもの。どんな声かも思い出せないくらいよ」


 ヴィンフリーデは肩をすくめた。『極光の騎士(ノーザンライト)』の時は、正体がバレないよう意図的にヴィンフリーデを避けているからな。その感想も無理はない。


 そんなことを考えていると、シンシアは嬉しそうに口を開いた。


「兜のせいで少しくぐもって聞こえましたけど、とても低くて、素敵なお声でした」


 俺はその言葉に咳き込んだ。シンシア、変な補正が入ってるぞ。今までの人生で、俺が自分の声を褒められたことは一度もない。


「本当に強かったです……! あんなに大きな巨人を剣だけで倒すなんて、まるで神話みたいでした」


「そう言えば、一体だけ異常に大きな巨人がいたのよね? ……シンシアちゃんもよく無事だったわね」


「『極光の騎士(ノーザンライト)』さんのおかげです……! その後も、倒れた私に活力付与リフレッシュを使ってくれましたし、一緒に悪い人を探している間も、ずっと私のことを守ってくれました」


「それに、衛兵さんに事情聴取をされそうになった時も、私は疲れているから後にしろって言ってくれましたし、その後も神殿まで送ってくれて……」


 シンシアの言葉は止まらない。感謝されているのだから問題ないんだけど、どうにも落ち着かない気分だった。


「『極光の騎士(ノーザンライト)』さんって本当に英雄なんですね。あんなに強いのに優しくて、色んなところに気を遣ってくれて……」


 そう語るシンシアの表情は輝いていた。瞳はキラキラと光っているし、頬も紅潮している。そんな彼女の勢いに押されたのか、ヴィンフリーデが少し戸惑っていた。


「ええと……つまり、全てにおいて素敵な人だったのね」


「はい!」


 ヴィンフリーデの意訳をシンシアは全力で肯定した。彼女らしからぬ力強い返事に、ヴィンフリーデは苦笑を浮かべる。


「そんなに瞳を輝かせたシンシアちゃん、初めて見たわ。……ひょっとして、『極光の騎士(ノーザンライト)』のファンになっちゃった?」


「ファン、ですか……?」


 自分の状態をあまり自覚していないのだろう。ヴィンフリーデの言葉を受けて、シンシアは驚いたように目を瞬かせた。


「たとえば……ほら、次の『極光の騎士(ノーザンライト)』の試合を観に行きたいと思う?」


「はい! もしご迷惑でなければ……」


 シンシアは即答する。試合を観戦するだけなんだから、迷惑なんてないけどな。とは言え、それは彼女らしい返答だった。


「じゃあ、『極光の騎士(ノーザンライト)』の私生活なんかも気になるの?」


 からかい気味にヴィンフリーデが尋ねると、シンシアは困ったように視線を逸らす。


「そ、そんな失礼なことは……あ、でも『極光の騎士(ノーザンライト)』さんが勇者として旅立つ時はお供したいです……!」


「勇者? 『極光の騎士(ノーザンライト)』って勇者だったの?」


 ヴィンフリーデが目を丸くする。それはそうだろう。いきなり勇者と言われても、そんな称号が今の世に存在するとは聞いたことがない

 そして何より、『極光の騎士()』自身がびっくりだ。どう考えても勇者じゃない。


 すると、シンシアは慌てたようにぶんぶんと手を振った。


「すみません、そうじゃないんです。その、ふさわしい言葉が他に思いつかなくて……。私たち神官は、『誰々の従者となり彼の者を助けよ』という神託を受けることがあるんです」


 ああ、なるほどな。神話なんかでもそのパターンはよく聞くもんな。ただ、わざわざ神託が下るような事件って、世界の存続が危ぶまれるような大事件なんじゃ……。


「それで、『極光の騎士(ノーザンライト)』さんが旅立つなら、私も一緒にって……」


 シンシアは恥ずかしそうに俯く。その様子を見て、俺とヴィンフリーデは顔を見合わせると、彼女に聞こえないようかすかな声で話す。


「これは……思っていたより重症ね」


「まあ、旅立たない限りは問題ないだろう」


 なんせ、俺にその気はまったくないからな。そもそも、『極光の騎士(ノーザンライト)』が旅立ったところで、六日もすれば稼働限界が来るのだ。世界を救うには短すぎる。


「あ、でも、違うんです!」


 そんなことを考えていると、俯いていたシンシアが顔を上げた。


「私、この闘技場でのお仕事が嫌なわけじゃなくて、その……」


「大丈夫よ、言いたいことは分かるわ。『極光の騎士(ノーザンライト)』のことはとても大切だけれど、この闘技場での仕事も大切だと思っている、でしょ?」


 口籠もったシンシアの代わりに、ヴィンフリーデが言葉を続ける。すると、彼女はこくりと頷いた。


「私にとって、ミレウスさんたちも大切な人です。それだけは信じてください……」


 消え入りそうな声で告げる。そんなに気分を害する話だとは思えないが、それは俺が『極光の騎士(ノーザンライト)』だからだろうか。

 もし『極光の騎士(ノーザンライト)』が別人だったら……俺はどう思うんだろうな。


「別に不誠実だとは思わないさ。大切な人間が複数いるのはおかしな話じゃないし」


 けどまあ、現実は俺イコール『極光の騎士(ノーザンライト)』だ。深く考える必要はないか。


「ありがとうございます……!」


 俺の言葉を聞いて、シンシアはほっとしたように表情を緩めた。


「ところで……そろそろ聞いていいかしら。その子はシンシアちゃんのペット?」


 弛緩した空気が流れた頃、ヴィンフリーデが話の流れを変える。彼女の視線は、シンシアの足下にいる薄緑色の雛に向けられていた。


 どうやら、ずっと聞きたくてうずうずしていたようだ。シンシアが真面目な話をしている以上、横道に逸れるわけにはいかないと我慢していたのだろう。


「はい! ……ペットというか、お友達のつもりです」


 シンシアはどこか誇らしげに答えると、しゃがみ込んで雛を抱え上げた。ずっと床に下ろしていたのは、真面目な話をしていたからだだろうか。


 抱えられた雛は、昨日と同じように小さな羽をぱたぱたと動かしていた。シンシアが何かしたのか、昨日よりも羽毛がふわふわになっている。


 そのふわふわな生き物は、自分を見つめるヴィンフリーデの視線を感じたらしい。彼女のほうを見ると、とても短い首を傾げた。


「ピィ?」


 そして、その仕草と鳴き声はヴィンフリーデの心を撃ち抜いたようだった。彼女ははっと息を呑む。


「か、かわいい……っ!」


 彼女はシンシアの前で中腰になると、雛と視線を合わせる。触りたくて仕方ないのだろう、その手は不自然な動きをしていた。


「ヴィー、顔がデレデレだぞ」


「仕方ないじゃない、こんなにかわいいのよ? むしろ、どうしてミレウスが平然としていられるのか分からないわ。

 ――ねえ、触ってもいいかしら?」


「たぶん、嫌がってはいないと思います」


 シンシアの言葉通り、雛はヴィンフリーデが伸ばした手を拒まなかった。撫でられた雛は、目を細めて喉を鳴らす。その様子はあまりに微笑ましくて、つい俺の顔まで緩みそうになる。


 自分をかわいいもの好きだとは思わないが、この雛が愛らしいことは認めざるを得なかった。もし初対面があんな緊迫した場面でなければ、今のヴィンフリーデほどではないにしても、それなりの反応を示していただろう。


「本当にかわいいわ……連れて帰りたいくらい」


 飽きず延々と雛を撫で続けているヴィンフリーデはぽつりと呟いた。


「そいつはシンシアのペットだぞ」


 慌てて口を出すと、ヴィンフリーデは小さく口を尖らせた。


「分かってるわよ。シンシアちゃんのペットを奪うわけないじゃない」


「やりかねない顔だった」


「だってかわいいもの。ほら見て、このつぶらな瞳! ふわふわの羽毛! ちっちゃなくちばし!」


「……楽しそうで何よりだ」


 彼女の相手をするのは諦めよう。そんなことを考えながら、俺は雛に視線を注ぐ。すると、雛と俺の視線が交錯した。


「ピィピィ!」


「ん?」


 その瞬間。雛は鳴き声を上げると、俺を見て羽ばたいた。小さな羽がぱたぱたと動き、足のほうもジタバタと動いている。落ちそうになる雛を、シンシアが慌てて支えていた。


「どうしたの?」


 シンシアが尋ねるが、雛は俺を見ながらジタバタするだけだった。不思議に思った俺が近寄ると、雛はさらに鳴き声を上げた。


「ピッ! ピゥ!」


「ひょっとして、ミレウスさんのほうへ行きたいの?」


 シンシアは戸惑った様子で雛に話しかける。そして、不思議そうに小首を傾げた。


「神殿でも、何人かの神官に見せたんですけど……この子が自分から反応するのは初めてです」


「……たまたま、そんな気分だったんじゃないか?」


 そう言いながらも俺はその理由に気付いていた。……ひょっとして、この雛は『極光の騎士(ノーザンライト)』と俺が同一人物だと気付いたんじゃないだろうか。野生動物の勘は侮れないからな。


「ミレウスだけずるいわ……」


 恨めしそうな視線でヴィンフリーデがこちらを眺めているが、俺に言われても困る。心中でそう呟く間にも、シンシアがこちらへ雛を差し出てくる。


極光の騎士(ノーザンライト)』の時は鎧を理由に断ったけど、今回はそうもいかない。……けどまあ、あの時と違ってこの場に危険はない。多少気を抜いても大丈夫だろう。


 自分に言い訳をしながら、俺は雛を受け取った。雛とは言え、全長は〇.二メテル近くあるせいで、それなりの重みが腕にかかる。


「ピピッ!」


 俺の腕に飛び乗った雛は、小さな羽を動かしながら腕の上を跳ね回ろうとジタバタしていた。……なるほど、シンシアが苦戦するわけだ。


 かと思えば、今度は小さく首をぐぐっと伸ばして頭を寄せてくる。よくシンシアにしているように、頭をぐりぐり押し付けたいのかもしれない。ただ、首が短いせいで、さっぱり俺には届かなかったが。


「羨ましい……」


 裏切り者、と言わんばかりの表情でヴィンフリーデが呟く。昔、ヴィンフリーデの悪戯をエレナ母さんに密告した時以来の懐かしい表情だった。


 すると、今度はシンシアが口を開いた。


「ミレウスさん、その子を抱くの上手ですね……私はよくバランスを崩してしまって」


「こいつの動きの癖が分かってきたからな」


 答えると、雛の頭を撫でてみる。ほわほわとした手触りがとても気持ちいい。


「……ミレウス、一応言っておいてあげる。今、とても和んでいたわよ」


「えっ」


 ヴィンフリーデの指摘に思わず声を上げる。闘技場の支配人として、あまりそういう顔を見られるのはな……。ちょっと気を付けよう。


「シンシアちゃんも見たでしょう? ミレウスの頬が緩んだところ」


「はい、優しそうなお顔でした」


 そんなやり取りに思わず眼を逸らす。気まずくなった俺は、雛をシンシアに返すと、意図的に話をそらすことにした。


「ところで、名前はあるのか?」


「あ、はい……ノアちゃん、って呼んでいます」


 彼女はどこか恥ずかしそうに名前を口にする。その様子から、シンシアが名付けたのは明らかだった。


「ノアちゃんね、かわいい名前。何か由来がある名前なの?」


「え? あ、その、べ、別にないです! たまたまです!」


 ヴィンフリーデの質問を受けて、シンシアはなぜかしどろもどろになる。てっきり、好きな演劇に出てくる登場人物か何かから名付けたんだと思っていたが……。


「勝手に名前をつけて、『極光の騎士(ノーザンライト)』さんは怒らないでしょうか……」


 シンシアは心配そうに問いかけてくる。だが、それは心配のし過ぎというものだろう。


「大丈夫だ、怒らないことは保証してもいい」


 答えると、彼女は明らかにほっとしていた。


 そして、神殿内でノアを飼う許可をもらった話や、食べるものの話などが一段落した後で、俺は貴重な要件を切り出すべく間を窺う。


「あの、どうかしましたか?」


 そんな俺の様子に気付いたのだろう。不思議そうなシンシアに、俺は真面目な声色で話しかけた。


「――シンシア、頼みがある。三十七街区の顔役を紹介してほしい」


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