『天神の巫女』(シンシアEND)
ご無沙汰しています。
本作はエピローグをもって完結していますが、ヒロインとのその後について、マルチエンディング形式で後日譚を用意しました。
……ということで、レティシャ編、シンシア編、2パターンの後日譚を用意しています。お手数ですが、お好きなほうをご覧ください。
【支配人 ミレウス・ノア】
「先月の売り上げはどうだった?」
「順調よ。試験的に導入した興行を除けば、概ね満席だったようだし」
「そうか、ひとまず安心だな」
闘技場の支配人室でほっと息を吐く。それは、俺とヴィンフリーデの間で、十年以上の長きにわたって繰り返されてきたやり取りだ。
『第二十八闘技場』の看板が『イグナート闘技場』に変わってから八年ほど経つが、ありがたいことに今も観客からは大きな支持を受けており、闘技場ランキングで一位から転落したことは一度だけだった。
「そうそう、バルノーチス闘技場から交流試合の打診が来ているわ。相手は『大破壊』のようね」
「へえ、それは嬉しいな」
そう答えると、ヴィンフリーデはわざとらしく咳払いをしてみせる。
「ミレウス、自分が戦う前提になっているわよ。ミレウスは少し前に戦ったんだから、次はユーゼフの番じゃないかしら?」
だが、昔とは大きく変わった部分もある。その一つが、イグナート闘技場の看板剣闘士だ。かつては『極光の騎士』と『金閃』の二枚看板だったが、今では『金閃』と『双究闘士』――つまり俺だ――が二枚看板になっていた。
「そうだった……新しいエルフ魔術を覚えたから、『大破壊』に通じるか試してみたかったのにな」
かつて『極光の騎士』は不敗を誇っていたが、今の俺にはそこまでの戦闘力はない。
闘気を極めた、破壊力の権化たる『大破壊』。同じく膨大な闘気量を誇りながらも、技巧派の剣士である『金閃』。そして、闘気と魔術を組み合わせて戦う『双究闘士』。
俺たち三人の実力は伯仲しており、ここ数年は勝ったり負けたりを繰り返していた。
「うちの旦那様のためにも、『大破壊』との試合は譲らないわよ?」
冗談めかして告げるヴィンフリーデに、俺は肩をすくめてみせる。
「まあ、今度はこっちから申し入れてみるさ」
そんな会話を挟みながら、案件を片付けていく。いつしか陽が沈み始めていることに気付いた俺は、ふとヴィンフリーデに問いかけた。
「そう言えば、ゼディアスの風邪はもういいのか?」
「ええ、もう大丈夫。今は母さんが見てくれているけど、すっかり元気よ。アルガス君たちと遊びたいってジタバタしてたわ」
ヴィンフリーデは苦笑を浮かべながら答える。ゼディアスとは彼女とユーゼフの間に生まれた男の子だ。まだ五歳ながら、すでに優れた戦士の素質を垣間見せている逸材であり、イグナート闘技場の剣闘士にならないかと密かに勧誘している。
「うちの子と会ったら、すぐに試合ごっこを始めるぞ。病み上がりにはお勧めできないが……」
「そのあたりはオーレリアに言い含めておくわ。あの子なら、ちゃんと止めてくれるから」
オーレリアとは、同じくヴィンフリーデたちの子供であり、ゼディアスの姉だ。誰に似たのか、利発で落ち着きのある彼女には、やんちゃな子供たちも大人しく従うのだ。
「そうか……あの子にはいつも苦労をかけるな。何かお礼をしなくちゃな」
「そう? じゃあ、お礼には歌劇のチケットなんてどうかしら。あの子、『極光の騎士』の演目が大好きだから。そりゃもう、ユーゼフが嫉妬するくらいに」
「最近、ユーゼフの剣筋が苛烈だと思っていたが……まさか、それが原因じゃないだろうな……」
「どうかしら。でも、あの『極光の騎士』の正体が、よく知ってるミレウスおじさんだったということは、いつか教えてあげたいわね」
「俺が生きている間は勘弁してくれ……」
そんな他愛もない話をしながら、俺たちは帰り支度を始めるのだった。
◆◆◆
シンシアと結婚した後も、俺はクロイク家の館に住み続けていた。ヴィンフリーデはさっさと新居を決めてしまったし、エレナ母さんも戻る気はないと断言しているからだ。
せめてお金だけでも払おうとしたのだが、また怒られそうになったので、結局支払えないままでいる。俺としては住み慣れた家だし、訓練場もそのまま使い続けられるため、ありがたい限りだった。
「ただいまー」
支配人業を終えて闘技場から帰宅した俺は、玄関の扉を開く。すると、すぐにドタドタと賑やかな足音が聞こえてきた。
「お父さん、お帰りなさい!」
「お帰りー!」
「りー!」
あっという間に、俺は三人の子供に囲まれる。六歳、四歳、二歳の三人姉弟で、上から順にステラ、アルガス、ロレーヌと名付けている。
外套を脱いで三人を順番に撫でていると、リビングのほうからシンシアがひょっこりと顔を出した。
「ミレウスさん、お帰りなさい」
そして、ぱぁっと笑顔を浮かべる。聖女モードのシンシアでは決して見ることのできない、心からの笑みだ。その笑顔につられて、つい俺の口角も上がる。
「ただいま、シンシア」
「今日は興行がある日なのに、早かったですね。……嬉しいです」
そして、もう一度微笑む。台所のほうからいい匂いがしているのは、夕食の準備中だったのだろうか。
「シンシアも、今日は神殿に用事があったんだろう?」
「はい。でも、ただの解呪の依頼でしたから、すぐに終わりました」
シンシアはこともなげに答える。マーキス神殿がわざわざシンシアに依頼するほどだから、かなり厄介な呪いだったのだろう。だが、『天神の巫女』が手こずるほどの難易度ではなかったらしい。
神殿で暮らしていたシンシアは、結婚を機に住居を移しており、長女のステラを出産してからは神官の職も辞しているのだが、彼女が『天神の巫女』であることに変わりはない。
今でもシンシアの魔法技能はマーキス神殿随一であり、何かと応援を依頼されることが多かった。
「神殿楽しかった! また行く!」
そんな俺たちの会話で触発されたのか、息子が目を輝かせてこちらを見る。だが、俺たちが答えるより先に、長女のステラが口を開いた。
「お父さん、アルガスったら神殿で迷子になったの! 勝手にお部屋からいなくなって――」
そんな姉の告発に、アルガスは気まずそうに目を逸らした。シンシアが解呪をしている間は、他の神官が世話をしてくれていたはずだが……やっぱり脱走したか。
「闘技場に連れて行った時も脱走したよな?」
シンシアの仕事が忙しいからと、興行がない日に支配人室で預かった時のことを思い出す。ヴィンフリーデにはさんざん苦労をかけたな。
そんな記憶を掘り返していると、シンシアがこちらを見ていた。他にも言いたいことがあるのだろうか。
「実は、それともう一つ、イスファン皇帝が崩御された関係で依頼があって……」
「皇帝がらみの依頼……?」
「はい。私も知らなかったんですけど、あの地下遺跡に……」
と、シンシアが本題を切り出した時だった。玄関の扉が開いて、賑やかな声がリビングまで届く。
「――ただいまー!」
元気な声の主はシルヴィだ。俺とシンシアが結婚してからも、最初の数年はこの家で一緒に暮らしていたこともあって、独立した今でもよく顔を出してくれるのだ。
「あ、シルヴィお姉ちゃん!」
「シルヴィちゃんだ!」
「だ!」
「みんな元気にしてた?」
三者三様の歓迎を受けたシルヴィは、ぐりぐりと子供たちの頭を撫でまわす。もうすぐ二十歳を迎えるシルヴィは、背も伸びてすっかり大人になっている。
帝国一の腕利き魔工技師ではあるが、その人懐っこい性格はさっぱり変わっておらず、モンドールいわく「親しみやすい美人」として求婚者が後を絶たないらしい。
「……ん?」
と、子供たちと戯れるシルヴィを眺めていた俺は、その姿に違和感を覚えた。なんだろうと首を傾げた瞬間に、隣に来ていたシンシアが声を上げる。
「シルヴィちゃん、その耳は……」
「うん、隠すのはやめたの」
朗らかに答えると、シルヴィは尖った耳に手をやった。帝都にいる間は、ずっと幻覚のイヤリングでごまかしていた耳が露わになっている。
「それって、私のせいで――」
「そうじゃないよ。私が、自分で決めたの」
シルヴィは屈託のない笑顔で答える。子供が生まれてからは一時的にセーブしているが、シンシアは大陸を回り、亜人との隔意なき共存を説いていた。そのため、シンシアは自分が強制してしまったのかと懸念したのだろう。
なお、身動きが取りづらくなったシンシアに代わって、今では俺の実の両親であるセインとアリーシャが、名代のような感じで大陸中を回っている。あの二人は異種族の夫婦だし、フォルヘイムや新しいエルフの里にいた経験もあるため、うってつけの人選だった。
「大丈夫か? 嫌がらせを受けたりしてないか?」
それなりの年月が経ったとは言え、この街は二度もエルフに襲われている。ユグドラシル討伐後に政府から声明が出され、エルフを含む亜人は過激派と穏健派で対立していたこと、穏健派の協力で亜人連合を討伐できたことなどが公式に認められているが、それでも偏見は根強いはずだ。
「ううん、別にないよ」
そう答えるシルヴィに、無理をしている様子はなかった。とは言え、彼女が最初からエルフ族の耳を露わにしていれば、どうなっていたか分からない。人間だと思われているうちに、大きな信頼関係を築けたからこそ、周囲の抵抗が少なかった可能性は否めないだろう。
「よかった……」
そんな事情には気付いているのだろうが、シンシアは安心したように息を吐いた。
「ところで、夕食は食べて行けるの? たくさん作っているから、シルヴィちゃんの分もあるよ?」
「いいの? やったぁ、みんなとご飯だね!」
シルヴィは嬉しそうに声を上げた。経済的にはすっかり自立したものの、一人で食事を食べるのは寂しいとのことで、よく食事時に顔を出すのだ。今日のようなアポなしは珍しいが、一緒に食卓を囲むことは日常茶飯事だった。
それに、寂しいからとヘタな男と食事に行かれると心配だからな。シルヴィは人をあっさり信用する癖があるから、そこは俺が目を光らせておかなければ。
「シルヴィちゃんのお仕事はどう? 困ったりしてない?」
「仕事そのものは問題ないけど、弟子入りしたいって子が多くて、ちょっと困ってるかも……。マイル君に全部押し付けるのもかわいそうだし」
「シルヴィちゃんはお弟子さんを取らないの?」
「私、あんまり人を見る目がないから……」
そんな会話を交わしている二人は、まるで本当の姉妹のようだった。彼女たちの話を聞いていた俺は、ふと気付く。
「シンシアって、シルヴィには敬語を使わないよな……」
そんな感想が口をついて出る。もう結婚して七、八年経つのだが、いまだに俺への敬語は健在だ。別によそよそしいと思っているわけではないが、なんだか不思議な気分だった。
「言われてみれば……シンシアお姉ちゃんって、今でもお兄ちゃんに敬語なんだね。面倒じゃないの?」
シルヴィが問いかけると、シンシアは笑顔のまま首を横に振った。
「ミレウスさんは命の恩人で、憧れで、英雄そのものなんです。こうして結ばれた今でも、その意識が残っていて……。もちろん、その……ミレウスさんを愛していることに、変わりはありませんけど」
シルヴィではなく、俺を見つめてシンシアは答える。最後のくだりはさすがに恥ずかしかったようで、少し早口だったが、彼女の気持ちはしっかり伝わってきた。
「……私、お邪魔だったかな?」
無言で見つめ合っていた俺たちに、シルヴィがからかい交じりで声をかける。
「あ……」
我に返ったシンシアが、頬を朱色に染めて後ずさった。その様子を見て、シルヴィが楽しそうに微笑む。
「夫婦なんだから、遠慮しなくていいのに」
そう言ったところで、シンシアが気にしないはずはない。彼女はわざとらしく後ろを振り返ると、くるりと身を翻した。
「わ、私はお鍋の様子を見てきますね! 子供たちの相手はお願いします!」
「あ、行っちゃった」
バタバタと去っていく背中を見ながら、シルヴィは目を瞬かせる。
「ごめんね、お兄ちゃん。ひょっとして余計なことを言っちゃった?」
「いや? どちらかと言えば、俺は得をした気分だな」
「はいはい、ごちそうさま」
そうして、俺たちは六人で食卓を囲むのだった。
◆◆◆
徹底的に破壊された建物群や、不自然に陥没した地形の数々。八年前の激戦の爪痕が残る地下世界に、俺たちは足を踏み入れていた。
「なんだか久しぶりだな……」
「はい……とても遠い昔のことだったような、そんな気がします」
俺の言葉にシンシアが頷きを返す。すると、俺の肩に止まっていた緑色の鳥が元気に鳴き声を上げた。
「ピィ!」
「そうだな、お前にとっても感慨深い場所だよな」
そう言ってノアの頭を撫でる。全長一メテルほどに成長したノアは、今もシンシアの傍らにあった。さすがに家の中で暮らすのは狭すぎるため、普段は庭に建てた専用の小屋で暮らしているのだ。
とは言っても、ノアは家の中のものを壊さないよう、器用に飛んだり歩いたりできるため、家との行き来はフリーパスだ。少し前までは、黒猫になったクリフとつるんでいたのだが……彼は今、セインたちに同行してヴェイナードの様子を見に行っている。
そうして、二人と一羽で感慨深い光景を眺めていると、後ろから声をかけられる。皇帝が代替わりしたことにより、皇弟となったモンドールだ。
「おいおい、目的地はまだまだ先だぜ? 感慨に耽るにゃまだ早いぞ」
「ああ、悪いな」
俺は素直に謝ると、モンドールの後に続く。今回、俺とシンシアが地下世界へ赴いたのは、帝国政府とマーキス神殿の共同依頼が原因だった。
本来なら、依頼を遂行するのは『天神の巫女』であるシンシア一人で充分なのだが、俺も地下世界には縁がある身だ。地下遺跡にはどんな危険があるか分からないという理由をつけて、俺はシンシアの私的な護衛として潜り込んだのだった。
警護のため同行している十名ほどの帝国騎士とともに、俺たちは地下遺跡の中を歩いていく。モンスターに遭遇することはほとんどなく、その道程は穏やかなものだった。
「……お義父さんとお義母さんは、子供たちに手こずってないかな」
地下世界をのんびり歩きながら、ふと口を開く。今回は俺とシンシアが揃って家を空けることから、シンシアの家族が子供たちの世話をしてくれているのだ。ちょうど遊びに来る予定があったので、そこにスケジュールを合わせた形だった。
「大丈夫だと思います。私たちは六人兄妹でしたから」
「そうだったな。それに比べれば、三人くらいは余裕か」
「昔ほど体力はないと言っていましたけど、楽しみにしていたみたいです」
隣を歩くシンシアは優しく微笑むと、なぜか軽く周りを見回した。つられて周囲の気配を探るが、特に変わった様子はなかった。
「どうかしたのか?」
「いえ……今の話に関係するんですけど、他の皆さんに聞こえると、なんだか恥ずかしくて」
「?」
小声で囁かれた言葉に目を瞬かせる。いったいなんの話だろうか。俺が首を傾げていると、シンシアは自分の腹部に手を当てた。
「少し前に、神託があったんです。それで……多分ですけど、四人目ができました」
シンシアは穏やかに微笑んだ。すでに三人の子を産んでいる彼女は、実に落ち着いたものだった。
「な――だ、大丈夫か!? 体調は!? こんな長丁場の道中なんて……」
一方、俺のほうは大慌てだった。見た目では分からないとは言え、子を身ごもっているのであれば、普段のようにはいかない。
「大丈夫です。体調にはなんの不安もありませんから」
「だが、減少したとはいえ、ここにはモンスターも出る。万が一のことがあれば……」
なおも焦る俺だったが、シンシアは笑みを深めると、俺の手を取る。
「ここには、ミレウスさんがいてくれますから」
「……」
そんな全幅の信頼を置いた目で言われては、これ以上何も言えない。そう諦めた俺は、ふとシンシアの言葉を繰り返す。
「……神託?」
子供ができたことは、俺たちにとっては大事件だ。だが、神々にとっては、本当に些末な事柄だろうし、神託を下すとは思えない。そもそも、これまでに三人の子供を授かっているが、神託を受けたりはしていなかったはずだ。
「出発前に、神殿に寄りましたよね? ……実は、神託の解釈について、相談をしていたんです」
「そうだったのか……」
たしかに、今日は早めに出発して、神官たちと何やら話をしていたようだったが……それが、子供とどう繋がるのだろうか。
「それで、その……ひょっとすると、生まれてくる子は、マーキス様から力を授かっているかもしれません」
「……え?」
言葉の意味を理解するのに数秒を要した俺は、ようやく一言だけ発する。天神マーキスから力を授かるということは、つまり――。
「まさか『天神の聖騎士』の力を……?」
神々から力を授けられるのは、『聖騎士』と『巫女』のはずだ。巫女の称号については、優れた神聖魔法の使い手や、多大な貢献をした女性神官に贈られることもあるが、少なくともシンシアが本物の『天神の巫女』である以上、二人目はあり得ない。となると、消去法で聖騎士ということになる。
「神殿のみなさんも、同じ解釈でした」
シンシアは困惑顔で頷いた。『天神の巫女』の苦悩に苛まれ続けた彼女にとっては、素直に歓迎できる事態ではないのだろう。それに――。
「まさか、また世界に騒乱の兆しがあるのか?」
人類の存亡がかかった情勢において、聖騎士や巫女は多く現れるという。そうでもなければ、神々がわざわざ力を与える必要はないからだ。
「たぶん、そうじゃないと思います。そういう時は、後天的に力を与えられることが多いですから……」
そして、彼女は懐かしむように地下世界を見渡す。
「三千年前の私もそうでした。十二歳の時に、突然『天神の巫女』の力を与えられたんです」
「そうだったのか……」
「私が二人分の人生を、両方とも『天神の巫女』として生きたせいで、マーキス様との繋がりが強くなりすぎたんだと思います」
「つまり……マーキス神にそのつもりはなかったのに、うっかり力を与えてしまった?」
「たぶん、そうだと思います」
予想外の理由に唖然とする。天空神、いいのかそれで。そんな不遜なことを考える俺だったが、シンシアは慈愛に満ちた眼差しを腹部へ向ける。
「……でも、理由はどうでもいいです。今は、この子が宿ったことを素直に喜びたいですから」
「ああ、そうだな」
その言葉に頷く。一瞬、『聖騎士』ならイグナート闘技場の看板剣闘士になれるかもしれない、だとか、その場合は闘技場嫌いのマーキス神殿をどう懐柔するべきか、などと考えていたのは秘密にしておこう。
そんなことを考えながら、俺はシンシアの護衛を続けるのだった。
◆◆◆
地下世界を進んでいた俺たちは、とある建物の前で足を止めた。思っていたよりも小さな建物だったが、これが目的地であることは間違いないだろう。
「――ここだ。俺たちの間では小神殿と呼んでる」
「小神殿……」
シンシアはその言葉を繰り返す。そして、意を決した様子で顔を上げると、小神殿の中へ足を踏み入れた。
「……ここでも戦いがあったんだな」
小神殿の内部を見物していた俺は、ぼそりと呟いた。軽く掃除はされているようだが、明らかな破壊痕や、落ち切っていない血痕が嫌でも目に入ってくる。
「ああ、そうだ」
どこか遠い目で、モンドールが相槌を打つ。
「高位のマーキス神官をはじめとしたチームが、ずっとここに詰めていたんだが……」
その言葉の続きは聞かなくても分かった。俺の隣では、シンシアが厳かな表情で聖印を切っている。そして……。
「これが、今回の依頼内容だ」
破損した大扉をくぐったモンドールは、手で部屋の奥を指し示す。そこには、三メテルほどの大きさのクリスタルが安置されていた。
「これが……」
「……ああ。『天神の巫女』フィリスの亡骸だ」
モンドールは神妙な表情で頷いた。
今回の依頼。それは、ユグドラシル封印結界の核となっていた三千年前の『天神の巫女』フィリスを、解放してやってほしいというものだったのだ。
「……」
クリスタルの前へ進み出たシンシアは、無言で立ち尽くしていた。三千年前に命を落とした、自分の肉体。それが今も現存していて、こうして対面を果たすなど、誰が考えるだろうか。
「しっかし、意外だな。シンシアちゃんは『天神の巫女』なんだからよ、この聖結界のことも知ってるもんだと思ってたぜ」
佇むシンシアに気を遣ったのか、モンドールは小声で話しかけてくる。
「『天神の巫女』だからこそ、言えなかったのかもしれないな」
「なるほどな。先達がクリスタル漬けになってるなんて、たしかに夢見が悪そうだ」
彼は渋い顔で同意すると、軽く話題を変えた。
「そういや、ここは政府とマーキス神殿、それに魔術ギルドが共同で管轄してたらしい」
「そうなのか?」
言われて、俺は軽く周囲を見回す。帝国政府はモンドール、マーキス神殿はシンシアが代表になるのだろうが、魔術ギルドの人間らしき人物は見当たらなかった。
「『紅の歌……じゃなかった、魔術ギルド長も来ると思ったんだが、神聖魔法の領域だから『天神の巫女』に一任するって言ってたぜ」
「そんなことがあったのか……」
小声でそんな会話をしていると、沈黙していたシンシアが振り返った。どうやらふんぎりがついたらしい。
「それじゃ、始めていいですか?」
「ああ……頼む」
シンシアの問いかけに、モンドールはいつになく真剣な表情で答える。この国の成り立ちを思えば、『天神の巫女』フィリスは、彼ら皇族にとって特別な意味を持つのだろう。
実を言えば、今回の依頼の話を聞いた時に、シンシアとフィリスの関係を帝国に明かさないのかと本人に尋ねたのだが、「過去ではなく、未来を見てほしいですから」と首を横に振っていた。
「始まった……」
小声でそう呟いたのは、帝国騎士の一人だろうか。活性化したシンシアの魔力が、手で触れた部分からクリスタルへ流れ込んでいく。通常の魔術とは一線を画する、神聖魔法特有の清浄な魔力だ。
ゆっくりではあるが、陽光のような光が次第に強くなっていく様を、誰もが黙って見守っていた。そして――。
内圧に耐えかねたかのように、パキン、とクリスタルにヒビが入った。次の瞬間、クリスタルは粉々に砕け散り……そして、光の霧となって空気中へ溶け込んでいく。その神秘的な光景に心を奪われて、俺は惚けたように立ち尽くす。
「あれが……『天神の巫女』フィリスか……」
モンドールがそう呟いたことで、俺はふと我に返った。シンシアの前に浮いている、神々しい光を放つ女性の身体。その顔には、たしかに見覚えがあった。
だが、やがてその光も失われ、浮いていたフィリスの身体がふっと落ちる。慌てて跳び出した俺だったが、シンシアはしっかり彼女の身体を受け止めていた。
「シンシア、大丈夫か?」
見た目よりは力があるシンシアだが、さすがに成人女性一人分の体重を支えることは辛いだろう。そう考えた俺だったが、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「大丈夫、です」
かつての自分の身体を抱きしめて、シンシアは微笑む。その表情は慈愛に満ちたものであり、まさに『天神の巫女』の名に相応しいものだった。
我が子を抱くように、シンシアはフィリスの背中に腕を回すと、その身体を優しく抱きしめた。そして目を閉じて……ぽつりと呟く。
「――長い間、お疲れさまでした……私」




