エピローグ
【支配人 ミレウス・ノア】
「さあさあ! 人類最強の漢、『大破壊』戦のチケットはここにしかないよ! この試合を観ておかないと、帝都に来たなんて言えないぜ!」
「いやいや、それを言うならこっちだよ! 次回の剣闘士ランキングでは第一位間違いなし! 『金閃』の交流試合だ! こんな機会は滅多にないよ!」
「ちょっと待った、それを言うなら新進気鋭の超新星を忘れてもらっちゃ困るね! なんと言っても――」
通称『戦の広場』。帝都マイヤードでも有数の観光名所であり、闘技場のチケットを転売するダフ屋たちが集う場所でもある。
その喧騒を抜けると、俺は広場の中央に立った。ここへ立ち寄る予定はなかったのだが、通り道となれば無視するわけにはいかない。
「……」
そして、巨大な石碑の前で静かに目を閉じる。それこそは、地下世界での戦いで命を落とした剣闘士たちの名前が刻まれた石碑だった。
ユグドラシルを滅ぼしてから、そろそろ半年が経つだろうか。かつての襲撃と異なり、地下世界で戦争が行われたため、帝都への被害は最小限にとどまっていた。
だが、そこで失われた人材は多く、皇城は立て直しのために奔走しているようだった。
「――行くか」
やがて広場を抜けると、各区画の様子を観察しながら街を歩き、本来の目的地である墓地に足を踏み入れる。慣れた足取りで目的地へ向かうと、数名の先客が俺を待っていた。
「あ、ようやく来たわ」
「意外と長引いたね」
姿を見せた俺に、ぴったりと身を寄せた幼馴染たちが声をかける。そんな二人に手を挙げて挨拶をすると、俺は墓前で足を止めた。そこに眠っているのは、もちろん親父だ。
「二人は、もう報告したのか?」
「ええ」
「ヴィーを取られて悔しかったら、いつでも殴りに来てくれ、と伝えたよ」
「報告というか宣戦布告というか……」
俺たちは顔を見合わせて笑う。ユーゼフとヴィンフリーデは、ついに正式に婚約したのだ。結局は別れずに済んだとはいえ、ヴィンフリーデの喧騒病の一件が後押しとなったようだった。
「必ず来るわよ。あの人は昔から、『ヴィーの結婚相手はまず殴る』と言っていたもの」
そう笑ったのはエレナ母さんだ。ユグドラシルが滅び、喧騒病の大元となっている呪いが完全に消滅したことで、彼女は帝都へ帰ってきたのだ。
今度こそ、クロイク家所有のあの家を返すべきだと思うのだが、一緒に住んでいるシルヴィに気を遣ったのか、別の区画に家を借りている。まあ、しょっちゅうヴィンフリーデと一緒に訪ねてくるので、シルヴィともすでに仲良くなっているのだが。
「ユーゼフ、その時は私も呼んでくれ。お前とイグナートの殴り合いは、さぞ見ごたえがあるだろう」
そして、珍しいことにダグラスさんが冗談を飛ばす。ダグラスさんは地下世界での活躍もあり、優秀な人材の補充に躍起になっている帝国騎士団から、執拗な勧誘を受けているらしい。
だが、彼にそのつもりはまったくないようで、個人的にはほっとしている。ダグラスさん以外の副支配人なんて、まったく想像できないからな。
そんなことを考えながら、俺は墓石の前に進み出た。そして、手にしていた花束と、二枚の書類を供える。
「へえ……なんだか普通の紙だね」
そのうちの一枚を覗き込んで、ユーゼフは拍子抜けしたように呟いた。
「後で額縁にでも入れておくさ」
俺は笑って答える。なんの変哲もない、ただの認可書類。だが、そこには大きな価値があった。これこそは、闘技場の命名権を行使した証しだからだ。
『イグナート闘技場』
供えた書類には、そう記されていた。ひねりのない名前だが、親父が自分の名前を闘技場に付けたがっていたことは、ここにいる全員が知っている。
一応、クロイク闘技場という案も考えたのだが、「ミレウスたちがのけ者みたい」というヴィンフリーデの意見で却下されていた。
そして、俺はもう一枚の紙に視線を向けた。こちらは数カ月前に発表されていたものだが、どうせなら一緒に供えたかったのだ。
闘技場ランキング 第一位 【玉廷】第二十八闘技場
そう。数カ月前に行われた闘技場ランキングで、第二十八闘技場はついに第一位を獲得したのだ。
『極光の騎士』はすでに消滅しているが、ランキングの集計期間には入っていたことや、モンドールが上位ランカー入りしたこと、そして同じく一位候補だったバルノーチス闘技場がデロギアの件で処分を受けたことなどが理由だった。
だが、慢心するわけにはいかない。今回のランキングを支えた『極光の騎士』はもういないのだ。世間一般では、彼はユグドラシルと相討ちしたことになっている。
鎧自体は残っているため、穏便に引退宣言をすることもできたのだが……あの日、俺の中の『極光の騎士』は完全に消滅したのだろう。どうしても演技をする気にはなれなかった。
「ミレウス、どうしたの? 深刻な顔をして」
と、想念に沈んでいた俺は、ヴィンフリーデの言葉ではっと我に返った。
「いや、次回の闘技場ランキングでも一位を取れるようにと、気を引き締めていたところだ」
「あはは、ミレウスは心配性だね。でも大丈夫だよ。次の剣闘士ランキングでは、僕が一位になるから」
ユーゼフはそう笑うと、意味ありげな視線をこちらへ向けた。
「それに、『極光の騎士』はいないけど、有力な新人剣闘士が入ったじゃないか。そうだろう? 『双究闘士』」
「……その二つ名には、未だに慣れないな」
挑発的な物言いに、俺は苦笑を浮かべた。
――『双究闘士』。それが、俺の剣闘士としての新しい二つ名だ。支配人と剣闘士を兼ねていること、そして魔術と闘気を組み合わせて戦うこと。そんな面から付いた名前のようだった。
剣闘士として登録した時には、「『極光の騎士』を失った支配人がヤケになった」とさんざん言われたものだが、上位ランカーを倒した頃から、そんな揶揄は鳴りを潜めるようになっていた。
「それで、魔術のほうはどうだい?」
「もう少しで大地の壁は実戦レベルになると思う。できれば氷尖塔や聖光柱、氷蔦あたりも覚えたいんだがな……」
ユーゼフの問いかけに答える。レティシャたちの特訓を受けたことで、俺は筋力強化を扱えるようになっていた。
筋力強化と闘気を組み合わせれば、俺の身体能力は爆発的に跳ね上がる。だが、俺の反応が追い付かず、身体に振り回される時もあれば、魔力と闘気が上手く噛み合わない時もあり、安定性に欠けているのが現状だ。
そして、技術的な面で言えば、やはり魔法剣技は捨てがたいため、俺は筋力強化以外の魔術にも手を伸ばしていた。
現状では、まだユーゼフと『大破壊』の二人に勝つことは難しいだろうが、闘気と魔力の安定、そして魔法剣技の再習得が叶えば、充分勝算はあるはずだった。
「そうなれば『極光の騎士』の再来だね」
「多彩な魔術も使えなければ、空も飛べないけどな」
「その分、闘気があるだろう?」
今にも練習試合を始めそうな雰囲気で、ユーゼフは力強く笑う。
「うふふ、なんだかユーゼフのほうが嬉しそうね」
ヴィンフリーデが口を挟むと、ユーゼフは朗らかな表情で頷いた。
「それはそうさ。ようやく、ミレウスが正当な評価を受けたんだからね。練習試合もよかったけど、やっぱり観客に囲まれた試合の間で戦いたいじゃないか。そして……」
「――その上で、君を倒す」
「――その上で、お前を倒す」
俺たちの声が唱和する。俺とユーゼフは顔を見合わせると、ニヤリと笑いながら拳を打ち合わせた。
◆◆◆
「――おっと。そろそろ第二十八闘技場へ戻ろう」
日が傾き、空が茜色に染まり始めた頃合いで、俺は四人に声をかけた。俺だけでなく、四人にも関係のある事柄だからだ。
「そうだな」
「ええ。……あなた、また来るわね」
ダグラスさんとエレナ母さんに続いて、俺たちは墓地を後にする。すると、途中でよく知った人たちと出くわした。フェルナンドさんたちだ。
「おや、皆さん。ひょっとしてお墓参りですか?」
「はい。闘技場に親父の名前を付けたと、報告してきたところです」
俺が代表して答えると、彼は穏やかに微笑んだ。
「そうですか。さぞかしイグナートも喜んでいることでしょう」
「あの世で再会したら、さんざん自慢してきそうね」
「目に浮かぶようだ。十日は続くぞ」
ローゼさんとソリューズさんが、懐かしそうに笑う。
「フェルナンドさんたちも、親父の墓参りですか?」
「ええ。そろそろ、この街をお暇しようと思いまして。もう心残りはありませんから」
「そうですか……寂しくなります」
しんみりと告げる。俺もそうだが、シルヴィが寂しがる様子が目に浮かぶようだった。
「セインとアリーシャは、しばらくこの街にいるんでしょ? シルヴィちゃんなら大丈夫よ」
まるで俺の心を読んだかのように、ローゼさんが俺の背中をポンと叩く。そう、実の両親であるセインとアリーシャは、半年ほど俺の家に滞在していた。
セインは臨時枠の剣闘士として何度か試合に出場しており、結構な人気を博していた。特に、ユーゼフとの激戦はかなりの名勝負であり、観客から再戦の要望が頻繁に届いているほどだ。
そしてアリーシャのほうは、魔術ギルドで何やら仕事をしながら、俺にエルフ魔術を教えてくれていた。エレナ母さんに、俺の昔話を根掘り葉掘り聞いているらしいが……そこは知らないフリをしている。
「――それでは、これで」
やがて、フェルナンドさんたちが去っていく。親父のために、そして俺たちのために。わざわざ帝都へ来てくれた彼らの後ろ姿に向かって、俺は黙って頭を下げた。
「あの人ったら、素敵な仲間に恵まれていたのね」
「あれ? あの人たちのこと、母さんは知ってたんじゃないの?」
「村の危機を救ってくれた時に、ちらりと見かけただけよ。あの人が私にプロポーズした時は、もうパーティーを解散していたから」
「そうだったんだ……」
そんな昔話を聞きながら、俺たちは第二十八闘技場へ辿り着く。すると、そこには数人の職人と、付き合いの長いドワーフ職人であるギル親方が待っていた。
「すみません、ギル親方。遅くなりましたか?」
声をかけると、彼はフン、と鼻を鳴らした。
「ちょいと早めに来て、闘技場にガタが来ていないか、確認していただけだ」
「わたしも手伝ったよー!」
ひょいっと、物陰からシルヴィが顔を出す。ギル親方は魔工技師ではないが、魔工技術を利用して闘技場を建設している。そのこともあって、シルヴィはギル親方と一緒にいることが多かった。
「それで――」
「分かってる。アレだろう?」
俺の言葉を遮って、ギル親方は大きな看板を指差した。闘技場の外壁に立て掛けられたそれには、第二十八闘技場の新しい名前が刻まれており、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。
「発注主も来たことだし、始めるか。――おい、お前ら!」
親方の指示に従って、部下の職人たちが動き出す。まずは、今掛かっている『第二十八闘技場』の看板を外す必要があった。安全性を重視しているため、一部は岩石同化で外壁と一体化しており、その切り離しには時間がかかりそうだった。
「――よかった、間に合ったみたいね」
その作業を眺めていると、横合いから声をかけられた。レティシャだ。華やかで目立つ彼女の姿に、通りを歩く人々の視線が集まる。
「どうしたんだ?」
そう尋ねると、彼女はわざとらしく拗ねた表情を浮かべた。
「こんな大切な日に、私をのけ者にするつもり?」
「俺にとっては大切な日だが、わざわざレティシャが時間を割いてくれなくても――」
その答えに大きな溜息をつくと、レティシャは俺の腕を取る。
「あなたにとって大切な日なら、私にとっても大切な日なのよ」
そして、しばらく看板工事を眺めていた彼女は、思い出したように口を開いた。
「そうそう、フレスヴェルト子爵から手紙が届いたわ。『極光の騎士』が戦死したという情報を掴んだみたいね」
「あ……そういう問題があったか」
レティシャの父親であるフレスヴェルト子爵は、彼女を連れ戻すために帝都まで押しかけた他国の重鎮だ。あの時は『極光の騎士』を婚約者ということにして、お帰り願ったのだが……。
「『極光の騎士』がいなくなったなら、子爵家へ帰ってこいって?」
「ううん、そうじゃないわ」
意外なことに、彼女は首を横に振った。
「あれだけ仲睦まじかった『極光の騎士』が亡くなって、絶望しているんじゃないかって、そう心配しているみたい」
「そっちか……子爵も人間が丸くなったな」
俺はその答えに肩をすくめた。娘を連れ戻しに来た時の、子爵の気迫を思い出す。
「思い込みは激しいけれど、もともとはそういう気性の人だもの。手紙だって、私あてじゃなくて、ギルド長に来たものよ」
「ディネア導師に?」
「ええ。直接連絡を取らないよう、あの人なりに気を遣ったんでしょうね。……ギルド長は、あっさりその手紙を渡してきたけれど」
「気遣いが台無しだな……」
思わず呟くと、レティシャは苦笑を浮かべた。
「どうかしら。そのおかげで、できれば返事を書いてやってほしいと、ギルド長がやんわり言ってきたもの」
「ディネア導師が? あの人がレティシャに無理強いするとは思えないが……」
「だから、やんわりなのよ。キャストル王国は地下世界の戦いで、虎の子の魔術師部隊を派遣してくれたから。あの増援がなければ、騎士団の被害はもっと大きくなっていたはずよ」
「なるほどな……」
帝国の特別顧問であり、あの戦いの参謀でもあったディネア導師としては、大きな借りがあるわけか。
「まして、援軍を出すよう強く主張したのが、あのフレスヴェルト子爵だもの。断りにくいわよねぇ」
「案外、それを見越してディネア導師に手紙を出したのかもな」
「私もそう思っているわ」
レティシャは肩をすくめて同意を示した。俺は気になって、つい続きを尋ねる。
「それで、返事はしたのか?」
「ええ、一言だけ。……『私は今も幸せだから』って。これくらいなら、いいでしょう?」
彼女は確認するように問いかける。たった一言の返事ではあるが、フレスヴェルト子爵は『極光の騎士』が生きている可能性に思い至るかもしれない。そう考えた結果だろう。
「もちろんだ。レティシャを信頼してるからな。必要だと思うなら、存命にせよ正体にせよ、伝えてもらって構わない」
そう答えると、彼女は嬉しそうに身を寄せた。
「ありがとう、ミレウス。どうせなら、『信頼』じゃなくて『愛してる』と言ってほしいところだけれど……」
艶めかしく微笑むと、レティシャはさらに身を寄せて――。
「ま、間に合いました……!」
そして、少し離れる。よく知った声が聞こえてきたからだ。帝都で大人気を誇り、地下世界での戦いで他国にまで名前が売れた『天神の巫女』。
そんな彼女が血相を変えて走っていては、人々の注目を引いて当然だった。
「ピィ!」
主の邪魔にならないようにだろう。並走するように空を飛んでいたノアは、バサリと翼を羽ばたかせ、やがて俺の肩に舞い降りた。
ノアはユグドラシルの制御ユニットだが、ずっとシンシアと行動を共にしていること、そして神々しさを感じる優美な成鳥へ変化したことから、巷では『天神の御使い』だとか『神鳥』だとか言われていた。
真相を知る俺たちからすれば、見当違いもいいところだが、シンシアは「公式の場でも、ノアちゃんと一緒にいられるようになりました」と前向きに受け止めているようだった。
「そんなに急いで、大丈夫か?」
今も息を切らしているシンシアに問いかける。彼女は何度か深呼吸をすると、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫です。それより、大切な日に間に合ってよかったです」
「今回は混血種の集落だったか? 大変だな」
「いえ、自分で決めたことですから……」
シンシアは控えめに答えるが、瞳の奥には揺るがない強さがあった。今回の戦いで表面化した、亜人と人間の諍い。その現状を変えるべく、彼女は飛び回っていた。
ユグドラシル討伐の重要な役割を担った彼女は、今や大陸中のマーキス神殿から招きを受けている状態らしく、それを利用して亜人たちとの隔意なき共存を説いているのだ。
あのシンシアが、と最初は驚きもしたが、三千年前の記憶をはっきり思い出したことや、フォルヘイムでの経験、そして地下世界での戦いを通じて思うところがあったのだろう。
「そう言えば、ミレウスさんにお手紙を預かってきました」
俺が感慨に耽っていると、彼女は懐から封筒を取り出した。宛先は『ミレウス・ノア殿』となっているが、差出人の名前はない。
「……俺に?」
それは不思議な話だった。普通に郵便を出せばいいところを、わざわざシンシアに託したということか。郵便は確実に届くとは言えないし、そもそも郵便網から漏れている地域だって数多い。だが、わざわざ『天神の巫女』に手紙を託す必要があるだろうか。
「誰からだ?」
尋ねるが、シンシアは首を横に振った。
「いつの間にか、荷物に紛れ込んでいたんです。ただ、呪いや毒物の類は感じられませんでしたから……」
それで、持ってくることにしたらしい。礼を言って受け取ると、彼女はぽつりと呟いた。
「検閲がある可能性を考えて、郵便を使いたくなかったのかもしれません」
「そんな訳あり文書を、一体誰から――」
言いかけて気付く。今回、シンシアが訪れた先は混血種の集落だ。そして、ヴェイナードに追放されたエルフ王族の一派は、混血種と一緒に逃げのびたはずだ。彼らを護衛していたセインから聞いたのだから、まず間違いないだろう。
「私に手紙を渡せば、ミレウスさんに届けられる。あの集落で、そのことを知っているとすれば……」
その言葉が終わらないうちに、俺は手紙の封を切った。中には一枚の便箋が入っており、植物の汁らしきもので文章が綴られている。意外なことに、それは女性の筆跡だった。
――ミレウス様、お久しぶりです。と言っても、初めてお会いした時の私への印象は、あまりいいものではないでしょうけれど……。
そんな出だしで始まった文章には、相変わらず名前が記載されていなかった。政府や他人に見られたとしても、ごまかせるように。そんな配慮である気がした。
――あの人を助けてくださって、本当にありがとうございました。そして、負の遺産を清算してくださったことについても、心から感謝しています。
本人に手紙を書かせようとしたのですけれど、隻腕で満足に字が書けない上に、そもそも貴方に合わせる顔がないと、断られてしまいました。
どうやら、ヴェイナードはあの地下世界を生きて脱出できたようだった。
隠密機能に優れた古代鎧を着用していたとはいえ、俺との戦いで大半の機能を喪失しており、本人もかなりの重傷だったはずだ。
正直な話、生きて脱出することができる確率は、せいぜい三割程度だと思っていたのだが、さすがヴェイナードといったところか。
――もし次があるなら、今度こそあの人と。一時は諦めかけた誓いでしたが、思わぬ形で叶うことになりそうです。本当にありがとうございました。
末筆ながら、ミレウス様のご多幸と、闘技場の発展をお祈りしています。
文面はそう締めくくられていた。三千年前の二人の最期が脳裏に浮かび、なんとも言えない感慨に囚われる。
「……ヴェイナードたちのことは、ずっと気になっていたんだ。ありがとう、シンシア」
しばらく気持ちを整理すると、俺はあらためてシンシアに礼を言った。すると、彼女は嬉しそうに微笑む。
「ミレウスさんが喜んでくれて、よかったです」
そう答えるシンシアだったが……彼女はふと笑顔のまま固まった。その視線は俺の右腕に向けられており、そこには今もレティシャの腕が絡まっていた。
「……失礼しますね」
そして、笑顔のまま空いていた左腕を抱きかかえる。その笑顔が聖女モードに見えるのは気のせいだろうか。
「あらあら、今日のシンシアちゃんは積極的ねぇ」
「帝都を離れている間は、ミレウスさんに会えませんでしたから」
「つまり、今日はミレウスを独り占めしたい、ということかしら?」
「そ、そこまでは言ってません! ……もちろん、そのほうが嬉しいですけど」
そして、二人は俺を間に挟んだまま言葉を交わす。そのやり取りは和気藹々といった様子に見えるのだが、彼女たちが無理をしていないという保証はない。どうにか心を決めるべきだとは重々承知しているのだが、途方に暮れているのも事実だった。
「あはは、またミレウスが情けない顔をしているよ」
「経営も戦いも即断即決なのに、この方面だけは本当にヘタレよねぇ。帝国どころか、世界を救った英雄なのに」
「まあ、英雄色を好むとも言うからね」
そんな俺を楽しそうに観察しながら、ユーゼフとヴィンフリーデが茶化してくる。
「……てっきり、こういう問題を起こすのはユーゼフだと思っていたのに、分からないものねぇ」
「そうだな、その気持ちは分かる」
さらに、エレナ母さんとダグラスさんまでもが、溜息と共に視線を送ってくる。自業自得と分かっているが、本当に居たたまれない。そして――。
『……まったくです。いつまでもその態度では、彼女たちに失礼というもの』
俺の頭に声が響いた。周囲に視線をやれば、一匹の黒猫が座っている。そして、その猫こそが……。
『クリフ、どこへ行ってたんだ?』
『街を散策していたのです。やはり、自分で動けるというのはよいものですね』
その言葉に思わず相好を崩す。あの日、ユグドラシルとの戦いで自爆したクリフは、消滅しかけた魔法陣の状態で漂っているところを、レティシャに保護されたのだ。
本来はあり得ない現象らしいが、魂を取り込む機能を持ったユグドラシルが暴走したことで、物質世界と非物質世界の境界線が揺らいで起きた奇跡……らしい。
俺には詳しいことは分からないが、クリフが生きている。それだけで充分だった。
『ただ、魔術がほとんど使えないことには閉口しますね。これでは新米の魔術師レベルです』
『初級レベルだったとしても、魔術が使える猫の時点で凄いと思うぞ』
クリフの核となる魔法陣を保護したレティシャは、使い魔との契約魔術を応用して、魂を失った猫に彼を宿らせたらしい。だが、その性質は使い魔というよりは精霊に近いらしく、魔力も自分で生成しているようだった。
『……おや、そろそろ新しい看板を掛けるようですよ』
「――よし、せーので持ち上げろよ!」
クリフの声で視線を向けると、ギル親方が号令をかけているところだった。すでに旧看板の撤去は終わったようで、職人たちが新しい看板を持ち上げる。
職人たちが細かい取り付け位置を調整し、ギル親方がその前に立つ。その様子を見ていると、こっちまで自然と背筋が伸びる。両脇の二人も、絡めていた腕をほどくと、神妙な顔でその様子を眺めていた。
「……」
ふと、俺の視線は外された『第二十八闘技場』の看板へ移る。この看板を掲げていた二十年間には、本当に色々なことがあった。帝国に数多ある闘技場の中でも、最も数奇な運命を辿ったと言っていいだろう。
そう考えた瞬間、様々な記憶が次から次へと溢れ出す。
――ねえねえ、ぼくもけんとうしになれる?
――半年で二十四位だぜ!? こりゃ十位以内も見えてきたな!
――俺はあの闘技場を放っておけねえ。夢もあるが、なにより責任があるからな。
――本当はよ……この闘技場が大人気になって……詰めかけた客が夢中で試合を観て……そんな闘技場になるところを見届けたかった……。
――必ず……必ずこの闘技場を帝国一の闘技場にしてみせるからな! あの世でちゃんと見てろよ!
忘れたことのない、あの日の誓い。あれ以来、俺は無我夢中で闘技場を運営してきた。時にはこれまでの慣習を破り、敵を作ることもあった。古参の剣闘士に愛想をつかされたことだってある。
それでも、一歩一歩を着実に進み、数々の苦難を乗り越えてここまで来たのだ。それは間違いのない事実だった。
やがて、新しい看板の取り付けが完了し、闘技場の新しい全景が明らかになる。ほんの一部分を新調しただけにもかかわらず、それはまったく別の建物に見えた。
「……綺麗だな」
俺はぽつりと呟いた。造形の話ではない。ただ純粋にそう思ったのだ。夕日に照らされた黄金の輪郭が、キラキラと輝いては目に差し込んでくる。
――なあ、親父。第二十八闘技場は、親父が夢見た闘技場になれたのかな。
ふと、空へ問いかける。
あの日の誓いを果たすことはできたのだろうか。かつて『闘神』とまで呼ばれた男の夢を、伝説の終わりを、彩るに相応しい闘技場と言えるのか。そんな答えのない問いかけが、俺の脳裏に浮かんでは消えていく。
……だが、それでも。俺は支配人ミレウス・ノアとして、そして『極光の騎士』として、悩み、迷いながらもここまで歩いてきたのだ。たとえ親父が相手でも、これまでの道程を卑下するつもりはなかった。
だから。俺は背筋を伸ばして、五年越しの餞を贈る。
――親父。ほら、見てくれよ。
ここが……俺たちが夢見た闘技場だ。
本作はこれにて完結です。
最後までお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。




