苦闘Ⅳ
『クリフ、護衛対象設定は済んだな?』
『もちろんです。距離によりますが、お二人に万が一のことがあるようなら、空間転移で救援が可能です』
その返答に満足すると、俺は流星翔の速度を上げる。そして――。
「腐食の枝!」
俺は上空からユグドラシルの枝に斬りかかった。ノアの救援をしようにも、ユグドラシルに無視されていては意味がない。俺のことを脅威だと思わせる必要があった。
毒々しい魔法剣が巨枝を斬り裂き、その毒性が枝の内部を浸蝕していく。目論見通り、その一撃はユグドラシルの注意を引くことに成功したようだった。
「――っ!」
物量で押し包もうとする攻撃の、わずかな隙をついて抜け出し、とって返して再び斬りつける。一メテル近い直径の枝であろうと、何度も腐食させ、そして斬撃を浴びせれば、切断はできる。
与えた傷が限界を超えたのだろう。腐食の枝で執拗に攻撃を浴びせていた巨枝が、自重で折れ曲がる。それでも枝を動かそうとしたユグドラシルだが、もはやその勢いに耐えられず、枝がブチリとちぎれ飛んだ。
『まず一本ですね』
『まあ、すぐに再生するだろうけどな』
念話をかわしながら、鋭い葉による物量攻撃を真空波で相殺する。その最中に、緑色の飛翔体が視界の隅をかすめていく。ノアはまだ健在のようだった。
そうして、どれほど空を飛び回っただろうか。俺とノアはユグドラシルの猛攻を避け続けていた。時折反撃することもあるが、どうせ相手は再生するのだ。うかつに攻撃して魔力を浪費するわけにはいかなかった。
「む――」
襲い来る枝を真空波で押し返した俺は、思わず声を上げた。先ほどから、ノアの回避がギリギリになっているのだ。剣や真空波といった迎撃手段を持たないノアには、俺よりも大きな負荷がかかっているのだ。それも仕方ないことではあるが……。
「もう少し、持ってくれ……!」
俺はちらりと後方へ視線を向ける。レティシャの言っていた秘策には、あとどれだけかかるのだろうか。
『主人、制御ユニットが――!』
「ちっ――!」
クリフの警告を受けて、俺は流星翔の軌道を変えた。見れば、ユグドラシルの枝葉が、面となってノアを襲おうとしていた。
「超重圧壊!」
重力の光線とでも言うべき闇色のエネルギーが放たれ、天へ向かって伸びていた枝葉を地面に叩きつける。
「ピィィィ!」
その隙に離脱したノアが、澄んだ鳴き声を上げた。ひょっとして、お礼のつもりだろうか。
『そうかもしれませんね』
俺の心の呟きを拾って、クリフが同意する。その間にも、ユグドラシルの新たな攻撃が俺たちを襲っていた。それらの攻撃を捌きながら、ノアをフォローするべく真空波を飛ばす。
「二人とも、頼んだぞ……」
空を飛び回りながら、俺はその時を待っていた。
◆◆◆
【『天神の巫女』 シンシア・リオール】
【『紅の歌姫』 レティシャ・ルノリア】
ミレウスが流星翔で飛び立った後。残された彼女たちは、計画に必要な情報のやり取りを行っていた。
「ご存知だったんですね」
「推測の域だったけれど、これでも『結界の魔女』の直弟子だもの。いったい何度補修をさせられたことか」
レティシャは冗談めかして肩をすくめる。彼女たちの会話には、およそ一般の魔術師や神官では知ることのできない機密が多分に含まれていた。
『結果の魔女』の異名を持つ魔術ギルド長であり、帝国の最高顧問でもあるディネアから最も信頼されている『紅の歌姫』。
帝都マーキス神殿の要職にあり、三千年前の戦乱の生き証人でもある『天神の巫女』。
この二人でなければ、目指す結界の構築は不可能だっただろう。
「――夜の帝都を照らす旅人の灯火。あれこそが、ユグドラシルを封じている結界だったのね」
夜にうっすらと輝き、夜歩きの頼りにもなれば、景観の演出にもなる広大な魔法陣。ともすれば実用主義に傾きがちな帝国の気風を知れば知るほど、レティシャはその存在に疑問を感じていた。
治安の向上に大きな効果があったという報告は知っていたが、それにしても規模が大きすぎる。消費する魔力は小さいが、それを帝都の隅々まで行き渡らせるとなれば、その作業だけでも大仕事だ。新興国家である帝国が、そこに優先的にリソースを投入する理由は不透明だった。
「巧妙に隠されていたけど、ただの照明にしては、あまりに作りが複雑すぎるわ。途中で理解できない作法の術式に阻まれて、解析ができずにいたけど……」
「レティシャさんが考えている通り、それは神聖魔法です」
シンシアは素直に頷いた。この時間は、ミレウスとノアが命がけで稼いでいる時間だ。出し惜しみをするつもりはなかった。
弱まりつつあったマーキス神の封印を強化するために、帝都全体を魔法陣に見立てた大掛かりな儀式魔法。それが旅人の灯火の正体だ。そして――。
レティシャは、その帝都全体に広がる結界を乗っ取るつもりだった。
「ずっとユグドラシルの魔力の動きを見ていたけれど、再生する時には、根からなんらかのエネルギーが吸い上げられているのよ」
「私も感じていました。なんというか、生命力のようなものが……」
シンシアが同意すると、レティシャはほっとしたように微笑んだ。
「シンシアちゃんも同意見でよかったわ。……だから、その生命力を通さない結界を構築しようと思うの」
「でも、ユグドラシルの根はかなり広域に根付いています。それこそ、帝都全体を覆うような規模じゃないと――」
言いかけて、シンシアははっとした表情を浮かべた。
「……だから、旅人の灯火を利用するんですね」
「ええ。既存の結界だから手間も省けるし、動力は帝都の住民そのものだもの。扱える魔力は私たちの比じゃないわ」
「つまり、私とレティシャさんで、ユグドラシルを隔離する結界を作る……?」
具体的な道筋が見えたことで、シンシアは自分の役割を知る。レティシャは結界術の達人だが、神聖魔法を使えるわけではない。旅人の灯火の実体は神聖魔法による超大型結界であるため、操作するにせよ、乗っ取るにせよ、それはシンシアの役目になるだろう。
「それじゃ、早速始めましょう?」
「はい……!」
そして、二人の繊細で緻密な作業が始まる。シンシアの神聖魔法への親和性を利用して、結界の深部へと潜り込み、核となる魔力構成に少しずつ手を加えていく。
加減を間違えれば一からやり直しになるかもしれないし、最悪、結界自体が使い物にならなくなる可能性もある。針の穴に糸を通すように、神経を使う作業をクリアしていく。
「シンシアちゃん、私の魔力を譲渡するわ。少し気持ち悪いかもしれないけど、我慢して」
作業の大半はシンシアが担っているため、彼女の消耗は激しかった。魔力はレティシャが補充してくれるが、擦り減った精神力までは回復できない。
「少し休憩しましょう? このタイミングなら、手放しても結界に影響は出ないわ」
「は、はい!」
その言葉で我に返ったシンシアは、自分が汗でびっしょりと濡れていることに気付いた。
「さすがに、緊張するわね」
そう告げるレティシャもまた、額の汗を拭う。神性の結界を作り変えるという難作業だが、その設計図はレティシャの頭の中にしかない。シンシアが失敗しないようサポートするためには、途轍もない集中力が必要だった。
そして、二人は同時にユグドラシルに目を向けた。安全確保のため、彼女たちはユグドラシルから大きく距離を取っている。そのため詳細は見えないが、ユグドラシルの枝葉や根の動きを見れば、ミレウスたちが健在であることは分かる。
「よかった……」
「大丈夫よ。あの人は不敗の『極光の騎士』だもの」
そう言いながらも、レティシャの顔には安堵の表情が浮かんでいた。その事実に気付いたシンシアは、内心で微笑む。
そして、少しの間だけ目を閉じる。眠るつもりはないが、消耗した精神には、視覚の処理すら負担になっていたのだ。すべてをシャットアウトして、束の間の休息を最大限に活かそうとする。
「――そろそろ、いいかしら?」
「は、はい!」
やがて、二人は作業に戻る。神性結界に同調し、少しずつ上書きして方向性を変えていく。そんな気の遠くなるよう作業を、彼女たちは着実にやり遂げていった。
「そこは……そうね、どう表現すればいいかしら」
「大丈夫です、分かります」
もともと、シンシアも防御系の結界は得意としている。そのおかげもあって、彼女は『紅の歌姫』の技術を吸収し、彼女と同じ高みに上りつつあった。そして……。
「これで、最後よ」
「はい!」
ついに、彼女たちは結界を作り変えることに成功していた。帝都全体を覆う魔法陣はシンシアに直結されており、自らの意識が広がっていくような錯覚を覚える。
「シンシアちゃん、意識をしっかり持って。下手をすると結界に取り込まれるわ」
そう助言するレティシャもまた、シンシアを介して魔法陣と繋がっていた。やがて、二人は無言で頷き合うと、意識を魔法陣へと向ける。
『万象を拒絶する揺籃、起動』
彼女たちの魔力は混ざり合い――そして、神にすら届き得る極大魔術を起動させた。
◆◆◆
【『極光の騎士』 ミレウス・ノア】
――世界が軋んだ。そうとしか表現できない何かを感じて、空中戦を行っていた俺は周囲に目を向けた。
「気のせいか?」
『いえ、私も察知しました。何かがあったのは間違いないのですが、特に何が変わったとも思えませんね……』
「うーん……」
どうにも気になるが、ここで考えていても仕方がない。もしレティシャとシンシアの仕業なら、そのうち彼女たちが教えてくれるだろう。
と、そう考えた矢先だった。
『――ミレウス、離れて!』
「っ!?」
頭に直接声が響く。その声に従って、俺はユグドラシルから距離を取った。見れば、ノアも大きくユグドラシルから離れている。そして――。
「な――」
ユグドラシルの巨体を、純白の雷が打ち据えた。それも一度や二度ではない。雨のように白雷が降り注ぎ、ユグドラシルを焦がし、穿ち、その身を削っていく。
『主人、もう少し離れたほうがいいかと』
「ああ、そうだな」
クリフの言葉に従って、さらに後ろへ下がる。ついでに流星翔を解除すると、俺は地上へ降り立った。
「ピィィィ!」
すると、同じく空を飛んでいたノアも降りてくる。さすがに疲れたのだろう。こちらへ飛んできたノアは、俺の肩にバサリと着地する。
「ノアも頑張ったな。少し様子を見よう」
「ピィ!」
声をかけると、ノアは元気よく鳴き声を返してきた。成鳥になっても元の性格は変わらないらしい。そのことがなんだか嬉しかった。
「それにしても、凄まじい雷だな。もう百回くらいは落ちただろ」
『あのユグドラシルを滅ぼす大魔術であれば、まだまだ続くのではありませんか?』
そして、俺たちは無言でユグドラシルを眺める。雷撃の雨に巻き込まれて、いつの間にか樹人は消滅していた。それどころか、ユグドラシルが生えている大地もまた削られており、太い木の根が地表に露出していた。しかし…………。
「……ん? 終わったか?」
『そのようですね。……さて、どうしたものか』
無限に続くかに思えた白雷が、ついに途絶える。だが、焼け焦げ、折れ飛びながらも、ユグドラシルはまだ存在していた。
「倒しきれなかったか……」
俺は無意識に剣を握り直していた。彼女たちは全力を振り絞ったはずだ。となれば、後は俺の仕事だ。
「――それはそうよ。あれは、余剰エネルギーを攻撃に回しただけだもの」
すると、上方から声が降ってくる。レティシャとシンシアだ。
「余剰エネルギーということは、本来の目的は別にあるのか?」
「はい。ユグドラシルは再生しますけれど、もう無限じゃありません」
俺は彼女たちが作り上げた結界の説明を受けた。帝都の広さで地下世界を隔離したこと。そして、ユグドラシルの再生能力は大地から生命力を吸収するものであり、これによって再生能力が有限になったこと。
「これまでの戦いで、この辺りの生命力は吸い尽くされているはず。後は削るだけよ」
「そうか……二人とも、本当にお疲れさま。後は俺の仕事だ」
微笑みを返す二人と視線を合わせてから、俺はユグドラシルを見やった。雷撃の雨に打たれ、もはや残骸のような状態だが、すでに十メテルの高さほどまでは再生されている。
その状況を見て取ると、俺は流星翔を起動した。
「行くぞ、クリフ!」
『ええ、お任せを。レディたちだけに活躍させたとあっては、この鎧の名折れですからね』
迎撃のための木の根をかわし、ユグドラシルの幹を次元斬で斬り刻む。腐食の枝を根元に叩き込み、終端の剣で木の根ごと消滅させようとする。
レティシャやシンシア、そしてノアの援護を受けて、俺はユグドラシルに猛攻を浴びせていた。
「あれは――」
そうして、どれほどユグドラシルにダメージを与え続けただろうか。ふと、ユグドラシルの一点に違和感を覚えた俺は、その正体を突き止めようと注視する。
「クリフ。ユグドラシルにおかしな部分があるんだが……」
『……本当ですね。物理的には何もありませんが、魔術的には何かが存在しています』
「……斬ってみるか」
俺は流星翔でユグドラシルに迫ると、怪しげな一点を斬り裂いた。もちろん、ただの斬撃ではない。魔力構成を斬ることに重点を置いた一撃だ。
「――!」
その瞬間、何かが鳴動した。おそらくは、ユグドラシルの叫び。そうとしか言いようのないものだ。
「効いたようだな」
「ええ。ひょっとすると、ユグドラシルの核なのかもしれません。再生するためのリソースが底をついて、隠蔽ができなくなった可能性があります」
「それは朗報だな」
クリフの分析に勢いを得て、俺は何度も核らしきものを斬り裂く。ユグドラシルは必死で抵抗しているようだが、その動きからは勢いがなくなっていた。
「おおおおおっ!」
俺は解呪の魔法剣を手に、ユグドラシルの核へ突貫した。同時に魔力の次元に波長を合わせて、より効果的にダメージが通るよう調整する。
「――!」
核を斬り裂いた瞬間、確実な手応えが伝わってくる。俺の魔力感覚もまた、何かが砕けた感触を伝えていた。
「やったか?」
気を抜かないように自分を戒めつつも、少しの期待とともにユグドラシルを見つめる。今の手応えは、ひょっとすると――。
「……?」
だが、その後のユグドラシルの反応は、俺が思っていたものと異なっていた。
「水晶、か……?」
核らしきものがあった場所。俺が斬り裂いた場所に、青みがかった水晶が出現したのだ。今度こそ、核を守る防壁を破壊したということだろうか。そして、その内部には何か人らしき者の姿が見えて――。
『あれは……陛下!?』
水晶の中身に目を凝らした瞬間、クリフから驚愕が伝わってくる。クリフが陛下と呼ぶということは……つまり、古代王国が戴いた最後の王ということか。
「あれが……」
たしかに、水晶の中身はエルフのようだった。目を閉じたまま微動だにしておらず、とても生きているようには思えないが……。
「ユグドラシルに取り込まれたのか?」
『どうでしょう。陛下は超越的なところのある御方でしたから、もともと、ご自分をユグドラシルの核にするつもりだったのかもしれません』
「まあ、自分の身体をどうしようと構わないが……周りを巻き込まないでもらいたいな」
おそらく、そこには様々な思想や苦悩があったのだろう。だが、彼の姿を目の当たりにしても、まったく共感することはできなかった。
むしろ、ユグドラシルはただの自然物ではなく、彼らのエゴの行き着いた先なのだと、再認識させるだけだ。
「あの核を潰せば、再生しないと思うか?」
『再生したとしても、かなりのリソースを消費するでしょうね』
「……決まりだな」
そして、腐食の枝を宿した剣で水晶を狙う。枝や根の防御を抜けて、俺は水晶に剣を叩きつけた。パキリ、という音と共に水晶にヒビが入り、そして――。
『――魔術核に損傷を確認。非常事態と認定し、緊急プログラムを起動』
「!?」
水晶と接している剣から、念話らしきものが流れ込んでくる。ユグドラシルの内部で、何かが起きようとしていることは間違いなかった。
「おおおぉっ!」
だが、それを悠長に待つつもりはない。俺は腐食の枝の魔法剣を振りかぶると、再び水晶に叩きつける。ヒビがさらに広がったことを確認すると、もう一度。俺は容赦なく剣を振るい続けた。
そうして、次第に広がったヒビが中のエルフに届きそうになった頃。不意にエルフ王の目が開いた。
「っ!」
俺はとっさに跳び退いた。だが、水晶の中のエルフが動く様子はない。目を開けたとはいえ、その瞳には生気がなく、意識があるようには思えなかった。
「これは一体……」
てっきり、三千年前の眠りから覚めたエルフ王が話し出すのかと思ったが、いつまで経ってもその様子はない。まさか、ただの偶然だったのだろうか。
そう考えた時だった
「――っ!?」
俺はさらに後方へ跳び退くと、着地を待たずに流星翔で軌道を曲げた。俺の動きを追うように、根が次々と地中から撃ち出され、タイミングを合わせて複数の枝が上から降ってくる。
「動きが変わった?」
ユグドラシルによる、枝葉と根による攻撃。何百、何千回と避けてきた攻撃だからこそ分かる。タイミングや攻撃の組み立て方といった、戦いの呼吸がまったくの別物だった。そう……この動きは、あまりに人間くさい。
「ノア!」
その突然の変化に対応しきれず、ノアが巨枝に叩き落とされた。数多くの枝や根を使った巧みな連撃は、戦いを生業にしている者でなければ対応できないだろう。
そして、落下するノアを見逃すユグドラシルではなかった。全長一メテルしかない鳥の身体を、無数の凶器が襲う。それは明らかに致命的だった。
「! シンシアか」
ノアの周囲に光の障壁が現れ、ユグドラシルの攻撃からノアを守る。ひとまずの安全は確保されたようだが、いつかは障壁にも限界が訪れるはずだ。その前にと、俺は全速力でノアの下へと向かった。
だが、その動きもまたユグドラシルの予想通りだったらしい。俺とノアの間を阻むように根が連なり、四方八方から枝が襲ってくる。
「く――」
なんとか突破を試みるが、思いのほか防衛網が厚く、抜けるには時間がかかる。なんとか辿り着いた時には、ノアはすでにぐったりしていた。
「ピィ……」
「悪い、遅くなった」
謝るように鳴き声を上げたノアに声をかけると、俺はその身体を抱えて空を飛ぶ。シンシアに預けるためだ。
「ミレウスさん!」
やがて、俺の動きに気付いたシンシアが声を上げた。すでにユグドラシルから千メテルは離れているため、根の攻撃を受けることはないはずだった。
「ノアちゃん……」
シンシアはぐったりしているノアを受け取ると、さっそく治癒をかける。だが、どうにも効きが悪いようだった。
「ノアちゃん、ごめんなさい……もう大治癒を使う魔力が残ってなくて……」
そして、ノアをぎゅっと抱きしめる。その間に、今度はレティシャが話しかけてきた。
「ミレウス、そっちはどう? 遠見の魔法で追っているのだけど、さすがに詳細は分からなくて」
「それが――」
俺は一部始終を彼女に説明する。すると、レティシャは厳しい表情でユグドラシルを見つめた。
「キリはないが、なんとか凌ぐことはできる。あとは再生能力が尽きるまで削るだけだ」
俺は努めて明るく告げるが、彼女は考え込む様子だった。
「どうした?」
尋ねると、レティシャはためらいがちに口を開く。
「……エルフ王の思考パターンで、ユグドラシルが動くようになったのよね?」
「おそらく、そんなところだと思う。エルフ王としての自我があるとは思えないが」
そう答えるとレティシャはさらに考え込んだ様子だった。そして、ノアの背中を撫でているシンシアに声をかける。
「シンシアちゃん。古代王国の最後の王のことって、覚えている?」
「え……?」
三千年前の『天神の巫女』フィリス。その頃の記憶を求められたシンシアは、思い出そうとするように中空を見つめた。
「たしか、あまり政治に興味がなくて、ずっと魔術研究にこもりっぱなしだったはずです」
「そう……。ありがとう、参考になったわ」
シンシアの回答を受けて、レティシャの表情がさらに曇る。さすがに気になった俺は口を開いた。
「レティシャ、何を危惧しているんだ?」
「それは――」
やがて、彼女は覚悟を決めたように視線を合わせる。その様子に不穏なものを感じるが、ユグドラシルの情報であれば、なんでも集めておくべきだった。
「……ユグドラシルの核となっているエルフ王は魔術に特化しているはずよ。それが、枝や根といった物理的な攻撃しかしないなんて……そんなことがあるかしら」
レティシャが、自分の懸念を口にした時だった。
「っ!?」
あり得ない魔力のうねりを感じて、俺たちは同時にユグドラシルに視線を向ける。
「今のって――!?」
「ユグドラシルか!?」
視線の先。千メテルもの距離があるにもかかわらず、そこで何が起きているかは分かった。
「ユグドラシルが……巨大化しています」
唖然とした様子でシンシアが呟く。ユグドラシルは急速な勢いで成長すると、やがて天井部の岩盤に接触した。神聖魔法で隔離されている以上、それ以上伸長することはできないはずだが――。
「横に広がった……!?」
幹の太さはそこまで変わらないものの、幹の各所から枝が伸び、その枝がさらに分岐して伸長していく。同時に、根がうねりながら地上を覆いつくし、その勢力を急速に伸ばしていた。
「まさか――!」
何かに気付いたのか、レティシャの表情に焦りが生まれる。
「レティシャさん、これって……」
そして、どうやらシンシアも気付いているようだった。その言葉に頷くと、レティシャは口を開いた。
「再生能力を意図的に暴走させたようね。ひょっとして……地下世界を自分で埋め尽くすつもりかしら」
「な――」
あまりにスケールの大きな話に、俺は言葉が出てこなかった。地下世界の高さは五十メテルほどあり、広さは帝都に匹敵するのだ。それをユグドラシル自身で埋め尽くすなど、狂気の沙汰にしか思えない。
だが。すでに天井部の岩盤まで伸長したユグドラシルは、順調にその体積を増やしている。すでに半径二百メテルはユグドラシルに埋め尽くされており、超巨大な緑の柱のようだった。地下世界を埋め尽くすという言葉を笑い飛ばすことはできない。
「一気に勝負に出たということか?」
「それもあるでしょうし、結界の術者の息の根を止めたいのかもしれないわ。リソースが不安だからこそ、無駄に消耗する前に確実な手段に出た……とか」
俺の言葉を肯定すると彼女は苦笑を浮かべた。もしそうであれば、かなり危険だ。
「……二人とも、魔力は残っているか?」
「残念ながら、ほぼ底をついているわ」
「私もです……」
それは予想通りの答えだった。なんにせよ、彼女たちは避難させたほうがいいだろう。そう判断すると、俺はその提案をしようとして――そして、身構えた。
「植物化の波動か!?」
一帯を襲う不気味な魔力。しばらく忘れていた感覚を前にして、俺たちの間に緊張が走った。ノアが弱ったことで、好機と捉えたのだろうか。
「射程が……伸びた……?」
ノアを守るように抱いたまま、シンシアが呟く。だが……。
「違う! これは――!」
直前で不自然な振動に気付いた俺だったが、もう遅い。ユグドラシルの無数の根が地面を突き破り……そして、見渡す地表のすべてを埋め尽くした。
「ぐっ――!」
さすがに回避のしようがなく、俺たちは強靭な根に弾き飛ばされた。根が太すぎたおかげで、貫かれなかったことが唯一の救いだが、打撃だけでもかなりの衝撃だった。
「――!?」
しかも、攻撃はそれだけでは終わらなかった。伸長した枝葉が、頭上から滝のようになだれ落ちてくる。それは、もはや面としての攻撃だった。
「っ!」
俺は崩れた姿勢から真空波を放つ。だが、押し寄せる膨大な質量の前には、ささやかな抵抗でしかなかった。
『主人! 第二波が来ます!』
「くっ――!」
俺は仲間の状況を確認しようと、周りを見回して――。
そして、ユグドラシルに圧し潰された。