苦闘Ⅲ
「ぐっ――!」
ユグドラシルに腕を貫かれた俺は、鮮烈な痛みに言葉を失う。だが、問題はそこではなかった。痛みの中に、おぼろげに存在する違和感。それを感じた瞬間、ゾワリ、と恐怖で全身の毛が逆立つ。
『まさか、植物化が――!?』
クリフも察したようで、緊迫した雰囲気の念話が伝わってくる。だが、それに答えている余裕はなかった。
『腐食の枝起動、左腕部の全機能をカット!』
『それは――いえ、了解しました』
俺の意図を察したのだろう。クリフは戸惑った様子ながらも、俺の指示に従う。毒々しい腐食の魔法剣が発動したことを確認するなり、俺は剣で自分の左腕を斬り飛ばした。
「っ――!」
先ほどを超える痛みが身体の芯を貫き、俺は必死で歯を食いしばる。ただでさえ重傷だというのに、腐食の枝の魔力が俺の腕を今も蝕んでいるのだ。並大抵の苦痛ではなかった。
「ミレウスさん……!」
シンシアが悲鳴を上げる。突き飛ばされて転倒していた彼女は、土塗れのまま駆け寄ってきた。
「わ、私のせいで――」
「礼も反省も後だ。治せるか?」
俺はシンシアの言葉を遮る。ユグドラシルが後衛を狙う可能性を失念していた時点で、俺が彼女を責める資格はない。本来なら、彼女が神聖魔法を使った時点で、護衛についておくべきだったのだ。
「は、はい!」
シンシアは俺の左腕に視線を向けると、次いで周囲を見回す。何を探しているかはすぐに分かった。
「俺の左腕なら、あそこだ」
剣の先で、少し離れた場所を指し示す。そこには一メテルほどの長さの樹木が生えており、歪んで弾け飛んだ鎧の左腕部が近くに転がっていた。
「――!」
その様子を見て取るなり、シンシアの表情が青ざめる。繋ぐべき腕があれでは、さすがに治療は難しいのだろう。
「止血だけでも構わない。腕一本あれば、剣を振り回すには充分だ」
それは強がりだが、ないものねだりをしても仕方がない。あるもので戦う。それだけだ。
「……いえ、私に任せてください」
だが、シンシアは真剣な顔で俺を見つめた。そして、彼女の両手が俺の左腕の傷を包みこみ――。
「ちっ!」
その途中で、俺は彼女を抱えて跳んだ。俺たちがいた空間を巨枝が上から叩き潰し、根が地中から串刺しにしようと天へ突き立つ。
「おちおち治療もできないな」
今を好機と見たのか、ユグドラシルの攻撃の大半は俺たちへ向けられていた。俺は右腕の剣と魔術で応戦するが、いつまでも耐えられるとは思えなかった。このままでは押し切られる――そんな焦りが俺を呑み込もうとする。
と、そんな時だった。ふと辺り一帯が暗くなった。
「なんだ……?」
俺は訝しんで空を見上げる。すると、天空代わりの岩盤付近で、空間の歪みが発生していることに気付いた。まるで門のようだが、あれは……。
「――隕石召喚!」
燃え盛る超巨大な隕石。ユグドラシルの巨大さに引けを取らない大質量の凶器が、その頭上に落下していく。危険を感じたのか、ユグドラシルは太い枝で隕石を弾き飛ばそうとするが、その軌道はわずかばかりも揺らがなかった。
そして……桁外れの質量を持つ二つの物体が接触した。
「――!」
耳をつんざく轟音と、世界が揺れているかのような振動。シンシアの結界に阻まれていながらも、俺たちもその影響から逃れることはできなかった。
「これは……レティシャの魔術か……?」
衝突の余波に晒されながらも、俺はぽつりと呟く。もはや禁呪レベルの威力であり、こんな真似ができるのは彼女しかいない。
「ええ、その通りよ」
と、そんな声とともに、レティシャが上空からふわりと降り立った。そして、彼女は真剣な顔でシンシアに視線を向ける。
「だから、今のうちよ」
「!」
それが何を意味しているのか、分からない俺たちではなかった。再びシンシアが俺の左腕があった辺りを両手で包み込み、詠唱を始める。
「――再生」
やがて、シンシアの治癒魔法が完成する。左腕の断面でピクリと何かが動いたかと思えば、断面に近い部位から再生していく。それは不思議な感覚だった。
「もう大丈夫だ」
俺は何度か左手を動かすと、納得したように頷いた。再生魔法を受けたのは初めてだが、なんとも変な感覚だな。
「さすがねぇ……再生魔法は苦手だから、素直に感心するわ」
すると、興味津々といった様子で施術を覗き込んでいたレティシャが、満足そうに息を吐いた。
「助かった。ありがとう、レティシャ」
そんな彼女に礼を告げると、レティシャは再生した俺の左腕に触れた。
「あなたがユグドラシルに貫かれた時は、心臓が止まるかと思ったけど……さすがね。あんなに冷静に対処するなんて」
「とは言っても、治す余裕は与えてくれなかったからな。あのままじゃ、いずれ押し切られていた」
「そう? それじゃ、貸し一つにしておこうかしら」
そう言って、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「間違えないでね? 隕石召喚じゃなくて、私を心配させたことへの貸しだから」
「ああ、分かった」
俺は素直に認めると、ユグドラシルの周囲に目をやった。そしてはっとする。
「近くにいた遊撃隊はどうなった?」
「二人が狙われているうちに、巻き込まれない距離まで避難してもらったわ。満身創痍だったから、ちょうどいいと思って」
レティシャの答えにほっとする。だが……。
「まだユグドラシルと戦えると思うか?」
長時間にわたって、彼らは絶望的な戦いを続けていたのだ。特に、防ぐことができない植物化の波動は、彼らの精神力をすり減らしているはずだった。
「厳しいかもしれないわ」
「……そうだろうな」
俺はユグドラシルに目を向ける。レティシャの禁呪を受けた巨樹は、地上二十メテルの辺りで見事にへし折れていた。だが、その断面からはすでに再生が始まっており、折れた幹を利用して樹人の再生産も進んでいた。
「相変わらずタフな樹だな……」
すでに二百体以上の樹人を再生産したユグドラシルを見て、俺は呆れた声を上げた。場合によっては、もう剣闘士たちの援護はないだろう。だが、単身で戦うにはあまりに厳しい物量差だった。
「また来る――!」
あれだけのダメージを受けても、植物化の波動は健在のようだった。不気味な波動が一帯を襲い、俺たちは緊張した顔でお互いを見つめる。
「……ひとまず、全員無事か」
不気味な波動が収まったことで、俺はほっと息を吐いた。古代鎧を着こんでいる俺や、帝都でも最高クラスの魔術師である彼女たちは、遊撃隊の中で最も魔法抵抗力が高い。そう分かっていても、やはり不安は拭えない。
「……シンシアちゃん、気付いた?」
「はい……だんだん、植物化の波動が強まっています」
「どういうことだ?」
看過できない二人の会話に、俺は眉を顰めた。
「シンシアちゃんが言った通りよ。この調子で波動が強まれば、私たちが木になるのも時間の問題ね」
レティシャはいつもの口調で答えるが、不安な表情までは隠しきれていなかった。
「だが、速攻で押すにしても時間がかかるな……」
これまでだって、有効打を与えられなかったのだ。状況が極めて悪化した現状で、迅速にユグドラシルを倒すことなどできるはずがない。
「樹人が、こちらへ向かって来ます……!」
ユグドラシルの様子を見ていたシンシアが、焦った声を上げる。見れば、五百体ほどの樹人がゆらりとこちらへ向かっていた。
「樹人の生産能力も上がっているわね……」
レティシャは厳しい表情で樹人の群れを見つめる。無限に再生する植物兵器と、強まっていく植物化の波動。そして、いずれは千体を超えるだろう樹人。すべての情報が、俺たちに勝ち目はないことを示していた。
「……ここは俺が食い止める。二人は――」
「嫌よ」
いったん退却して、手立てを考えてくれ――そう告げようとしていた俺は、レティシャの素早い拒絶に言葉を失った。
「はい。逃げるなら、ミレウスさんも一緒です」
次いで、シンシアが俺の左腕を掴む。だが、このままでは三人とも死ぬだけだ。俺は彼女たちをどう説得するか悩んで――。
『――ふむ、両手に花ですね。まあ、この鎧の主人であれば、その程度の魅力はあってしかるべきですが』
『クリフ?』
緊迫した空気が分かっていないかのように、マイペースなクリフの声が頭に響く。
『悪いが、今は軽口を叩く気分じゃない』
迫りくる樹人を睨みつけながら念話を返す。再生に集中しているのか、今はユグドラシル本体が攻撃してくる様子はないが、それも時間の問題だろう。
『おっと、失礼しました。では本題です』
『本題?』
『はい。そこの緑色の雛に関することです。見た目がコレなのでピンと来ていませんでしたが……この雛はユグドラシルの制御ユニットですね?』
『ああ、そうだ』
クリフの要領を得ない確認に、俺は首を傾げた。ノアがユグドラシルの制御ユニットであることには、俺たちも気付いている。だが、それがどうしたというのか。
『三千年前。ユグドラシルを使わせないために、先代は制御ユニットを奪取し、管理下にあった防衛施設で眠りにつかせました』
『その防衛施設が、第二十八闘技場の地下遺跡なんだろう?』
それは質問ではなく確認だった。そうでなければ、ノアがあんなところにいた説明がつかない。
『はい。……そして、先代は制御ユニットを眠りにつかせる前に、封印を施しました。万が一発見されても、満足に力を発揮できないように』
その言葉を受けて、俺はシンシアに抱かれているノアを眺めた。見られていることに気付いたのか、ノアは短い首を曲げてこちらを見上げる。
『別れ際に、かつての先代が告げた言葉を覚えていますか?』
『ヴェイナードの言葉?』
たしかに言葉は覚えているが、それがなんだと言うのか。
『何かが引っ掛かって、ずっと考えていたのですが……ようやく分かりました。これまで気付かなかったことには忸怩たる思いですが』
そして、クリフは思念を伝えてくる。……そうか、そういうことだったのか。
『魔力的な補助は私が行います。主人は制御ユニットに触れて、発語をお願いします』
その言葉に従って、俺はノアの頭に手を置いた。何かを察したのか、いつもなら嬉しそうに頭をこすりつけてくるノアが、神妙な様子で佇む。
「あの……ミレウスさん?」
シンシアが戸惑ったように声をかける。だが、すべては事をなしてからだ。
「――いつの日か、君が羽ばたかんことを」
そう告げた瞬間だった。何かが砕ける感覚とともに、ノアから凄まじい魔力が溢れる。それだけではない。何年も雛のままだった姿が、急速な勢いで成長していた。
「ノ、ノアちゃん……!?」
慌てながらも、シンシアは俺に視線を向ける。説明してほしいと、その目が訴えていた。
「先代――クリスハルトが、封印を施していたんだ」
その言葉で、シンシアはすべてを察したようだった。不安に満ちた表情で、彼女はノアに視線を落とす。
『それにしても、あのクリスハルトらしい解除ワードだな』
『ええ、本当に……』
と、そんなやり取りをしている間に、ノアは成長を終えたようだった。シンシアの腕を抜け出たノアは地上に降り立ち、そしてバサリと翼を広げた。
「綺麗ね……」
レティシャが感想をもらす。全長は一メテルほどだろうか。薄緑色の羽毛はそのままに、ノアは優美な造形の成鳥へと変化していた。
「ノアちゃん……」
遠慮がちにシンシアが踏み出すと、ノアは軽く羽ばたいて彼女の肩に止まった。そして、喉を鳴らしたかと思うと、空へ飛び立つ。
「ピィィィィィ!」
ノアの鳴き声に乗せられた魔力が、迫りくる樹人を襲う。てっきり振動による攻撃なのかと思ったが、彼らが破壊される様子はなかった。だが……。
『おや? 仲間割れでしょうか』
樹人のうち、前方にいた数百体がくるりと後ろを振り向いた。そして、彼らは仲間と同士討ちを始める。
「これを……ノアちゃんが……」
「ユグドラシルの制御ユニット……つまり、同じ波長で植物を操ることができるということかしら」
シンシアは誇らしげに、レティシャは興味深そうな表情で、空に浮かぶノアを見上げる。そして、嬉しい誤算がもう一つあった。
「気のせいでしょうか。植物化の波動が、ずいぶん弱まったような……」
「私もそう思うわ。この程度なら、私たちが植物になる心配はなさそうね」
どうやら、そちらについてもノアが介入してくれたらしい。俺はもう一度、空を羽ばたくノアを見上げる。
「――ありがとう、ノア」
だが、そこでユグドラシルの動きが変わった。ついにノアを敵とみなしたようで、上部の枝や葉を使って、攻撃を仕掛けたのだ。
「ノアちゃん!」
だが、ノアの空中機動は見事なものだった。迫る枝をかいくぐり、地上から射出される根を速度差で置き去りにする。三千年もの間、空を飛んでいないとは思えない華麗な動きで、ノアはユグドラシルを翻弄していた。
その様子を見ていた俺は、無言で剣を構えた。いくら成鳥になったとはいえ、ユグドラシルの集中砲火を一羽で引き受けるのは辛いはずだ。幸いにも、俺なら空中戦に参加することができる。
それに、樹人は同士討ちを繰り返しているし、植物化の波動は弱体化した。三千年溜め込んだとはいえ、ノアの魔力がどこまでもつか分からない以上、攻めるなら今だ。
「……行くのね?」
「ああ。ノアはよくやってくれているが、ユグドラシルそのものを倒せるような能力はないだろう。あくまで制御用だからな」
「でも、再生能力のほうはどうするの? たぶん、ノアちゃんの能力とは別物よ」
その問いかけに、俺は渋い表情を浮かべた。彼女が言う通り、再生能力については対抗策がない。いくらユグドラシルの猛攻を凌げたとしても、攻め手に欠けていることは事実だった。
俺が沈黙していると、彼女はユグドラシルに視線を向ける。
「……一つ、思いついたことがあるわ。効くという確証はないし、そもそも暴走する可能性も高いけど……」
「そんな方法があるんですか……?」
レティシャの提案に、シンシアは目を丸くして驚く。
「ええ。そして、この計画はシンシアちゃんなくしては成り立たないわ」
「や、やります……!」
シンシアは両手を握りしめると、勢い込んで答えた。そんな彼女を見つめて、レティシャがふっと微笑む。
「それで……護衛は必要か?」
「今度は大丈夫だと思うわ。天神の結界に接触する予定はあるけど、私たちが直接神聖魔法を放つわけじゃないから」
俺の問いかけに、レティシャは首を横に振って答える。
「もちろん、あなたが近くにいてくれるほうが嬉しいけれど……あの子の加勢も必要でしょう?」
彼女は空中を舞うノアに視線を向けた。今のところは無傷のはずだが、ユグドラシルの枝葉や根による弾幕をいつまで避けられるかは未知数だ。
「ミレウスさん。ノアちゃんを……よろしくお願いします」
「……分かった」
俺は視線を空へ移すと、流星翔を起動した。