小神殿
「二割近くがやられたか」
「デロギアに足止めされるまでは、大した被害はなかったのですが……」
敵軍の本陣から離脱した俺たちは、難しい顔で今後の方針を立てていた。
「もう遮る敵はいないんだ。まっすぐ巨樹に向かおうぜ。親玉がいるんだろ?」
「ですが、あの移動砲台は驚異です。遠距離攻撃の得意な者で、少しでも数を減らすべきではありませんか? 帝国騎士団が全滅して困るのは私たちです」
「たしかに、敵陣の後ろ側に位置している俺たちにしかできないことだな。存在を匂わせるだけでも、奴らは動きにくくなるだろう」
「しかし、その間にデロギアや精鋭部隊が来たらどうする?」
「一目散に逃げるしかないわねぇ」
そんな会話をよそに、俺は遠くにそびえるユグドラシルを見つめた。贅沢を言えば、亜人連合軍を壊滅させて、包囲網を完成させてからユグドラシルに挑みたいところだ。
だが、現実は逆だ。ここで一気にユグドラシルに攻め込んだところで、今度こそ包囲殲滅される可能性は高かった。
「いっそ二手に分かれるか?」
「戦力を分散させるのは悪手だろう」
「そうか? 奇襲がメインの遊撃隊なら、必ずしも大人数である必要はないと思うが」
様々な案が出ては消えていく。もともと、俺たち剣闘士は戦術家ではない。あまりいい案は出てこなかった。と――。
「大変だ! 追手が来たぞ!」
「なに!?」
俺たちの下へ届けられたのは、極めて悪い報せだった。敵と対峙している本陣の一部を崩してまで、二、三百人の俺たちを追ってくるとは予想外だ。
「逃げるか? ここで戦っていては、敵陣から無限に増援が来るぞ」
「だが、巨樹の根元まで追ってこられたら? 敵の大将が率いる部隊と挟み撃ちだぞ」
そうこうしているうちに、敵部隊の姿が見えてくる。思っていたよりも大部隊であることに、俺は思わず舌打ちをした。
「……手早く全滅させるしかないか」
ユグドラシル戦のことを考えると魔力を消耗したくなかったが、もはやそんなことは言っていられない。このままでは、また多くの剣闘士たちが失われてしまう。
「――貴方は魔力を温存するべきです。『極光の騎士』」
だが。前へ出ようとした俺を制止するように、さっと手が伸びてくる。フェルナンドさんだ。
「そうよ。なんたって切り札なんだから」
「魔力は使いどころが肝要だからな」
さらに、ローゼさんはウィンクを飛ばし、ソリューズさんも深く頷く。
「追手は私たちでなんとかします。『極光の騎士』はその間に本拠を叩いてください」
フェルナンドさんは穏やかな、それでいて芯のある声で告げる。思わぬ申し出に驚いていると、さらに別の人物が口を開く。
「……ならば、私も残ろう」
「ダグラスさん……?」
「後衛しかいないようだからな。盾役の一人も必要だろう」
ダグラスさんは迷いのない瞳で言い切る。実力と人望を兼ね備えた古参剣闘士の発言は、他の剣闘士にも波及したようだった。
「『金城鉄壁』が残るのか……?」
「……ここは踏ん張りどころかもしれねえな。なに、適当に足止めすりゃ、後は逃げるだけだろ?」
そんな言葉とともに、ぽつぽつと迎撃部隊への参加表明が増え始める。少し意外だったが、正直に言えばありがたい話だ。
「そうですね……見かけの人数だけなら、僕もお役に立てるかもしれません」
そう名乗りを上げたのは、『無限召喚』ミロードだ。彼に続くように、魔術師や戦神ディスタの神官からも声が上がる。気が付けば、声を上げた剣闘士たちの人数は百名ほどに膨れ上がっていた。
「少し戦力が集まりすぎましたか……?」
「いや、そんなことはない。もし戦力に余裕ができたなら、移動砲台の破壊を頼む」
悩む様子のフェルナンドさんに、俺は首を横に振って答えた。遊撃隊はほぼ二分されることになるが、状況を考えれば妥当な結果だろう。
「分かりました。……『極光の騎士』、後はお願いします」
フェルナンドさんは安心させるような笑顔を向けると、胸元で聖印を切った。
「……ご無事で」
「ええ、お互いに」
俺は唇を噛み締めると、迫りくる大軍から視線を逸らす。今の俺にできることは、彼らを信じてユグドラシルを目指すことだけだ。
「目的はあの巨樹の根元だ。……行くぞ」
声を返してくる剣闘士たちに頷きを返す。そして、俺はユグドラシルを目指して足を踏み出した。
◆◆◆
【『帝国の獅子』モンドール・ザン・ルエイン】
亜人連合の主力軍と正面から激突している帝国騎士団。その本陣では、様々な報告や指示が飛び交っていた。
「リーゼン将軍! 第二、第三騎士団の被害が甚大です! 救援要請が来ています!」
「すでに大隊を向かわせた! 右翼の第七、第八には側面から攻めるように伝えろ!」
「敵の一部が後方へ回り込もうとしています!」
「フェルノートの十一中隊に監視させろ! 陽動の可能性を念頭に置けと伝えろ!」
第一騎士団長であり、この戦いの実質的な将軍であるリーゼンを筆頭に、騎士団の上層部は報告と指示に忙殺されていた。
第四皇子であるモンドールも例外ではなく、第一騎士団の第六大隊を率いて幾度も出撃しており、崩れかけた部隊の救援や奇襲をこなしていた。
「そろそろ出番か……?」
陣地の隅で報告を聞いていたモンドールは、愛用の斧槍を握り直した。
「逸るんじゃないよ。休める時は休みな」
すると、そんなモンドールを諫めるように声が飛んでくる。魔術ギルド長にして、騎士団の参謀でもあるディネア導師だ。
「これ以上休むと、逆に身体が鈍りそうだけどな」
「本当に、あんたは父親そっくりだよ」
言いながら、ディネアは戦場に目を向ける。帝国軍と亜人連合軍の戦いは、予想を超えた劣勢から始まった。それなりの苦戦は予想していたものの、それを大きく上回る戦力差が存在していたのだ。
そして、戦力予測を大きく狂わせた要因の一つが、ずらりと揃えられた古代兵器たちだ。強烈な破壊力と、圧倒的なまでの長射程は圧巻の一言であり、どれだけ兵を揃えても、それを一撃で消し飛ばしてしまう。
「報告! 例の遊撃隊が敵陣の後方へ離脱していく模様です!」
そんな報告を耳に挟んだモンドールは、目を細めて敵陣の奥を見つめる。
「さすがに撤退したか……。けど、半分くらいは古代兵器を壊したか?」
苦戦していた騎士団に舞い込んだ朗報。それは、『極光の騎士』率いる遊撃隊が敵陣の後部に食らいつき、古代兵器を破壊してまわったことだ。
だが、さすがの『極光の騎士』も、雲霞のごとく群れる大軍を相手取ることは難しかったのだろう。
「どうせなら、残りもぶっ壊してくれりゃよかったのにねぇ」
「ひでえ言いようだぜ……そもそも、あの遊撃隊はユグドラシルを奇襲するための部隊だろ? ここで力を使い果たしてどうするよ」
「ああ、分かってるよ。けど、『極光の騎士』に『大破壊』、レティシャもいるんだよ? あんな古代兵器、なんとでもなるさ」
「そんな古代兵器に、俺たちは苦戦してるんだけどな……」
ディネアの言い分も分かる。あの遊撃隊には、個の武勇であれば騎士団長を凌ぐ超人級の存在が数多く所属している。守りの薄い後方から奇襲をかけたとはいえ、生半な戦闘力では、古代兵器を破壊する前に取り囲まれていたことだろう。
「そう言や、別動隊のほうはどうなったんだ? 報告に一切出てこないぜ」
「報告が一切ない時点で察しておくれ」
「あー……」
この戦いの本当の目的はユグドラシルにある。だが、軍属ではない『極光の騎士』たち遊撃隊にすべてを託すほど、騎士団は他人任せではなかった。……のだが。
「『枝』持ちでも、一人や二人なら対処できる戦力を揃えたんだけどねえ……」
「それ以上の戦闘力だったってことか」
「向こうにも英雄級の存在はいるからね」
「デロギアとかな……」
思わず呟く。かつて試合の間の上で彼に勝利したモンドールだが、それが彼の全力でなかったことは分かっている。
彼の戦闘力はこの戦場でも遺憾なく発揮されており、名立たる騎士を次々と討ち取って部隊を敗走させる様子は、さながら死神のようだった。
このまま帝国軍を蹂躙するようなら、いずれはモンドールが立ち塞がる必要があるだろう。勝てる見込みは薄いが、諦めるつもりもない。
「――だから、逸るんじゃないって言ったろ?」
そんな思考を読んだのか、ディネアは杖でポカリとモンドールの頭を叩く。
「皇族が討ち取られちゃ士気に関わるからね」
そんな言葉に、モンドールが反論しようとした時だった。
「――報告します! 竜人デロギアは遊撃隊の残党と戦闘を継続しており、前に出る気配がありません!」
ちょうど話題にしていた人物の動向に、モンドールはディネアと顔を見合わせた。
「残党? 逃げ遅れた剣闘士の掃討をしているのか?」
将であるリーゼンは、不可解だと言わんばかりに眉を顰める。自陣の後部に潜り込んだ敵を一掃する必要性は分かる。だが、戦局を左右する存在であるデロギアが、わざわざ後方に留まっている理由が分からないのだろう。
「それが、剣闘士の一人と一騎打ちになっているようで……誰も近付けないようです」
「まさか『極光の騎士』か!?」
リーゼンの表情が険しいものに変わる。ユグドラシル討伐の本命である『極光の騎士』が、敵陣の真っ只中で捕まっているのであれば、非常にまずい。
「いえ……未確認ですが、おそらく『金閃』かと」
その報告にモンドールの口の端が上がった。本来なら、軍議で剣闘士のリングネームが飛び交うなどあり得ない話だ。だが、彼らの突出した戦闘力がそれを必要としたのだ。それに……。
「あの野郎。相変わらず、美味しい獲物を持っていくじゃねえか」
「離脱しようとして、しくじったんじゃないのかい?」
そんなディネアの疑問を、モンドールは鼻で笑い飛ばした。
「あいつがそんなタマかよ。どうせ、『極光の騎士』と引き分けたデロギアと戦ってみたかったんだろ」
それは確信だった。不敵な笑顔でデロギアと対峙するユーゼフの姿が目に浮かぶ。
「なんにせよ、これは好機だね。古代兵器は半減したし、デロギアは足止めされてる。今のうちに押し込むしかない」
「そうだが……これで、ようやく互角になったくらいじゃねえか?」
半減したとはいえ、古代兵器はまだ残っている。その脅威を小さく見積もることはできなかった。と――。
「将軍! キャストル王国を主とした援軍が現れました! 部隊長が面会を求めています!」
「なんと……!」
「助かりましたな……!」
その報告にワッと周囲が盛り上がる。亜人連合の裏工作で他国からの援軍はほぼ絶望視されていただけに、その驚きは大きかったのだろう。
「こいつはありがたいね。キャストル王国なら魔術師の質も高いはずさ。上手く行けば、あの古代兵器を防いでくれるかもしれない」
「古代兵器の破壊に、デロギアの足止め。次は魔導大国の援軍か……話が上手すぎて不安になるぜ」
「戦いの流れってのはそういうものさ」
そんな話をしていた時だった。ディネアのすぐ傍に、不自然なほど気配の薄い男がひっそりと姿を現す。
「導師。聖結界の発生元を嗅ぎつけられました」
「なんだって!?」
「現在、小神殿に立てこもって交戦中ですが、思いのほか戦闘力が高く――」
「分かった、すぐに救援を出すよ」
そして、彼女はモンドールに視線を向けた。それだけで、ディネアが言いたいことを察するには充分だった。
「俺の出番ってことか?」
「ああ。リーゼンにはアタシから言っておくよ」
「分かった」
モンドールは了承すると、駆け足で自分の部隊へ戻った。
◆◆◆
「――ところでよ、小神殿ってなんだ? 聞いた記憶がないんだが」
小神殿への救援へ向かう道すがらで、モンドールは案内人から情報を集めていた。
「ユグドラシルを封印するために、帝都中に敷かれている結界はご存知ですね? あの結界の核を安置している場所です」
「安置ねえ……管轄は帝国なのか? それともマーキス神殿?」
「マーキス神殿が中心となって管理をしていますが、帝国政府や魔術ギルドも関与しています」
「へぇ……」
皇族であるモンドールすら知らなかったということは、おそらく重要機密なのだろう。そんな場所に、こうして大軍を率いて向かってもいいものだろうか。
「ユグドラシルを滅ぼすのであれば、もう必要はありませんから」
モンドールが尋ねると、案内人はそう答えを返す。彼自身は魔術ギルドの所属らしいが、その認識は共通しているのだという。そんな話をしている間に、彼らは目的地へ辿り着いた。
「あの建物です」
「げ……遅かったか?」
モンドールは顔を顰めた。建物を取り囲む人数は三十人ほどだろうか。モンドールが連れてきた兵数より少ないが、侮れる人数でもない。
問題は、すでに建物の内部に敵が侵入しているということだ。
「二手に分ける。片方は建物を包囲している奴らを叩け。残りは建物内部に侵入する」
モンドールは中隊長たちに指示を出すと、部隊分けを行った。もちろん自分は侵入組だ。
「突撃いぃぃぃっっ!」
「おおおおお!」
その声に呼応して、部下たちが威勢よく攻め込んでいく。背後からの攻撃で混乱しているうちにと、モンドールは早々に建物へ侵入した。
「おらおらぁ――っ!」
縦横無尽に斧槍を振り回し、内部の敵をなぎ倒す。たしかに練度は高いようだが、モンドールが苦戦するほどの強敵はいなかった。
「奥へ!」
「おうよ!」
種族の違いがあるおかげで、案内人に聞かずとも敵味方の区別はつく。向かってくる兵士の槍を弾き、斧槍の石突で鳩尾を強打し、その隣にいた兵を穂で叩き斬る。
時には魔法が飛んでくるが、彼の得物には魔法がかかっている。あっさり弾き返すと、一気に距離を詰めて敵の後衛をまとめて撫で斬った。
「――!」
目を見張ったまま崩れ落ちる魔術師を押しのけ、モンドールは先陣を切って奥へ進む。ちらほらと人間種の遺体も転がっていることから、あまり楽観できる状況ではない。
「おい、あれが本命か!?」
そう尋ねたのは、行き当たりに荘厳な造りの扉が見えたからだ。
「はい、あそこに結界の核が安置されているのですが……」
案内人の声には焦燥が含まれていた。それもそのはず、その扉はひしゃげ、無理やりこじ開けられたようにしか見えなかったからだ。
「隊長! せめて防御魔法を!」
飛び込もうとしたモンドールに、部下が有無を言わさず防御魔法をかける。一番に飛び込むな、と言っても無駄なことを承知しているからだろう。そのままモンドールは部屋へ飛び込んだ。
「ちっ――」
思わず舌打ちしたのは、小神殿の人間が全滅していることを悟ったからだ。床には十名ほどの人間種の死体が散乱しており、どれもが血まみれで息を引き取った様子だった。
そして、惨劇を生み出した敵兵はと言えば、半数はモンドールに向かってきたものの、半数は奥にある何かにかかりっきりであるようだった。
「隊長に続けぇ!」
そこへ部下たちが追い付き、一気に場の制圧にかかる。隊長らしきドワーフはかなりの強敵だったが、最後にはモンドールの斧槍に貫かれて絶命した。
「これで全部か……?」
倒れたドワーフから得物を引き抜くと、モンドールは辺りを見回した。他に敵が潜んでいるようには見えないし、外から喧騒の音も聞こえない。部下に状況を確認させているが、おそらく制圧できたのだろう。
「ああ……なんということだ」
ほっと一息をついたモンドールだったが、案内人の悲痛な声に気を引き締める。
「どうした?」
「結界の一部が破壊されています……これでは、ユグドラシルの封印を十全に行うことができません」
「なんだと!?」
モンドールは部屋の奥にいた案内人の傍へ寄る。そこにあったのは、三メテルほどの大きさのクリスタルだ。そのクリスタルには大きく黒ずんだ亀裂が入っており、そこを中心にバチバチと何かがスパークしていた。
モンドールはクリスタルの内部に目を凝らす。内部には陽光のような輝きが満ちており、様子を見ることは難しい。
「女、か――?」
だが、モンドールの視力はクリスタルの中をうっすら捉えていた。自分と同じような年頃に見えるが、その神々しさが判断を難しくしていた。
だから「安置」と言ったのか、と彼は今さらながらに納得する。
「……誰かに似てる気がすんだよな」
姿かたちが、というよりはその雰囲気に既視感がある。クリスタルの中で微動だにしない彼女から、雰囲気を感じ取るというのも変な話だが。
「モンドール皇子。お連れの部隊にマーキス神官はお出でですか?」
と、輝くクリスタルに心を奪われていたモンドールは、案内人の言葉で我に返った。
「いや、いないはずだ。ディスタの神官ならいるぞ」
「そうですか……。まあ、どのみち高位の神官でなければ無理でしょうし……」
「どういうことだ?」
一人で困り切っている彼に説明を求める。
「この結界は、ユグドラシルを封印するために、三千年前にマーキス神がお作りになったものです」
「三千年前だと?」
その言葉に驚く。この地下世界自体が三千年前の古代文明の遺跡であることは知っているが、現在に至るまで稼働している施設だとは思わなかったのだ。
「はい。軽微な損傷なら、私たち魔術師でも修復できるのですが……」
「今の状態を直せるのは、高位神官だけってことか」
モンドールはガシガシと頭を掻いた。戦いのことならなんとかなるが、魔術やら信仰やらの話になると、彼は門外漢だ。
「で、高位神官ってのはどれくらいのレベルだ? 上級司祭くらいを連れてくりゃいいのか?」
それであれば、モンドールにも心当たりがある。本陣にも数名が詰めていたはずだ。
「いえ、神聖魔法を使えるレベルの司祭の中に、たまにいる程度だそうです」
「条件がきついな……」
神聖魔法が使えるマーキス神官という時点で、候補者の数は一気に下がる。まして、それが最低条件だというのだ。
「あのラファール司祭が、その数少ない術者だったのですが……」
言って、クリスタルの近くでこと切れている神官を手で示した。人知れず、優秀なマーキス神官が命を落としたようだった。
「……本陣に判断を仰ぐしかねえな」
モンドールはそう結論付けた。できないことをあれこれ考えても仕方がない。伝令を走らせよう。そう考えた時だった。部屋の外からどよめきが聞こえる。
「なんだ?」
雰囲気的に、敵襲というわけではないだろう。ならば、何が――。
「モンドール。活躍したようじゃな」
「父上っ!? ――いえ、陛下。どうしてこちらに」
そう。姿を現したのは、ルエイン帝国のイスファン皇帝その人だった。モンドールは素で出た言葉を取り繕うと、真面目な顔で尋ねる。
「なに、ディネアから話を聞いてな」
「ですが、国家元首が大した供回りも連れず、軽々しく戦場に出るのは……」
「戦場での儂など、もはやお飾りよ。実務面で支障はない」
「士気の面で支障がありますが……」
真面目な顔で諫めるが、モンドールとて本気ではない。自分でも同じことをするだろうと分かっているだけに、強く言う気にはなれなかった。
「何より、結界に異変があった以上、捨て置くわけにはいくまい」
どうやら、皇帝はなんらかの手段で結界の異常を把握していたようだった。そして、彼は目の前のクリスタルに眼を向けると、敬意を示すように頭を下げた。
「この女性を知っているのですか?」
「なんだモンドール。こういうタイプが好みか?」
息子の質問を受けて、皇帝は茶化すように笑う。
「いや、そんなこと言ってねーし」
思わず素が出るが、皇帝は気にした様子もなく口を開いた。
「……彼女は三千年前にマーキス神を降臨させ、ユグドラシルを封印したお方だ。かの神はユグドラシルを封印した後、その身体を核として結界を作り上げたと聞いている」
「へぇ……」
ということは、この女性こそが伝説の『天神の巫女』ということだ。半ば神話上の存在の姿を見る日が来るとは、人生何があるか分からないものだ。
「しっかし……魂が砕け散った挙句に、身体までこうして再利用されてんのか」
そのおかげで今の時代があるのだろうが、さすがに不憫な気もする。
「さらに、力を失いつつあった結界を、こうして補強して無理やり稼働させているのだからな。恨まれても文句は言えんな」
「……あ」
その言葉で、モンドールは今の事態を思い出した。結界を早く修復しなければ、ユグドラシルが更なる力を持つかもしれない。そう説明すると、皇帝はなぜか胸を張って笑った。
「なに、そのために儂が来たのだ。修復は任せておけ」
「……は? 父上が高位の神官だったという記憶はありませんが」
「まあ、見ておれ」
そう告げると、皇帝は『天神の巫女』のクリスタルの前で目を閉じる。バチバチと弾けていたスパークが収まり、次第にクリスタルの亀裂がなくなっていく。
「なんと……! こ、皇帝陛下が、なぜ……!?」
その様子に驚いたのはモンドールだけではない。案内人の魔術師は、それ以上に驚きを露わにしていた。そんな彼らの反応に、皇帝は悪戯っぽい笑顔を見せる。
「神々から直接的に力を与えられるのは、何も巫女だけではない。もう一つあるじゃろう」
「ん? 聖騎士のことか? そりゃ――」
言いかけて、モンドールは固まった。現在は存在しないと考えられていたはずだが……もし存在するのであれば、それこそ高位の司祭に匹敵するはずだ。そして、それなら結界の修復ができてもおかしくない。
「……マジで?」
「ここでお前を騙してどうする。……だが、いくら神々から力を授かったとはいえ、寄る年波には勝てんでな。全盛期なら、『極光の騎士』の役回りは儂が引き受けたんじゃが」
そう告げる皇帝の声には、やるせなさが漂っていた。もはや自分では太刀打ちできないこと。他人に大きな責任を負わせたこと。そんな自責の念が心で渦巻いているのだろう。
「全盛期だとしても、皇帝本人をユグドラシルに差し向けるとは思えねえけどな」
「まあ、リーゼンもディネアも反対するじゃろうな」
「というか、全騎士団が反対するぞ」
そんな会話をしながら、皇帝は結界の修復を進めていく。気が付けば、クリスタルはひび一つない美しさを取り戻していた。
「さて。封印はこうしてもたせたが……」
大仕事を終えた皇帝は、ぼそりと呟く。その言葉の続きは、モンドールにも分かっていた。
もはやユグドラシルは復活している。この結界は、ユグドラシルの力を削ぐことはできるが、再度封印することはできない。
たとえ亜人連合との戦いに勝利しても、ユグドラシルが存在する限り、帝国で暮らす人々に未来はないのだ。
可能な限り迅速に敵軍をうち破り、ユグドラシルを滅ぼさなければならない。
「もう少し……もう少しだけ、力をお貸しくだされ」
クリスタルの中にいる『天神の巫女』へ向かって、イスファン皇帝は静かに語りかけた。