光壁 Ⅰ
帝都には大きな神殿が二つある。一つは戦神ディスタを奉じる神殿であり、もう一つは天神マーキスの神殿だ。
天神マーキスは主神という位置づけになっているためか、大陸レベルで言えば信徒の数は一番多い。この街ではディスタ神の信徒が多いはずだが、他の地域では三番手、四番手なのだと言う。
そのため、マーキス神殿の神殿長ともなると、国政に影響を与えかねない大物ということになる。
……とまあ、そこまでは前から知っている。問題は、なぜその大物が俺の目の前に座っているのか、ということだ。
「ミレウス君。今更じゃが、シンシア司祭の派遣を受け入れてくれたことに感謝する」
豊かな髭を蓄えたガロウド神殿長は、好々爺然とした笑みを浮かべた。
「こちらこそ、『天神の巫女』と呼ばれる優秀なシンシア司祭のお力をお借りすることができて、とても助かっています」
「司祭も初めは戸惑っていたようじゃが、今はすっかり馴染んでおるのぅ。たまに闘技場であった話を儂に聞かせてくれるわい」
「そうでしたか……」
俺は少しほっとした。内心では、シンシアは嫌々闘技場に来ているのではないかと心配していたからだ。
そして、安心すると別の疑問が浮かんでくる。
「ところで、どうして彼女をうちの闘技場に派遣してくださったのですか?」
それは、以前からずっと抱いていた疑問だった。俺が言うのもなんだが、うちの闘技場はあまり大きくない。
シンシアの治癒魔法を余すところなく活用するなら、もっと大きな闘技場はいくらでもあった。
「ふむ、迷惑じゃったかね? だとすれば申し訳ないことじゃ」
「社交辞令を抜きにしても、彼女は非常に有能です。そのように優秀な人物を、なぜうちの闘技場に派遣してくださったのかが不思議なのです」
俺は話を元に戻す。とぼけた顔で話をすり替えようとするあたり、この神殿長も油断はできないな。
まあ、神殿と言っても人が作る組織に違いはない。笑顔の下で色々企むタイプじゃないと、トップには立てないだろう。
「シンシア司祭は神聖魔法の優秀な使い手であり、心根も真っすぐな子じゃ。じゃが、それだけに危なっかしくてのぅ」
「つまり、社会勉強の一環ですか?」
その可能性を考えなかったわけではない。だが、どうしてうちの闘技場なのか。
「第二十八闘技場は規模の割に死者が少なく、また客層も比較的穏やかなのでな」
どうやら、適当な気持ちでうちの闘技場を選んだわけではなさそうだな。ちゃんと比較しなければ、その辺りのことは分からないだろう。
「なるほど、そうでしたか。どんな理由であれ、私たちはシンシア司祭を歓迎します」
そして、俺は言葉を付け加える。
「――派遣された理由がよく分からなかったために、当初は『極光の騎士』の正体を探りに来たのではないか、という声が従業員から上がっていたのですよ」
その言葉は正確ではない。冗談めかして語っているが、俺自身が最も疑っていた事柄がそれだ。
「ふむ、『極光の騎士』は天神ゆかりの者ではないか、という言説があることは承知しておる。じゃが、『極光の騎士』本人が天神の使徒を名乗らぬ限り、儂らは気にせぬよ」
ガロウド神殿長の反応はなんとも判断に困るものだった。言葉の内容におかしなところはないし、表情も特に変わらない。
だが、一番重要な何かを隠している気がする。問題なのは、俺ではそれを聞き出すことができないだろうということだ。
立場も人生経験も、すべて向こうが上だ。上手く誘導して聞き出せるとは思えない。
「――そうそう、もう一つ理由がある。個人的な理由じゃがの」
その言葉に、俺は思わず身を乗り出した。そんな俺を見て神殿長は楽しそうに笑う。
「イグナートとは、それなりに縁があってのぅ。どうせシンシア司祭を派遣するなら、多少なりとも縁があるところがええじゃろうと、そう思うてな」
「おやじ――先代と……?」
予想外の名前が出たことで、俺はぽつりと呟く。
「じゃから、心配せずともよい。『極光の騎士』に対しても、第二十八闘技場に対しても害意はない。マーキス神に誓ってもよい」
「……ありがとうございます」
俺は素直に頭を下げた。おそらく、ガロウド神殿長には他にも隠し事がある。だが、俺たちに対して害意がないと断言してくれるのであれば、そこを無理に追及する必要はないだろう。
それに、下手に疑って機嫌を損ねるとまずいからな。相手が権力者であることを忘れるわけにはいかない。
「ところで、シンシア司祭の現状じゃが……」
考え事をしていた俺は、その言葉で現実に引き戻された。……そうだった、そもそも、俺はシンシアが欠勤した理由を聞きに来たんだった。
さっきの話からすると、うちの闘技場が嫌になったというわけではなさそうだし、体調不良か、それとも神殿の優先任務が発生したのか。そのあたりだろう。
そう思っていた俺は、自分の予想が外れていたことを知る。
「――シンシア司祭は、三十七街区で消息を絶った」
「……え?」
「正確には、三十七街区そのものと連絡が取れぬ。シンシア司祭が三十七街区へ向かったのは昨日のことじゃが、寮に帰って来なんだ。用事が遅くなり、どこぞに泊めてもらったのだろうと考えていたが……」
そう言えば、以前に会った時に三十七街区がどうとか言ってたな。
「どうやら、夜半過ぎから光の壁で分断されていたようじゃな。光の壁自体は頻繁に発生していたせいで、全域が分断されていることに気付くのが遅れたようじゃ」
そうだったのか。俺ももう少し闘技場に留まっていれば、その辺りの情報が手に入ったのだろうか。街の中心部で暮らしていると、どうしても外周部の情報が手に入れにくいな。
「光の壁が眩しすぎて、中の様子が分からんようでな。この神殿からも何人かを向かわせたが、成果は上がっていないようじゃ」
「それじゃ、こうしてのんびり話をしている場合じゃ――」
それはつまり、三十七街区が危機に陥っている可能性を否定できないということだ。俺は思わず腰を浮かした。
「……失礼しました」
だが、気を取り直して座り直す。ガロウド神殿長が泰然としているのは、何も危機感がないからではない。
神殿長に求められているのは、現場での解決能力ではなく、どれだけの人員をどこに配分するかの判断だ。彼が神殿にいることを咎める謂われはなかった。
「――神殿長!」
と、応接室の扉がバンッと開かれた。四十歳前後であろう男性神官が、慌てた様子で口を開く。俺がいるのもお構いなしだ。よっぽど焦っているのだろう。
「三十七街区の中の様子が分かりました! 奇怪な巨人たちが中で暴れており、多数の死傷者が出ているようです!」
「なんじゃと!?」
ガロウド神殿長は目を見開いた。そして、すぐに立ち上がる。
「触れたものすべてを弾き飛ばす光の壁ですが、強力な攻撃を集中させれば、一瞬だけ穴が開くことが判明したようです。
その際に内部を確認した者の話では、阿鼻叫喚の地獄絵図だと……!」
「神聖魔法の得意な者を優先的に三十七街区へ向かわせよ。現場の指揮はフリーベル筆頭司祭に任せる。それから、帝国軍にも念のため連絡を」
「分かりました!」
男性神官は弾かれたように駆け出していく。俺も他人事とは思えず、無意識のうちに立ち上がっていた。
「ミレウス君、すまないがこれで失礼させてもらう」
言うなり、ガロウド神殿長も応接室から出て行く。その動きは年齢に似合わず素早かった。
「いったい何なんだ……?」
ぽつりと残された部屋で一人呟くと、俺は急いで神殿を後にした。
◆◆◆
帝都マイヤードは円形の大きな街であり、毎年少しずつ規模が大きくなっている。そのため、中心部には裕福な人間が集まり、外周部には平均的か、それ以下の所得の人間が多く住んでいた。
この三十七街区も外周部近くに存在しており、治安は悪くないが、それ以外にこれと言った特徴のないエリアだった。
「あれが光の壁か……」
詰めかける大勢の人々に混じって、俺は巨大な光の壁を見上げる。近くで見ると壁だが、遠くから全体を見るとドーム型になっており、空から偵察しても何も見えないらしい。
「――うぉっ!?」
突然、前方で悲鳴が上がった。どうやら、光の壁に触れた住民が吹き飛ばされたらしい。挑んだのか当たったのか知らないが、壁は噂通りの力を持っているようだった。
「なんだよ、あれ……まるで結界じゃねえか」
「世界最高の魔術師だって、こんなに馬鹿でかくて強力な結界は作れないだろう」
「けどよ、中の様子を覗いた奴がいるんじゃなかったか?」
「詳しいことは知らないが、そいつが応援を呼びに行ったらしいぜ」
周囲の声に耳を傾けていると、今度は後方から騒ぎが伝わってきた。気になって後ろを振り向いた俺は、そこに見知った顔を見つけて、同時に納得する。
「道を開けてくれ!」
声を上げたのは、以前に対戦したことがある剣闘士、『剣嵐』だった。その隣にいる人物にも見覚えがあり、彼もたしか帝都の剣闘士五十傑の常連のはずだ。
「『剣嵐』だ!」
「みんな、道を開けろ!」
新進気鋭にして上位ランカーである剣闘士の登場に、居合わせた人々が盛り上がりを見せた。中には、彼に憧れの視線を向ける者までいる。
この街では、上位ランカーの剣闘士は例外なく有名人だ。それを思えば、人々の反応にも頷けた。
できあがった専用の通路を、『剣嵐』は悠然と進む。やがて光の壁と対峙した彼は、隣の剣闘士に視線を向けた。
「これが……?」
「ああ。直接斬りつけると、弾かれて攻撃が継続できないのだ。だが、お前の真空波なら……」
答えた剣闘士の言葉を聞いて、周囲が期待の視線を向ける。『剣嵐』が真空波の達人であることは周知の事実だ。
「なるほどな……凄い圧力を感じるぜ」
周囲の視線に臆することなく、『剣嵐』はその場で身体を動かし始めた。それが真空波を放つ前の準備運動であることは明らかだった。
やがて、誰もが固唾を飲んで見守る中、『剣嵐』は剣を構える。
「真空嵐舞!」
繰り出されたのは、二つ名の由来となる強力無比な真空波群だ。絶大な破壊力を秘めた嵐が、次々と光の壁へ激突する。
「うわっ!?」
壁の近くにいた人間が悲鳴を上げる。真空嵐舞が激突した余波で、衝撃波が一帯に振り撒かれたのだ。
よろめいたり転倒したりする人が出る中、『剣嵐』は厳しい表情で光の壁を睨みつけていた。
「復元したか……」
「だが、一瞬とはいえ、光の壁に大きな穴が開いたぞ。さすがだな」
同僚の励ましに反応することなく、『剣嵐』は再び剣を構えた。その凄まじい気迫に、近くの人々が慌てて下がる。
「みんな、もっと離れろ!」
同僚の剣闘士が指示すると、人々はさっと光壁から距離を取った。こういう時は上位ランカーの名声がとても役立つな。
前方にいた人々がどんどん避難していったおかげで、いつの間にか俺は列の最前列に陣取っていた。
そして充分な空間が確保できてから数十秒は経っただろうか。長い間精神統一をしていた『剣嵐』は再び剣を振るった。
「威龍撃!」
長い精神統一を経て繰り出されたのは、まるで不可視の集束光だった。異常なレベルにまで凝縮された真空波のせいで空間が歪み、本来は視認できない真空波の形が浮かび上がる。
「……っ!」
『剣嵐』の渾身の攻撃が光壁に直撃した瞬間、想像を遥かに超えた余波が俺たちを襲う。俺は咄嗟に剣を抜くと、地面に突き刺して衝撃に耐えた。
「うわあああああっ!」
大半の人間は襲い来る衝撃に耐えられず、バタバタと吹き飛ばされていく。だが、それに構っている暇はなかった。
「あれは……!」
俺は驚愕に目を見開いていた。『剣嵐』の攻撃が光壁を貫いたことで、そこから内部の様子が見えたのだ。
――蹂躙。
その一言に尽きた。マーキス神殿で聞いていた「奇怪な巨人」が、傍若無人に暴れていたのだ。
全長は五メテルほどだろうか。一応は人の形をしているものの、その容貌は人と言うにはあまりにグロテスクだった。
皮膚の大半は爛れ、ウネウネと動く短い触手が所々に生えている。顔は人間と動物をデタラメに混ぜ合わせたとしか表現できない造形で、口からは巨大で汚らしい乱杭歯が突き出ていた。
気の弱い人間なら、見ただけで卒倒してもおかしくない。そんな化物が、ぱっと見ただけでも五、六体は視界に映っていた。
と、そこで視界が眩い光に阻まれる。光壁に開いていた穴が塞がったのだ。
「なんだよ、あの怪物……」
「見間違いではなかったのか……!」
『剣嵐』と同僚の剣闘士の声が聞こえてくる。周囲を見回したところ、ほとんどの人間は吹き飛ばされていたようで、最前列で穴の中を覗き込んでいたのは彼らと俺の三人だけだったらしい。
ふと『剣嵐』たちと目が合う。彼は俺のことを知らないはずだが、こちらへ一歩踏み出した。
「お前も見たか?」
厳しい表情で問いかける。唯一残っていた俺と、見えた光景の答え合わせをしたいのだろう。
「醜悪な巨人が最低でも五体。それに、一番近くにいた個体は血だらけであるように見えました」
それが巨人自身の血液であればいいが、そうでない可能性は高い。それに、建物もかなり倒壊していた。犠牲者が少ないことを祈るばかりだ。
「あの巨人はいったい……」
「それより、壁の向こうに突入する方法だ! あれじゃ三十七街区の住民は全滅していてもおかしくないぞ!」
同僚の呟きに対して、『剣嵐』は焦ったように叫ぶ。
「だが、どうする。帝国軍を待つか?」
「しかし、こうしている間にも死者が――」
二人は緊迫した雰囲気で議論を交わす。そして、俺はふと気付けば口を挟んでいた。
「それじゃ遅すぎる。軍は中心部の防御を固めるばかりで、この周辺はろくに守りもしない」
「ん? お前……」
突然口を挟んだ俺を、二人は目を丸くして見つめていた。だが、同僚の剣闘士は静かに頷く。
「……そう言えば、以前もそうだったな」
「だけど、どうするんだ? 俺のとっておきですらあの程度だぜ。光壁を破壊するなんて夢のまた夢だ」
「だが、穴は開いた。そこから潜り込めば……」
「でもよ、復元にかかった時間はせいぜい二、三秒だぜ? 俺の攻撃中に飛び込むのは自殺行為だし、かと言って光壁に接触しないよう慎重に穴をくぐってると、途中で光壁が復活するかもしれない。そうなれば――」
「身体が真っ二つになる可能性は高いな」
二人は悔しそうに光壁を睨みつける。あの巨人に対して臆していないところはさすがだが、光壁をなんとかしない限り、どうしようもない。明らかに手詰まりだった。
と、そんな俺たちの横をフラフラと通り過ぎた男がいた。俺たちが制止する暇もなく、彼は光壁に接触して吹き飛ばされる。
「何をしているんだ! 危険だぞ!」
『剣嵐』が声を上げるが、男の耳には届いていないようだった。
「そんな……嘘だろ……」
吹き飛ばされて地面に横たわったまま、彼は呆然と呟く。
「あんた、どうしたんだ?」
近付いた『剣嵐』が声をかけたことで、男ははっと我に返ったようだった。そして、彼を見る瞳から涙が零れる。
「約束してたんだ……今日はガキの誕生日だからよ、欲しがってた人形をこっそり買いに行って……なんとか間に合うように戻ってきたら……なんでこんな……」
彼は虚ろな瞳で光壁を見つめる。おそらく、『剣嵐』が開けた穴から、内側の惨劇を目の当たりにしたのだろう。
俺たちほど間近で見たわけではないだろうが、ショックを受けるには充分すぎる光景だったはずだ。
やがて、男はガバッと起き上がると、『剣嵐』の両肩を掴む。
「なあ、あんた『剣嵐』だろ? 頼む、妻と娘を助けてくれ!」
「っ……!」
『剣嵐』の表情が歪む。頼まれる筋合いはないが、自分に縋る人間を突き放すことはできない性格なのだろう。
「上手いモン食って、プレゼント渡して、驚く顔を見て……いい日になるはずだったんだ……」
男はガクリと膝から崩れ落ちた。遠巻きにしていた人垣からも、すすり泣くような声がいくつも聞こえてくる。
「うう……っ」
「頼む、無事でいてくれ……」
その声は一つや二つではなかった。彼らは皆、光壁の向こうに大切な人を残しているのだろう。
彼らを代表するように、顔を歪めた男は声を絞り出す。
「あいつらが呼んでるかもしれねえのに、どうして……どうして俺はこっち側にいるんだ……!」
男はそれっきり口を開かなかった。ただ、すすり泣く音だけが聞こえてくる、重苦しい時間が流れた。
「……」
やがて、項垂れた男と、唇を噛み締めている『剣嵐』を見つめていた俺は、くるりと身を翻した。
「どこへ行く?」
問いかけて来た剣闘士に、俺は首だけ振り向いて答える。
「――知人を呼んできます」
「知人……? お、おい待て!」
そして、俺は全力で駆け出した。