開戦Ⅰ
「まさか、すでに侵入していたとはな」
『門でしょうか。あれを使いこなせる術者がいるとは思えませんが……』
クリフが不思議そうに呟く。第二十八闘技場へ戻った俺は、『極光の騎士』の姿のまま、地下遺跡へ続く階段を下っていた。
「相変わらず、気が遠くなるような深さだな……いっそ階段を凍らせて、ソリで滑ったほうがよくないか?」
『そして、勢いよく出口の扉に激突するわけですね』
そんな会話を交わしながら出口を目指す。やがて階段を下り終えた俺は、まず周囲の気配を探った。もし侵入されているようなら、階段を埋めることも考えなければならないが……。
「ここへの侵入はないな」
その事実にほっとすると、俺は制御室に駆け込んだ。
「周囲の状況を映してくれ」
そして早々に指示を出す。やがて、俺の脳内に直接周囲の映像が映し出された。
「これは――!」
思わず唸り声を上げる。エルフにドワーフ、竜人や翼人、そして人狼といった、おびただしい数の亜人たち。一国の軍隊に匹敵する人数が、同じ方向を目指して行軍している。
「どこを目指している……?」
俺は彼らの行く先を見つめる。あの方角にあるのは……皇城だ。
「っ!」
パパッと強烈な光が連続で瞬く。おそらくただの光ではない。強大な破壊力を秘めた魔法だろう。すでに戦端は開かれているようだった。となれば、相手は帝国騎士団なのだろうが……。
「いったい何がどうなれば、この地下世界で戦うことになるんだ?」
しばらく悩んでいた俺は、考えることをやめた。手持ちの材料が少ない状況では、正解に辿り着けるとも思えない。
「周囲ではなくて、戦闘行為の発生しているエリア全域を映すことはできるか?」
『了解しました。広域知覚、起動開始』
脳内に伝わる映像の視点が切り替わる。かなり高度が高いようで、個別の動きはほとんど分からないが――。
「皇城……が目的じゃないな。回り込もうとしている?」
亜人連合は皇城を目指しているのかと思ったが、そうではないらしい。ただ、皇城を中心に布陣している騎士団が広い防衛網を敷いており、そこを抜けることはできていないようだった。
「奴らはどこから来ているんだ……?」
次に、俺は亜人たちの後方に意識を向けた。かつて帝都に現れた門のような、分かりやすい時空の歪みは見当たらない。
「あれか……?」
亜人たちの後方、地下遺跡の端に巨大なクレーターができていた。よほどの衝撃だったのか、周囲の建物も広範囲が崩壊している。だが……。
「いや、あれは関係ないか? 別の場所から増援が来ているな」
どうにも分かりにくいが、複数のポイントから援軍が現われているようだった。門ほど巨大ではないが、時空の歪みらしきものもうっすら確認できる。ということは、やはり転移してきたのだろうが……。
「何がどうなっているんだ……?」
地下世界を俯瞰して眺めながら、俺はぼそりと呟いた。
◆◆◆
【『結界の魔女』ディネア・メル】
「――防衛網を迂回しようとする敵部隊を確認!」
「放っておきな! 罠に引っ掛かって自滅してくれるさね」
「翼人の部隊が防衛網を抜けそうです! 高度が高く攻撃が届きません!」
「弓兵は何をやってんだい! 投石機に痺れ薬を詰めてぶち撒けな!」
舞い込んでくる報告に対処し続けてどれほど経つだろうか。ふと報告が途切れた瞬間に、ディネアはふっと頭上を見上げた。そこに青空はなく、岩盤がどこまでも続いている。
「地下遺跡のど真ん中でドンパチやることになるとはねぇ……」
ディネアは溜息をついた。一人の魔術師として、古代魔法文明の粋であるこの遺跡を損ねることは不本意でしかない。
……だが。帝国の最高顧問としては、これが一番マシな対応だと認めざるを得なかった。
「ろくでもない隠し玉がいたもんだねぇ」
ディネアは遠くに見える戦線を見つめた。亜人連合の盟主ヴェイナード。一、二年前までは、ユミル商会の主として帝国に出入りしていた人物だ。亜人では冷遇される混血種であることと、建国時から帝国の発展に尽力してきたという経緯があるため、そこまで警戒はしていなかった。
それが頭角を現して、こうして攻め込んでくるなどと誰が考えるだろう。しかも、丁寧な裏工作付きだ。ヴェイナードに唆された国々のことを考えると、つい毒づきたくもなる。
「――ったく」
ユグドラシルの復活は世界の危機に繋がる。そう分かっているはずの諸国は、帝国の救援要請に応じなかった。
帝国は先の遠征でエルフ王族を捕らえており、ユグドラシルを操る術を得ている。その力で大陸に覇を唱えるつもりだ。そんな戯言を信じた国もあれば、今後の世界情勢を説かれて不参加を決め込んだ国もあった。
「特殊部隊から連絡はあったかい?」
「ありません。おそらく全滅したものと……。第二波の編成を急がせています」
「そうかい。……厄介な『枝』だよ」
その報告にディネアは顔を歪めると、大きな溜息をついた。
――ユグドラシルの亜種に門と似た効果を持つものがある。亜人連合はそれを利用して帝都へ攻め込むつもりだ。
それは、亜人連合と袂を分かった半竜人からもたらされた情報だ。エルフだけでは改良や量産に行き詰まっていたところを、他の亜人種の協力を得ることで、実用段階に到達したのだという。そのきっかけが帝国のフォルヘイム討伐だとすれば、皮肉なものだ。
「……本当に理不尽な話だ」
いつでも、どこからでも侵攻のための兵を送り込むことができる。それは軍事面で圧倒的な優位に立つことを意味する。
広範な帝都すべてに充分な数の兵を配置することはできないし、いつ攻めてくるか分からない状況下が続けば、兵士も住民も疲弊し、経済も回らなくなる。公表したところで、恐慌や国力の低下を招くだけでメリットはない。そう考えて、帝都民には情報を伏せていたのだ。
「――む」
遠くで大きな魔力が揺らいだ。それを察知したディネアはぼそりと呟く。
「また罠に引っ掛かったようだね」
「はい。亜人たちは連携が取れていないようで、同じ罠に何度も引っ掛かる傾向にあります」
「お粗末なことだが、ありがたい話さ」
それでも、できるだけのことはした。半竜人が持参したユグドラシルの亜種とやらを分析し、同じ魔力パターンを持つものが帝都付近に門を開こうとした場合には、干渉して門の接続先を地下世界へズラすよう細工を行った。
エルフたちの狙いが地下のユグドラシルであることを考えると、戦術的には悪手だ。だが、帝都にまた被害を出すわけにはいかない。そう主張する帝国幹部は多く、地下世界で殲滅すればよい、という結論に至ったのだ。
「また引っ掛かったようです。いまだに罠が作動し続けるとは、さすがディネア導師の魔法陣ですね」
「よしとくれ。構造はアタシが考えたけど、設置したのは宮廷魔術師たちだからね。それに……できれば、もう二度と使いたくない類の仕掛けだ」
ディネアは複雑な表情を浮かべた。魔法陣を用いた罠の動力源は死者の怨念だ。最初の一回分は魔力を充填するが、それ以降は魔法陣に引っ掛かった者の怨念を動力として、半永久的に起動し続ける。効率的だが、こんな事態でもなければ使いたくなかった結界だ。
だが、その効果はこうして出ている。それ以外にも、単発だが強大な破壊力を持つ魔法陣を多数仕掛けており、すでに数千人単位で敵を仕留めていた。
「戦況は悪くないけど……どうかねぇ」
彼女は鋭い目で戦場を睨む。一進一退の攻防が続いているものの、戦況はやや帝国に有利だ。このまま片付けばいいが……。
ディネアはちらりと後方に視線を向けた。かつての教え子であり、今回の総大将でもある第一皇子リディアスは、今のところ上手くやっている。少なくとも、先陣を切って突撃していく現皇帝よりは安心して見ていられる。
「今回の戦が上手くいきゃ、あいつも安心して帝位を譲れるってもんだ」
ぼそりと呟く。この国が興った原因の一つでもあるユグドラシル。その復活を狙う勢力をここで徹底的に叩いておけば、後は封印に力を注ぐだけだ。そういう意味では、この戦いは益のあるものだった。
だが。そんな彼女の願いも空しく、やがて戦局は一変した。
「何が起きた……?」
「導師! 敵が一気に手強くなった模様です! 明らかに戦闘能力の高い個体が多数出現しており、接触した味方部隊が壊滅させられています!」
「なんだって!?」
伝令の言葉に眉根を寄せる。種族数と戦力の増え方から、もう大した数の補充はないと踏んでいたが……転移先の安全を確保してから、切り札を投入してきたということだろうか。
「種族は様々ですが、信じられない再生能力を持つ者や、儀式魔術レベルの攻撃を放つ者など、明らかに格が違います。それに――」
「っ!?」
報告の途中でディネアは身じろぎした。背筋が凍るような感覚に、本能的に半歩下がる。その直後だった。
「ぐ――!?」
右肩に灼かれたような痛みが走り、血液が噴き出る。敵影は見えないが、襲撃であることは間違いなかった。
「敵襲だ! 皇子の結界を強化しな!」
痛みを呑み込んで声を上げる。だが、ピンと来なかったのだろう。その声に迅速に従った魔術師は数名だけだった。そして、その数名の結界をも突破して、何かが第一皇子の身体を貫いた。
「リディアス!」
教え子の胸部にバッと血の華が咲いた。駆け寄りたい気持ちを抑えて、ディネアは声を張り上げる。
「第一班は結界の強化! 第四班は皇子の治療! 残りは探索魔法で相手を見つけな! 透明化している可能性もあるからね!」
本陣の宮廷魔術師たちに指示を出す。だが、その間にも隊長格の騎士たちが狙われ、騎士団は大混乱に陥っていた。遠距離からの狙撃のようだが、どこに潜んでいるのかはまったく分からなかった。
「ちっ――」
ディネアは奥歯を噛み締めた。劣勢の戦線を立て直さなければならないが、本陣は奇襲で大混乱している。これでは迅速な増援どころではない。
奇襲をかけてきた相手は、おそらく亜人連合の戦力でも最高クラスの強者だろう。重ね掛けした結界を貫く威力と、狙撃の精度。明らかに常人離れしていた。
「増援を出さなきゃならないってのに……」
こちらの部隊をたやすく壊滅させる、強力な個体たち。それを上回る数で押し潰すか、こちらも精鋭をぶつけるか。ただ、報告通りであれば騎士団の精鋭をも上回る可能性がある。かと言って、両者を派遣できるほど兵力に余裕はない。
それに、リディアス皇子も重傷だ。教え子だからと贔屓するつもりはないが、総大将の死亡は士気を大きく下げる。場合によっては、地上へ連れ帰って治療を受けさせる必要があるだろう。だが、そうなればさらに兵数は減る。
「――っ! 今度はなんだい!?」
上空から魔力を感じて、ディネアは天を振り仰いだ。そこには岩盤に覆われた空と……そして一人の翼人の姿。
「上から攻撃が来るよ! 結界を!」
ディネアの指揮に従って、上方に結界が多重展開される。直後、真上から何かが無数に降り注いだ。
「――流星雨だって!?」
ほとんど使える者のない殲滅魔法を目の当たりにして、ディネアは驚愕の声を上げた。翼人には、それほどに優れた魔術師がいたというのか。
ディネアは手にしていた魔晶石を握りしめた。魔力の大半を失った彼女が、大魔法を行使する唯一の手段。それは外部からの魔力補充だ。彼女は隕石群を呑み込む結界を展開しようとして――。
「――地神の霊衣」
だが、その必要はなかった。光の膜が頭上を覆ったのだ。凶悪な隕石群は光に激突すると、そのまま塵となって消えていく。衝撃さえ感じさせず、無数の隕石は綺麗に消滅した。
「アンタか。……すまないね、助かったよ」
振り向くまでもなく、術者に心当たりはあった。大陸でも有数の神聖魔法の使い手。帝都の大地神殿の長でもあるフェルナンドは、穏やかに微笑んだ。
「どうも本陣がおかしいと思いまして。間に合ってよかった」
人々を安心させるような笑みは、さすがティエリア神殿の長といったところだ。だが、それは彼の一面に過ぎない。どこでどう嗅ぎつけてきたのか、彼はユグドラシルの話も、亜人連合の侵攻も知っていたのだ。
そのため、軍属ではないにもかかわらず、彼らは極秘で進められてきたこの作戦に参加していた。もちろん正規軍に組み込むわけにはいかないため、遊撃隊という扱いだが……。
「まさか、流星雨を使える翼人の魔術師がいるとはね……一人で戦局を変えかねないよ」
合流したばかりのフェルナンドに、ディネアはついぼやく。すると、返事は別の人物から返ってきた。
「――いや、あの翼人は魔術師ではない。優れた戦士ではあるだろうが」
「ソリューズ、そりゃどういう意味だい?」
フェルナンドの隣にいた魔術師に問いかける。すると、彼は上空を指差さした。
「あの手の奴と何度か戦ったが、鍵になるのはあの『枝』だ」
「枝?」
つられて上空を見上げる。だが、距離が遠くてはっきりとは見えなかった。
「門の枝と同じだ。強力な魔法を扱えるものや、特殊能力を与えるものがあるようだな。理不尽なほど強力な魔道具だと思え」
「なるほど……嬉しくない情報だねぇ」
「――ちょっと、何を悠長に喋ってるのよ!」
と、魔術師同士の会話に割って入った弓使いの女性は、突然弓の弦を引き絞った。狙う先は、もちろん上空の翼人だ。
「また流星雨が来たらどうするのよ。フェルナンドの魔力だって無限じゃないのよ」
そして、上空の翼人へ向けて矢を放つ。
「幻惑掃射」
それは、おびただしい量の矢の雨だった。重力に逆らって無数の矢が天へ昇っていく。だが、ディネアには分かった。あの矢はフェイクであり、実体はない。実体があるのは、彼女が弓の弦から放った一本の矢だけだ。
その本命の一本は、他の矢に紛れて空中を進み……やがて、見事に翼人に突き刺さった。
「――起爆」
その直後、ソリューズの言葉とともに上空で大爆発が起きる。彼女の矢に何かが仕込まれていたのだろうが……それにしても凄まじい破壊力だった。
「おいローゼ、外れたらどうする気だったんだ。俺たちの上に矢が降ってくるぞ」
「私がそんなミスするわけないでしょ? もしもの時は第二射で相殺するし」
少し離れた箇所に、撃ち落とされた翼人が落ちてくる。すでに絶命しているようで、ピクリとも動かない。その様子を見た兵士たちが歓声を上げた。
「うおおおおおっ!」
「見事な手並みだ!」
フェルナンドは穏やかな微笑みで、ローゼは陽気に手を振って、そしてソリューズはぶすっとした顔で歓声に応える。飛び入りの非軍属による成果だとはいえ、士気高揚になったことは間違いない。だが……。
「まずいことになったねぇ」
誰にも聞こえないような声でディネアは呟く。あの流星雨は本当に脅威だった。今回はあっさり倒したように見えるが、それはフェルナンドたちが古竜を討伐する実力を持っていたからこそできた話だ。
つまり……逆に言えば、『古竜殺し』でもない限り、『枝』持ちの敵には苦戦するということだ。そんな苦々しい結論を頭から追いやると、ディネアは墜落した翼人を検分する。
「こいつは……狙撃してきた奴じゃないね。弓は持っていたようだが、アレは矢の攻撃じゃなかった」
つまり、あの厄介な攻撃を受ける可能性はまだ残っているということだ。
「導師! 部隊の敗走が続き、戦線が押し下げられています!」
「……!」
追い打ちをかけるような報告に、ディネアは渋面を隠せなかった。先ほどの流星雨の『枝』と同格のものを複数の敵が所持しているのであれば、通常の部隊が勝てるはずはない。
騎士団長クラスなら対処できるかもしれないが、あまりに数が少ない。局地的には勝てても、戦術レベルでの敗北は必至だろう。
「報告! 封鎖区域が何者かに襲撃されました!」
「なんだって!?」
その報告に血相を変える。この戦いは、封鎖区域にあるユグドラシルを守りきるためのものだ。もし敵の手に渡って封印が解かれるようなことがあれば、それは破滅と同義だ。
「まだ戦線に穴は開いていないし、あそこにはかなりの戦力を置いていたはずだよ?」
「それが、単騎で潜り込んだ竜人がいたようでして……これが滅法強く、手こずっている間に騎士団長も何者かに狙撃されて――」
「なるほど、そっちに行ったのかい」
ディネアは複雑な気持ちだった。おそらく、第一皇子を狙った正体不明の狙撃手と同一人物だろう。この近辺にいないことは朗報だが、ユグドラシルを占拠されては本末転倒だ。
「奪還部隊を編成したいところだけど……地上から引っ張ってくるしかないか」
もともと劣勢に立たされているのだ。奪還部隊の編成に兵を割けば、前線が崩れることは火を見るより明らかだった。となれば――。
「私たちだけでは、さすがに無理でしょうね。あの竜人を相手取るだけでも、信頼できる前衛が二、三人は欲しいところです」
視線を向けられたフェルナンドは、ゆっくりと首を横に振った。その物言いに引っ掛かったディネアは口を開く。
「件の竜人のことを知ってるような口ぶりだね」
「私の推測通りなら、相手は竜人族の英雄です。古竜に匹敵すると言われる邪竜を討伐したと聞きます」
「そりゃまた、難儀な手合いだね」
古竜に匹敵する邪竜を倒した竜人の英雄。たしかに、彼らですら持て余す強敵だ。まして、その場にはあの狙撃手がいるかもしれないのだ。それこそ騎士団総出で対処するべき事態だろう。
「だが、放っておくわけにもいかんだろう。封印はすぐに解けるようなものか?」
「まさか。天神が厳重に封印してる上に、アタシたちも性質の悪い結界を張ったからね。解除に一か月はかかるさ」
ソリューズの問いに対して、ディネアは自信満々に答える。相手は魔術に優れたエルフだが、それでも数日で封印が解けるようなことはないだろう。
「ならば、撤退も視野に入れることだな」
「……ったく、嫌なことをあっさり言うね。さすが『孤塔』だ」
ディネア自身、その選択肢を考えないわけにはいかなかった。すでに戦線は崩れており、本陣も総大将が重傷を負っている。その上封鎖区域は占拠されたとなれば、もはや大勢は決していた。
「どこを間違ったのかねぇ……」
奇襲を事前に察知して、敵軍を地下世界へ誘導し、ありったけの罠を仕掛けた。かつての虐殺事件では帝都民を守れなかったため、今度こそ自分たちの手で帝都を守ると、騎士団の士気も高かった。
だが、結果はこのざまだ。……いや、分かっている。計算外だったのはあの『枝』だ。流星雨を使えるような規格外の魔道具が大量に存在するなどと、一体誰が考えるだろうか。
「……撤退するしかないか」
ディネアは喉から声を絞り出した。かなりの戦力を失ったが、ここで引けば立て直せないわけではない。万が一、地上を攻められた時に対応できるようにと、この戦いに連れてこなかった者もいる。彼らを再編成すれば、まだ考えようはあるはずだ。
「伝達! 撤退だ! 狼煙を上げな!」
「えっ!? ……は、はい!」
ディネアが声を張り上げると、伝令たちは戸惑いながらも自らの仕事をこなし始める。だが――。
本陣のすぐ近くで、強大な竜巻が吹き荒れた。凄まじい風圧が押し寄せ、体重の軽いディネアは気を抜くと吹き飛んでしまいそうだった。おそらく『枝』持ちだろう。
「そう簡単には、撤退させてくれないようですね」
フェルナンドは厳しい表情で竜巻を見つめる。彼らだけならどうとでもなるだろうが、この戦いにはティエリア神官も多数従軍している。自分が逃げおおせればよい、というものではないのだろう。
ディネアは再び魔晶石を握り込んだ。その性質上、撤退戦には大きな犠牲が出る。せめて自分が殿となって、できるだけ多くの兵を逃がそう。そう考えた結果だった。
「――それは奥の手です」
だが、魔晶石を握り込んだ手は、さらに上から押さえられた。フェルナンドだ。彼は穏やかな微笑みを浮かべたまま、首を横に振る。
「ここで貴女にもしものことがあれば、軍の立て直しは誰がするのですか?」
「……さっさと引け。『結界の魔女』と同程度の働きくらいはしてやる」
「私たちも、適当な所で見切りをつけますから」
両隣の二人も口々に告げる。だが、彼らにも分かっているはずだ。この戦いで殿を務めるということは、死地に向かうことに等しい。だが、それでも――。
「……恩に着るよ」
血がにじむほど唇を噛み締めて、ディネアは踵を返した。敵戦力の分析や騎士団の再編成をはじめとして、やらねばならないことは無数にある。フェルナンドが言う通り、ここで死ぬわけにはいかなかった。
と、ディネアの視界で、強烈な光が何度も瞬いた。交戦している部隊のものだろう。その様子に、彼女の眉間の皺がいっそう深くなる。本陣はともかく、各地で戦っている部隊の撤退は困難を極める。
そして、仮に本陣以外の部隊が全滅した場合、帝国軍の立て直しは厳しいだろう。
「どれだけの数が、無事に戻ってこられるか……」
悲痛な表情で戦場を睨みつけながら、彼女はぼそりと呟いた。