神代Ⅲ
「そんなことがあったんですね……」
予想通り時間が巻き戻って、戦争直前のピリピリした空気が漂っている王都。そこにある無数の邸宅の一つを勝手に借りて、俺はこれまでの経緯をシンシアに説明していた。
「これが何かの幻覚なのか、それとも過去に飛ばされたのか……さっぱり分からない」
俺が言葉を結ぶと、シンシアはふと視線を落とした。そして、ぽつりと呟く。
「ひょっとしたら、なんですけど……」
「心当りがあるのか?」
問いかけると、彼女は言いにくそうにこちらを見上げた。
「ここは、ユグドラシルの一部だと思います」
「ユグドラシル!?」
思わぬ答えに声が大きくなる。たしかに、ユグドラシルと戦っている光景を見てはいたが……。
「この身体に転生するまでの長い間、私はこの世界の一部だった気がするんです。なんというか……少し懐かしいような」
「ええと……懐かしいのは、三千年前の景色じゃなくて、この不思議な世界そのものということか?」
俺の質問にシンシアは静かに頷いた。
「はい。ユグドラシルは、植物化した人たちの魂を取り込む機能を持っていました。エルフ族が対象でしたから、人間の魂は自然と檻から抜け出ていったみたいです。
推測ですけど、天神降臨で魂が壊れかけていた私は、抜け出るエネルギーさえなかったんだと思います」
そう言えば、シンシアは例外的に取り込まれたのだったか。しかし……それとこの世界がどう繋がるというのだろうか。
「ここは、ユグドラシルに蓄えられた魂の記憶でできた世界です。囚われた魂の共通認識が一つの世界を形作る。
同じ出来事が何度も繰り返されるのは、ここで命を落としてユグドラシルに取り込まれた魂にとって、一番印象が強い期間だったからだと思います」
「じゃあ、あの別荘地で何度もクリスハルトたちが戦っているのも……」
「はい。その場所に縁のある魂にとって、最も印象的だった期間なんだと……」
たしかにな。凄まじい戦闘があって、かつ自分が植物化して命を落としたとなれば、印象が強いのは当然だ。
「じゃあ、クリスハルトとルミエールだけが別荘にいた場面は、あの二人の記憶が?」
「はい。お二人の記憶から生成されたものだと思います。ユグドラシル自身の記憶という可能性もありますけど、あの森は遠すぎますから」
「そうか……」
分かってはいたが、やっぱりあの二人はユグドラシルに取り込まれたんだな。直接の知り合いではないが、やりきれない気持ちだ。
「あの、私がこうして転生したように、他の方もユグドラシルから少しずつ解放されていると思います。ここにあるのは記録のようなものですから、記憶の持ち主はユグドラシルの中にはいない可能性だって――」
俺の心境を察したのか、シンシアは慌てた様子で説明してくれる。そんな彼女に感謝していた俺は、ふと嫌な可能性に気付いた。
「……まさかとは思うが、俺死んでないよな?」
この世界はユグドラシルに取り込まれた人々の共通認識だという。それなら、その中にいる俺も死んでいるという推測が成り立つ。しかも、俺は一応とはいえエルフ族だ。取り込まれる可能性だってあるだろう。
「大丈夫だと思います。ユグドラシルはたしかに巨大でしたけど、嘆きの森まで根を伸ばしてはいないはずです。もしそうなら、マーキス様の攻撃はもっと広範なものになったはずですから」
「けど、ここはユグドラシルの、ええと……共通意識みたいな場所なんだろう?」
「そうなんですけど、嘆きの森の成り立ちを考えると、あり得ない話じゃないです。あの森が、その……すべて植物化した人たちだとしたら」
シンシアの顔色が少し悪くなる。彼女は『天神の巫女』フィリスの記憶しか持っていないため、決戦の地から離れた場所で、大勢の人々が植物化させられたことを知らなかったらしい。
『なるほど。あれだけの犠牲者数ですからね。エルフ族には魔術の素養がありますし、犠牲者の怨念が集まれば、かなりの力を発揮することでしょう。それこそ、彼らと繋がっている『この場所』に喚ばれても不思議ではありません』
話を聞いていたクリフが納得した様子で口を開く。それじゃ、やっぱりユグドラシルは地下に封印されたままで――。
そう考えた瞬間、はっと思い出す。こんな重要なことをどうして後回しにしていたのか。俺は真剣な顔でシンシアに向き直った。
「シンシア。ユグドラシルが封印されているのは、帝都の地下遺跡だな?」
帝都の地下に眠る広大な古代遺跡。嘆きの森との位置関係と合わせて考えれば、あれこそが古代文明時代の王都であり、ユグドラシルの封印場所であるはずだ。それなら、帝国が地下遺跡について、あまりに厳重な情報統制をしていることにも納得がいく。
「……はい」
逡巡していた様子のシンシアは、やがて暗い表情で俯いた。
「やっぱりそうか……じゃあ、フォルヘイムで戦ったユグドラシルはなんだったんだ?」
「ユグドラシルの枝を持ち出して、あの地で挿し木のようにして復活させたんだと思います。その可能性は当時も懸念されていたんですけど……」
「挿し木で一から育てたのか? それにしては、アレも充分巨大だった気がするが」
フォルヘイムで戦ったユグドラシルを思い出す。さすがに城を飲み込むレベルではなかったが、数十メテルはゆうにあったからな。
「魔術的なフォローもしたでしょうし、何より三千年も月日が経てば、巨樹になってもおかしくはないと思います」
言われてみればそうだな。普通の木でも、もし三千年あれば相当な大きさになるだろう。むしろ、あの程度のサイズに収まっていてよかったと言うべきか。
そう納得していると、シンシアが思い詰めた表情でこちらを見つめていることに気付いた。
「黙っていて、本当にすみませんでした……このことは、ごく一部の人しか知らない最重要機密だったんです」
その声は少し震えていた。それでも彼女は言葉を続ける。
「私はこの事を帝都の人たちに伝えるべきだと思って……でも、今の私じゃ駄目なんです。権限もありませんし、混乱する人々を落ち着かせることもできませんから」
「たしかに、大っぴらにすると混乱や恐慌が起きそうだな……」
言ってふと気付く。フォルヘイムから帰ったシンシアが、『天神の巫女』として精力的に活動していたのはそのためだったのだろうか。そう問いかけると、彼女は小さく頷く。
「『天神の巫女』への信頼が大きくなれば、恐慌時でも落ち着かせることができると思って……」
「なるほどな。てっきりフィリスの影響かと思っていたが、シンシアの意思だったのか」
俺はほっとして笑顔を浮かべる。すると、シンシアは困惑した様子で俺を見つめた。
「どうした?」
「あの……怒らないんですか?」
「怒るって、何に?」
俺は本気で首を傾げる。何か怒る部分があっただろうか。尋ねると、シンシアは言いづらそうに視線を落とした。
「その……ユグドラシルが帝都の地下にあると気付いていたのに、ミレウスさんに隠していたこと、です」
「神殿の最重要機密だったんだろ? 仕方ないさ。これでも闘技場という組織を運営する身だからな。秘密を守ることの必要性は分かってるつもりだ」
「え……?」
予想外の言葉だったのか、シンシアは目を瞬かせる。だが、彼女は思い直したように首を横に振った。
「でも、ミレウスさんは帝都を救った英雄で、地下遺跡のことも知っていて、フォルヘイムのユグドラシルを滅ぼした人です。誰よりも真実を知る資格があります。それなのに言えなくて……」
シンシアは再び俯いた。まるで糾弾されることに備え、そして怯えているようだった。真面目な彼女は、そのことについて大きな罪悪感を抱えていたらしい。そんな彼女の肩に、俺はぽん、と手を置く。
「俺が怒るわけないさ。秘密を守ることの必要性は分かるって言っただろ? ……それに、その辛さも」
自分たちの街の真下に、人々を植物化させた危険兵器が眠っている。その恐ろしさを本当の意味で知っている彼女は、誰よりも苦しかったはずだ。
「こんな秘密を抱え込むことは辛かっただろう。……大変だったな、シンシア」
「ミレウス、さん……」
シンシアは再び顔を上げた。その目に浮かんだ涙が、光を受けて瞳を揺らしている。やがて、つぅ、と一条の涙が彼女の頬を伝った。
「わたし……っ」
シンシアは俺にすがりつくと、泣き顔を隠すように顔を埋めた。彼女の性格上、よっぽど負担だったのだろう。俺は震える小さな背中に手を伸ばす。
「……」
そうして、どれほど経っただろうか。彼女の呼吸が落ちついてきた頃合いで、俺は軽く姿勢を正した。鎧の胸部に顔を押し付けているシンシアが痛いのではないかと、そう心配した結果なのだが……。
「あ――」
その拍子に少し身体が離れて、シンシアの顔がちらりと見える。意外なことに、その顔は泣き顔には見えなかった。顔は赤いし涙の痕もあるが、どちらかと言えば焦っているように思える。
「シンシア、大丈夫か? 鎧が痛かったのか?」
「そ、そんなことないです! ちょっと我に返ったというか……」
問いかけると、彼女は慌てた様子でぶんぶんと首を横に振り回した。緩やかな金髪から覗いた耳も、みるみる真っ赤に染まっていく。
「その……勢いでミレウスさんに、あの……」
シンシアは視線を地面へ向けたまま口を開くが、最後のほうは声が小さくて聞こえない。
「え? すまない、なんて言ったんだ?」
「ですから、その……」
シンシアはしどろもどろになっていた。熱でもあるのかというくらい顔を赤くしたまま、こちらを恨めしそうに見ている。と――。
「そ、それより! ミレウスさん、移動しませんか? どうにかして、この世界から脱出する糸口を見つけないと……!」
彼女にしては珍しく、語調も強めに言い切る。その意見に異論のない俺は、素直に頷く。
「そうだな。三千年前の王都を観光しながら、手掛かりを探そう」
「は、はい……!」
冗談めかして答えると、シンシアはほっとしたように息をついた。
「とは言ったものの……どこをどうやって調べたものかな。シンシアの話からすると、ここはユグドラシルの集合記憶のような場所なんだろう? 丁寧に出口が用意してあるとは思えないが」
「そうですよね……」
シンシアも困ったように同意する。そんな中、俺はふと思いついて空を見つめた。と――。
「え!? ミ、ミレウスさん……!」
シンシアが驚いた声を上げた。その理由は俺にも分かる。身体全体から迸る青白い光が、眩く輝いたからだ。
「――なるほど。意外と簡単な所に答えがあったんだな」
不思議な引力を感じながら、自分の身体を眺める。目の前にかざした両手は、うっすら透けているような気がした。
「シンシア。元の世界に戻ろうと、強く念じてみてくれ」
ハラハラしてこちらを見つめているシンシアに説明する。原理はよく分からないが、俺という存在がおぼろげなのか、それともこの世界があやふやなのか。ともかく、気持ち一つで元の世界に戻ることができそうだった。
「こう……でしょうか」
シンシアは目を閉じると、祈るように両手を組む。同時に青白い輝きが彼女を包んだ。だが――。
「その、かすかに引力のようなものは感じるんですけど……」
やがて、彼女は申し訳なさそうに首を横に振った。たしかに、俺の時と比べて光量が少ないし、ほとんど透けた感じもない。
「何が違うんだ……?」
俺は首を傾げる。すると、クリフから念話が届いた。
『彼女はこの世界と親和性が高いからかもしれません。あくまで推測ですが……』
『なるほどな。三千年もこの世界に囚われていたなら、可能性はあるか』
だが、それならどうすればいいのか。そう悩んでいると、シンシアがそっと俺の手を取った。
「ミレウスさんだけなら、この世界から出られるんですよね……? 私のことは気にしないで、先に脱出してください」
「いや、そんなことは……」
俺は反射的に答える。だが、シンシアは首を横に振った。
「私も、後でなんとかして脱出します。……大丈夫です。私はこの世界に慣れていますから」
それは、まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。そして、彼女の手から伝わってくるかすかな震え。シンシアが無理をしているのは明らかだった。
そもそも、先ほどの彼女は完全に『天神の巫女』フィリスと同化していた。一人で脱出できるとは思えない。
「そのつもりはない。二人で元の世界に戻る」
「でも――」
シンシアはまだ躊躇しているようだった。そこで、俺は低い声を絞り出す。正体が発覚してからは使っていなかった、『極光の騎士』の声だ。
「シンシア。俺を信じろ」
「!」
シンシアがはっとしたように俺を見上げる。その顔には様々な感情が渦巻いていた。やがて、瞳に涙をにじませたまま、彼女は微笑みを浮かべた。
「……はい」
俺の手をとっていたシンシアの両手に、きゅっと力がこもった。