獅子と竜
少し前までは、書類が山のように積み上がっていた支配人室。すっかり綺麗に片付いた机の上には、代わりに花が飾られている。
ここには二度と書類を積み上げさせない。重量のある花瓶からそんな意思を感じるのは、俺の考え過ぎだろうか。
「ミレウス、そんなに花を見つめてどうしたの? 気に入った?」
そう声をかけてきたのは、新たに花瓶を設置した張本人であるヴィンフリーデだった。彼女の指には控えめなデザインの指輪が嵌められており、微弱な魔力を周囲に展開し続けている。
「いや……書類が積み上がっていないと、こんなに爽快なものかと思ってさ」
「ああ、そういうこと。てっきり、ミレウスが花に興味を持ったのかと思ったわ」
「俺がろくに花の名前を知らないこと、知ってるだろ?」
そんな気楽な会話をひとしきり交わした後で、俺は少し真面目な表情を浮かべた。
「それで、体調はどうなんだ? 指輪を見る限り、ちゃんと機能しているように見えるが……」
「大丈夫、まったく問題ないわ」
そう答えると、ヴィンフリーデは指輪を大切そうに撫でる。レティシャとシンシアの力を借りて、シルヴィが製作したものだ。ゼロから作ったのではなく、壊れた魔道具を修理して、新たに耐呪の魔法を封じ込めたらしい。シルヴィとレティシャの話からすると、魔工技師としてはかなりの偉業であるようだった。
「……でも、私だけがこんなに優遇されていいのかしら」
ヴィンフリーデはふっと表情を曇らせた。喧騒病が病気ではなく、呪いだと判明したおかげで、耐呪の指輪を持つ彼女は健康体となんら変わりない。
だが、その恩恵を被っているのは、俺が知る限りヴィンフリーデただ一人だ。なぜなら、喧騒病の正体が呪いだということは、まだ公表されていないからだ。
「気にすることはないさ。ヴィーだって実験台にされているようなものだし」
喧騒病から立ち直った唯一の症例であるヴィンフリーデは、ほぼ毎日、自分の状況をデータとして調査機関に伝えることになっていた。表向きの理由は「喧騒病の原因が呪いであることの確信を得るため」とのことだが……。
「早く呪いの大元を突き止めてほしいわね。それまで公表するつもりはないんでしょう?」
「『喧騒病の原因は呪いでした』なんて発表したら、『なぜ術者を討伐しないのか』と批判されるのは明らかだからな」
「それに、呪いが帝都に蔓延しているなんて、認めたくはないでしょうしね」
「末期の患者に対しては、祈祷にかこつけて解呪を使っているとシンシアが言っていたが、魔道具がなければ再発は時間の問題だからな」
たとえ解呪したところで、本当に健康体でいられるのは十日もない。それは、これまでの実験で明らかにされていた。初めての発症までに数十年かかった人でも、それくらいで再発するのだ。そのことを考えると、昔より呪力が強まっている可能性が高い。
「まあ、そっちは本職に任せよう」
だが、俺たち一介の市井が気を揉んでも仕方がない。そんな気持ちが伝わったようで、ヴィンフリーデも深く頷いた。
「そうね、やることは山積みだもの。私が休んでいる間に、止まったり白紙に戻った案件を再開しなきゃいけないし……」
「ほどほどにしてくれよ? 呪いの影響がなくなったとは言っても、その間身体が弱っていたのは事実だからな」
「ええ、ユーゼフにも怒られちゃうもの」
そう言いながらも、ヴィンフリーデは壁に貼られた予定表を眺めている。そして、ふと驚いたように目を見開いた。
「あら? 『大破壊』との試合が決まったの?」
「ああ。ヴィーがいない間に、ヴァリエスタ伯爵が訪問してきたんだ」
「でも、この日ってたしか――」
「ああ。ディスタ闘技場の最終日だ」
そう。長年にわたって闘技場の代表であったディスタ闘技場の閉鎖は、四月後に迫っていた。その最後の日の最終試合を『大破壊』と『極光の騎士』で行いたいと、ヴァリエスタ伯爵から打診されたのだ。
『大破壊』がバルノーチス闘技場へ移籍した後では、クロード支配人が『極光の騎士』との試合を組まないだろうからと、伯爵はそう言っていたが……それはつまり、『極光の騎士』が剣闘士ランキング一位になるためには、この試合に勝つしかないということだ。
「大変ねぇ……。ミレウス、もう少し私に仕事を回してもいいわよ? あの『大破壊』が相手じゃ、少しでもトレーニングをしたいでしょう」
「気持ちはありがたいが、病み上がりを酷使するわけにもいかないからな」
ヴィンフリーデが言う通り、『大破壊』は強敵だ。これまで負けたことはないが、本当にきわどい勝利ばかりだった。ユーゼフの話ではさらに強くなっているというし、古代鎧の出力が上がったことを考えても、簡単には勝利できないだろう。
「ヴィーが復帰してくれたおかげで、支配人としての仕事にはだいぶ余裕ができたからな。その時間を使ってなんとかするさ。これまでだってそうしてきたし」
そう結論付けると、俺は強引に話を変えることにした。
「ところで、今度の交流試合なんだが、どんなステージがいいと思う?」
「バルノーチス闘技場との交流試合? たしか、竜人の剣闘士が来るのよね?」
「ああ。『緋炎舞踏』と接戦を繰り広げた大型新人だ」
俺は頷く。相性もあるのだろうが、上位ランカーである『緋炎舞踏』と対等に戦ったとなれば、軽く見るわけにはいかない。
「こっちはモンドール皇子よね。……よかったの?」
よかったの、とはユーゼフを出さなくてもよかったのか、ということだろう。特訓の成果が出たのか、モンドールは剣闘士ランキング十位以内に入るだけの実力を備えつつある。上手く行けば、次の集計で十位に入ることもあり得る。
だが、竜人剣闘士の存在は、モンドールが剣闘士ランキング十位以内に入るための障害になりかねない。今回の試合に負ければ、モンドールより竜人剣闘士のほうが上位に格付けされるだろう。
「『緋炎舞踏』と互角に戦った以上、彼がモンドールより上に格付けされる可能性は高い。だからこそ、直接対決でモンドールに勝ってもらう必要がある」
それに、ランキング変動を恐れて試合を組まないのは、支配人としての信条にもとるからな。『極光の騎士』としてモンドールには様々な指導をした。それが実を結ぶことを信じるしかない。
「モンドール……勝ってくれよ」
皇城の方角へ視線を向けると、俺はほそりと呟いた。
◆◆◆
【『帝都の獅子』モンドール・ザン・ルエイン】
『――デビュー当時、いったい誰がここまで来ると予想したでしょうか! 第二十八闘技場の看板剣闘士の一人にして、上位ランカーに最も近い男! 斧槍を握れば古今無双! 『帝国の獅子』モンドール・ザン・ルエイィィィン!』
その声に合わせて、モンドールは斧槍を振り上げた。彼を包む歓声が一際大きくなり、試合の間を震わせる。
「……へへっ」
つい笑い声がもれる。ここにいる観客たちは、第四皇子のモンドールに歓声を送っているのではない。剣闘士としてのモンドールに歓声を送っているのだ。その事実は、剣闘試合が日常になった今でも、彼の心を高揚させるに足るものだった。
『対するは、バルノーチス闘技場に現れた巨躯の豪傑! 竜人の拳はすべてを吹き飛ばす! 『剛竜』デロギア・ラグズゥゥゥっ!』
そして姿を現したのは、二メテル半はあろうかという巨大な体躯だった。その頭からは漆黒の角が生えており、筋肉で膨れ上がった身体は赤銅色をしている。
『バルノーチス闘技場が誇る上位ランカーの一人、『緋炎舞踏』と互角の戦いを繰り広げた男が、ついに他の闘技場へ打って出たぁぁぁっ!』
「……我はデロギア。ラグズの洞穴ヨり出でシ者也」
向かい合った竜人剣闘士デロギアは、姿勢を正すと両手に嵌めたナックルダスターを打ち合わせた。その姿勢に感じるものがあったモンドールは、姿勢を正して斧槍を掲げる。
「モンドールだ。アンタの噂を聞いて、ずっと戦える日を待っていたぜ」
竜人は口数が少ない。正確に言えば、あまり公用語を得意としていない。竜の特性を色濃く残しているため、舌の造りも特殊なのだ。竜に近いとされる王の血筋ほど、その特性は顕著になる。
――こりゃ、高貴な血筋かもしれねえな。
至近距離で相手を観察したモンドールは、そう結論付けた。よく見れば、肘から先はうっすら鱗のようなものに覆われている。それは手に向かうほど濃くなっており、竜の血の濃さを思わせた。
それに、武器としてナックルダスターを選んでいるのも気になる。いくら強靭な肉体を持つ竜人とはいえ、武器を持つ利点は余りある。だが、血の濃い竜人は総じて手先が不器用であるため、格闘術を選ぶことが多かった。
「そウか」
デロギアは言葉少なに答える。だが、その表情を見れば闘志を燃やしていることは分かった。あれは真摯に戦いに臨む者の目だ。
「ああ、楽しもうぜ」
そして、それが分かればモンドールに不満はない。彼は不敵に笑うと、戦闘態勢を取った。
『それではぁぁぁっ! 超新星の対決! 『帝都の獅子』モンドール 対 『剛竜』デロギア! 始めぇぇぇぇっ!』
合図と同時に両者が動く。格闘型であり、間合いの短いデロギアはもちろんのこと、モンドールも距離を詰めるように前へ進んだ。
最初に攻撃を仕掛けたのは、やはりリーチに優れるモンドールだった。斧槍を横一文字に薙ぎ払い、相手の出方を見る。彼はどちらかへ避けたデロギアを追撃するつもりだった。
『おおっとぉぉぉっ! デロギア選手、斧槍の攻撃を避けずに拳で受けたぁぁぁっ! なんという胆力だ!』
「へぇ……」
モンドールは楽しそうな笑顔を受かべると、再び間合いを詰めようとする竜人剣闘士に対して、突きを主体とする連撃を仕掛けた。牽制目的の薙ぎ払いとは比べ物にならない速さの刺突を、緩急を織り交ぜて繰り出す。
「――ッ!」
さすがにそのすべてを拳で打ち払うことはできないようで、デロギアは巨躯からは信じられない身軽さでもって回避し、かわしきれない刺突はナックルダスターで受け流す。
距離を詰めようとするデロギアと、今の間合いを維持しようとするモンドールの戦いは、早くも高速戦闘の域に達していた。
『これは凄いぃぃぃっ! リーチで劣りながらも、攻撃を弾き続けるデロギア選手! 手数において不利にもかかわらず、高速の取り回しで隙を見せないモンドール選手! 目まぐるしい高速戦闘が繰り広げられているぅぅぅっ!』
じりじりと前へ出るデロギアに対して、間合いを保ちたいモンドールは少しずつ後ろに下がる。真後ろに下がればいつか追い詰められるため、その角度を調整して、試合の間をぐるぐる回るように調整する。
「ちっ――」
だが、その意図はデロギアも分かっており、狙った通りに下がれるとは限らない。直接的な攻撃だけでなく、位置取りという激しい戦いをも二人は繰り広げていた。
そして、数十度目の斧槍を振るった時だった。デロギアが見せたわずかな隙をついて、モンドールは位置取りを変えようと動く。その瞬間、相手の後ろで何かが動いた。
「ぐっ――!」
とっさに反応して、斧槍を構えたモンドールだったが、その何かは斧槍を起点に折れ曲がり、彼の肩口に激突した。強烈な衝撃が視界を揺らし、吹き飛ばないまでも姿勢を大きく崩す。
それがデロギアの尻尾だったと気付いた時には、すでに距離を詰められていた。
「ッ!」
拳の間合いに入ったデロギアは、これまで防戦とはうって変わって、怒涛の勢いで連撃を仕掛けてくる。
『デロギア選手の反撃が始まったぁぁぁっ! 強靭な尻尾による攻撃で『帝国の獅子』の意表を突き、ついにその距離を縮めたぞぉぉぉっ!』
剛拳がモンドールの腕をかすめ、凶悪な蹴撃が膝を砕こうと迫る。救いは相手が巨躯の持ち主であるが故に、多少は間合いを確保できるということだが、斧槍を振り回すのに適切な距離とは言い難い。
斧槍と回避技術でなんとか直撃を避けているものの、このままではいずれ押し切られるだろう。
「……っ!」
想像以上の攻撃を、モンドールは紙一重で凌ぎ続ける。竜人デロギアが剣闘士ランキング七位『緋炎舞踏』と互角の戦いを演じたと聞いた時には、竜人ゆえの相性だと思っていた。
彼女はその二つ名通り、魔法剣を始めとする炎魔法の使い手でもあるが、デロギアは火竜の竜人だ。それ故、『緋炎舞踏』と相性がよかったと考えたからだ。
だが、それだけではなかった。『千変万化』が魔道具抜きでも強いように、『剣嵐』が衝撃波を使わずとも強いように、『緋炎舞踏』も純粋な白兵戦技能において、上位ランカーに相応しい実力を持っている。
それをして互角の戦いを繰り広げた意味を、モンドールは身をもって知った。
「ちっ……」
デロギアの一撃を斧槍で受け止めたモンドールは、わずかに顔を顰めた。少しではあるが、斧槍の柄が歪んだのだ。こうなった以上、斧槍の耐久力はここから削れていく。その前になんとかしなければならない。
「はっ!」
モンドールは相手の拳をかわしざまに、斧槍の石突を試合の間の石床に叩きつけた。破壊力を宿した石突が試合の間の床を砕き、大小様々な破片となって舞い上がる。
もちろん、それだけでは牽制として不十分だ。距離を取られることを警戒したのだろう。舞い上がる瓦礫をものともせず、デロギアがこちらへ足を踏み出す。
「そこだ!」
モンドールは振りかぶっていた斧槍を振り抜いた。相手に届かせる必要はない。斧槍は巻き上げられたやや大ぶりの石片の一つを打ち抜き、石片は弾丸となってデロギアを襲う。
「――ッ!?」
モンドールの奇襲は功を奏した。デロギアの頭部に石片が直撃し、今日の試合で初めて彼がのけ反った。そして、それを逃がすモンドールではない。
「おおおおッ!」
突き、払い、振り下ろす。再び斧槍の間合いに持ち込んだモンドールは、得物を縦横無尽に操ってデロギアにいくつも傷を負わせる。
だが、デロギアも負けてはいない。時に斧槍をかいくぐっては、強烈な一撃をモンドールに与える。二人の位置は目まぐるしく動き、両者の傷口が増えていった。
『な、なんという激しい戦いでしょうかぁぁぁっ! 異なる射程を持ちながらも、両者まったく譲らない! 傷を負えばさらなる傷を与え返す! 獅子と竜の戦いは、一体どちらに軍配が上がるのかぁぁぁっ!?』
相手の攻撃を弾き、自分の斧槍を叩き込む。集中すればするほどに、自分の意識がどこまでも澄み渡っていく。戦士の本能を剥き出しにして、モンドールは相手に襲い掛かる。
そして、それは対するデロギアも同じことだった。その気迫はまさに獣であり、拳を、脚を、尻尾を巧みに使い、モンドールの防御を抜いてダメージを与えてくる。もはや、両者ともに満身創痍だった。
――本能で戦うことが悪いとは思わん。だが、自分たちの戦いを客観視できる視点を持て。
モンドールは目の前の戦闘に集中しながらも、ふとそんな言葉を思い出す。『極光の騎士』の特訓を受けた時に言われた言葉だ。本能と客観視は相反するものではないかと尋ねるモンドールに、「その通りだ」と『極光の騎士』はあっさり頷いたものだ。
あの時はたしか、『極光の騎士』のフェイントに見事に引っ掛かって――。
「っ!」
斧槍と同程度の間合いを持つ尻尾の攻撃を避けようとして、モンドールはふと気付く。相手の重心が前に寄っている。本気で尻尾を振るったのであれば重心は中心、もしくは後ろ寄りになりそうなものだ。
そう知覚した瞬間、モンドールは斧槍を腰だめに構えた。そして、尻尾が当たる瞬間に全力で前へ突進する。
『出たぁぁぁっ! モンドール選手の大技、竜突撃だぁぁぁっ!』
槍から迸る赤い輝きと一体となって、ただまっすぐ突き進む。肩口をデロギアの尻尾が捉えるが、大したダメージではない。わずかにブレた軌道を修正するだけだ。
「うおおおおっ!」
赤光と化したモンドールは、咆哮を上げて竜人を貫いた。同時にデロギアの拳がモンドールの顔面を捉え、視界が真っ白に染まる。
「がっ……!」
ほぼ捨て身の攻撃だったため、モンドールは相手の拳の直撃を受けていた。足元も覚束ない状態の中で、手に握った斧槍の感触だけを頼りに立ち続ける。
「ゴブッ……!」
やがて、脇腹を貫かれたデロギアが吐血する。斧部分まで貫通したわけではないが、重傷であることは間違いなかった。救護室の扉が乱暴に開かれ、救護班員が駆け寄ってくる。
それとほぼ同時に、脇腹を貫かれたデロギアが膝をついた。
「見事ダ……」
口元を自らの血液で染めたまま、デロギアはぼそりと呟く。それは賞賛の言葉だったが、モンドールは素直に受け取ることができなかった。彼が全力を出したとは思えない。そう考える理由があったからだ。
「……なぜ魔法を使わなかった? お前さんほど血の濃い竜人なら、炎魔法はお手の物だろう」
それどころか、竜人の秘奥である『竜化』すらできたかもしれない。そんな思いが、モンドールに渋い顔をさせていた。
「こノ拳、我ガ誇り。闘技場、炎、不要」
対して、膝をついたデロギアは静かに答えた。その瞳はまっすぐモンドールを見据えている。やがて、モンドールはゆっくりと頷いた。
「それがお前さんの矜持なら、何も文句はねぇ」
そう告げると、モンドールは刺さったままの斧槍を引き抜いた。準備していた救護班がただちに処置を行い、同時に治癒魔法を行使する。その連携は見事の一言だった。
「さて――」
その様子をいつまでも眺めているわけにはいかない。モンドールは斧槍を肩に担ぐと、試合の間の中央に向かって歩き出す。
『上位ランカー入りを賭けた戦いと目された組み合わせ、『帝国の獅子』モンドール・ザン・ルエイン 対 『剛竜』デロギア・ラグス!』
やがて試合の間の中央に立ったモンドールは、自分を見つめる無数の観客を楽しそうに見返すと、斧槍を天高く掲げるのだった。
『勝者は……モンドール・ザン・ルエイン! 『帝国の獅子』の勝利だぁぁぁっ!』