魔導子爵Ⅸ
「う……」
フレスヴェルト子爵が意識を取り戻したのは、死霊が消滅してすぐのことだった。刺さっていた魔道具を破壊したことが、彼の覚醒を促す刺激になったのかもしれない。
「おお、気が付かれましたか」
最初に声をかけたのは、護衛を務める剣士だった。子爵はぼんやりと彼の顔を見ていたが、はっとした様子で身を起こす。
「ぐ……!」
顔を顰めたのは、刺された背中の痛みのせいだろう。応急処置はしたが、治癒魔法は使っていない。それは嫌がらせではなく、子爵に現実を見てもらうためだった。
「私はたしか、レティシャと戦って……」
どうやら、覚えているのはそこまでのようだった。そして、彼の視線は縛られているダルスへ向けられる。
「私の従者に何をしている!」
子爵は声を荒げるが、そこで気付いたようだった。もう一人の従者である護衛の剣士は縛られていない。もしダルスが不当な扱いを受けているなら、彼が抗議しそうなものだ。
「――これを」
そこへ、今度はレティシャが進み出た。そして、真っ二つに断たれた小刀状の魔道具を見せる。その瞬間、子爵の顔色がさっと変わった。
「これは、フレスヴェルト家に伝わる禁忌の……なぜこんなものが……?」
やがて、子爵ははっとしたようにダルスを見た。自分の家に伝わる魔道具。そして、縛られた従者。
「この背中の痛みと、魔力の枯渇は……まさか……」
「子爵に魔道具を刺したのは、そこのダルスだ」
「っ……!」
俺が真実を告げると、子爵は目を見開いたまま固まった。信じられないという思いと、数々の証拠から示される推論。その狭間で混乱しているようだった。
「残念ですが、ダルス殿が背中を刺したことは事実です」
そこへ、護衛の剣士までもがダルスの背信を証言する。もはや流れは明らかだった。
「だが……なぜダルスが私を殺す必要があるのだ」
子爵は呻くような声で、誰にともなく問いかけた。信頼していた腹心に裏切られて、大きなショックを受けているのだろう。
「それは本人に聞くのが一番じゃないかしら」
子爵とは対照的に、レティシャははっきりした声で告げる。彼女は縛り上げられたダルスの前に立つと、冷たい声で問いかけた。
「なぜフレスヴェルト子爵を狙ったの? ……それとも、どうして私を狙ったの?と聞いたほうがよかったかしら」
ダルスは答えない。レティシャも狙われたと知って、後ろで子爵が憤慨しているが、とりあえず放っておこう。
そんなことを考えている間にも、レティシャの言葉は続く。
「あなた、フレスヴェルト家の正妻か誰かの回し者でしょう?」
その言葉に、ダルスの眉がピクリと動いた。
「な……っ!?」
同時に子爵から驚きの声が上がる。やはり気付いていなかったのか。
「私が死んで得をするのは誰か。……いえ、逆ね。私が生きていて困るのは誰か。そう考えれば、話は簡単だわ。フレスヴェルト子爵家の跡目を継げると考えている誰か、もしくはその母親」
「……」
ダルスはなおも答えない。だが、その目には警戒の色が灯っていた。
「あの魔道具が、フレスヴェルト家に伝わっているものだとは知らなかったけれど……こうなっては、身内に敵がいると公言するようなものね」
「だが……なぜ私を狙う必要があるのだ」
子爵が問答に割って入る。そんな子爵を、レティシャは少し気の毒そうな目で見た。
「同じことでしょう? 今、フレスヴェルト子爵が亡くなれば、子爵家の跡継ぎに私の名前が挙がることはあり得ませんもの。順当に継承争いをするだけです」
「何を馬鹿な……彼女たちが、そんなことをするはずが……」
子爵は必死に否定しようとするが、その顔には覇気がなかった。なんとか否定材料を探そうとしている。そんな顔だ。
「……」
そんな子爵を見ていたレティシャは、彼のほうへ一歩踏み出した。色々と思うところがあるのだろう。その目には苛烈な光が浮かんでいた。
「そんなことをするはずがない、ですって? 自分の子供の爵位継承を脅かすかもしれない。それだけの理由で、劇団ごと婚外子を殺害するよう手配した女よ?」
「な――!?」
レティシャの言葉に子爵が目を白黒させる。驚きすぎて声も出ない様子だった。
しかし……やっぱり知らなかったのか。子爵としては、正妻たちといい関係を築いており、レティシャやその母親を子爵家に迎え入れても、仲良くやっていけると思っていたのかもしれない。
だからこそ、レティシャは子爵家に帰ってくるものだと、盲目的に信じていたのだ。そう考えると、さすがに哀れな気もする。
「……失礼いたしました。今のは妄想の産物ですわ。フレスヴェルト子爵のお話を伺っていたら、そんな気がしたものですから」
レティシャは澄ました顔で取り繕う。さすがに無理があると思うが、子爵もそこを追及する精神状態ではない。最低限の言い訳さえしておけばいいだろう。
「そんな馬鹿なこと……が……」
そして、元々レティシャを娘だと信じている子爵は、その告発で正妻たちを疑う気になったらしい。彼は重要な証拠品でもある、壊れた魔道具を見つめながら呻く。
「では……私がしたことは……」
その顔は悔悟の感情に染まっており、涙をこらえるかのように天井を見上げている。
そうして、どれほど経っただろうか。ようやく正面を向いたフレスヴェルト子爵の顔には、弱々しい苦笑が浮かんでいた。
「私は国へ帰る。この件を問い質さねばならないからね」
そう告げると、彼は名残惜しそうにレティシャへ視線を向ける。
「共に帰国したかったが……あれが事実であれば、拒否されるのも無理からぬことだ。私がしっかりしていれば、そんなことにはならなかった」
「……」
レティシャは答えない。ただ静かな表情で子爵の言葉を聞いていた。
「魔法対決でレティシャに敗れ、『極光の騎士』に命を救われた身だ。もはや、これ以上の無様はできぬ」
そして、子爵は無言でレティシャを見つめる。娘の姿を記憶に焼き付けようとしている。そんな気がした。
「さて、そろそろお開きの時間だな」
そう告げると、子爵は立ち上がった。俺たちを城門まで見送るのだと言う。子爵の先導に従って、俺たちは皇城の中庭を歩く。
「君たちを送る道すがら、一つ雑談をしたいのだが」
その言葉に、俺はレティシャと顔を見合わせた。この期に及んで企みがあるとは思えないが……。
「私がレティシャを無理にでも連れ帰ろうとした理由の一つは、この国があまりに危険だからだ」
「危険……?」
それは予想外の話だった。人気のない中庭とはいえ、他国の城内でする話ではない。それでも子爵の不穏な言葉は続く。
「できれば、この街を離れてほしい。喧騒病はほんの一端にすぎない」
「あなたは……何を知っているの?」
レティシャの問いかけを受けて、子爵は静かに首を横に振った。
「立場上、これ以上は言えないが……魔導子爵家には様々な情報が蓄積されている。この国の成り立ちや、建国前のことについてもね」
そして、フレスヴェルト子爵は真剣な目で俺たちを見つめた。
「だから、もし二人が望むなら、フレスヴェルト家はいつでも門戸を開いて――」
言いかけて、彼は苦笑とともに頭を振る。
「駄目だな、どうしても未練がましくなってしまう。……ただ、これだけは覚えていてくれ。この国にいられなくなった時は、頼る先があるということを」
不穏な発言ではあるが、連れ帰るための方便だとも思えない。真意を測りかねながらも、俺たちは黙って目礼を返した。
「……着いたな」
ちょうどその頃合いで、俺たちは城門へ差し掛かった。子爵自ら門を守る衛兵に話を通し、俺たちはそろって城門の外側へ出る。衛兵に聞かれないためだろうか。少し歩いたところで、ようやく彼は立ち止まった。
「結果としてみれば、二人には迷惑をかけただけだったね。……本当にすまなかった」
「いえ……」
「私を負かすとは、素晴らしい魔術師に成長したものだ。娘の成長に祝杯を挙げたいところだが……フレスヴェルト家には、共に喜んでくれる者もいるまい」
そう自嘲する子爵に、俺たちは何も言えなかった。そして、どこか気まずい沈黙が訪れる。
そんな中で、フレスヴェルト子爵はぽつりと口を開いた。
「ナターシャは……後悔していたのだろうか」
それは独り言だったのかもしれない。何を、とは言わなかったが、それが子爵と情を交わし、子をもうけたことを指しているのは間違いなかった。
「何度も申し上げたように、私はその方を存じません」
対して、レティシャは淡々と建前を口にする。その顔は無表情に近い。だが……少しだけ、その顔に懐かしさのようなものが浮かんだ。
「でも……母に恨み言を聞かされた記憶はないわ。父が楽屋に来るときは、本当に楽しそうだった」
あくまで私の話ですけれど、とレティシャは念押しする。答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。子爵は驚いた様子でレティシャを見つめた。
「そうか……」
かすれた声が俺たちの耳に届く。娘の言葉を刻みつけるように目を閉じていた子爵は、やがて穏やかな表情で目を開けた。
「今日はありがとう、レティシャ。そして『極光の騎士』。もう会うことはないかもしれないが……君たちの幸せを祈っているよ」
「ええ、ありがとう」
最後に敬語を使わなかったのは、彼女の気遣いだったのだろうか。そんなことを考えていると、レティシャが俺の腕をとった。その表情は、いつものレティシャのものだ。
「……さ、行きましょう?」
「ああ」
そして、俺たちは城門を後にする。おそらく、後ろではフレスヴェルト子爵がレティシャの姿を見送っているのだろう。姿が見えなくなるまで、ずっと。
◆◆◆
「ごめんなさいね。お礼をしたいなんて言っておきながら、力尽きるなんて」
「俺も鎧を脱ぎたかったから、ちょうどよかった。店の中じゃ兜を外せないからな」
魔法の実験施設や薬草園を含むため、それなりの広さを誇る『紅の歌姫』の邸宅。そのリビングには酒肴が並べられていた。
いつもなら、彼女のお気に入りの店に足を運んでいるところだが、さすがにレティシャの消耗は大きかったらしい。いったん家まで送ったところ、へたりこんでしまったのだ。
ゆっくり休めばいいと思うのだが、彼女の過去にまつわる諸々もあって心が休まらないのだろう。「お酒に付き合ってくれるまで帰さない」というレティシャの気持ちも分かった。
「ミレウス、今日は本当にありがとう。あなたがいなければ、あの魔道具に憑り殺されていたわ」
「お互い様だ。これまでに、俺が何度レティシャに助けられたことか。少しは借りを返せたか?」
俺は小ぶりのクラッカーを口に入れた。レティシャと違って、俺は人並み程度にしか酒が飲めないからな。先に食べ物を胃に入れておかないと、酔いつぶれてしまう。
「ふふ、どうかしら」
「その様子だと、まだまだ負債が残っていそうだな」
機嫌よく笑うレティシャに言葉を返すと、彼女はなぜか首を横に振った。
「貸しと借りを相殺する必要なんてないわ。貸しも借りも、そのまま積み上げていけばいいのよ。相殺してゼロになるなんて味気ないじゃない」
「絡まって身動きが取れなくなりそうだな」
「私は構わないわよ?」
レティシャは意味ありげに微笑んで酒杯を呷る。そして、覗き込むように俺を見つめた。
「あなたが相手なら、ね」
それはいつも通りのやり取りだが、どこか雰囲気が違っていた。落ち着かない俺は、少し話題を変える。
「まあ、今回は俺にも収穫があったからな。貸しを返した、と言い切るのも図々しいな」
「魔力のこと?」
「ああ。もともとは、亜空間を斬るために精神集中していたんだが……まさか、それが魔力の動きに繋がるとは思わなかった」
そして、俺は一連の流れをレティシャに説明した。彼女は驚いた後で、クスリとおかしそうに笑う。
「剣を極めるために魔力を目覚めさせたなんて、ミレウスらしいわねぇ。お義母さんも驚くでしょうね」
「これなら、筋力強化を自分で使えるようになるか?」
「そうねぇ……」
しばらく考え込んでいたレティシャは、酒杯を持ったままテーブルを回り込み、俺の隣へ腰を下ろした。至近距離で俺を観察するつもりなのだろう。
「魔力って、そんなに至近距離で見ないと分からないものなのか?」
「まさか。観察を口実にして近付いただけよ」
冗談か本気か分からない言葉を返すと、彼女は満足そうに頷いた。
「たしかに魔力が動いているわ。これなら魔術の訓練だってできそうよ」
「本当か!?」
思わず腰を浮かせる。何度も諦めていた魔法戦士の道が、今度こそ開けるかもしれない。あまり期待しすぎないように意識するが、高揚はなかなか抑えられなかった。
「と言っても、今すぐは無理よ? ミレウスは魔術師のスタートラインに立ったわけだけれど、難しいのはこれからだもの」
レティシャが言いたいことは分かった。俺は魔力が動かない状態というマイナスをゼロにしただけで、何も始まってはいない。
「ミレウスの才能によるけれど、目標は筋力強化でしょう? そう難しい魔法じゃないから、早ければ一、二年……」
そう言いかけて、レティシャは口をつぐんだ。そして、申し訳なさそうに俺を見る。
「忘れていたわ。人間種の魔法ならそのくらいだけれど、エルフの魔法が同じだとは限らないわね」
「そうだったな……アリーシャと連絡が取れるまで、魔法はお預けだな」
エルフ魔法の使い手で、実の母でもあるハーフエルフ。シルヴィのこともあるし、そのうち帝都に来ると言っていたが、いつ頃になるのだろう。そう思いを巡らせていると、レティシャが悪戯っぽい表情を覗かせる。
「あら、その必要はないわよ」
「え?」
俺は首を傾げた。その口ぶりだと、帝都にエルフの魔術師がいるように思える。そう訝しんでいると、彼女は自分の胸に手を当てた。
「私がいるもの。アリーシャさんからエルフの魔法は習ったわ。自分では実践できないけれど、理屈は分かったし魔力も見えるから、教えることはできると思うわ」
「そうなのか!?」
思わぬ朗報に、再び腰を浮かせそうになる。だが、同時に疑問も浮かんだ。
「エルフの魔法に興味があるとは言っていたが……まさかそこまで習得していたとは驚きだな」
数カ月にわたってフォルヘイムに滞在していたとはいえ、そう簡単に理解できるものではないだろう。そう伝えると、レティシャは意味ありげに微笑んだ。
「詳しくは、お義母さまが訪ねてきた時にでも話すわ」
「いつになるか分からないけどな」
そして、魔術の訓練をいつから始めるか、簡単な予定のすり合わせをする。ヴィンフリーデが復帰した以上、今までのような殺人的な業務量ではなくなるはずだし、ちょうどいいだろう。
そんな話をまとめると、俺たちは同時にグラスを傾けた。いつの間にか、酒肴として用意された品々もなくなりかけている。そんなテーブルを、そしてリビング全体を見回すと、レティシャはほぅ、と息を吐いた。
「……ここを引き払うことにならなくて、本当によかったわ」
「そうだな。危うく古代鎧を着込んで、キャストル王国までの追跡劇をするところだったからな」
「あら、本当にそのつもりだったの?」
その言葉に、レティシャは本気で驚いた様子だった。
「可能性として考えてはいたさ」
「下手をしたら、『極光の騎士』として帝国にいられなくなっちゃうわよ? 試合の間に上がれなくなるじゃない」
「それはそうだが、連れていかれるレティシャをただ見送る、なんてことはしたくないからな」
最悪の場合、その後は『極光の騎士』抜きで第二十八闘技場を盛り立てることになったかもしれない。それでも、彼女を見捨てることができるとは思えなかった。
「……ふふっ」
すると、レティシャから笑い声がもれた。彼女は嬉しそうに酒を注ぎ直す。
「どうした?」
「なんでもないわ。……それより、ミレウスにちゃんとお礼をしなきゃね。何がいいかしら」
「気を遣わなくてもいいぞ。貸しも借りも積み上げておくんだろう?」
「『積み上げる』と『放置する』は違うもの」
彼女はゆっくり首を横に振った。俺としては、別に貸しを作ったつもりもないのだが……。
「ほら、フォルヘイムでの祝賀会でレティシャが言ってただろ? 『釣り合いなんて考える必要はない。後になって後悔しないように力を尽くしただけ』だって。それと同じさ」
「それは……そうだけど」
「これからもレティシャの顔が見られる。それで充分だ」
そう言い切ると、俺はレティシャが注いでくれた酒類に口を付けた。果実のリキュールがベースだったようで、甘い香りが鼻を抜けていく。と――。
「……もう」
レティシャの雰囲気が少し変わった。コトリ、と酒杯をテーブルに置いた彼女は、俺と密着するように座り直す。わずかに預けられた体重と体温、そして香水の香りがレティシャという存在を伝えてくる。
「そういうのを口説き文句って言うのよ」
そして、上目遣いで俺を見つめる。普段からそんな態度で俺をからかうレティシャだが、今の彼女の艶めかしさは、これまでの比ではなかった。
「そういう意図があったわけじゃないが……」
なんとか言葉を絞り出す。すると、レティシャは蠱惑的な笑みをいっそう深めた。
「じゃあ、さっきの言葉は嘘だったの? だとしたらショックねぇ」
「嘘じゃないが……レティシャ、ひょっとして酔ってるか?」
いつもと違う雰囲気を感じて、俺はテーブルの上に視線を向けた。空になった酒瓶はそれなりの数に上る。
「これくらいで酔ったりしないわよ」
「そうか? いつものからかい方と、雰囲気が違うと思ってさ」
そう答えると、レティシャの表情が少し変わった。艶やかな笑みはそのままに、瞳はまっすぐこちらを見つめている。
「それはそうよ。だって私は……」
レティシャの両手が俺の左手を包み込む。
「からかってなんかいないもの。――ほら」
彼女は俺の左手を、自分の胸元へと導いた。俺の掌が彼女の豊かな胸を押し潰して、その形を歪ませる。
「!?」
予想外の動作に思考が停止する。レティシャは胸元の開いた服を着ているため、肌の感触が直接伝わってくる。
「私の鼓動、凄い速さでしょう? ……本気だもの」
そう言われて手先に意識を向けるが、俺自身の鼓動もまた早鐘を打つような激しさで、相手のかすかな鼓動を捉えるどころではなかった。
ただ、今のレティシャはからかいではなく、本心を口にしているということだけは分かる。いつも彼女を彩っている艶やかさは鳴りを潜め、不安と緊張を押し隠そうとする真剣な顔が視界を埋める。
今までのように、からかい文句だと流すことはできなかった。
「――ふふ、よかった」
と、レティシャの表情がわずかに緩んだ。
「これで平然とされていたら、さすがにショックを受けるところだったわ」
彼女に妖艶な雰囲気が戻ってくる。少しだけ余裕ができたのだろう。だが、肝心の俺自身は思考停止したままだった。
「ミレウスが、闘技場を一番大切にしていることは分かっているわ。だから、せめて闘技場ランキングで一位を取るまでは、黙っていようと思ったのに……」
すらりとした腕を伸ばし、レティシャは俺の頬に触れる。
「ミレウスがあんなことを言うから……うっかり本気になっちゃったじゃない」
「レティシャ……」
俺は、ようやくその言葉だけを絞り出す。だが、レティシャは静かに首を横に振った。
「第二十八闘技場が一位になるまで、待っているから。それから、ゆっくり考えてくれたらいいわ」
そう告げると、レティシャは置いていたグラスを手に取った。むせかえるような色気が収まり、いつも通りの艶やかさだけが残る。
「それまでこの話は忘れてちょうだい。都合のいい女になるつもりはないけれど……惚れた弱みね」
「……ああ。ありがとう、レティシャ」
すっかり元に戻った様子のレティシャに面食らいながらも、何とか返事をする。そして、俺もまたグラスに手を伸ばす。だが――。
「ミレウス、どうしたの?」
「いや……なんでもない」
長い髪から覗く彼女の耳は、ずっと赤く染まったままだった。