魔導子爵Ⅲ
月も出ていない夜の道を、地面に刻まれた旅人の灯火の灯りを頼りに歩く。ヴィンフリーデがいなくなってからというもの、家へ帰る時間は遅くなる一方だった。
「すっかり夜だな……」
ヴィンフリーデが倒れるまでは、シルヴィと一緒に闘技場から帰ることも多かったのだが、いつ帰ることができるか分からないため、最近は一人で帰ってもらっている。
シルヴィは俺がいなくてもちゃんと食事や睡眠を取ることができるが……話好きの妹が、俺の帰りを楽しみにしていることは知っている。なんとかして、もう少し早く帰る算段をつけたいところだ。
と、そんなことを考えていた時だった。表に出さないよう注意を払いながら、俺は周囲の気配を探る。
――後ろに一人。
どうやら、俺にも尾行がついているようだった。目的がなんであれ、シルヴィがいる家にまで付いてこられたくはない。そう判断すると、俺は少しルートを変えた。人気のない裏道を使い、乱雑に民家が立ち並ぶ一画へ足を進める。ここは死角だらけのため、尾行者には嫌な場所だ。
そうして首尾よく尾行者を撒いた俺は、とある建物から顔を出した。予想通り、そこには尾行者らしき人影の背中が見えた。と――。
「っ!」
尾行者がこちらを振り向く。なかなか鋭いな。姿を確認するだけのつもりだったのだが、そうもいかなくなったようだ。
「第二十八闘技場の支配人だな?」
「人違いです」
「そんなはずがあるか!」
言いながら、ずかずかと距離を詰めてくる。その袖口からスッと短剣が下りてきて、彼の右手に収まるのが見えた。平和的な交渉は望むべくもないようだった。
「……まあいい。一緒に来てもらおうか」
「遠慮します。仕事が忙しいものですから。ここでなら、ご用件をお伺いしても構いませんが」
答えながら、腰の剣を抜く。気配操作という点ではかなり優秀な尾行者だが、その身体つきからして、筋力はさほどではないはずだ。一目散に逃げる程ではない。
「お前に選択肢はない」
抜剣を見ても、相手に動揺した様子は見られなかった。自分に自信があるのだろう。
「――!」
全身のバネを使って、尾行者が飛び掛かってくる。短剣を握った右腕を大きく振りかぶった相手に対して、俺は剣で右の短剣を弾いた……のではなく、相手の左手を斬りつけた。
「ちっ――!?」
剣先は男の左手をかすめただけだったが、その手から何かが落ちる。それは小さな布に見えたが……こんな状況だ。痺れ薬や毒薬の類が染み込んでいると見て間違いないだろう。
「貴様……なぜ」
「通常の剣ならともかく、短剣を大きく振りかぶる意味はない。陽動だと言っているようなものだろう」
「……」
男はおし黙ると、ひらりと身を翻して逃げ出した。俺は咄嗟に彼を追いかけて――。
「……?」
俺は状況を訝しんだ。角を曲がろうとしていた尾行者が、直立不動で立ちすくんだからだ。その視線からすると、角の向こうに誰かいるようだが……。
「ふむ……? 君は第二十八闘技場の支配人だったね」
そんな声とともに、角の向こうから人影が現れる。その燃えるような赤髪には見覚えがあった。
「フレスヴェルト子爵……?」
思わず驚きの声を上げる。大通りからあまり離れていないとはいえ、ここは他国の貴族が現れるような場所ではない。
「お館様!? ど、どうしてこのような所に……」
そして、驚いたのは俺だけではないようだった。子爵の登場は、尾行者にとっても予想外だったらしい。だが、これで子爵の従者だということが確定したな。
「この辺りに、興味深い症例の喧騒病患者がいたのだよ」
なるほど、仕事帰りというわけか。意外としっかり調査を進めているようだった。
「ですが、供回りもつけず……」
「私を誰だと思っているのだね? 不届き者が一人や二人いたところで、私に傷など付けられないさ」
子爵は魔術師としての自負を覗かせると、少し悪戯っぽく笑った。
「そもそも、私がここへ来たのは、広域知覚でお前の姿を見つけたからだ。周囲を軽く警戒しておこうと思ってな」
その言葉に俺は驚く。俺も『極光の騎士』として広域知覚を使ったことがあるが、あれはかなり高度な魔法だったはずだ。さすがは魔導子爵といったところか。
「左様でございましたか」
そんな俺の感想をよそに、主従二人の会話は続く。
「それで、ダルスは何をしていたのかね?」
「そ、それは……」
「ミレウス支配人を襲っているように見えたが」
俺を襲ってきた男の名前はダルスというようだった。俺を襲ってきた時とはうって変わって、焦った様子で説明する。
「申し訳ありません。お館様がお嬢様と面会できる手筈を整えさせようと……」
「そんなところだと思ったよ。だが、暴力はいけない。まして、ここは他国で、彼は他国の国民だ。ダルスの心遣いは嬉しいが、こういうものは誠意をもって当たらねばならない」
部下を諭すと、フレスヴェルト子爵は俺のほうを振り向いた。
「ミレウス支配人、迷惑をかけてすまなかったね」
そして、彼は帝都の中心を指差す。
「迷惑ついでに、というわけではないが……少し皇城で話でもいかがかな?」
◆◆◆
皇城の敷地内にある豪奢な別棟。それが、使節団のトップであるフレスヴェルト子爵に用意された住居だった。
本来なら、敵の巣窟のような場所に踏み込みたくはなかったのだが、子爵は貴族であり、かつ魔法に優れている。第二十八闘技場の支配人という社会的立場もあいまって、逃走という手段は悪手だと思われた。
「さっきは本当に悪かったね」
軽い口調で告げると、子爵はティーカップに口を付けた。さすが貴族と言うべきか、その姿は実に様になっている。
「いえ……」
「フレスヴェルト家の従者は優秀なのだが、忠誠心が篤すぎるきらいがあってね。いささか暴走してしまったようだ」
「……申し訳ありませんでした」
俺を襲ってきた従者、ダルスは丁重に頭を下げる。彼以外にも子爵の従者はいるはずだが、反省させるために、とわざわざ子爵の後ろに立たされていた。四十歳半ばだろうか。後ろ暗いことをしていた彼だが、灯りの下で見ると意外と普通の人物に見えた。
「謝罪ならすでに頂いています。重ねて謝ってくださらなくても結構です」
「そうか。ミレウス支配人の広い心に感謝を」
そう答えると、子爵はソファーから身を乗り出した。
「ところで、ミレウス支配人も察していると思うが……君をここへ招いたのは、我が娘レティシャのことで頼みがあるからだよ」
「頼み、ですか?」
やはり来たか。俺は表情筋をフル稼働させて、なんのことか分からない、という顔を作り上げる。
「レティシャから、自分は魔術師ギルドの構成員が本分であり、闘技場は二の次に過ぎない。面会依頼は闘技場ではなく、魔術師ギルドを経由してほしいと伝言を受けていたのだが……」
「そうですね。彼女はギルドの上級魔導師ですから」
俺は話を合わせることにした。実際には、レティシャは用事がなければ魔術師ギルドに顔を出さないはずだが、わざわざ彼女の気配りを台無しにする必要はない。
「だが、確認したところでは、レティシャはかなりの高頻度で試合に出ているのだろう?」
「はい。彼女は第二十八闘技場でもトップクラスの人気を誇っていますから」
素直に認める。『紅の歌姫』の情報を本気で集めれば、それくらいはすぐに分かることだ。
「ふむ……それは喜ばしいことだね。さすがは私とナターシャの娘だ」
子爵は満足そうに目を細めると、再び紅茶を啜った。
「ナターシャ……レティシャの母親は有名な舞台女優でね。その存在感と圧倒的な演技力、そして抜きん出た美貌。誰もが認めるトップ女優だった。あまり大きくない劇団だったが、思い入れがあったようで、移籍はしたがらなくてね。私もそれなりの金額を彼女の劇団に出資したものだ」
「そうでしたか……」
そのエピソードはレティシャが語った出自と一致していたが、そんなことを気取られるわけにはいかない。俺にできることは、実子だというフレスヴェルト子爵と、別人だと主張する『紅の歌姫』の間に挟まって、困惑している支配人を演じることだ。
「そんな彼女と私の間に子供ができた。立場もあり、たまに楽屋で面会することしかできなかったが、レティシャは母親に似て美しく、そして賢く育っていった。六、七歳の頃には端役として舞台に上がっていたよ」
「それはまた……利発なお子さんだったんですね」
相槌を打つが、子爵にどの程度気付かれていたかは怪しい。滔々と語る子爵は、もはや自分の世界に入っているように見えた。
「そんな時だ。私はナターシャから不思議な話を聞いた。あの子がお気に入りの歌を口ずさむと、周りの劇団員の身体が軽くなるというものでね。最初は半信半疑だったが……実際に現場を見て驚いた。まだ幼いレティシャが、誰に教わることもなく呪歌を発動させていたのだよ」
レティシャの実力なら納得もできるが、もはや神童の類だな。彼女が魔術と呪歌を組み合わせているのには、元から呪歌との相性がよかったから、という理由もあるのだろう。
「呪歌もまた魔術の一種。その話を聞いた時、私は考えた。レティシャは一流の魔術師になることができる、フレスヴェルト子爵家に相応しい人材だと。だが……」
そこで、子爵は苦い表情を浮かべた。
「あくまでレティシャは婚外子だ。私はナターシャを側室に迎えて、正式なフレスヴェルト家の人間にしようと考えたのだが……その時悲劇が起きた。彼女たちが所属していた劇団を、盗賊団が襲ったのだ」
「……」
「私は報せを聞いて駆けつけたが……ナターシャは無残な姿で発見された。他の劇団員たちもな。レティシャの遺体はなかったが……焼け焦げて原型が分からない遺体がいくつかあってね。それのどれかだろうと考えられていたよ」
こうして生きていたということは、盗賊団に連れ去られていたのだな。そう付け加えると、子爵は悔恨の表情を浮かべた。
「私がもっと早く保護していれば、二人はあんな目に遭わずに済んだのだよ」
そう告げる子爵から嘘は感じられなかった。本当にそう思っているのだろう。だが、レティシャの話が正しければ、盗賊団の黒幕は正妻たちだったはずだ。子爵が早めに動いたとしても、それを受けて正妻たちが早めに手を打つだけだ。
そして、ちらりと従者のダルスに視線を向ける。主人とは違って、彼は無表情を保ったまま、フレスヴェルト子爵を眺めるばかりだった。
「さぞかしお辛いことでしょう」
そんな分析は表に出さず、話を合わせる。見当違いの苦悩だとも言えるが、子爵が本気で悔いていることは分かる。それを馬鹿にするつもりはなかった。
「だから、今度こそ私が娘を守ってみせよう。私に迷惑をかけたくないと思っているのだろう、今は遠慮して別人だと言い張っているが……」
どうやら、レティシャが別人である可能性は微塵も考えていないようだった。一体どうやって諦めさせればいいのだろう。
そう悩んでいると、宙を彷徨っていた子爵の視線が俺へ向けられた。
「そんなわけでね。娘の気持ちを尊重して、今は魔術師ギルドを通じて連絡を取っているが……」
つまり、レティシャと面会できなければ、そのうち第二十八闘技場にも圧力をかけてくるということだ。
「君からも、それとなく働きかけてほしいのだよ。私の思いは分かってもらえたと思う。何も遠慮することはないのだ、とね」
「承りました」
内心を押し隠して神妙な顔で答える。それを受けて、子爵は満足そうに頷いた。
「今日は突然招いてすまなかったね。皇城の正門まで、ダルスに送らせよう」
「お気遣いありがとうございます」
面会の終了宣言を受けて俺は立ち上がった。そんな俺を先導するように、従者のダルスが扉を開く。
「また、試合を観に行かせてもらうよ。できれば、娘が出ている試合をね」
そんな声に軽く頭を下げると、俺は子爵のいる部屋を出たのだった。
◆◆◆
ダルスに先導されて、俺はすっかり夜になった皇城の庭を歩いていた。さすがは皇城というべきか、等間隔で灯りが点いているため、暗くて不便ということはない。
「……ここまでだ」
正門へ辿り着いたダルスは、ぶっきらぼうに告げて踵を返した。主人に命じられたとはいえ、先刻には刃を向け合った仲だ。その態度は当然と言えば当然だが……。
「……ダルスさん」
その背中に呼びかける。すると、ダルスが訝しげにこちらを振り向いた。
「なんだ。さっきの件を謝罪しろとでもいうのか?」
敵意を隠そうともせず、彼は俺を睨みつける。だが、俺は涼しい顔で首を横に振った。
「まったく違います。……ダルスさん、あなたの主人は誰ですか?」
「なに?」
ダルスの眉根に皺が寄るが、俺は構わず話し続ける。
「フレスヴェルト子爵に遭遇した時、あなたは明らかに焦っていました。子爵の意向に沿って、令嬢の面会をセッティングしようとしていたのであれば、あれほどに焦る必要はない」
子爵の口ぶりからすると、自国でも同じようなことをしていたみたいだからな。
「ここは他国だ。外交問題になっては主に迷惑がかかる」
「その程度のことで、あれほどに焦りますか? あなたほどの手練れにしては不自然だ」
「……何が言いたい」
「あなたは子爵とは異なる目的……いえ、相反する目的で動いていたのではありませんか?」
「……!」
無言のまま、ダルスの雰囲気が鋭いものに変わる。それ以上口を開こうとしない彼だったが、その反応自体が答えだった。
今にも飛び掛かってきそうな、緊迫した空気が流れる。万が一に備えて腰の剣に手を掛けながらも、俺は言葉を続けた。
「ダルスさん、手を組みませんか」
その言葉は完全に予想外だったようで、ダルスはポカンとした表情を見せた。
「何を……」
「私は闘技場の支配人です。そして、『紅の歌姫』は第二十八闘技場の看板剣闘士。もし彼女が引退するようなことがあれば、大幅な減益となるでしょう。それでは困るのです」
少し困惑した様子のダルスに内情の一部を明かす。もちろん、これはリスクを伴う行為だ。ダルスがこのことを子爵に報告すれば、俺への心証は最悪になるだろう。だが、敵対関係にあるダルスから信用と情報を得ようとするなら、リスクを負ってみせること自体が必要だと思われた。
「令嬢を連れて帰られては商売上がったりだと、そういうことか」
その甲斐はあったようで、ダルスの表情から怪訝な色が薄れていく。
「もちろん、殺されても困るわけですが」
読み通りに、ダルスが正妻たちの息のかかった人物であるなら、その目的はレティシャの排除のはずだ。殺害がベストだろうが、彼女が手強いことは、試合を観たダルスなら分かっているはずだ。
「貴様……どこまで知っている」
「私が知っていることは、『紅の歌姫』は自分の出自にまったく未練がないということです」
言質を取られないように、気を付けながら答える。俺がレティシャを連れ帰られたくないことは露見しても仕方ないが、彼女が本当に子爵の娘であることだけは、口に出すわけにはいかなかった。
「子爵位に興味がないだと……? そんなことがあるものか」
「人の価値観は様々ですからね。彼女は魔法研究ができれば、それ以外のことはあまり気にしませんよ」
「……」
ダルスはしばらく黙り込んだ後、視線で正門の外側を示した。そして、小さな声でぼそっと告げた。
「少し待っていろ。場所を変える」