病Ⅲ
第二十八闘技場の支配人室は、珍しい来客を迎えていた。ソラン男爵という外務系の帝国貴族だ。真剣な面持ちで当日のスケジュールを説明し終えると、彼は広げていたスケジュール表をくるくると巻き取る。
「他国の賓客である故、くれぐれも粗相のないようお願いする」
「かしこまりました。帝国の威信に泥を塗ることのないよう努めます」
同じく真面目な顔で答えると、彼は満足そうに微笑んだ。
「まあ、この闘技場は以前に陛下をお迎えした実績があるからな。そこまで心配はしておらぬ。それに、観戦を希望しているリディス男爵は温厚な人物だと聞く」
「そうですね。人数もあの時ほどではありませんし」
俺は素直に同意する。最初は使節団の全員が来るのかと構えたものだが、実際には十人程度だという。十人の中で唯一の貴族であるリディス男爵についても調べたが、特におかしな貴族ではないようだ。
となれば、後は上手くもてなすだけだ。指揮を執るヴィンフリーデがいないのは辛いが、皇帝を迎えた時のスタッフを動員すれば、そう手はかからないだろう。
「先方の希望通り、魔法試合は行われるのだな?」
「はい。指名された『紅の歌姫』の試合を組んでいます」
「結構。それから、前にも説明したが、使節団の方々は喧騒病の調査を目的として来られる。ひょっとすると、それに関連した質問をされるかもしれぬが、協力するようにな」
「はい。心得ました」
そんな細かい打ち合わせを終えると、ソラン男爵は忙しそうに去っていった。使節団の他のメンバーが訪れる施設についても、最終確認をして回っているのだという。
「……ん?」
男爵を見送って支配人室まで戻ってきた俺は、ちょうど支配人室の扉が閉まるところに出くわした。鍵は閉めていたはずだから、中にいるのは――。
「ヴィーか?」
声をかけながら入ると、やはりそこにはヴィンフリーデが立っていた。いくつかの書類を手に取っているが、相変わらず顔色は優れない。
「調子はどうだ?」
「今日はいつもより気分がいいわ。……本当よ?」
俺の表情で察したのか、ヴィンフリーデは弁解するように付け加える。
「それならいいが……こっちに来ていていいのか? 引っ越しの準備も大変だろう」
「そっちはユーゼフが手伝ってくれているもの。……これまでも、たまに母さんのところに顔を出していたんだから、特別に準備するほどじゃないわ」
「まあ、今回はユーゼフも同行するわけだしな。……ついでにあれだろ? 二人のことをエレナ母さんに報告するんだろう?」
少しでも明るい話題をと、そんな話を振る。ヴィンフリーデとユーゼフが恋仲であること、そして結婚を視野に入れていることを、エレナ母さんはまだ知らないはずだ。
「……伝えるつもりはないわ」
だが、ヴィンフリーデの表情は暗くなるばかりだった。
「ユーゼフは報告するつもりだったから、ちょっと喧嘩になってるの」
「どうして――」
言いかけて気付く。喧騒病を患って帝都にいられない自分が、ユーゼフの足を引っ張ってしまう。そう考えているのは間違いなかった。
「ユーゼフはそんなことを考える奴じゃ……」
「それも分かっているわ。でも、事実は事実よ。今回だって、里帰りに同行はしてもらうけど……それ以降は、手紙のやり取りだけにしましょうって、そう言ってるの」
「……」
「馬車に乗っている間は、思うように鍛錬ができないでしょう? そんなことでユーゼフの強さを損ねたくないの。せっかく、あの『大破壊』を追い詰めるところまで来たんだから。それに――」
ヴィンフリーデは支配人室の窓から試合の間を見下ろした。
「看板剣闘士のユーゼフが定期的に不在になると、客足にも大きな影響が出るわ」
「それは……」
ヴィンフリーデの指摘はもっともだった。運営面で考えれば、ユーゼフにはこれまで通り試合をしてもらうのが一番だ。だが……。
「それに、ミレウスのほうが大変じゃない。あんなに書類が積み上がっている机、初めて見たわ」
俺が言い返す前に、ヴィンフリーデは話題を変えた。彼女が指差しているのは俺の執務机だ。相変わらず、そこには積み上げられた書類がそびえ立っている。
「たまたま案件が重なったんだよ。いつもはここまでじゃないさ」
そう嘯くが、ヴィンフリーデが信じた様子はなかった。
「さっき見た未決の書類、だいぶ前のものだったわよ?」
「見落としていたんだろう」
「だとしても、そんな見落とし、いつものミレウスなら絶対にしないもの。……まあ、原因の私が言うのもなんだけれど」
そんな話の後で、ヴィンフリーデは思い出したように口を開く。
「ところで、さっき見送っていたのは誰? 貴族みたいだったけれど」
「ああ。ソラン男爵とかいう人だ。使節団が来る日の打ち合わせで来ていたんだ」
「打ち合わせなんて珍しいわね。皇帝陛下の時以来かしら?」
「そうだな。これまでも、他国の貴族が第二十八闘技場に来たことはあったが、政府はせいぜい最初の口利きだけだったからな」
「それだけ重要な人物だということね……」
「そうだな。何事もなければいいが」
と言っても、懸念事項は特にない。唯一気になっていたのはレティシャだが、観戦予定であるリディス男爵の名前を伝えても変化はなかった。まったく知らない貴族だという。
貴族の血を引いているとは言え、劇団の中で育った彼女だ。親以外の貴族は知らなくて当然だし、逆に他の貴族も彼女のことを知らないだろう。そういう意味では、警戒し過ぎだったのかもしれない。
「使節団が来るのは三日後よね?」
「そうだが……無理して来なくてもいいからな」
「ええ、分かってるわ。むしろ皆に負担をかけてしまうもの」
寂しそうに頷いた後で、ヴィンフリーデは机上の書類に視線を戻した。
「でも……本当に大丈夫なの? あの書類の中に急ぎの案件があるかもしれないでしょう? 特に支払関係は遅れると大変なことになるわ」
「そっちは別の箱にまとめるように指示してる。……ほら」
そう言って、空っぽになった箱を指差す。スタッフも慣れたもので、支払と関係のない案件でも、急ぎの場合はそこに入れていたりするのだが……スタッフが自分で急不急を判断してくれているため、それはそれで便利だ。
まあ、ヴィンフリーデほど以心伝心ではないため、「後でよくないか?」と首を傾げる書類も混ざってはいるのだが。
「さて……まずは使節団の対応だな」
ここしばらくは、その関係で政府と色々とやり取りをしたりと、そっちで時間を取られていたからな。この話がなければ、机上もここまでの惨状にはならなかったはずだ。
「そうね。……ねえ、ミレウス」
「駄目だ」
何かを言いかけたヴィンフリーデを遮って、俺は首を横に振った。
「ちょっと、まだ何も言ってないわよ」
「どうせ、使節団が来る日は第二十八闘技場で待機する、とか言うつもりだろう?」
抗議するヴィンフリーデに言い返す。はっとした表情からすると図星だったのだろう。
「試合中は、どこにいても歓声が響いてくる。それはヴィーもよく知っているだろ?」
そして、喧騒病の大敵は騒々しい場所だ。闘技場ほど、喧騒病と相性の悪い場所はない。
「大丈夫だ。俺もダグラスさんもいるし、ヴィーが手塩にかけて育てたスタッフもいる。大船に乗ったつもりで構えていてくれ」
「……分かったわ」
ヴィンフリーデは素直に頷いた。気落ちしている様子に罪悪感を覚えるが、無理をさせては元も子もない。
「あと三日、か……」
壁のカレンダーに視線を向けると、俺はぽつりと呟いた。
◆◆◆
キャストル王国使節団の来場は、最初から波瀾を含んでいた。
「観戦する貴族が増えた、ですか?」
「うむ。突然、そのようにおっしゃってな……」
俺の前で渋い表情を浮かべているのは、何度も事前打ち合わせをしてきたソラン男爵だ。別の施設を観光する予定だった貴族が、第二十八闘技場での観戦を飛び入りで希望しているという。
「可能だろうか? よりによって、相手は使節団のトップなのだ」
「それはまた……」
ソラン男爵の心労を慮る。他国の使節団ともなれば、観光も公務のようなものだ。じゃあ勝手によろしくやっておいてください、とはいかない。
「貴賓席には余裕がありますから、人数的には問題ないと思います」
「それは助かる!」
俺の答えを聞いて、ソラン男爵は勢いよく俺の手を取った。よほど切羽詰まっていたのだろう。
「ミレウス支配人、よろしく頼む」
「もちろんです。ところで、その方の情報を教えていただけますか? 挨拶する時に何も知らないではまずいでしょうから」
「おお、そうだな。まだ名前も伝えていなかったか。飛び入りを希望しているのは、ユーリス・フレスヴェルト子爵。今回の使節団のトップで、キャストル王国では宮廷魔術師の次席を務めているお方だ」
「次席の宮廷魔術師……」
キャストル王国の魔法部門におけるナンバーツーということか。思っていた以上に大物だな。それに、本人も魔術師と見て間違いないだろう。第二十八闘技場の結界発生装置に興味を持たれると面倒だな。
「キャストル王国の医術は、魔術の一類型と位置付けられているからな。それで、子爵が使節団のトップとしてお出でになったのだ」
「なるほど……」
対応を色々考えていると、ソラン男爵がポン、と俺の肩を叩く。
「今回のことは驚いたが、基本的に子爵はきさくで友好的な方だ。そこは安心してくれ」
ソラン男爵はそう慰めてくれるが、公務同然の予定を突然変えてしまうような人物だ。言葉通りに受け取るわけにはいかないだろう。
「ありがとうございます。後はお任せください」
「おお、そうか。それでは私は他施設の調整に出るが、何かあれば皇城に連絡をくれ。誰かしらに対応させる」
男爵はそう言い残すと、足早に支配人室を出ていく。今日はずっとあんな調子なんだろうな、と少し気の毒になる。
「――と」
だが、人のことばかり考えてはいられない。予定の変更を伝えて、使節団を迎える準備をしなければ。
そして、俺も足早で支配人室を後にするのだった。
◆◆◆
「高名なキャストル王国の皆様をお迎えできて光栄です。第二十八闘技場の従業員一同、精一杯努めますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、こちらこそよろしくお願いするよ。それに今日は悪かったね。予定変更の連絡が、上手く伝わっていなかったようだ」
燃えるような赤髪と、短く整えられた顎鬚が端整な顔を彩る。五十歳くらいだろうか。優男という表現が似合いそうな貴族、フレスヴェルト子爵は、俺の挨拶を受けて気障な笑みを浮かべた。
そして、闘技場の説明や観戦の注意事項を簡潔に説明し終えると、ひとまず退室しようとする。だが――。
「ミレウス支配人、だったね? この闘技場では魔術師の試合も盛んだと聞いたが……」
どうやら、あっさり退散することはできなさそうだった。とは言え、ここで捕まる可能性は織り込み済みだ。俺が戻るまでは、ダグラスさんが支配人室で渋い顔を浮かべて待機しているはずだった。
「左様です。帝都には魔法試合を行う闘技場が複数存在しておりますが、この第二十八闘技場こそが発祥の地です。所属している魔術師の質は、他のどの闘技場よりも優れていると自負しております」
「ほう、それは興味深いな……実は、私も魔術師でね」
「存じております。次席の宮廷魔術師でいらっしゃるとか」
そう答えると、フレスヴェルト子爵は鷹揚に頷いた。
「それだけに、興味を持っていたのだよ。闘技場で魔術師が試合をするなどということは、考えたこともなかったのでね」
「おお、そうでしたか。……それでは、『紅の歌姫』を指名されたのも――」
「ああ、私だよ」
子爵は朗らかに答えた。ソラン男爵から聞いていた、気さくで友好的な人物というのは、あながち間違いではなさそうだった。だが――。
――別に構わないわ。私は『紅の歌姫』だもの。
レティシャの言葉が脳裏をよぎる。フレスヴェルト子爵という人物が増えたと、そう伝えた時の言葉だ。準備で忙しかったため、それ以上の話はできなかったが……やはり、そうなのだろう。
彼女とよく似た赤髪を持った、魔術師にして貴族でもある人物。ソラン男爵経由で、かの子爵家は代々優秀な魔術師を輩出することで有名だという情報も得られている。ここにいるのが偶然とは思えなかった。
「『紅の歌姫』は当闘技場が誇る最高の魔術師ですが、まさか、キャストル王国にも噂が広まっているとは……」
「我が国は魔法研究も盛んでね。優秀な魔術師の情報は国境を越えて入ってくるのだよ。……時に、『紅の歌姫』はこの国の出身かな?」
問う子爵の表情に変化はない。だが、熱量とでも言うべきものが、わずかに増しているように思えた。
「そこまでは存じ上げておりませんが、この国の偉大な魔術師、ディネア導師に師事していたと聞いています」
「『結界の魔女』か……! この国の宮廷魔術師、いや、それ以上の影響力を持つとも聞くが……」
子爵は渋い表情を浮かべる。牽制のつもりで告げた言葉は、それなりの効果があったようだった。
「だが、逆にチャンスとも言えるか……?」
何やら考え込んでいる様子の子爵だったが、ふと俺の存在を思い出したようで、爽やかな笑顔を浮かべる。
「いつまでも支配人を拘束しているのは申し訳ないな。ありがとう、ミレウス支配人。試合を楽しみにしているよ」
「かしこまりました。何かございましたら、私なりスタッフなりに遠慮なくお申し付けください」
一礼すると、俺は貴賓室を後にする。もうすぐ、本日最初の試合が始まろうとしていた。