蠢動 Ⅰ
【支配人 ミレウス・ノア】
「う……」
支配人室の机に突っ伏していた俺は、はっと目を覚ました。いつの間にかうたた寝をしてしまったらしい。視線を上げると、書類を整理しているヴィンフリーデの姿が視界に入った。
「あれ? ヴィー、帰ってきたのか?」
「え? 私はずっとここにいたわよ。……ミレウス、寝ぼけてるの?」
「えーと……あれ?」
俺は首を傾げる。なんだか長い夢を見ていた気がするが、内容がさっぱり思い出せない。夢の内容を思い出そうと無駄な努力をしていると、コンコン、と扉がノックされた。
「――失礼する」
「あ、ダグラスさん」
姿を現したのは、うちの闘技場の副支配人にして、現役剣闘士として帝都五十傑にも入っているダグラスさんだ。
今は持ってきてないけど、トレードマークの大きな魔法盾は圧巻の一言だ。
……それにしても、ダグラスさんも年を取ったよなぁ。なぜか、そんな感想が脳裏をよぎる。
「どうかしたかね?」
俺の失礼な感慨が顔に出ていたのか、ダグラスさんは訝しむように俺を見た。
「いえ、ダグラスさんは凄いなぁ、と思って」
そうごまかしてみたものの、ダグラスさんの疑いは晴れないようだった。
「また妙なことを言う……まあ、今に始まったことではないか。ところで――」
だけど、ダグラスさんは一人で納得するとあっさり話題を変えた。優先するべき用事があるということだろうか。
「『極光の騎士』に用事があると、貴族が来ている」
「えー……」
口から勝手に声が漏れた。あまり貴族にいい思い出がないせいか、どうしても顔がしかめっ面になってしまう。
「不在と言っておくか?」
俺の表情を見たからだろう、ダグラスさんが気遣ってくれる。だが、それでは問題の先送りにしかならない。
「いえ、大丈夫です。嫌な案件はさっさと片付けるに限りますから」
「そうか。ならば、この部屋へ連れてくるよう伝えよう」
そう言ってダグラスさんは姿を消す。ヴィンフリーデが部屋の状態をチェックしているのを横目に、俺は広げていた書類を急いで片付ける。なんの用件か知らないが、弱みを見せるわけにはいかない。
俺たちが慌ただしく出迎えの準備を終えてすぐ、複数の足音が聞こえてきた。ヴィンフリーデが扉を開けると、まず従業員が姿を現す。
「支配人、ウィラン男爵をお連れしました」
「――お前がこの闘技場の支配人か」
栗色の髪をした男性が、性急な動きで姿を現す。年齢は俺と同じく二十歳前後だろう。もう少し年かさの人間を想像していたが、代替わりしたばかりなのだろうか。
「ルエイン帝国第二十八闘技場支配人、ミレウス・ノアと申します」
「……若いな」
「よく言われます」
そんなやり取りの間に、扉が静かに閉められる。それを横目で見た俺は首を捻った。
「今日はお一人でお越しですか?」
貴族はあまり単独行動をしない。大抵の場合は従者を連れているものだ。まして、ここはあまり素行のよろしくない人間も多い闘技場だ。
よほど腕に自信があるのか、従者もいないほど凋落した家なのか。それとも、内密の話でもあるのだろうか。
「従者は外で待たせている。……闘技場を歩くだけで、供の者などいるまい」
その口調はどこか言い訳じみていた。貴族である以上、それなりに身の安全には人を割いてしかるべきだとも思うが……まあ、それは俺が考えることじゃないか。
ただ、ウィラン男爵の身のこなしを見る限り、腕に自信がある、ということはなさそうだった。
「それよりも、ここへ来た用件だが……『極光の騎士』に会わせてもらいたい。話がある」
「申し訳ありませんが、できかねます。私にそんな権限はありません」
「だが、『極光の騎士』の剣闘試合を組んでいるのはお前だろう。連絡先を知っているはずだ」
「たまに、『極光の騎士』がふらりと闘技場に立ち寄るんです。私はその時に次の試合の予定をお伝えしているだけですからね」
それは幾度も繰り返されてきたやり取りだ。そして、次の流れも手に取るように予想ができた。
「ならば、今度『極光の騎士』が訪れた時に私を紹介するといい。報せを寄越せば、すぐにここまで来てやろう」
「『極光の騎士』はあまり人付き合いを好まないようで、そういった話はいくらお願いしても断られるのですよ」
やっぱり予想通りだな。俺の回答を聞いて、ウィラン男爵は顔をしかめた。
「……ならば、私が着くまで時間稼ぎをしておけ」
「試みるのは構いませんが、今まで成功した試しはありませんからね。報せを受け取った男爵がお出でになった頃には、すでに闘技場を去っていると思いますよ」
「ぬ……私は男爵だぞ?」
苦虫を嚙み潰したような顔で、男爵は唸り声を上げる。俺は彼を諦めさせるべく、さらなる言葉を追加する。
「『極光の騎士』はあまり社会的身分に頓着されないようです。お名前は申し上げられませんが、伯爵様の面会希望ですら断られましたからね」
「なんだと……」
当然ながら、貴族社会において爵位は重要な意味を持つ。伯爵ですら面会できなかったのに、下位の男爵に可能性があるとは思わないだろう。
これで話は終わりかな。後は適当に八つ当たりを受け流して、丁重にお引き取り頂くだけだ。
内心でそんなことを考えていた俺だったが、男爵は意外な言葉を口にした。
「ならば、『極光の騎士』にこう伝えろ。――お前の秘密を知っているぞ、とな」
その言葉に心臓がどきりと跳ねる。
「はあ……」
なんとか間の抜けた声を絞り出した俺だったが、頭の中はかなり混乱していた。
『極光の騎士』の秘密。その最たるものは彼の正体だろう。だが、ウィラン男爵が俺を見る視線には、なんの含みも感じられない。これが演技なら大したものだが、彼にそれだけの力量はないように思えた。
「秘密、と仰いますと?」
であれば、『極光の騎士』の戦闘力は魔導鎧がなくては成り立たないということを知っているのだろうか。
「なぜお前に教えなければならんのだ」
男爵の答えはもっともだった。だが、それで引き下がるわけにはいかない。
「抽象的に『秘密を握っている』とだけ伝えても、根拠がなければ『極光の騎士』は取り合わないでしょうね」
「ぬ……」
男爵は黙り込んだ。しばらく悩んでいたかと思うと、ぶすっとした顔で口を開く。
「……『極光の騎士』の正体は、天神の聖騎士だろう」
思いがけない言葉に、俺は目を点にするしかなかった。
「……は?」
つい素の声が出る。なんだ天神の聖騎士って。シンシアの『天神の巫女』と対になってたりするんだろうか。
俺がきょとんとしている間にも、ウィラン男爵は言葉を続ける。
「天神の聖騎士は、その存在を秘匿されることが多いと聞く。しかも、神殿は闘技場の存在を快く思っていない。正体を明かしたくないのも当然だ」
彼は自信満々に言い切った。いったいどこからそんな自信が湧いてきたのだろうか。ただ、彼が完全に見当違いの方向へ舵を取っていることは間違いなさそうだった。
「そうですか。それでは、『極光の騎士』と会った時にその旨をお伝えしておきます」
「ああ、そうしてくれ。嫌でも向こうから会いたがるだろうさ」
自分の思い通りになることを確信した様子で、ウィラン男爵はソファーから腰を上げた。彼を見送るために、俺も合わせて立ち上がる。
適当なタイミングで、「例の件を伝えたけどなんの反応もなかった」と報告しておけばいいだろう。貴族でなければ放っておくところだが、それくらいはしておこう。
そんなことを考えながら、俺はウィラン男爵をエントランスへ案内する。今日は試合がない日のため、エントランスはがらんとしていた。
「あれ……?」
だが、その静かな空間で、やたらと存在感を発している青年の姿が目に留まる。ユーゼフだ。彼は俺と隣のウィラン男爵を見比べた後、納得したように頷いた。だいたいの事情を察したのだろう。
「む、あの人物はたしか……」
そんなユーゼフを見て、ウィラン男爵はぼそりと呟く。やがて正体に気付いたのか、彼はポンと手を打った。
「おお、『金閃』か! そう言えばこの闘技場の所属だったな」
言うなり、ユーゼフに向かって歩き出す。ユーゼフのことまで知っているのは意外だったな。
「『金閃』だな? 私はウィラン男爵だ」
「初めまして、ユーゼフ・ロマイヤーです」
急に現れた胡乱な貴族に対しても、ユーゼフは爽やかな態度を崩さない。ウィラン男爵はその物腰が気に入ったようで、上から目線ながらも楽しそうに会話を続けていた。
「――なるほど、剣闘士ランキングで上位に君臨するだけのことはある」
「ありがとうございます」
貴族慣れしているユーゼフは、如才なくウィラン男爵の相手を務める。ユーゼフには悪いが、いっそ『極光の騎士』のことは諦めて、『金閃』に興味を持ってくれないだろうか。
そんなことを考えていた矢先だった。俺は、腰の剣に手をかけた。
「ユーゼフ」
「ああ、間違いないね」
俺が剣を手にかけるのと同時に、ユーゼフも剣を手にしていた。闘技場のエントランスが、突如として緊迫した空気に切り替わる。
「な、なんだ! どうしたというのだ!?」
驚いた男爵が声を上げるが、説明は後だ。俺はエントランスの一点を睨みつけた。
「5秒待つ。それまでに姿を見せなければ、害意があるものと判断する」
俺たち三人しか見当たらない空間で、四人目に向かって警告すると、捉えている気配を見失わないように、短く、そして抑えた声でカウントダウンを始める。
「五……四……」
「……!」
動きがあったのはその直後だった。気配が闘技場の奥へ遠ざかっていく。即座に追いかけようとしたが、目の前にはユーゼフの背中があった。先を越されたらしい。
ユーゼフは一瞬で相手との間合いを詰めると、鞘に納めたまま剣を一閃させる。次の瞬間、鈍い破壊音とともに周囲の空間が歪んだ。
「ぐはっ!」
そして、そこから姿を現したのは、床に倒れ伏してもだえ苦しんでいる男だった。ユーゼフは手加減したのだろうが、それでも骨の一本や二本は折れていてもおかしくない。
「ん……?」
その男に見覚えがある気がして、俺は首を傾げた。あの顔はたしか……。
「――貴様ら、何をしている!」
俺が自分の記憶を検索していると、後ろから追いついてきた男爵が大声で怒鳴った。お前に怒鳴られる筋合いはない、と言い返そうとするが、その血相を変えた様子にただならぬものを感じて、俺は口をつぐんだ。
「メイナード、どうした! 何が起きた!」
男爵の視線は、悶え苦しんでいる男に向けられていた。慌てた様子で男の傍へ駆け寄る。
「若様……」
「おい、若様はやめろ! 僕はれっきとしたウィラン家の当主だ!」
「も、申し訳ございません……」
ウィラン男爵が険しい声を上げると、男性は慌てて謝る。彼は男爵の従者のようだな。というか、重傷の部下に対してそのやり取りはどうなんだ。
「……あ、思い出した」
彼らのやり取りを見ていた俺は、メイナードと呼ばれた従者とのことを思い出していた。
ディスタ闘技場で『極光の騎士』として『剣嵐』と戦った帰りに「主が呼んでいるから来い」と命令してきた奴だ。
「それより、どうしたんだ。『極光の騎士』が怖いから、闘技場の中には入りたくないと言っていただろう」
いや、それよりも従者の健康面を心配したほうがいいんじゃないかな。顔色が土気色だぞ。そいつが苦しんでいることにはまったく罪悪感を抱いていないが、ちょっと不憫になってきた。
「ですが、万が一『極光の騎士』がいたらと思うと……あの男は、貴族を貴族と思っていません……当主様に危害が加えられてはと……」
「メイナード……!」
声も絶え絶えに従者が答える。感動したように従者の手を取ると、ウィラン男爵は俺たちをキッと睨みつけた。
「お前たち、なんのつもりだ! 私の従者になぜ危害を加えた!」
まるで従者を守るように、男爵は俺たちの前に立ちはだかった。俺はともかく、ユーゼフの前に堂々と立つとは、意外と根性があるな。
「姿を消して闘技場に侵入したからです。男爵もお聞きの通り、姿を見せるために五秒の猶予も与えました。
それでも姿を見せないとなれば、闘技場の責任者として不審人物を取り押さえる必要がありますからね」
だが、それと従者の不始末は別の話だ。というか、むしろ主人である男爵ごと疑わしくなってくる。
「なぜメイナードがこっそり侵入する必要がある」
「それは私がお伺いしたいところです」
俺は視線をメイナードへ向ける。だが……。
「あれ?」
思わず声を上げる。いつの間にか、メイナードは気絶していたのだ。痛みに耐えかねたのだろうか。
「メイナードぉぉぉぉっ!」
ウィラン男爵の慟哭が闘技場に響く。
「いや、そういうのは外でやってもらえないかな……」
俺は小さな声でぼやいた。彼らにとってはともかく、俺たち闘技場サイドとしては完全に自業自得だ。ちゃんと処置すれば命に関わるレベルじゃないし。
「……っ! おい、神官はどこだ! このままではメイナードが死んでしまう!」
「今日は試合がありませんから、この闘技場内に神官は一人もいません」
「なんだと……!」
俺の言葉を聞いた男爵の顔が青ざめる。その様子を見守っていると、彼は怒りに燃えた瞳で、俺に指を突き付けた。
「お前たち、このことは決して忘れんぞ!」
「そうですね、私も闘技場の支配人として、彼の行動を問い質したいところです」
「ぐっ……!」
返答に詰まったのか、男爵は変な声を上げた。そして、従者を持ち上げようとして……あ、諦めて引きずっていったな。
「……ミレウス、どうする?」
呆気に取られた様子でユーゼフが尋ねてくる。このまま行かせてもいいのか、ということだろう。
「なんだか、どうでもよくなってきたな……」
従者の目的はともかく、男爵自身は悪人には見えない。残念な言動はちらほら見られたが、貴族ならあんなものだろう。
「様子見、かな」
「いいのかい?」
「そう力のある貴族じゃなさそうだし、道理を曲げる権力もないだろう。正当性と『金閃』の名前があれば、そう問題にはならないさ」
ユーゼフは貴族の中でも顔が売れているからな。この国では、上位の剣闘士は相応の敬意を持って扱われる。
そして、上位の剣闘士であり、顔もよく爽やかなユーゼフは貴族に大人気だった。本人も華やかな場所は嫌いではないようで、さすがは名家の生まれといったところだろうか。
もし、あの従者に傷を負わせたのが俺だったら、事態はもう少し深刻だったはずだ。
「できれば、もう顔を見たくないもんだな」
貴族の傲慢は今に始まったことではない。いちいち目くじらを立てていてはキリがないし、闘技場は国の公認が必要である以上、あまり貴族と事を荒立てるわけにはいかない。
向こうが何も言ってこなければ、こちらも追及するべきではないだろう。
「疲れた……」
俺に親父くらいの名声があれば、貴族も少しは大人しくなるのだろうか。そんなことを考えながら、俺は闘技場のエントランスを眺めていた。