再起Ⅱ
「ええと、支配人室はどこだったかな……」
バルノーチス闘技場を開催地とする闘技場連絡会議を終えた俺は、その足でこの闘技場の支配人室へ向かっていた。目的は『極光の騎士』の復帰戦の話を持ちかけるためだ。
本当は会議の直後を捕まえるつもりだったのだが、「経営難を苦にして、ご自分を見つめ直す旅に出たそうですな」だとか、「連絡会議を軽んじる態度は支配人としていかがなものか」などという、他の支配人のお小言を受け流している間に逃してしまったのだ。
すでに関係者フロアに踏み込んでいるため、誰か手近な闘技場スタッフを捕まえて聞いてみようか。そう思った時だった。廊下の向こうから、見知った顔の二人組が歩いていてくる。
「あれは……『双剣』と『魔鏡』か」
バルノーチス闘技場が誇る看板剣闘士であり、剣闘士ランキング第三位と第四位につける傑物だ。第二十八闘技場のユーゼフに抜かれて一つずつ順位を落としたものの、それで彼らの強さが損なわれたわけではない。依然として、彼らは多くの剣闘士の目標であり続けている。
俺の声が聞こえたわけではないだろうが、二人の視線が俺と交錯する。ちょうどいいし、彼らに支配人室の場所を尋ねよう。そう思って会釈した俺だったが、先に口を開いたのは彼らのほうだった。
「ひょっとして……第二十八闘技場の支配人、か?」
「ええ、その通りです。『双剣』さん、『魔鏡』さん、お邪魔しています」
双剣使いの魔法剣士、『双剣』の問いかけを肯定する。魔法と二本の剣を駆使する彼は、闘技場で戦う魔法戦士たちの目標だと言っても過言ではない。そんな彼らに顔を覚えられていたことは驚きだが、おかげで話が早い。
「そういえば、今日は闘技場連絡会議の日でしたね。こちらにいらっしゃると言うことは、クロード支配人にご用ですか?」
続いて口を開いたのは『魔鏡』だ。その顔には、慇懃にすら思える笑顔が浮かべられている。その丁寧な物腰は剣闘士の上位ランカーとしては異色だが、その態度と、二つ名通りの巧みなカウンター戦術には固定ファンも多い。
「そうなんです。ただ、道に迷ってしまいまして……」
「そうでしたか。私たちは、ちょうど支配人室から出てきたところです。よければご案内しましょうか?」
「それは助かりますが……よろしいのですか?」
「もちろん、下心はあります。わざわざ支配人室へ尋ねてくるということは、交流試合のことかと思いまして」
『魔鏡』の観察眼は、試合の間の外でも有効であるようだった。
「ご慧眼、恐れ入りました」
「『金閃』か? それとも『帝国の獅子』……いや、『金城鉄壁』という可能性もあるか」
俺たちの会話を聞いて、『双剣』が口を挟んでくる。その瞳の奥に炎が宿っている気がするが、つまりそれは――。
「彼は『金閃』との再戦を待ち望んでいるのですよ」
「そうでしたか」
『金閃』ユーゼフが目の前の二人を試合で倒したのは数カ月前のことだ。ランキング下位にいたユーゼフへの雪辱に燃えていても不思議はない。
「……『金閃』の奴、俺との試合では闘気を使わなかったからな」
「なるほど……」
その言葉に納得する。同じ負けたにしても、手を抜かれて負けたのでは悔しさが違う。闘気ありで負けたのであれば、ここまで悔しさを引きずることもなかっただろう。
「ユーゼフは『双剣』さんを侮っていたのではなく、『大破壊』戦での隠し玉として温存したかったのでしょうが……」
どちらの気持ちも分かるだけに複雑な気分だった。ユーゼフも再戦を避けるつもりはまったくないだろうが、交流試合で同じ相手との連戦は避けたい。それは運営側の事情だ。そう悩んでいると、ふと『魔鏡』が口を開いた。
「あなたはいい支配人ですね。剣闘士の気持ちも斟酌してくれる。まあ、クロード支配人も理解のある方だと思いますが……と、長話が過ぎましたね。ご案内しましょう」
『魔鏡』はそう告げて、身を翻して来た道を戻り始める。その後ろに付いて支配人室へ向かっていると、前を歩いていた『双剣』がくるりと首だけで振り返る。
「第二十八闘技場には、竜人の魔法戦士がいたな」
「『蒼竜妃』のことですか? ええ、正確には半竜人ですが」
「やはり身体能力は高いのか?」
「そうですね。彼女は魔術師寄りですが、それでも『金城鉄壁』と近接戦闘でいい勝負をしますよ」
「そうか……楽しみだ」
「はぁ……」
突然の質問と、意味の分からない結論に首を傾げていると、『魔鏡』が笑いながら補足してくれる。
「クロード支配人は、竜人の剣闘士を登録するつもりがあるようでしてね。それで気になっているのですよ」
「この街に竜人はほぼいないからな。いまいち想像がつかない」
『魔鏡』の説明に『双剣』が頷く。あまり亜人を見かけないこの帝都で竜人の剣闘士とは、ここの支配人も色々と運営のことを考えているようだな。
そんなことを考えているうちに、俺たちは支配人室へ辿り着いた。『魔鏡』たちに紹介されて部屋に入ると、クロード支配人が興味深そうに口を開いた。
「――ミレウス支配人、どうしたのかな? 連れ立って来たということは、『金閃』との再戦でも考えているのかね」
そう告げると、クロード支配人は『双剣』、『魔鏡』に視線を注いだ。
クロード・アルハナム。子爵位を持つ帝国貴族でもあるが、闘技場ではアルハナム子爵ではなく、クロード支配人と呼ばせているらしい。それは彼なりの気遣いなのだろう。
バルノーチス闘技場は三人の帝国貴族の共同運営ということになっているが、その中でも最も有力であり、かつ剣闘に理解のあるアルハナム子爵が支配人を務めていた。
「たしかに交流試合の提案ではありますが、出場するのは『金閃』ではありません」
「ほう? それではモンドール皇子かね」
わずかにクロード支配人の表情が曇る。帝国貴族でもある彼としては、皇族を自分の闘技場で戦わせたくはないのだろう。万が一の時に責任を追及された場合、そのダメージは平民の俺とは比べ物にならないはずだ。
「いえ、『極光の騎士』です」
「なにっ!?」
その声はクロード支配人だけのものではない。傍らに立っていた『双剣』たちも驚きに目を見開いていた。
「戻ってきたのか……!」
「それは嬉しい誤算ですね」
上位ランカー二人が口々に声を上げる。
「別動隊だったという情報は本当だったのか……?」
対して、クロード支配人は思案顔だった。だが、やがて頭を振ると笑顔を浮かべる。
「『極光の騎士』の復帰戦ということであれば、断る理由はないな。相手は……」
「俺が行く」
「いえいえ、ここは私が」
『双剣』と『魔鏡』が名乗りを上げる。クロード支配人は少し考え込んでいたが、やがて『双剣』に視線を定める。
「『魔鏡』はディスタ闘技場の『剛腕剛脚』と戦う予定があるからな。今回は『双剣』の出番だ」
「……!」
「まあ、そんな気はしていましたが」
指名された『双剣』は無言で笑みを浮かべ、外された『魔鏡』は肩をすくめる。そして具体的な話を詰めると、クロード支配人はふと話題を変えた。
「そう言えば、第二十八闘技場では罪人の処刑を扱っていないようだが……何か理由でもあるのかな?」
「死を売り物にするのではなく、技を売り物にする。それが先代から引き継いだ理念です」
突然の質問に戸惑いながらも、口は勝手に動いていた。そして、今の質問にどんな意味があったのかと訝しむ。
「ふむ……」
「それがどうかしましたか? 闘技場での処刑執行は義務ではなかったはずです」
「ああ、別に無理強いしようというわけではない。ただ不思議に思っただけだよ」
俺の声が少し固くなったことに気付いたのだろう。クロード支配人は取り繕うように口を開いた。
「処刑試合には固定客がついているし、少額とはいえ依頼料も交付される。小さな闘技場であれば、死刑囚の扱いや剣闘士の選定が手に余ることもあるだろうが、第二十八闘技場はもはや帝都でも有数の闘技場だ。対応できないということはないだろうと、そう思ってな」
「どうでしょうね。第二十八闘技場の剣闘士の多くは、一方的な殺戮に興味はないと思います」
俺にせよ親父にせよ、剣闘士の採用時にはそこを重視していたからな。全員とまでは言わないが、大半の剣闘士は同じ意見だろう。
「なるほどな……では、もし帝国政府から依頼があれば?」
「義務でない限り、お断りします」
ためらいなく答える。すると、クロード支配人は納得したように一人で頷いた。
「そうか。……なるほど、ミレウス支配人の考え方はよく分かったよ。おかしなことを聞いて悪かった」
「いえ、それは構いませんが……何かあったのですか?」
まさかとは思うが、帝国が全闘技場に処刑試合を義務付けるつもりなのだろうか。だが、処刑試合の頻度はそう高くない。わざわざ義務付ける必要性は感じないが……。
「いやいや、ただの世間話だよ」
「そうですか」
釈然としないものを感じるが、俺はそれ以上追及しないことにした。聞いても教えてくれないだろうし、クロード支配人に悪意があるようには思えなかったからだ。
彼は闘技場の運営について特徴的な思想を持っているわけではなく、魔法試合についても中立的だ。『双剣』たちのランキングを守ろうとして、ユーゼフとの試合を避けようとしていた面はあるものの、自ら後ろ暗い画策をするタイプではない。
「ともかく、『極光の騎士』の試合については承った。楽しみにしているよ」
「はい、よろしくお願いします」
クロード支配人の様子を少し訝しみながらも、俺は支配人室を退室した。
◆◆◆
「海戦、ですか?」
「おう、面白そうだろ? 帝都じゃどこもやってないしな」
ソファーにどっかり座り込んで、快活な笑みを浮かべているのは、この帝国の第四皇子であり、『帝国の獅子』の異名を持つ剣闘士モンドールだ。俺が目新しい興行を探していると聞いて、わざわざ提案に来てくれたらしい。
「兄貴がどっかの国で観たんだとよ。試合の間に水を張って、十人乗りくらいの船を数隻ずつ浮かべてたらしい。あの堅物にしちゃ、いい顔で語ってたな」
「たしかに斬新ですね。一考する価値はありますが……」
そう前置いて、実際に興行を行った場合のシミュレーションをする。目新しさという観点では、これまででトップクラスのアイデアだろう。だが――。
「試合の間に水を張るのはいいとしても、船と出場者の確保が困難ですね……」
ルエイン帝国は内陸に位置しており、この帝都ももちろん海とは無縁だ。そのため、操船できる人材や、船上ならではの戦いができる戦士はほぼいないと思っていいだろう。
「あー……あの国は沿岸部にあるからな」
モンドールもそれに思い至ったようで、苦笑いを浮かべる。
「それと、海戦と呼べるだけの集団戦闘を行うと、さすがに収益的に厳しいですね……」
今は剣闘士二人に支払っているファイトマネーを、数十人分用意する必要があるのだ。客席が満席になったとしても、利益を出せるかどうかは怪しい。
「ただ、シチュエーションとしては面白そうですからね。今度の『帝国の獅子』の試合は水を張った試合の間でやりましょうか? 給排水や密閉性の問題はありますが……」
「俺はやめとく。動きにくいだけだ。……魔術師によっちゃ、上手く利用できるんだろうけどな」
「『紅の歌姫』と『蒼竜妃』、それに『魔導災厄』あたりは水を味方につけるでしょうね」
試合の間の水をすべて凍らせるくらいは、三人ともあっさりやってのけるからな。『蒼竜妃』エルミラは、他の二人ほど魔法に長けているわけではないが、彼女自身が水竜の半竜人であるため、水魔法についてはスペシャリストと言っていいだろう。
「まあ、それはそれとして、集団戦については思うところもあります」
「ん? 利益が出ないんだろ?」
「海戦レベルならそうですが、二、三人で組むくらいなら何とか……それでも利益を圧迫しますから、頻繁にはできませんが」
特に、うちの闘技場には魔術師が所属しているからな。戦士と魔術師を組み合わせることで、見られる戦術の幅は劇的に広がるだろう。
「けど、客はついてこれんのか?」
「そこなんですよねぇ……魔法が飛び交っているのに気を取られている間に、戦士の戦いに決着がつく、なんてこともあるでしょうし。誰に注目するかの判断が必要になる分、観客が負担を感じる可能性はあります。固定ファンはつくと思うのですが」
「そこは、やってみなけりゃ分からねえな……個人的には面白そうだが」
モンドールは好意的な反応を示すが、それは彼が皇族であり、指揮官として戦局全体を見渡す訓練をしているからだろう。一般的な観客の反応は未知数だった。
「とりあえず、何度か試してみようとは思っています」
「そりゃ楽しみだ。もし俺を出すなら、『紅の歌姫』と組ませてくれ」
「検討しておきます」
もともと集団戦闘に馴染みのあるモンドールであれば、集団戦への適正も高いだろう。ただ、彼とレティシャが組んだ場合、対抗できる組み合わせが限られてくるのが問題だが。
「――あら、取り込み中だった?」
そんなことを考えていると、支配人室の扉が開かれて、ヴィンフリーデが顔を出した。なんだか美味しそうな匂いが漂っているのは、彼女が提げているバスケットのせいだろう。
「美味いモンはいつでも歓迎だぜ」
同じく匂いに気付いたのだろう。俺より早くモンドールが声を上げた。その言葉に微笑むと、ヴィンフリーデは机の上にバスケットを置いた。
「いい匂いだな……試作品か?」
「ええ。ぜひ感想を聞きたいわ」
頷くヴィンフリーデを見て、モンドール皇子が首を傾げた。
「試作品?」
「集客手段の一つとして、第二十八闘技場の名物料理を作ってみようかと思ったんです」
特に隠すことでもないし、素直に答える。今も飲み物や軽食は売っていて、結構な売り上げになっているのだが、どうせならそこに集客効果を持たせてみようと思ったのがきっかけだ。
赤字設定の商品を売るつもりはないが、それなりに質の高さとインパクトを付与したい。そんな難題を料理上手なヴィンフリーデに押し付けたのだが……彼女は意外と嬉々として取り組んでいたのだった。
「さて、香りの正体は……」
バスケットの布を取り払うと、串焼きにされた肉がかすかに湯気を立てていた。馴染みはないが、食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。
「お! 美味そうじゃねえか」
さっそくモンドールが手を伸ばす。本来、モンドールは人数外だったはずだが……まあ、いいか。多めに作ってくれているようだし、一人でも多くの人間の意見を聞きたいところだ。
「もらうぞ」
俺もモンドールに負けじと手を伸ばす。串を口元へ持ってくると、調合されたスパイスが一層強く香った。調理場所の関係で少し冷めているが、それでも味への期待で唾が湧いてくる。
その期待に押されるように、俺は大口を開けて串焼きにかぶりついた。口の中に肉汁が溢れ出すとともに、刺激的なスパイスの香りが鼻腔を抜けていく。さらに食べ進めると、炙り焼きにした肉の風味とスパイスが混ざり合い、最初とは異なる味わいが口内に広がった。
「……美味いな」
そう感想を呟いた時には、もはや肉は残っていなかった。
「名物をどうこう言う前に、料理としてとても美味しかった」
「そう? よかったわ。スパイスの調合にはちょっと苦戦したから。……あ、高価なものは使っていないから安心して」
冗談交じりに答えながらも、ヴィンフリーデは嬉しそうだった。
「セルラムの辺りで使われている香草の比率が高いから、帝都の人には珍しく思えるんじゃないかしら」
「なるほど……それも名物としては都合がいいな」
セルラムとは、喧騒病を発症したエレナ母さんとヴィンフリーデが身を寄せていた街の名前だ。帝都から馬車で一か月ほどかかるため、文化もそこそこ異なっているらしい。
「スパイスの調合も、本当は母さんが考えたものよ。ここじゃ手に入らないものもあるから、だいぶアレンジしたけれど」
ヴィンフリーデはタネを明かした。かつて、第二十八闘技場の剣闘士が料理を奪い合ったというエレナ母さんの調理技術は健在のようだった。
「これ以上美味くなるとは思えないけどな……」
何もなくなった串を見ながら、さっきの味を思い出す。ちゃんとした料理店で売れば、充分目玉商品になるだろう。
「あらあら、ありがとう。ミレウスにしては珍しく絶賛ね」
「その言い方だと、まるで俺が滅多に褒めないみたいじゃないか」
「それで、どう? 改善点や要望はあるかしら?」
俺の抗議を受け流して、ヴィンフリーデが尋ねてくる。俺は串を見つめながら、実際に闘技場で売りに出した時のことをシミュレートする。
「焼き上がるまでの時間が気になるな……」
串に刺さっていた肉の大きさを思い出して呟く。焼き上がるまでの時間、つまり行列がどの程度の時間で捌けるかは重要だ。
「他の軽食に比べると、だいぶ時間がかかるわね……」
ヴィンフリーデは宙を見つめて声を漏らした。第二十八闘技場に限らず、闘技場で扱っている軽食は、ホットドッグなど火を使う必要のないものばかりだ。
売店エリアは閉鎖的な造りであることが多いため、熱や煙が充満することや、そもそもそこまで軽食に力を入れていないことが理由だ。
「ん? 闘技場でこの肉を焼くつもりなのか?」
と、俺たちの会話を無言で聞いていたモンドールが尋ねてくる。闘技場の軽食売り場で、火を使っている所はどこにもないと知っているからだろう。
「ええ。図らずも簡単な調理施設が出来上がりましたからね」
俺は濁して答えた。実際には、この闘技場を設計したドワーフのギル親方にシルヴィを紹介したところ、二人はすっかり意気投合し、その勢いで排煙設備を備えた施設を作ってしまったのだ。
売店エリアを改造したいと言われた時には驚いたが、軽食エリアは売り上げが見込んだほど上がらず、スペースを余らせていたこともあって、軽い気持ちで了解したらこんなことになっていた。
「むしろ、そのことがあったから名物料理でも考えよう、ということになったんです」
ヴィンフリーデが言葉を補足すると、モンドールは納得した様子だった。
「なるほどな……いやしかし、見事なモンだ」
「殿下に褒めていただけるなんて、光栄ですわ」
「おいおい、『殿下』はやめてくれよ。闘技場じゃただの剣闘士のつもりなんだからよ」
そんな二人の会話が途切れたタイミングを見計らって、俺は話を元に戻した。
「うーん……味は申し分ないから、後は見た目でインパクトを与えたいな。もっと大きくすることはできるか?」
「できるけど……生焼けにはしたくないから、焼くのにさらに時間がかかっちゃうわね」
「別の場所で、八割がた火を通しておくのは? いくら火を使えるとは言っても、一から焼き上げるのは時間がかかるわけだし」
「言われてみれば……」
ヴィンフリーデが納得したように頷く。同じ場所で一から焼き上げるのとでは、少し味が違ってくるかもしれないが、お客の回転を考えるとそっちのほうが現実的だろう。
「それならお客さんも早く捌けそうね。どれくらいの数を用意しようかしら?」
「そこまで無理をしなくてもいいと思う。わざと数を絞る必要はないが、売り切れ前提の数でいこう。多少売り切れるくらいのほうが話題になるかもしれないしな」
そもそも、これは話題作りの一環だしな。俺たちは料理店を経営しているわけではなくて、あくまで闘技場を運営しているのだから、そこに線引きは必要だろう。
「後は香りの強さか。いい香りだが、周りの客がどう思うか……いや、香りは宣伝代わりになるかもしれないか?」
時折口に出しながら、思考をまとめていく。すると、モンドールが面白そうに笑った。
「こんなに美味いモンなのに、支配人は厳しいな。俺なら食った時点でヴィンフリーデに全面委任するぜ」
「あらあら、お上手ですね」
モンドールの言葉をヴィンフリーデが受け流す。すると、皇子は悪戯っぽい笑顔を見せた。
「他の剣闘士から噂は聞いてたが、マジでいい腕だ。……どうだ、毎日俺のためにメシを作らねえか?」
「殿下、そういう冗談はご遠慮ください。ヴィーが困っています」
冗談とも本気ともつかない言葉を受けて、ヴィンフリーデの代わりに答える。すると、モンドールはわざとらしく肩をすくめた。
「冗談半分、本気半分だったんだが……悪かったな。まあ、俺も『金閃』の奴に闇討ちされるのは避けたいし、今の冗談は忘れてくれ」
「分かりました」
深く言及せずに頷く。どうやら、モンドール皇子はユーゼフとヴィンフリーデの仲に気付いていたようだった。それでも噂が広まっていないあたり、意外と口は固いようだ。
「――ったく、いい女ってのは大抵売り切れだ」
モンドールは大仰に空を仰ぐと、思い出したように俺を見た。
「いい女と言えば、『紅の歌姫』は極秘任務についてたらしいな。……それも『極光の騎士』と」
「おや、そうでしたか。私は魔法研究の関係だと聞いていましたが」
澄まして答えると、モンドールは面白くなさそうに口を尖らせた。
「なんだ、面白くねえな。少しは嫉妬した顔でも見られるかと思ったのによ」
「ご期待に沿えず申し訳ありませんね」
平然を装いながら、俺はモンドールの真意を窺う。今のは『極光の騎士』の正体を疑った上での発言だろうか。だが、レティシャのことをかなり気に入っているモンドールのことだ。そっち方面を念頭に置いて聞いてきた可能性が高いか。
フォルヘイムでは帝国軍と戦闘寸前までいったこともあって、帝国政府の関係者には身構えてしまうな。そんなことを考えながら、俺はモンドールの言葉を聞いていた。