聖樹ユグドラシルⅡ
「止まってください。ここから先は結界に覆われています」
王城を越え、エルフ族が聖地としている森へ踏み込んだ俺は、ヴェイナードに止められていた。
「精度の高い結界ねぇ……たしかにこっそり侵入するのは大変ね」
俺には何も見えないが、レティシャにはしっかり視えているらしい。彼女は興味深そうに周囲を見回していた。
「ここから先は、一芝居うつとしましょう。結界に引っ掛かった瞬間に、お二人は近くの茂みへ隠れてください。結界は侵入者に反応しますが、あくまで警報の役目を果たすだけですから」
「つまり、私とヴェイナードさんでやってきた兵士に対応すると?」
口を挟むと、ヴェイナードは満足そうに頷いた。
「そういうことです。私たちは古代鎧の継承者です。要人を守るため馳せ参じたと言えば、誰も文句は言えません。
潜り込んだ後は、隙を見て離脱してください。見回りをするとでも言えば、あっさり見送られるでしょう」
「そんなものですか?」
「こう言ってはなんですが、エルフ族の大半にとって、フェリウス殿は得体の知れない人物ですからね。それでいて、屈指の戦闘力を持つと来ている。あまり近くにいてほしくないはずです」
「なるほど……」
なんだか複雑な気分だが、もともとエルフに好かれたいわけでもない。それで解放してくれるなら大歓迎だ。そして、彼はシンシアに視線を向けた。
「――ユグドラシルを相手取るのであれば、その雛を大切にすることです」
どうやら、彼が見ていたのはノアのほうだったようだ。シンシアの腕に抱かれたノアは、不思議そうにヴェイナードを見つめていた。
「あの……それは、どういう――」
「その雛は植物を操ることができるのでしょう? 聖樹とはいえ、ユグドラシルも植物であることに違いはありませんからね。……では、行きましょうか」
ヴェイナードは話を切り上げる。そして、俺たちは一斉に結界の内部へ踏み込んだ。レティシャとシンシアが茂みに隠れた直後に、物々しい雰囲気の兵士たちが現れる。
「何者だ! ここを聖地と知ってのことか!」
「私はヴェイナード・クロム・ディエ・ユグドルシア。古代鎧の継承者として、ルナフレア様の御身をお守りするため参じた」
「ぬ……?」
朗々たる声で名乗ると、ヴェイナードは兜を脱いだ。見知った顔を見たことで、兵士たちの警戒心が薄れる。入国した時は嫌われていたように思えたが、非常事態には心強いということだろうか。
「それから、こちらはフェリウス・クローク殿だ。同じく古代鎧の継承者の使命を果たすべく参った」
「ほう……それは心強い」
彼らは探るような眼差しを向けてきたが、俺を排斥するつもりはないようだった。それを幸いと、俺は無言でヴェイナードたちの会話を聞く。
「――それでは、ルナフレア殿下にご挨拶をさせていただこう」
やがて話はつき、兵士たちに案内されてエルフ軍の本陣へ辿り着く。その奥には、かなり大きな建物がそびえていた。森と一体化しているようだが、今も機能していることが見て取れる。
「ふむ……」
兵士の配置を確認しながら、ヴェイナードの後に続く。できればすぐに離脱したかったのだが、意外と丁重な扱いを受けていて抜け出せない。緊急時の戦力として期待されているのだろうか。
「こちらです」
やがて、建物の中へ通される。広大なエントランスを眺めていると、慌てた様子で数人のエルフが近寄ってきた。
「ヴェイナード様……!」
「参上が遅れて失礼した。街を必死で守っていたせいで、貴き方々が移動していることに気付くのが遅れた」
ヴェイナードは皮肉を交えて挨拶を交わす。相手の顔が引きつっていることからすると、本当にヴェイナードは知らされていなかったのだろう。
「その忠心、誠にご立派です。戦い詰めでお疲れでしょうし、まずはゆるりと休まれてはいかがかな?」
「お心遣い痛み入る。だが、まずは殿下にご挨拶するのが筋だ」
「いや、それは……」
詰め寄った男たちが困ったように視線を交わす。それを見て、ヴェイナードの視線が険しくなった。
「いかがなされた? 殿下の身に何かあったのか?」
「まさか。殿下の身には傷一つありませんとも。ただ、今は少し取り込み中でしてな」
「ほう、この非常事態に取り込み中とは……どういった用事だ?」
「私も詳しくは知りませぬが、軍議ではないかと」
「軍議であれば、古代鎧の継承者である私にも参加する権利はあるな。……フェリウス殿」
言うなり、ヴェイナードは二階へ繋がる階段を上り始める。エルフたちはそれを阻止しようとするが……やがて、全員が不自然に転倒する。
『クリフ、今のは雷撃か?』
『そのようですね。隠密モードで弱い雷撃を床に放ったのでしょう。……当然ながら、この鎧には効きませんが』
念話で問いかけると、クリフは自信たっぷりに答えてくれた。やっぱり雷撃だったか。意外と力技だな。そんな感想を抱いている間にも、ヴェイナードは階上へ踏み出した。
「ヴェイナード様!?」
階上へ上がると、彼の姿を認めたエルフたちが驚きの声を上げた。だが、その表情は大きく三種類に分かれている。警戒。戸惑い。そして……希望。
「殿下にお目通り願いたい。状況はどうなっている?」
ぱぁっと顔が明るくなったエルフに対して問いかける。服装からすると、王女付きの侍女だろうか。
「アルジャーノン様が、重要な話があると私たちを無理やり追い出したんです……!」
「……やはりか」
「あのような横暴な雰囲気は初めてで、ルナフレア様に何かあれば……」
侍女はヴェイナードにすがりつくように訴える。アルジャーノンと言えば、たしか穏健派の派閥長だったな。ヴェイナードは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて最も立派で大きな扉へと向かう。
「ヴェイナード殿、いくら貴公でも困りますな」
「国家機密レベルの話し合いです。お引き取り願いましょう」
だが、その扉の前に複数のエルフが立ちはだかった。ヴェイナードを見て警戒の色を強めた者ばかりだが、大半の顔には見覚えがある。古代鎧の授与式でいい場所に陣取っていた者たちだ。それだけ権力を持った存在なのだろう。そのせいか、今度はヴェイナードも強行突破するか迷っているようだった。
「――緊急事態につき、失礼する」
だが。俺からすれば、彼らの身分も権力もどうでもいい。ヴェイナードとしても、自分で無礼を働くよりは事を収めやすいはずだ。
そう結論付けると、俺は彼らの隙間に割り込み、強化された腕で扉を押した。扉を塞いでいたエルフたちは戦士職ではなかったようで、俺の動きにまったく対応できていなかった。
「む……」
豪華な扉は軋む音を立てたが、開く様子はない。鍵がかかっている手応えではなかったから、魔法による鍵だろう。
『クリフ、開錠の魔法は使えたか?』
『誇り高き近衛騎士の鎧には不要です』
つまり、使えないということか。そう落胆していると、扉から澄んだ音が聞こえてきた。
『……ただし、特務師団には必須の魔法です』
クリフから伝わってくる念話は、どこか悔しそうだった。誇り高い鎧にはいらないんじゃなかったのか。心の中でそんなツッコミを入れる。
「貴様、無礼な……っ!」
扉を守っているエルフたちが、必死で俺を押し出そうとする。だが、その動きはバラバラであり、簡単にあしらえる程度でしかない。押し出そうとしたエルフの一人を逆に押し出すと、俺はもう一度扉に手を当てた。
「なっ――!?」
力を込めすぎたのか、物凄い勢いで扉が開く。そして、その中にいた人物が驚きの声を上げた。アルジャーノンだ。向かいにはルナフレア王女の姿もある。
そして、彼の両手は王女の両肩にかけられており――。
そう認識した瞬間、ふっと黒い影が部屋へ飛び込んだ。ヴェイナードだ。
「ヴェイナード!? 貴様!」
「――失礼。ノックしようとしたのですが、鍵がかかっておらず開いてしまったようです」
ヴェイナードはしれっと口を開く。たしかに、物理的な鍵はかかっていなかったな。
「……不調法をお詫びする」
そう伝えるついでに、俺も一歩踏み込む。アルジャーノンはルナフレア王女の肩から手を離すと、不愉快そうに俺たちを睨みつけた。
「この緊急事態になんの用だ」
「緊急事態だからこそ、です。古代鎧の継承者は、このような国防の危機において先陣を切って動く責任があります」
「ならば、なぜここにいる。この国を蹂躙している賊どもをなぜ討たん」
「敵を見極める必要があるからです」
そう言うと、ヴェイナードはこちらを振り返った。
「オレイル殿はいないようですが……各派閥の幹部は揃っているようですし、話を続けましょう」
オレイルとは、第二派閥、過激派の長だったか。ということは、ここからの話はエルフ族全体に関わる話だということだろうか。
「今回の戦いについては、いくつか疑問があります。攻め寄せてきている敵が、ルエイン帝国だということはご存知ですね?」
ヴェイナードは確認するように周りを窺う。その情報に驚いたエルフはいないようだった。
「そして、帝国軍は結界の森から侵攻してきました。対エルフ結界のせいでろくな応戦ができないところを突かれた形です」
「ふん、街を守れなかった言い訳か?」
周囲からそんな声が上がるが、ヴェイナードは淡々と続ける。
「帝国軍は混血種が多く住まう区画を蹂躙しながら進軍し、中央区画との境界線で我らの防衛部隊と衝突し動きが止まっていました。ですが……」
一度言葉を切ると、ヴェイナードはまっすぐアルジャーノンを見据えた。
「あまりに手際がよすぎます。まるでこうなることが分かっていたようだ」
「なんと……!?」
その言葉に数人のエルフがどよめく。ということは、知らなかったエルフもいるわけか。
「騎士団が優秀であることに問題があるかね?」
アルジャーノンは大仰に肩をすくめる。
「突然、優秀になったことは不思議で仕方ありません。公にはしていない対エルフ結界のことを、敵が軍事行動に利用するほど確実に掴んでいたことも気になりますね」
「騎士団は有事にこそ真価を発揮するということだ。……ヴェイナード殿、貴公が治める混血区画に大きな被害が出て苛立つ気持ちは分かる。だが、八つ当たりはやめてもらいたい。今はそのような時ではないのだよ」
「――内通者が存在するとの情報を、敵軍から得ています」
「なに?」
その言葉に、アルジャーノンの目が険しく細められる。
「敵の動きを不審に思い、交戦した敵軍の隊長格を拷問したところ、そんな情報を吐きましてね」
それはもちろん嘘だ。俺がアレクセイから得た情報を横流ししたのだが、さすがに帝国軍と協力関係にあったとは言えないからな。
正直に言えば、ヴェイナードが内通者ではないかと疑って、カマをかけるためにその話をしたのだが、そうではなかったらしい。
「此度の展開は、あまりに都合がよすぎませんか? オレイル殿は王宮を離脱できず交戦中。私の父も今だ行方不明です。その中で、アルジャーノン殿だけが上手く立ち回りすぎている」
「ぬ……」
「それはたしかに……」
そんな声が聞こえてくるのは、おそらく過激派の幹部であろうエルフたちだ。アルジャーノンは彼らを一瞥すると、余裕のある笑みを浮かべた。
「私と部下の優秀さを褒め讃えたいことは分かった。私からも言わせてもらうが……相手はルエイン帝国だ。貴公が率いるユミル商会の重要拠点はルエイン帝国の首都であったな」
「裏切り者は私だと?」
「長年ルエイン帝国とやり取りをしていれば、情が湧くこともあろう。何より、帝国軍と接触しやすいのは貴公だ。そのことに異論はあるまい?」
「たしかにな……」
「しょせん雑種ですからな。国への忠誠など期待できん」
アルジャーノンの反撃に同意の声が上がる。論理的に正しいかどうかというよりは、パワーバランスによるものだろうが。
「そんな分かりやすい策謀を企むほど、底が浅いつもりはありませんね。……ルナフレア殿下」
そして、ヴェイナードは視線を奥にいるルナフレアに向けた。彼女は傍から見ても戸惑っている様子で、誰を信頼すればいいか悩んでいるように見える。
「アルジャーノン殿は、内密の話があると侍女たちを追い出したようですが……どのような話だったのですか?」
「それは……」
ルナフレアは口ごもる。表に出せばアルジャーノンに不利になる話なのだろうが、この緊急事態で、最も頼りになるのもアルジャーノンだ。迂闊に動くわけにはいかないということか。
「ふむ……」
彼女が逡巡している様子を見つめていたヴェイナードは、ルナフレアの前に立った。そして彼女の眼前に手を伸ばす。その手には、何かが握られているようだった。
「ヴェイナード殿、殿下に対してその態度はいかがなものかな」
そんな非難に耳を貸さず、彼は握っていた拳を開く。その手には、ここからではよく見えない小さな……。
「あれは――?」
だが。それでも俺は、彼の掌の上にあるものが何か分かった。長年にわたって、俺が身に着けていたものだからだ。……そう、以前にヴェイナードへ譲ったイヤリングだ。
「これ……まさか――!」
イヤリングを見ていた王女が、はっとしたようにヴェイナードを見つめる。
「代わりのものを買って差し上げると約束してから、かなりの時間が経ってしまいましたが……」
「っ! ヴェイナード……まさか、あなた……!」
ルナフレアの瞳から大粒の涙が零れる。だが、彼らのやり取りの意味がさっぱり分からない。それに、ヴェイナードに譲ったイヤリングは、昔の恋人のものだったと聞いたが……騙されたのだろうか。疑念に駆られる俺だったが、そう思ったのは俺だけではないようだった。
「ヴェイナード殿、今は緊急事態だ。悠長に贈り物をしている場合ではない。その古代鎧がハリボテでないのなら、少しは敵を駆逐してきてくるのだな」
怪訝な表情を浮かべながらも、アルジャーノンは威厳のある声で指示を出す。だが、ヴェイナードは涼しい顔でルナフレア王女に視線を向けた。
「……様」
その声は、あまりに小さく聞き取れなかった。だが、その言葉に王女が息を呑む。
「アルジャーノン殿は、ここで何を要求していたのですか?」
「――婚姻を、と。この事態を収める代わりに、アルジャーノンと婚姻を結ぶよう迫られたわ」
秘密を明かしながら、彼女はヴェイナードに寄り添うように立つ。そのことが、ルナフレア王女の立ち位置を明確に示していた。
「アルジャーノン殿。ルナフレア殿下のお相手は公正な協議の上で行われる取り決めです。緊急事態に乗じて、強引に事を運ぶやり方は感心しませんね。まして、女性の部屋に押し入り、他の者を追い出すなどもってのほかです」
「それに……承諾しなければ、お前も植物にしてやると言われたわ」
「!」
ルナフレアの証言を受けて、場の全員に緊張が走る。首謀者はアルジャーノンだったのか。ということは、こいつを始末すればいいのだろうか。
「王族を脅迫とは……いよいよ捨て置けませんね」
「殿下は戦いの心労で幻覚をご覧になったのであろう」
それでも、アルジャーノンは余裕のある顔を崩さない。その精神力は見上げたものだった。密かにそう感心していると、彼は剣呑な目つきで俺たちを睨んだ。
「それはともかく……貴公の行動はいささか目に余る。この場で植物にしてやってもよいのだぞ?」
「ひっ――」
そう声を漏らしたのは誰だったか。後ろから慌てた雰囲気が伝わってくる。だが、ヴェイナードは彼の言葉をせせら笑った。
「制御ユニットもなしに、そのような緻密な操作ができるものか。ご自分もろとも植物化なさるおつもりか?」
「制御ユニット……?」
アルジャーノンは訝しげに眉を顰める。彼がこんな顔をするのは初めてのことだ。だが、やがて彼は納得したように口を開いた。
「貴公が転生者だったとはな。……ふん、ハーフエルフに転生するとはみじめなものだ」
「――っ!?」
予想外の展開に息を呑む。シンシアが三千年前の『天神の巫女』の転生体だと告白したのは、つい数刻前のことだ。まさか、ここでその言葉を聞くとは思わなかった。
「アルジャーノン殿には関係のない話です。ユグドラシルの束縛が緩んだのはここ百年ほどの話ですからね」
「……」
俺はシンシアの話を思い出しながら整理する。つまり、ここ百年ほどの間に生まれたエルフには、三千年前に植物化させられたエルフの魂が宿っている可能性があるということか。
そして、彼女と同じであれば、過去の記憶も……。
「――フェリウス殿。外が騒がしくなってきたようです。対処をお願いします」
と、そんな俺の思索は唐突に遮られた。耳を澄ませば、たしかに賑やかになっている。俺が退出するにはちょうどいい理由だろう。だが、ヴェイナードがこのタイミングで声をかけたのは、これ以上エルフの情報を知られたくなかったからとも考えられた。
「……了解した」
俺は素直に頷いた。彼らの話にも興味はあるが、目的を忘れるわけにはいかない。あくまで俺の狙いはユグドラシルの破壊だ。首謀者らしきアルジャーノンを始末したいところだが、術者は別にいる可能性もゼロじゃない。それなら、ユグドラシルを滅ぼすほうが確実だろう。
そう自分を納得させると、俺は建物の外へ向かった。