聖樹ユグドラシルⅠ
「ぅ……」
手に入れた膨大な情報に圧倒されながら、シンシアはゆっくりと目を開いた。目の前にあるのは、『極光の騎士』の鎧の鈍い光沢。まるで温かみなどないはずのそれは、シンシアに大きな安心感を与えてくれた。
そして、彼女は記憶を辿る。フィリスの夢を見た時は、寝起きであることや、感情のフィードバックが激しいこともあって、おぼろげにしか覚えていない事柄も多い。だが……。
――大丈夫、です。
シンシアは自分に言い聞かせるように呟く。今回得た情報は、すべて思い出せる自信があった。なぜなら……彼女はずっと眠っていなかったからだ。
自分の記憶を思い出す。本来であれば、ただそれだけの作業に夢を介する必要はない。今までできなかったのは、シンシアがフィリスの記憶を拒絶していたからだ。
「私は……」
こうして記憶を思い出せたということは、自分がフィリスと同一の存在だったということだ。それは認めざるを得なかった。そして、その理由にもうっすら思い至る。
あの時、天神降臨を使用したフィリスは命を落とした。それだけでなく、降臨の負荷に耐えかねて魂すらも壊れかけていたのだ。そして、そこに作用したのがユグドラシルだ。あの霊樹は人々を植物化するだけでなく、その魂を集める役目をも持っていたのだった。
と言っても、そこに集められた魂はエルフのもののみ。フィリスの魂は壊れかけていたが故に、誤ってユグドラシルに囚われたのだと思われた。だが、三千年の時を経てその束縛が緩み、彼女は転生したのだ。
――大丈夫。私は、私。
そして、自分の状態を確認する。フィリスの人格が自分を乗っ取るという、恐れていた事態も回避できたようだった。たしかに記憶は残っているし、その影響で変わったこともあるのだろう。
だが、それはあくまで知識が増えたという認識に近い。十七年間生きてきたシンシアのままだという自覚はあった。
「シンシア?」
頭上から声をかけられて、シンシアははっと我に返った。顔を上へ向けると、こちらを覗き込んでいたミレウスと兜越しに視線が合う。その事実は、彼女の張り詰めた心の糸を緩めてくれた。
「あの……突然すみませんでした。……でも、もう大丈夫です」
シンシアは彼から身を離すと、周囲を見回した。人々は一様に不安や恐怖に駆られており、いつパニックに陥ってもおかしくない状況だ。少しでもきっかけがあれば、一気に爆発するだろう。
そんな彼らに向かって、シンシアは穏やかな、それでいて芯の通った声で呼びかけた。
「皆さん、恐れる必要はありません」
その声に反応した者は意外と多かった。いつ自分が木にされてしまうのか。その恐怖に囚われた者たちに言葉が届いたのは、彼女の声に何かを見出したからだろう。
「……私は、この恐ろしい植物化に対抗する魔法を授かりました」
その言葉は、千人をゆうに超える集団の中に加速度的に広がっていった。彼らの視線が集まっていることを意識しながら、彼女は神聖魔法を行使した。
「――遍く人々に尊厳を」
術者を起点にして、金色の粒子が爆発的な勢いで広がっていく。森が金色に輝く光景を見ながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……もう、あんな思いはしたくありませんから」
◆◆◆
【『極光の騎士』 ミレウス・ノア】
シンシアが使った神聖魔法によって、森が金色に染め上げられる。それは幻想的な光景であり、こんな事態でなければ見入っていただろう。
だが、今は非常事態だ。おそらく彼女の言葉通りなのだろうが、今後の行動に影響を与える重要な部分だ。齟齬がないよう確認しておく必要があった。
「シンシ――」
「失礼する! 神官殿、今の言葉は真か!?」
だが、俺より早く口を開いた人物がいた。帝国軍の大隊長であるアレクセイだ。シンシアは法服を着ていないが、『授かった』という文言で察したのだろうか。
「ご安心ください。対抗魔法の効果範囲であれば、もう植物化することはありません」
俺の隣で、シンシアは穏やかな微笑みを浮かべた。それは見る者を安心させる笑みであり、どこか勇気づけるような笑みでもあった。
「おい、聞いたか!? 助かったぞ!」
「もう駄目だと思った……よかったわ」
彼女の返答は瞬く間に広がり、避難民や帝国軍に明るい空気が流れ始める。そんな中、帝国軍のほうから一人の人物が進み出る。男性はシンシアを見ると、驚いたような、それでいて嬉しそうな表情を見せた。
「やはりシンシア司祭でしたか。この作戦には従事しないと聞いていましたが、駆け付けてくれたのですね。助かりました」
「エルバ司祭、ご無沙汰しております。私はただ、無闇に命が奪われることを止めたかっただけです」
どうやら二人は顔見知りのようだった。おそらく同じ帝都のマーキス神殿の神官なのだろう。突然の展開だったが、シンシアは如才なく会話を進めている。帝国軍だけでなく、避難民たちも守るべき相手だという方向に話を誘導している様子が窺えた。だが……。
俺は思わずシンシアの横顔を見つめた。まるで別人のような気がしたからだ。彼女はどちらかと言えば口下手であり、こんなにスラスラと言葉が出てくるところを見たことはない。
それに、雰囲気が違う。今のシンシアから漂ってくるのは、穏やかで、かつ凛とした……まるで『聖女』のような雰囲気だ。慈愛に満ちた、としか表現できない微笑みはまさに『天神の巫女』の名にふさわしく――。
「え……?」
俺は自分の思考に声を上げた。俺にもたれかかっている間、彼女は前世の記憶を得ようとしていた。目覚めるなり、植物化の対抗魔法を使用したことからも間違いないだろう。
だが、それと同時にシンシアの雰囲気……いや、人格とでも言うべきものが変わっている。それが意味するところは……。
――まさか、前世の『天神の巫女』に取り込まれたのか。
そんな不安に襲われる。前世の『天神の巫女』は、人々を導いて古代文明を滅ぼしたそうだからな。ああいった物腰が身に付いていてもおかしくない。
疑心暗鬼のまま、彼女の一挙手一投足を見守っていると、どんどん不審に思えてきた。ふとレティシャのほうを見ると、やはり訝しげな視線をシンシアに向けていた。
君は誰だ。そんな言葉が喉元から出かける。だが――。
「……ん?」
ふと気付く。身体を預けていた時の名残か、彼女の左手はまだ俺の鎧に触れたままだ。そして……その手は、ずっと小さく震えていた。
前世の『天神の巫女』であれば、見ず知らずの俺に手を伸ばすわけがない。ということは、答えは一つだ。震える手が離れないよう、俺は彼女の隣に立ち続ける。
「――なるほど、フォルヘイムの王宮も対抗魔法の効果範囲内なのだな?」
「はい。金色の粒子の有無で見分けることができるでしょう」
「なるほどな……シンシア司祭だったか。礼を言う。さすがは『天神の巫女』だな」
そんなやり取りを経て、大隊長のアレクセイは帝国軍の中へ戻っていった。その後ろ姿を見ていると、隣のシンシアがくるりと向きを変える。ちょうど俺と向き合う形だ。
「ミレウスさん、その……私、変でしたか……?」
その物言いにほっとする。それはいつものシンシアだったからだ。パニックになりかけていた人々を落ち着かせるため、前世の記憶やスキルを流用して仮面を被っていたのだろう。
「いや……興味深くはあったが」
「本当に驚いたわ。あの対抗魔法もそうだけれど、シンシアちゃんが本当に聖女みたいだったもの」
そこへレティシャもやってくる。やはり彼女も同じ感想を抱いたようだった。
「それで……この後はどう動くの? 帝国軍は王宮を攻めるつもりなんでしょう?」
「そのようだが……どの程度兵士が残っているか」
俺は王宮のある方角へ視線を向けた。植物化を仕掛けてきた術者の視点で考えると、こんな街外れの森に潜んだ集団よりも、まずは王宮へ攻めこもうとしている帝国軍から対処するだろう。
そちらの対処が終わったからこそ、こっちを狙ってきた可能性は充分考えられた。
「だが……二度とあんな術を使えないよう、潰しておくべきだろう」
「そうね、同感よ」
「私もです……!」
そうして、俺たちの新しい目的が決まる。避難民たちはセインに任せることにして、俺たちは帝国軍を利用して元凶へ辿り着こう。道筋を確認すると、俺たちは頷き合った。
◆◆◆
「『極光の騎士』は別行動か。……肩を並べて戦ってみたかったが、それは欲張りすぎだろうな」
「……集団行動は得意ではない」
「そうは思えんが……まあいい。同じ方向を向いているのであれば、それ以上贅沢は言うまい。それではな」
そして、身を翻したアレクセイは、もう一度くるりと身を翻した。どうしたのかと視線を当てる俺たちに、彼は神妙な顔を向けた。
「救われた礼に、情報提供をしておこうと思ってな」
「情報?」
「此度の戦いには協力者がいる。……いや、内通者と言うべきか」
「なに……!?」
彼の言葉に目を見開く。それは看過できない情報だった。
「それはエルフ族の中に、ということか?」
「その通りだ。対エルフ結界の存在や、王宮へ攻め上るルートも、そこからもたらされたものだ。疑心暗鬼だったが、概ね情報は正確だった」
だが、とアレクセイは言葉を続ける。
「先ほどの植物化については、まったく情報がなかったからな。内通者も存在を知らなかったか……」
「もしくは意図的に伏せていたか、だな」
「ああ。エルフ側にも大きな被害が出ている以上、罠だとも言い切れないがな」
「ふむ……」
俺は少し考え込む。たしかにエルフ側にも大きな損害が出ているが、そのほとんどは混血種だ。純種のエルフにとっては、ただの数減らしのつもりだってあり得る。
そんな情報を提供すると、アレクセイも眉を顰めていた。
「まあ、もともと全面的に信用していたわけではないからな。罠である可能性も考慮しつつ、攻め込むだけだ」
そう言い切ると、アレクセイは男臭い笑みを浮かべる。
「……さらばだ、『極光の騎士』。また闘技場で姿を見る日を楽しみにしている」
大隊長アレクセイの指示の下、帝国軍がエルフ王宮へ向かっていく。その様子を見送った俺たちは、別のルートから王宮を目指した。
「ユグドラシル……それがあの植物化の元凶なのね」
「……無茶苦茶だな」
そして、その道すがらにシンシアから植物化の元凶、ユグドラシルについて詳しい話を聞く。すべては植物へ還るという思想については、まったく理解ができないが……純血のエルフであれば共感できる部分があるのだろうか。
『クリフが警戒していたのも、ユグドラシルのことだな?』
『その通りです』
駄目で元々と訪ねてみると、クリフはあっさりと認めた。そのことに驚いていると、クリフから念話が伝わってくる。
『主人がユグドラシルの存在を知ったことで、私のロックが解除されました』
『それなら訊きたいんだが……あの『鍵』とやらはユグドラシルの起動キーだったのか?』
『おっしゃる通りです。……そもそも、私が起動回数の復活方法を伝えなかったのは、こうなる事態を恐れていたからです』
『そういうことか……』
古代鎧の起動回数を復活させるためには、エルフ王族の承認が必要だ。だが、そうなれば封印していた『鍵』を奪われる可能性がある。そのために黙っていたのか。
『悪かったな。クリフの配慮を台無しにしてしまった』
『主人が謝ることはありません。何も伝えなかった私の責任です。……自力でエルフの王族の承認を勝ち取るなんて、さすがに想定外でしたからね』
『そんなに褒められると照れるな』
『今日の主人は前向きですねぇ……』
呆れとも賞賛ともつかない思念が伝わってくる。だが、俺は上機嫌だった。
『これまでずっと、クリフに主人として認められていなかったから、起動回数の復活方法を教えてもらえなかったんだと思ってた。けど、そうじゃないと分かったからな』
『……主人は、剣の技量については歴代最高ですからね。まあ、もう少し鎧に敬意を払ってもいいとは思いますが』
その言葉を聞いて思わず口角が上がる。クリフは照れているようだった。……と、そんな俺たちを神妙な顔で見つめる人物がいた。シンシアだ。
「シンシア、どうかしたか?」
尋ねると、彼女ははっとしたように瞬きをする。
「その……本当に、近衛騎士団長さんの鎧なんだな、って」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
「……つまり、この鎧の先代の主人を知っているのか?」
「はい、何度かお会いしましたから……」
クリフやシンシア、魔工研究所の人から聞いた話を総合すると、先代の主人は古代魔法文明を築いた王国を裏切って、人間側についた内通者のはずだ。面識があってもおかしくないか。
彼女は何かを思い出そうとするかのように目を閉じる。
「たしか……クリスハルトさん、というお名前だったような」
『――この方は、本当にあの時のことをご存知なのですね。驚くべきことです』
俺の頭に念話が響く。つまり、先代の主人はクリスハルトという名前で合っているのだろう。ということは、クリフも昔のシンシアに会ったことがあるのだろうか。
『そうですね……穏やかで落ち着いた方だったと思いますが、あまり記憶にありません』
『そうか……』
まあ、生まれ変わる前のシンシアのことを知ったところで、何が変わるわけでもないか。そんなことを考えていると、シンシアが再び声をかけてくる。
「あの……ミレウスさん。ユグドラシルの気配なんですけど、王宮とは別の方角から感じるんです」
「王宮じゃないのか?」
「はい……王宮よりもっと奥です」
言われて、俺は王宮の奥にある森に視線を向けた。なんの変哲もない森に見えるが……。
「そう言えば、あそこは立入禁止エリアだったな」
その森を見ているうち、ふとヴェイナードの言葉を思い出す。
「聖地だって言っていたわね」
「ユグドラシルがあるから、聖地にして、人を近付けないようにしていたのかもしれません」
「その可能性は高そうだな……」
ユグドラシルを操作している者は、王宮と聖地のどちらにいるのだろうか。どの程度ユグドラシルが遠隔操作できるかによるが、それを知る術はない。
もちろんユグドラシルを潰すのが最終目標だが、操作者を先に倒しておけば、ユグドラシルの破壊も容易になるだろう。
そう悩んでいた時だった。
「――おや、ミレウス支配人ではありませんか」
森の茂みから声をかけられる。警戒するべき場面だが、その声はよく知っている。
「ヴェイナードさん……状況はどうですか?」
「どの立場で物を言うかによります」
古代鎧に身を固めた彼は、意味ありげに言葉を吐く。おそらく、俺たちが帝国軍と合流したことも知っているだろう。
場合によっては、ここで戦闘になることもあり得る。その認識が、無意識に身体を戦闘モードに引き上げた。
「ああ、誤解しないでください。どの立場であっても、おそらくミレウス支配人とは敵対しません。ミレウス支配人の目的はなんですか?」
「ユグドラシルの破壊です」
その言葉に、ヴェイナードの身体がピクリと反応する。
「……まさか、ユグドラシルの名前までご存知とは。いったいどこでそれを?」
「さあ……誰がそう呼び始めたのか知りませんが、気付けばそう呼ばれていました」
「……」
俺の言葉にヴェイナードは沈黙する。だが、やがて彼は軽く肩をすくめた。
「まあ、そこは重要ではありません。皆さんはユグドラシルを破壊するつもりなのですよね? それならば、私もご一緒しましょう」
「ヴェイナードさんも、ですか?」
俺は大仰に驚く。ユグドラシルはあまりに有用な兵器だ。エルフの復権を果たすことだってできるだろう。本当にそんなものを破壊したがるだろうか。
「私には、あの思想は理解できませんからね。純種がどう考えるかは分かりませんが」
「ですが、兵器としては有用でしょう」
主義主張はあれど、兵器としての有用性に気付かないヴェイナードではないはずだ。すると、彼は聖地の方角に視線を移した。
「過去の亡霊は強大すぎます。過去の中で微睡んでいるエルフたちに大きな拠りどころを与え、彼らに停滞……いえ、逆行をもたらすでしょう」
そう告げる声は、まるで氷のように冷たい響きを帯びていた。
「まして、彼らがアレを操ることには不満しかありません。……事実、うちの区画民にも大きな被害を出したようですしね」
ヴェイナードも、避難していたハーフエルフたちが片っ端から植物に変えられたことは知っているようだった。その声にはかすかに怒気が混じっている。
「首謀者は聖地へ移動しています。近衛騎士団を始めとして、かなりの人数が聖地にいることでしょう。そこには魔法による防衛網も敷かれているはず。私抜きで聖地へ踏み込むのは、いささか困難だと思います」
「なるほど……」
本当にそれだけの人数が詰めているのであれば、たしかに面倒な事態だ。ただでさえ難敵だと思われるユグドラシルに加えて、エルフ軍の相手まではしていられない。
「展開にもよりますが、私はルナフレアたち要人がいるエリアに行くつもりです。ミレウス支配人たちの侵入が気付かれたとしても、あまり兵力を回せないよう尽力しましょう」
「ふむ……」
俺は兜越しにヴェイナードの目を見つめた。抜け目のない彼のことだ。本当にユグドラシルを破壊するつもりとは限らない。
だが、この古代鎧の主人であるフェリウス・クロークは、ヴェイナード派閥として認識されている。ここで俺を嵌めた場合、ヴェイナードにとっても大きな不利益が生まれるはずだった。
「ヴェイナードさんは要人エリアに行くとのことですが、目的をお伺いしても?」
「……有力派閥の長は、こういった機会を逃さないものです。この苦境を脱するために、もしくは脱した報酬として、通常では押し通せない無理を強いてくる可能性があります。そうなれば、派閥間の力関係に大きく影響するでしょう」
「無理を強いられるのは、ルナフレア姫ですか?」
「ええ。……彼女は数少ない同年代の知人でしてね。そういう意味でも、放っておくには気掛かりなのです」
ヴェイナードは冗談めかして付け加える。だが、それは意外と本音であるように思えた。
「……分かりました。一緒に行きましょう」
俺は頷くと、ヴェイナードを仲間に加えて聖地へと向かう。その道すがら、少し前方を歩いていたヴェイナードがスッと俺の隣へ移動してきた。
「ミレウス支配人。こんな時に何ですが……いえ、こんな時だからこそお願いしたいことがあります」
「なんでしょうか」
少し警戒心を滲ませながら答える。すると、彼は鎧の内側から何かを取り出した。それは、見覚えのあるイヤリングで――。
「それはシルヴィのものですね?」
少し語調が強くなる。彼がシルヴィから取り上げた可能性を考えたからだ。それが伝わったのか、ヴェイナードは軽く首を横に振った。
「ちゃんと交渉して、譲ってもらったものです。親御さんの前で別のものと交換しましたから、騙したり奪ったりしたわけではありませんよ」
そして、真面目な口調で答える。たしかに、無理に取り上げるようなことをすればセインが黙っていないか。
「そうまでして、どうしてそのイヤリングにこだわるのですか? 元の持ち主をご存知だと、セインさんから聞きましたが」
「その通りです」
「それは、どなたですか?」
俺も鎖に通されたイヤリングを取り出す。返答によっては譲ってもいいが、このイヤリングに思い入れがないわけではない。
「……」
ヴェイナードは逡巡した様子を見せたが、やがてまっすぐ俺を見る。兜のせいで顔は見えないが、その意思が伝わってくるようだった。
「……昔の恋人ですよ。もう亡くなりましたが」
「そうでしたか……」
そうとしか言えなかった。俺はこのイヤリングの来歴を知らない。セインが帝都に立ち寄った時に入手したということは知っているが、それより前の所有者がいた可能性はある。
『主人、そのイヤリングを譲るおつもりですか?』
と、そこへクリフの念話が割って入ってきた。
『セインが手に入れるより前の持ち主だったと言うなら、それも考えるが……何かまずいのか?』
『いえ、そんなことはありません。……まあ、あのイヤリングは私と同時代に作られたものですからね。それ以降、多くの所有者がいても不思議はありません』
『そんな昔のものだったのか……』
そう言えば、古代鎧を初めて起動した時も、クリフはイヤリングを気にしていた感があったな。同じ古代魔法文明時代に作られたものだから、あんな反応をしていたのか。
黙っている俺をどう思ったのか、ヴェイナードはイヤリングの内側を指で示した。
「ルミエール。そう彫られているでしょう? 持ち主だった女性の名前です」
「え?」
言われて、俺は自分が持っているイヤリングの内側を覗き込んだ。今まで気付かなかったが、たしかに何かが彫られている。だが、少なくとも俺が知っている文字ではない。
「そうか……これは古代語でしたね」
俺が首を傾げていることに気付いたのだろう。ヴェイナードは少し後ろを歩いているレティシャに視線を向けた。その意味を理解して、俺からレティシャに声をかける。
「レティシャ、この文字を読めるか? 人名らしいんだが」
「突然どうしたの? ……これ、古代語じゃない!」
驚きながらも、レティシャは手渡されたイヤリングの内側を覗き込む。
「……リュミエール、かしら」
「そうか……ありがとう、レティシャ」
俺は礼を言ってイヤリングを受け取る。多少発音は違うが、昔の文字だ。それくらいの誤差はあるだろう。
「そのイヤリング、どうしたの? 古代語が彫られているなんて……」
「少し前の話ですが、古代語で名前を刻むことが流行っていたのですよ」
俺より早くヴェイナードが答える。
「さすがエルフ族ね……そんな流行りがあるなんて」
そんな会話を二人がしているうちに、俺は返されたイヤリングをまじまじと観察した。つまり、古代文明時代のイヤリングにわざわざ名前を刻んだのか。俺なら勿体なくてできないが……傍流とは言え、さすがエルフ王族ということか。
「亡くなる少し前に、ルミエールはそのイヤリングを紛失してしまいましてね。活発な彼女にしては珍しく、悲嘆に暮れていたものです」
その声色には懐かしむような響きがあった。少なくとも、ヴェイナードがこのイヤリングを手に入れるためだけに、架空の人物をでっち上げたのではない。そう思わせるだけの感情が伝わってくる。
となれば、ヴェイナードの言葉はおそらく真実なのだろう。だとすると、このイヤリングを持ったままというのも気が引ける。エレナ母さんから貰ったものでもあるが、説明すれば気分を害したりはしないだろう。俺はそう結論付けた。
「……お返しします」
俺は鎖からイヤリングを外すと、いつの間にか隣に来ていたヴェイナードに差し出す。籠手を着けたまま、彼は器用にイヤリングを摘み取った。
「ミレウス支配人、感謝します」
神妙な様子で頭を下げて、ヴェイナードはイヤリングを小さな袋に収納する。それを鎧の中にしまい込むと、彼は再び先導するように前を歩き始めた。