天神の巫女
【天神の巫女】
王都のあちこちで火の手が上がり、もうもうと上がる黒煙が空を覆う。数日前に、この丘から見た美しい街並みはもはや面影もない。
人数の多さを頼みに交代で波状攻撃を仕掛けた甲斐あって、もはや王都は陥落寸前だった。王城には攻め上ることができていないものの、それも時間の問題だろう。
エルフの王は希代の魔術師らしいが、ろくに統治もせず研究に明け暮れていたという。ここまでされても動かないということは、王位にも統治にも興味がないのだろう。文明が発達し過ぎた故か、どこか退廃的なエルフたちにはお似合いの王だ。そして、それは彼女たちにとって望ましいことだった。
「……あと、もう少し」
その言葉とともに、胸に巣くう感情を押し潰す。そうしなければ、自分は前にも後ろにも行けなくなってしまう。そんな想念を振り払うように、彼女は視線を燃え上がる街に固定した。
王国の最大戦力であり、規格外の強さを誇る五大騎士も、うち三人については、万単位の犠牲と引き換えに討ち果たした。さらに言えば、一人は内通者であるため、残るはあと一人だ。
「――巫女様、お疲れさまです」
と、考え事をしていた彼女の前に青年がひょっこり顔を出した。一時は十万人を超えた義勇軍の一人だ。あまり接点はないが、こうして一人でいるとよく姿を現す気がする。
「あなたもお疲れさまでした。ご活躍なさったのでしょう?」
彼女は巫女としての笑みを浮かべる。二人とも先陣を切って戦いに参加したため、今は休息の時間だ。だが、彼はその初戦でかなりの成果を上げたはずだ。
「エルフを散々斬り捨てたという意味なら、そうですね」
対して、彼は誇ることなく肩をすくめる。戦いに辟易しているという部分では、二人は少し似ていた。
「それで、どうかなさったのですか?」
「どうもしていませんが……巫女様がまた暗い顔をしてると思って」
「そんなことはありませんよ。あと少しで私たちの悲願が叶うのですから」
そしてにっこりと笑う。それは、天神の巫女として長らく磨いてきた笑顔であり……信徒や義勇軍を死地に赴かせた笑顔でもある。
「ほら、その顔ですよ。暗いのは」
「……」
彼女はその指摘に憮然とする。見破られた悔しさと、じゃあどうすればいいのだという憤りが胸中で渦を巻く。
「あ、今の顔のほうが俺は好きですよ」
「……はぁ」
わざとらしくため息をつく。どうにもこの青年は苦手だ。彼女が必死で押し固めた感情を揺さぶろうとする。
「――お? 派手にやったな」
王都を眺めていた青年が呟きを漏らす。王城の上空に信じられない規模の氷塊が出現したのだ。それこそ、王城と同程度のサイズはあるだろう。
「あれは……リルの魔法かしら」
あれだけの規模だ。おそらく最高位の神聖魔法だろう。『海神の巫女』の姿を思い浮かべると、ぽつりと言葉を漏らす。
「あなたがここにいる以上、そうなるでしょうね」
「……そうね」
彼女は俯く。特に力が強いと言われる天神、地神、海神の三大神。その三柱は、それぞれ信徒の中から『聖騎士』と『巫女』を選定し、己が力を分け与えた。
だが、当初は六人いた彼らも、今や四人にまで減っている。何かと世話を焼いてくれた『地神の巫女』は魔術師の天敵とも言える魔物との戦いで命を落とし、『海神の聖騎士』は五大騎士との戦いで相討ちになったからだ。
もはや、最高位の神聖魔法を行使できるのは、自分と『海神の巫女』の二人だけだ。その事実が彼女を縛り付ける。
「それにしても凄い魔法だ……まさか、海神が降臨したわけじゃないですよね?」
「違います。それなら神々しい気配がここまで漂ってくるはずです」
青年の言葉を否定すると、なぜか彼は嬉しそうに笑った。
「よかった。神々を降臨させると、器となった神官は魂が砕け散ってしまうんでしょう? さすがにそれは悲しいと思って」
「神々の降臨は、気軽に行っていいものではありません。やむにやまれぬ事態の時にのみ使用するべきものです」
とは言え、この戦いは最終決戦でもある。その事態が訪れる可能性は否定できなかった。魂が砕け散るかどうかは、本人の資質と心の在り方に大きく左右されると言われている。その点で言えば、人間らしい感情に封をしている自分の魂は誰よりも脆いことだろう。
「あ、また暗いこと考えたでしょう」
そんな心を見透かしたように青年が顔を覗きこんでくる。ぷいっと顔を背けると、彼女は拗ねたように呟いた。
「……あなたのせいですから」
感情にさざ波が立ちそうになるのを、彼女は必死で押しとどめた。
◆◆◆
『海神の巫女』の猛攻によって、門を破られた王城。最後の勝負に出るべく全兵力を挙げて臨んだ戦いは、予想外の事態を迎えていた。
「みんな、ごめんなさい……」
彼女はぐっと拳を握りしめていた。数々の戦いを潜り抜けてきた仲間たちは、もはや何も言わない。ただ地面から生えているだけだ。
それは彼らが最も恐れていた事態であり、神々が介入した原因でもあった。
――すべては植物へ還る
長らく文明の頂点に位置し、次第に退廃していったエルフたちが辿り着いた思想。それは、もともと森の精霊であった彼らだからこそ、至った境地なのかもしれない。
この世界から知的生物を排して、文明を消滅させる。それが最終目標だった。
そして、そのための計画は神々すらも欺いて進んでいた。対抗するための神聖魔法を授かった時には、王都内にいる義勇軍の大半は物言わぬ植物と化していたのだ。
それでも生き残りがいるならば、と対抗魔法を発動させたが、動く影はどこにもない。魔法抵抗力の高い聖騎士と巫女の四人以外は、すべて植物になってしまったのではないか。そんな不安が心を覆う。
「――巫女様!」
不安を抱えたまま歩いていると、後ろから駆け寄ってくる足音が聞こえた。振り返った視線の先には、見覚えのある戦士の姿があった。
「あなたも無事だったのですね」
その事実にほっとする。彼がまだ植物化していないということは、自分の神聖魔法はちゃんと効果を発揮しているということだ。
「よかった、巫女様も無事だったんですね……! ところで、これは巫女様が?」
そして彼が指差したのは、王都中に漂っている金色の粒子だった。こんな非常事態でなければ、美しい光景だったかもしれない。
「ええ。遅きに失した感はありますが、植物化を防ぐ神聖魔法です」
そして、不自然に生えている木々に視線を移す。それだけで、彼も理解したようだった。
「もう完成しているなんて予想外でしたからね。誰も巫女様を責めたりしませんよ。それを言うなら、この事態を予見して、先に神聖魔法を授けてくれなかった神々のほうが――」
そこまで言って、彼は慌てて口をつぐんだ。目の前の人間が『天神の巫女』だということを思い出したのだろう。
「神々とて万能ではありません。大きな力は、私たちを通じてしか行使できないのですから」
もし自分にもっと神の器たる力があれば。彼らを救うことができたのかもしれない。そんな思いが彼女を責める。
「ほら、また暗くなる。……巫女様が全力を尽くしていることくらい、みんな分かってますよ。だから、もっと胸を張ってください」
「……」
彼が励まそうとしてくれていることは分かる。だが、たとえ自分がこの戦いを生き延びようとも、胸を張って生きられるとは思えなかった。そんな思いを察したのか、彼は話題を変える。
「あいつ、制御ユニットを隠しておいたから、しばらく起動はできないとか言ってたくせに……」
「成功していたのですね。こうなった以上、失敗したものと思っていました」
彼女の脳裏に協力者の姿が浮かぶ。自分たちだけでは止められないからと、身内を裏切って様々な情報を提供してくれた彼らだが、発覚すれば命はないはずだ。
「さっき本人の口から聞きましたから、間違いありません」
どうやら、彼は直前まで協力者と会っていたようだった。そのおかげで、あの忌まわしい植物化に巻き込まれずにすんだのだろう。
「制御ユニット抜きで起動させたのかもしれません。あの方たちを責めるわけにはいかないでしょう。……彼らは、今は?」
「王都の外れに隠れ家があるそうです。そこでやり過ごす気でしょう。途中までの護衛として、うちの小隊も付いていきました」
「護衛……?」
その言葉に首を傾げる。協力者は五大騎士の一人だ。護衛の必要があるとは思えないし、むしろ足手まといだろう。今までも、彼らに護衛をつけたことはないはずだ。
そんなことを考えながら、彼らは王城を目指して進む。その時だった。
「――!?」
半壊した王城が眩く輝いた。そして、王城を内側から突き破るようにして、何かが伸長する。その形状は、遠目からでも巨大な樹だと知れた。
「ユグドラシル!?」
絶望的な思いで、巨大樹の名を口にする。『すべては植物へ還る』という思想を実現するための、悪夢のような兵器。もとはエルフの聖樹であったそれは、妄執により在り方を歪められていた。
「間に合いませんでしたか……」
彼女は厳しい表情でその様子を見守る。こうなった以上、完全な総力戦になるだろう。聖騎士と巫女以外には、とても耐えられる戦いではない。
「……あなたたちは避難してください。王都に残っている義勇軍にも声をかけて、できるだけ遠くへ逃げて」
「巫女様、それこそ今さらですよ。今までだって勝算のない戦いばかりだったでしょう?」
「そういう次元ではありません」
彼女は首を横に振った。これまでは生きて帰るための戦いだった。だが、これは命と引き換えの戦いだ。いくら腕が立つとは言え、彼は特別に神々の加護を受けたわけでもなければ、英雄級の実力を備えているわけでもない。おそらく、ただの余波で命を落とすだろう。
それだけではない。彼へ向けられた攻撃を庇うことや、彼を巻き込まないように攻撃の手を緩めてしまうことを考えると、その存在はマイナスにすらなり得た。
「それでも、俺は……」
それが分かっているのだろう。彼は続く言葉を飲み込んだ。そんな彼に、彼女は優しく微笑む。
「私のことは気にしないでください。これも使命なのでしょう」
「使命もいいですが……巫女様は、もう少し自分のことを考えてもいいでしょう」
「……」
思わず沈黙する。自分のこと。『天神の巫女』ではない自分自身。かつて『天神の巫女』に選ばれるまでの自分は、どんな人間だったのだろうか。その頃の記憶はあまりに遠く、そして色あせていた。
「あなたの気持ちは本当に嬉しいけれど、これは私にしかできないことだから……」
そして、自分が役に立つ場面はここまでだ。王国を滅ぼした後は、新しい社会の担い手として、この戦いで活躍した者たちが台頭するのだろう。
だが、人間性が希薄になった自分では、その時代の導き手たり得ない。それこそ、彼のような人物が人々を牽引していくべきなのだ。
そんな思いのままに、彼女はゆっくりと周囲を見回した。
「この都は消滅するでしょう。天空の炎に焼かれるのか、大地に呑み込まれるのか、それとも大洪水にすべてを押し流されるのか。あの樹が倒れるまで、神々は攻撃の手を緩めません」
それは確信だった。神々が人間に大きく肩入れしたのは、人間の繁栄を後押ししようとしたからではない。危険な思想を持つに至ったエルフを、そしてその思想を体現する存在を滅ぼすために、最も都合がよかったからだ。
神々は時に無情だ。周囲の人間が巻き込まれようとも、神の摂理を冒涜しようとした都を決して許しはしないだろう。
「神々は、私たちの犠牲も致し方ないと、そう考えています。もし叶うなら、あなただけでも逃げてほしいけれど――」
それは彼女の偽らざる本音だった。『天神の巫女』の仮面の下を気にしてくれた人物。そんな彼に死んでほしいとは思わない。これからの社会でこそ、活躍してもらいたかった。
その思いが伝わったのか、彼は何かを堪えるようにきつく歯をくいしばっていた。
「けど――」
彼女は一歩踏み出すと、何かを言いかけた青年の手を両手で包む。
「大丈夫、これでも『天神の巫女』と呼ばれる身です。魂が砕け散るようなことはありませんから。……ね?」
そして、青年に笑顔を向ける。それは彼が苦手な『天神の巫女』としての微笑みだ。だが、たとえ空虚な仮面であろうとも、人々の安寧のために笑顔を磨いてきた事実に変わりはない。そこには『天神の巫女』として生きてきた、彼女なりの誇りがこめられていた。
「……」
彼女の笑顔を受け止めた青年は、やがて静かに頷く。そしてぽつりと呟いた。
「生きていて……くださいね」
そう告げると、彼は返事を待たずに背を向けた。そして一度も振り返ることなく、王都の外周部へ去っていく。
その後ろ姿を、彼女は無言で見送った。
◆◆◆
戦況は極めて悪かった。聖樹ユグドラシルの能力は、植物化だけではなかったからだ。
「アイフリード……!?」
戦い始めてからどれくらい経っただろうか。巨大な根に胸部を貫かれて、『天神の聖騎士』の手から剣が滑り落ちた。いかに神々から加護を受けようとも、胸に巨大な風穴が開いては生きられない。根がずるりと引き抜かれると、それに合わせて膨大な量の血液が噴き出た。
「あ……」
その厳格さとカリスマで人々を導いてきた仲間が、人形のように崩れ落ちる。彼女は信じられない思いでそれを見ていた。思わず駆け寄ろうとするが、その彼女を目掛けて無数の枝が飛んでくる。投擲槍を思わせる鋭く重量のある木の枝は、まともに受ければ一撃で即死するだろう。
「っ……!」
常時展開している魔法障壁のおかげでダメージはないが、勢いに負けて前へ進めない。もともと即死だっただろうが、もはや『天神の聖騎士』が蘇生する可能性はゼロだった。
「うぉぉぉぉっ!」
『地神の聖騎士』が怒りの咆哮を上げて大剣を振りかぶる。そのまま大剣を地面に叩きつけると、凄まじい破壊力を秘めた剣気が地面を伝っていった。
「え……?」
だが、その剣気は急激に進路を変えて、ユグドラシルから逸れる。廃墟と化した王城に激突した剣気は、触れた城壁を粉微塵に吹き飛ばした。
「今のは……」
おそらく、地面を伝っていく特性を逆手に取ったのだろう。この辺り一帯に根を伸ばしたユグドラシルは、防御も奇襲も思いのままであり、あまりに厄介な存在だった。本来ならば、その地面をどうにかすればいいのだが――。
「オリヴィア……」
思わず故人の名を呟く。本来なら、『地神の巫女』である彼女が対処する事案だ。だが、彼女はもういない。そして海神は、この内陸の地では十全に力を振るえないだろう。
……だが。天神であるマーキス神であれば、天からの一撃を遮るものは何もないはずだ。
「仕方ありません……よね」
その事実を認識した彼女は、静かに覚悟を決めた。それは最終手段だからと、使用に反対していた『天神の聖騎士』も倒れた。『地神の聖騎士』と『海神の巫女』はよく戦っているが、四人がかりでさえ劣勢だったものが、ここへきて覆るはずもない。
魂が砕けるのと、死ぬのとでは何が違うのだろう。誰も答えを持っていなかったが、死よりも酷い最期と考えて間違いない。人をさんざん死地へ追いやった自分にはふさわしい末路だ。何度も何度も、自分にそう言い聞かせる。
「天空を統べ、すべてを見通す偉大なるマーキス神よ……」
――生きていて……くださいね
詠唱中に、ふと青年の顔が脳裏をよぎった。その瞬間、彼女の心にちくりと棘が刺さる。だが、後戻りはできない。心の痛みを抱いたまま……彼女は神の奇跡を願った。
「我が肉体、我が魂をもって器となし、現し世に顕現したまえ――天神降臨」