宴席Ⅲ
「よっぽど切羽詰まってるのか……?」
ヴェイナードから思いがけない誘いを受けた俺は、一人でぼそりと呟いた。彼の姿はもうない。断られて気まずくなったから、というわけではないだろうが、一人で館へ戻ったのだ。
そして俺はと言えば、一応誘いを蹴った身だということもあって、なんとなく邸内には戻りにくかったため、酒杯を片手に裏庭からフォルヘイムの景色を眺めていた。
「あら、こんな所にいたのね」
そこへ声をかけてきたのはレティシャだった。外の空気が吸いたくなったのかとも思ったが、その手には中身の入ったグラスが握られている。彼女のことだから、屋外で飲みたくなっただけかもしれない、
「ちょっとヴェイナードに呼び出されてな」
「それで、二人でこんなに素敵な景色を眺めていたの? 少し妬けるわね」
悪戯っぽく笑うと、レティシャは俺の隣に腰を下ろした。彼女の衣服の裾がふわりと俺の腕を撫でる。
「腹黒コンビが密談するなんて、どんな悪だくみをしていたのかしら」
「大したことはないさ。この国の現状を色々と教えてもらったくらいだ」
「そうなの? ヴェイナードさんが少し気落ちして戻ってきたから、ミレウスを仲間に勧誘して、そして断られたのかと思ったわ」
その的確な指摘に俺は肩をすくめた。
「……見ていたわけじゃないんだよな?」
「ということは、私の予想通りと考えてよさそうね。……ミレウス、モテるわねぇ」
そして、嬉しそうにグラスを傾ける。度数が高い酒でも入っているのか、彼女にしてはゆっくりした減り方だ。
「ヴェイナードさんは王家の傍流で、第三位の派閥の後継者なんでしょう? そんな人に見込まれるなんて、さすがはミレウスね」
「フォルヘイムの外で育った人材が欲しいそうだ。たまたま外部で育ったクォーターエルフがいたから誘ってみた。その程度の話さ」
「そうかしら。あなたは帝国最強の剣闘士で、古代鎧の継承者よ? それに、闘技場を瞬く間に上位に押し上げた経営手腕だってあるわ。もし私がヴェイナードさんなら、絶対に手放したくないもの」
「それは困るな……俺には闘技場がある」
そう答えると、レティシャは楽しそうに笑った。
「でしょうね。ヴェイナードさんにもそう言って断ったんでしょう?」
「ああ。本当に見てたみたいだな」
「ミレウスのことならなんだって分かるのよ。……なんて」
レティシャは俺の顔を覗き込むと、クスクスと笑う。その様子はいつもと少しだけ異なっていた。酔っぱらっているわけではないが、彼女にしては酒が回っているようだ。
「レティシャ、少し酔ってるか? 珍しいな」
「酔ってたらどうするの? ベッドまで運んでくれるのかしら? ……ふふ、それも魅力的ね」
「本当に潰れたら連れて行くが……そこまで酔っちゃいないだろ?」
「もちろんよ。自分の酒量は弁えているもの。……けど、この前みたいに紳士的なミレウスが見られるのも悪くないわね」
彼女が言っているのは、変異種討伐後のことだろう。ほとんど動けない様子のレティシャを、しばらく抱きかかえて歩いたのは事実だ。
「そうだな。この前みたいに、恥ずかしがるレティシャが見られなくて残念だ」
そして、からかいをこめて言い返す。いつもの言動とは裏腹に、横抱きにされた彼女は恥ずかしそうだったからな。視線をほとんど合わせてくれなかったくらいだ。
「もう、意地悪ね……」
俺の言葉を受けて、彼女は頬をうっすらと紅潮させた。その赤みが酒精のためでないことは明らかだった。
「……でも、あの時は本当に助かった。レティシャが決死の覚悟で筋力強化を使ってくれなかったら、死んでいたのは俺のほうだった」
「お礼はいいわよ。ミレウスが助けてくれなかったら、私は変異種の最初のテレポートで殺されていたもの」
「それでも、レティシャの覚悟には釣り合わないさ」
それは俺の本音だ。俺は命を懸けたわけではない。自分も助かるついでに、彼女を助けただけの話だ。
「あの時……たまたまシルヴィから魔道具を預かっていなければ、レティシャを守れていなかった」
そのことを考えると、今でも心臓が凍り付きそうになる。俺の力とは関係のない、ただの偶然の範疇。それがなければ、俺はレティシャを失っていた。
「そして、その偶然を生かして私を助けてくれたでしょう? 技術をぶつけ合う剣闘試合と違って、冒険者の戦いはそういうものよ。だから、それで充分よ」
「だが……」
なおも言い募ろうとした俺の唇に、ひんやりしたものが押し付けられる。レティシャの人差し指が、俺の口を塞いでいた。
「釣り合いなんて考える必要はないわ。後になって後悔しないように、力を尽くしただけだもの。……失う時は、本当に一瞬だから」
ふっとレティシャの瞳が翳る。その眼差しのまま、彼女はグラスに視線を落とした。過去の何かを思い出しているのだろうが、その胸中は分からない。そう言えば、俺はレティシャの過去をほとんど知らない。かつて冒険者をしていたことは知っているが、それだけだ。そんなことに思い至る。
彼女の過去に興味はあるが、そんな立ち入った話を軽々しくするわけにはいかない。だが……。
「何かあったのか?」
今なら聞いても大丈夫だ。そんな気がした。
「ミレウスといると、つい口が軽くなっちゃうわね。……一つ、物語を聞いてもらってもいいかしら」
そう告げると、レティシャは懐かしむような顔で語り始めた。
「――昔、とある国に劇団があったの。あまり大きな劇団ではなかったけれど、人気のある舞台女優がいたおかげで、人々の評判はよかったわ」
「……?」
予想外の出だしに目を瞬かせるが、沈黙を貫く。彼女の言葉を遮るつもりはなかった。
「そんなある日、劇団の後援である貴族と、舞台女優の間に子供ができたことが発覚したの。まあ、あの界隈では珍しいことじゃないわ。そして、その貴族は舞台女優を妻にしようとしたけれど……平民との婚姻が認められないこともまた、よくある話ね」
よくあるかどうかは知らないが、帝国でも似たような話を聞いたことはあるな。
「それから数年後。結局、その貴族は家格にふさわしい貴族令嬢と婚姻したの。女優のほうも、そうなることは分かっていたから、落胆したりはしなかった。生まれた娘は劇団の仲間たちの間で育っていたしね。でも……一つ問題があったの」
遠い目をしたまま、レティシャはグラスを呷る。
「その貴族の家系は、代々優れた魔術師を輩出することで知られる家だったのよ。にもかかわらず、正妻や側室との間に生まれた子供たちには、傑出した魔術の才能がなかった。このままでは家名の没落は避けられない。そんな時……貴族の子供の中に、一人だけ魔術の才能に優れた子がいることが分かったわ。舞台女優の娘よ」
やはりか。嫌な予感が当たったことで、俺は苦い表情を浮かべた。
「そのことを知った貴族の正妻は焦ったわ。子供たちが似たような才能の持ち主ばかりであれば、正妻である自分の子が家を継ぐことになったのに、って」
そして、レティシャは肩をすくめてみせた。
「後は想像がつくでしょう? その子を狙ったと気取られないようにでしょうね。強盗に扮した集団が、劇団ごとその子を襲撃して――」
彼女は握り拳を目の高さまで持ってくると、掌を上へ向けてパッと開いた。
「その場で生き残ったのは、標的の女の子だけだったわ。襲撃者を含めてね。その後、たまたまその場にいなくて難を逃れた団員たちと一緒に、その国から逃げ出したの。その時点でも人並み以上に魔術は扱えたから、冒険者としてやっていけたことが救いね」
レティシャは小さく息を吐くと、次の瞬間にはいつもの表情を浮かべた。その顔を見て、彼女の独白が終わったことを理解する。
「月並みなことしか言えないが……大変だったんだな」
そう口にするのが背一杯だった。彼女の魔法の才能や、美しい歌声。そして、人々の印象に残る振る舞い方。それらの背景に触れた気がして、思わずレティシャを見つめる。
「暗くて面白みのない話だから、言うつもりはなかったけど……私ばかり、ミレウスの過去を知ってちゃ不公平だもの」
そう言ってから、彼女は艶然とした微笑みを浮かべる。
「ミレウスだから教えたのよ? あまりこの話をすることはないけれど……あなたには知ってほしいから」
そう告げて、レティシャはわざとらしく俺の腕にしなだれかかった。蠱惑的な上目遣いが俺を捉える。その瞳に搦めとられそうな気がして、俺は少し視線を逸らした。
そして、ごまかすように残り少なくなったグラスを傾ける。溶けきっていない氷が、カラン、と音を立てた。
◆◆◆
「そろそろ室内に戻るか?」
裏庭でレティシャと酒を飲んでいた俺は、残り少なくなったグラスを一気に呷った。
「そうね。殊勲者を私が独り占めしちゃ悪いもの」
合わせるように、レティシャも盃を大きく傾ける。そうして立ち上がろうとした時だった。キィ、と裏口の扉が開く音が聞こえた。
「ミレウス、さん……?」
「シンシア?」
呼びかけてきた声はシンシアのものだった。どこか思い詰めた様子の彼女は、恐る恐る、といった風情でこちらへ歩いてくる。
「シンシアちゃん、大丈夫?」
「あ……レティシャさんもご一緒だったんですね」
シンシアの表情が強張る。何か内密の話でもあったのだろうか。
「私は外したほうがいいかしら?」
レティシャも同じことを考えたようで、軽く腰を浮かせて問いかける。だが、シンシアはぶんぶんと首を横に振った。
「レティシャさんにも、お話しするって約束しましたから」
「約束……?」
呟いてから、はっと思い出す。変異種を討伐した時に、シンシアがした約束。それは――。
「シンシアが変異種のことを以前から知っていた理由、だったか」
新種だとしか思えない変異種のことを何故か知っていて、なおかつ対処するための神聖魔法まで授かっている理由。普通に考えればあり得ない話だ。
「はい……」
彼女は大人しく頷いた。今日のシンシアがやけに神妙だったのは、それが原因だったのだろう。
「シンシアも座ったらどうだ? 俺たちだけ座ってるのも悪いし」
「ありがとうございます。……でも、今はいいです」
答えると、シンシアは俺たちの前に立つ。そして、しばらく微動だにしなかった。緊張しているにしても、さすがに心配になるレベルだ。
大丈夫か。そう声をかけようとしたところで、シンシアは意を決したように口を開いた。
「お二人は、『生まれ変わり』を信じますか?」
「生まれ変わり……?」
あまりにも唐突な単語に、俺とレティシャは顔を見合わせた。
「はい。その……」
対して、シンシアは何度か言いよどんだ後で、ポツリと真相を口にする。
「――私は……三千年前の『天神の巫女』の生まれ変わり、だそうです」
静かな夜景に、その言葉だけが飲み込まれていく。そして、言葉の意味がゆっくりと俺の頭に浸透してきた。
「……」
まったく予想していない展開を受けて、レティシャに視線を送る。どうやら彼女も戸惑っている様子だった。
「レティシャ、そういったケースは聞いたことあるか……?」
「たしかに転生という概念はあるけれど、実証されたことはないわ。でも……」
レティシャはちらりとシンシアに視線を向ける。彼女が嘘をついているようには見えないし、そもそも俺たちを騙すメリットもない。
「それってどんな感じなんだ? 前世のことを覚えているのか?」
俺は興味本位で尋ねる。真偽判断は置いておくことにして、シンシアが三千年前の『天神の巫女』の生まれ変わりだという仮定で話を進めよう。
「はい……大体のことは覚えています」
「それって、どういうふうに思い出すの? 生まれた時から? それともどこかのタイミングで一気に思い出すのかしら」
俺の質問に続けてレティシャが口を開く。彼女も興味を抱いているようだった。
「その……十歳くらいから、夢を見るようになったんです。とてもリアルな夢を、何度も……」
「夢……?」
ただの夢か、と拍子抜けしそうになる。だが、それが神聖魔法に繋がっているのであれば、そんな単純なものではないのだろう。そう言えば、神託は夢の中で下りることが多いのだったか。
「順番はバラバラですけど、全部同じ人の視点だって分かるんです」
「それじゃ、その視点というのが……」
俺の言葉にシンシアはこくりと頷く。
「はい。三千年前の『天神の巫女』……他の神々の聖騎士や巫女とともに、人間を率いて古代魔法文明を滅ぼした方です」
「なんだって……!?」
「ミレウスの古代鎧は、その古代魔法文明のものよね……なんだか因縁めいているわね」
思わぬ大物の名前に驚く。そもそも、そんな歴史があったことすら知らなかったくらいだ。
「神託でもない限り、他の夢はすぐに忘れてしまうんですけど……フィリスさんの夢だけは、一度見たら忘れられないんです」
シンシアは俯いたまま胸を押さえる。フィリスというのは、三千年前の『天神の巫女』の名前なのだろう。
「それって、つまり古代魔法文明時代の記憶があるということ? 凄いじゃない……!」
対して、レティシャは目を輝かせた。古代魔法文明のレベルに到達することを目標とする魔術師は多い。そんな彼女からすると羨ましい限りなのだろう。だが――。
「シンシア……何か負担があるのか?」
そう尋ねたのは、彼女の表情が暗かったからだ。単に前世の記憶を受け継いだだけで、そんな表情をするものだろうか。
「それは……」
シンシアは驚いた様子で顔を上げる。そして、ぽつりと口を開いた。
「……フィリスさんの夢は、感情が流れ込んでくるんです」
「感情が……?」
俺も夢で焦ったりすることはあるが、そういうレベルではないのだろう。彼女が転生しているのあれば、それは過去の記憶だ。感情だって容易に蘇るはずだ。
「仲間を失った悲しみや、多くの人を死地へ送りこんだ後悔、軍勢を率いて転戦し続けていたことによる疲弊……そんな感情を責任感でねじ伏せて、フィリスさんは『天神の巫女』として振る舞っていました」
そして、彼女は悼むように目を閉じる。
「でも……フィリスさんの心はもう限界でした。今すぐ逃げ出したい。それが叶わないなら、いっそのこと戦いで命を落としたい。そんな感情が流れ込んできて……」
「それは……」
奴隷扱いされていた人間種が、古代魔法文明に牙を剥いた。その旗印であったなら、彼女の負担は想像を絶するものだったはずだ。まして、感情と使命の板挟みになっていたとなればなおのことだ。
「古代魔法文明の崩壊は、人間にとっては華々しい歴史の転換点だけど……当事者はそんな思いを抱いていたのね」
「責任感の強い人だったんだな……」
それこそ、目の前のシンシアのようだ。彼女が同じ立場であれば、同じ目に遭っていたのではないだろうか。
「それで、シンシアの顔色が優れなかったのか」
「はい……まるで、ねっとりしたものが身体に詰まっているようで……いくら呼吸をしても、空気が入ってこない気がするんです。
特に、夢を見るようになった最初の一、二年は大変でした」
「そうだろうな……」
十歳くらいから夢を見るようになったと言っていたからな。その歳の少女が背負うには、あまりに重すぎる感情だ。
「感情の苦しさもそうですけど、自分が誰なのかよく分からなくなってきて……日によっては、フィリスさんのように振る舞っていたこともあったそうです。
それで、病気を心配した両親が色々なところに相談して……マーキス神殿に引き取られることになったんです」
「それは、『天神の巫女』の記憶を持っていたからか?」
とは言え、十歳の少女が夢の内容を話したところで、それが三千年前の『天神の巫女』の記憶だと分かる人間はいないはずだ。そもそも、十歳のシンシアが夢の主体を『天神の巫女』だと気付いていたかも怪しい。
だが、シンシアは首を縦に振った。
「はい。ガロウド神殿長に神託があったそうです。『天神の巫女』の記憶を持つ少女が現れるから、保護するようにって……」
「ガロウド神殿長が?」
思わぬ名前に俺は目を丸くした。巨人騒動の際に、帝都のマーキス神殿で話をした記憶が蘇る。
「そこで、初めて知ったんです。私の夢は昔の記憶で、『天神の巫女』と呼ばれていた人のものだって……」
「なるほどな……」
ガロウド神殿長の神託のおかげで、シンシアは自分の夢が妄想の類ではなく、意味のあるものだと分かったのか。それがせめてもの救いだな。
「その夢は、今でも見るのか?」
「はい……目新しい内容はなくて、十回目、二十回目の夢も多いですけど」
つまり、その度に苦しい思いをしているわけだ。それどころか、当時のことを思い出すだけで苦しいのだろう。そうでなければ、彼女がこんなにつらそうな顔をする理由はない。
「じゃあ……話を戻すけど、シンシアちゃんが変異種を倒す神聖魔法を使えたのって……」
「あの頃は、魔工研究所のような施設がたくさんありましたから……」
「つまり、同じような変質の仕方をした魔物がたくさんいた?」
「はい……いろんな種類がいましたけど、一番手強いタイプでした。初めて遭遇した時は、特性を見極める前に大混乱になって……それで――」
シンシアの顔が歪み、呼吸が浅くなる。その様子だけで、彼女が当時の記憶を自分のものとして捉えていることが分かった。
「――シンシア、もういい」
下手に思い出させると、過去の『天神の巫女』に取り込まれるのではないか。そんな根拠のない不安に襲われて、シンシアの言葉を遮る。
「重要な秘密を明かしてくれてありがとう。思い出すのもつらいだろうし、それ以上は言わなくていい」
「はい……ありがとうございます」
すると、シンシアは弱々しい顔で微笑んだ。その顔を見て、判断は間違っていなかったと確信する。
「さ、室内へ戻ろう。夜も更けて冷えてきたからな」
立ち上がって裏口の扉を開くと、邸内の賑やかな声が漏れてくる。女性二人を先に通すと、俺は最後に裏口の扉を閉めた。そして、シンシアの後ろ姿をぼうっと眺める。
――結局、三千年前の『天神の巫女』はどうなったのか。その言葉を、俺は何度も飲み込んだ。