なかったことにされるボタン
ああ、今回の依頼はとんでもないものだ。
まず、目的はいい。
目的は、浮気した(元)彼氏を消してほしい、とのことだ。
復讐なんてものはいつだってワンパターンでばかばかしいとは個人的に思うのだが、それが俺の金になるのなら、何、全く問題ない。
この程度のことなら俺に来る依頼としてはよくある部類だ。
だが、その次、手段が問題であった。
「私の彼に対する記憶ごと消してほしいの」
思わず俺は自分の耳を疑ったね。
確かに俺は金をもらえばなんでもやる、という触れ込みでこの稼業をやっている。
だがしかし、だ。
「あんたは俺のことを神様かなにかと勘違いしてやしないかい?」
何でもやるといっても当然俺は人間だ。
当然これまで法に触れることであっても、金のためならそれこそ何でもやってきた。
とはいえ、限度というものがある。
人の記憶なんていうどういう仕組みなのかもさっぱりわからないものを俺にどうにかしてくれ、といわれても困るのだ。
「ええ、ええ、そう言うのは当然わかっていたわ」
ところが俺の依頼人であるところの彼女はさもありなんといった調子で一つ頷くと、
「実は……」
と言って依頼のキモ、となる部分を話し始めた。
「実は、貴方にはある『ボタン』を押してきてほしいの」
「ボタン、だと?」
「ええ、そう、そうなの」
「その、ボタン、……と、君の依頼であるところの人を消してほしい、というところでつながりが見えないな」
素直にそう告げる。
依頼の最中は思ったことを正直に言うのが重要だ。
終わった後にこんなはずじゃなかったのだ、なんて言われても困るだけだから、である。
「まぁまぁ、そう結論を急がないでよ」
女は置いてあったお茶を一口飲み、言葉を続ける。
「そのボタン、なんだけどね。私の父親とその仲間たちが開発したボタンで、今はある施設に厳重に保管されているわ」
「へぇ。それで?」
「そのボタンを、『消したいもの』を考えながら押すと、この世界から『なかったこと』になるんだって」
「ばかばかしい」
俺は鼻で笑った。
「ばかばかしい? ふふっ、でもね、本物なの」
女はどこか狂気に飲まれた目をしている。
「仮に本物だとして。何かを消しました、はい、その通り消えました。そうなったとき、誰がどうやってそのなかったものについて証明できるというんだ?」
「……、これ、なんだと思う?」
一向に取り合おうとしない俺に対して、女はポケットから何やら黒い豆、のようなものを取り出した。
「なんだ、これは?」
「たぶん、貴方の事務所にも、やっぱり、あった」
見たこともない豆に注目していた俺は、女が勝手に俺の事務所の奥のほうに進むのに止めるかどうか逡巡するスキを作ってしまった。
だが、その短い間に女は目的のものを見つけてしまったらしい。
「冗談だろ? そんなでかいものが俺の事務所にあったっていうのか?」
「この豆は、『コーヒー豆』、っていうらしいわ。で、この大きいのは『ミル』」
噛んで砕くような女の説明、だが、俺の事務所の中にあったというそれに、俺は全く聞き覚えがない。
女は器用にその装置を使って、見る間に真っ黒い液体を作り出した。
毒、にしか見えない。
「飲んでみて。毒ではないわ」
女は自分でも一口飲み、毒ではないことを示してから俺にカップを渡してくる。
ええいままよ、と口に含んでみると、口の中に苦みが走った。
すわ毒か!? と一瞬驚いたが、しかしながら、どこか懐かしい味がする。
俺はこれをどこで飲んだというのだ。
「知らなくても無理はないわ。だって、これ、お父さんたちがボタンで消してしまったの」
「……、消えてないじゃないか」
「ええ、でも貴方はこれを知らなかった。この豆の量といい、そして使い込まれたミルといい、貴方はコーヒーをきっと毎日飲んでいた」
「嘘をつくんじゃあないよお嬢さん。俺は毎日緑茶を飲んでいるんだ。こんな黒々とした飲み物じゃない」
俺がそういうと、彼女はふふっ、と笑い、それは、このコーヒーが務めていた役目を何か別のものが取って代わっただけなの、と説明した。
ボタンを押したのは今から3か月前だというが、その時に緑茶があったか? と彼女に言われれば、確かに3か月前、毎日飲んでいたはずの緑茶が忽然と俺の事務所から消えてしまった、と急いで買いに行った記憶がある。
「俺が、これを毎日飲んでいたというのか……?」
呆然と俺がつぶやくと、彼女は
「貴方だけじゃないわ。外に出てみれば誰もがこの黒い液体を飲んでいたはずなの。でも誰もコーヒーを知らない。それは……
『消えた』ことになるんじゃない?」
「……、だが、その存在を消すわけじゃないんだな」
つまり、依頼とは彼のことを考えながらこのボタンを押してほしい、ということだと理解し、『随分と優しい女なのだな』、とやや皮肉った調子で返すと、
「優しい? 冗談はやめて頂戴。本当は彼に死んでもらいたいと思ったことだってあるわ。でも、そんなんじゃ私の気が済まないの。私を捨てておいて、今ものうのうと生きていることが許せないの。だから、みんなから忘れられて、でもそれをなした私はもう彼の思い出の品なんてもの全部捨ててしまった。私が彼について思い出すことなんて二度とないわ。ちょうど貴方が愛飲していたコーヒーを思い出すことがないようにね。復讐者からも忘れられてしまう、それは最高の復讐なんじゃないかしら?」
女は一息に吐き捨ててしまった。
まぁ、依頼者の内心なんて俺の気にするところでは本来ないのだ。
だから、気になるのはこれだ。
「俺がそのボタンで彼を消したとしてだ」
「ええ、言いたいことはわかります」
彼女は食い気味に俺の言葉にかぶせてきた。
「消してしまったとして、その報酬はどうするのか、ということでしょう?」
そうだ、なんせこの依頼内容は、対象の抹消が目的である。
抹殺ではなく、抹消。
つまり事後で報酬を貰うとなると、そもそも彼女は依頼の内容からしてわからないのだから報酬の貰いようがない。
事前に報酬を貰うとなると、彼女にとっては何故俺に金を払ったのかがわからなくなる。
その点をどうするのか、と彼女に話そうと思ったが、彼女も馬鹿ではないらしい。
すぐさま俺の言いたいことを把握したようで、彼女は俺に金をよこした。
人を殺すには足りないが、施設に忍び込みボタンを押す程度なら貰いすぎだと思える額。
「前払いってことか? だがそれでは、そもそも、貰いすぎだ……」
「それは、あいつつながりの金なの。つまり、私がそれを覚えている限り、貴方はまだボタンを押せていないことになるわ。そうね、一週間後、まだ私が彼のことを覚えているようなら、その時は返してもらいに来るわ。でも押せたなら……」
「ははあ、そもそも金をやったことさえ覚えていないというわけだ」
なんともまあ賢い取引だ。
ただし、押しに行く前に、預かった金に何かメモをせねば俺も何故もらったのかわからない金になる、という注意だけしておけばいい。
いや? コーヒーとやらをこの女は知っていたということは、ボタンを押した本人のみは記憶が消えないのだろうか。
それとも、紙にそのコーヒー豆とやらの存在を書きつけておいて、押してから確認したのかもしれない。
「しかし、復讐なんて、殺すとか、その程度のことしかないと思っていたが、こんなこともあるものだな」
「ふふっ、女は怖いものなの。それじゃあ、頼んだわね」
俺の呟きを、依頼完了の合図だと受け取ったのか、彼女は微笑み、事務所から出ていってしまった。
施設の中身についても話の流れでうかがえたので、しいて言えばボタンを押した本人がどうなるのかという一点が気になる程度でこちらから話すようなことももう特にない。
彼女が出て行ったあと、俺は施設への侵入を計画するため、事務所を締め切ることにした。
依頼の件について計画を立て終わり、無事施設への移動ルートを組み立て終わった俺は、先ほどの女の見よう見まねでコーヒー、というものを作ってみることにして、
――受け取った金を見て、ふと思った。
どうしてさっき『貰いすぎだ』と言ってしまったのだろう。
……、人を殺すにはあまりにも足りないではないか。
しかしながら先ほど「貰いすぎだ」と言ってしまった手前、今更彼女を追いかけて追加金を頂戴願うのもいささかばかり情けないとしか言えない。
いや、そもそもの話、
――俺は何故こんな施設に忍び込もうとしているのだ?
「ああ、やっぱり復讐は殺すとか、その程度しかないよなぁ。ばかばかしい」
ある施設で、ボタンのことを考えながらボタンを押した誰かがいたことを、俺は終ぞ、知る由もなかった。
『なかったことにされる』ボタン