第2話
こうこうたる満月のもとに、大きな甲虫のシルエットが黒く浮かんでいる。
二本脚で立ちヒョコヒョコ跳びはねながら屠畜場へとむかっていく。
ピリアはそれを寝床である厩舎の屋根裏からみていた。
ベッドが小窓にちかいので、ねむりかけたところ物音に気づいたのだ。
窓べりに指をあててのぞきながら、少しの動揺のあと娘はためいきをつく。
あのようなものはきっと近くの悪ガキにちがいない、と考える。
過去に忍びこまれたときなどは、知らずに朝をむかえ、伯母にひっぱたかれたこともある。
夜のうちに預かりもののブタ二頭が放たれ、ニワトリ三匹がくびり殺されたのだ。
同じ雇われ人のビリィはそのころすでに体調をくずしており、すべてピリアのせいにされた。
その日から夜の仕事場の責任はピリアがもつことになっている。
くたびれたガウンをはおり、頭上の机から古さびたランタンをとって灯すと、
「ビリィ、あたしちょっと出てくる」
ボロ布一枚で仕切った向こうへ声をかけたが返事はない。
その仕切りの隙間から手をのばし、ピリアは壁に立てかけられた老ビリィのステッキをひっつかむとすばやく梯子から下へおりた。
灯をさして月夜を進むなかでは、闇にうごめく大きな虫の姿をつい想像してしまう。
オサムシやカミキリなどの虫なら家畜の腹でもよく目にする。餌にまじり口へ入ったものが、ちぎれて消化されかかった状態になって出てくるのだ。
そのため他の十四歳の娘子より、彼女はそうしたものにだいぶ免疫があったが、小屋のほうから乱雑な音がきこえてくるとさすがに不気味を感じた。
(悪ガキは子牛を相手するように思いきってしつけてやらなきゃ)
水車小屋のあたりによくたむろしている子供たちの姿を思いうかべ、つとめて気味の悪い想像はおいはらうようにして近づいていく。
ステッキを固くにぎりしめ、開け放されている屠畜場の入口からそっと中をのぞいた。
さしこんでいる月明りの下では、それはやはり幼子のように見え、ピリアの半分ほどの背丈が壁ぎわの棚にむかって夢中で動いている。
ガラガラガラガラッ――と、ピリアの足元へなにか回りながらすべってくる。
それは動物の血を一時的にうけるための鍋だった。
細い把手が指になじんでとても使いやすく、形もよくて彼女のお気に入りの仕事道具である。
ピリアはおもわずカッとなり、つかつかと歩みよると、シルエットの太ももあたりめがけてステッキを打ちすえた。
「アァッ!」
曲者は声をあげ、体をねじりながら尻もちをつく。
さらにステッキを突きつけておどかすと、影は顔をかばうように左手をふりあげた。
その手は思いのほか長く、先端が娘の手をかすった瞬間、
「あっ」
痛みがはしり、今度はピリアが声をあげた。
手首の横が裂けて血がにじんできている。
さっと灯をむけると、曲者の手はギザギザとした甲虫の脚の形をなしており、
「お月様までこんなむごい仕打ちを! おお、やはりだれも私を愛してはくれない――!」
高く泣き叫ぶようにいうと、奇妙な手のむこうから真っ黒な目玉ひとつギョロリとさせる。
そして四つん這いになりそのまま逃げようとしたので、ピリアは出口の前に立ちはだかり、
「慈悲がほしいならまずはひざまずいて祈ることね。こんなひどい有様ってあるかしら!」
灯をかかげ、器や刃物の散らばった仕事場をステッキでさし示す。
それからあらためて侵入者を照らしてみると、耳と鼻が異様なほどにとがっていて、一瞬老人のように思える。
しかしよくみれば、子供の顔を潰してしわくちゃにしたといったほうがふさわしいようで、頭にはまっ赤なとんがり帽子をかぶり、その先は二股に分かれている。
この帽子と、枯れ枝のような左手と、ずんぐりとした体形で暗闇では甲虫のようにみえたのだ。
右手のほうは一見普通だったが、床についたそれには親指と人さし指がない。
曲者はこれら不釣り合いな両手の指をくみあわせ、ふるえながら拝んでいった。
「お嬢さん! どうか私から音楽をうばわないでください……チターをつま弾くことすらできなくなれば、今度こそ命までが失われてしまうでしょう。王は愛情深いお方ですが、少々狂っておられるのです」
甲高い悲痛な声だが、うったえるような表情にある右眼は黒一色で、そこに映るランタンは闇にゆれうごく奇怪な炎にみえ、何かぞっとするものを感じさせる。
また左眼はというと、そこにはぽっかりと穴が空いており、さらに膝立ちになっている緑のズボンの先には右足がない。
土のにおいが強くただよってきた。