第八話『レトアノ街道の影』
この世界には準備期間という概念は存在しないのかもしれない。いや、レミアの辞書に存在しないのかもしれない。たしか〝彼〟もほとんど準備をしないまま、追い出されるように旅立ちの日を迎えたというし、あたしはまだこの世界のことがわかっているだけマシなのかもしれない。
「大丈夫? プリムラ」
あたしはともかく、プリムラは旅慣れしていない。彼女の役割はわかるけど、正直、いっしょに旅をしていけるのかは不安だったりする。
プリムラはふだん通りの白いドレス……ではなくて、ちょっとだけスリムな白いドレスを着ていた。ドレスといってもメイドドレスというような、質素なものだけど。動きにくくはないのかな。
「はい、大丈夫です」
と思っていたけど、しばらく歩いていてもプリムラは平気そうな様子で、不要な心配だったみたいだ。
「ところでチサさま、商業都市には行ったことはありますか?」
「ううん。話に聞いただけだよ」
大陸の西側の、しかも主要な都市しか行ってないから、当然、東側の商業都市には来たことなんてあるわけもない。大陸横断した〝彼〟はそういう意味でも、やっぱり異常だったのかも。
商業都市は堅っ苦しそうな町だなあ、となんとなく思う。それとも活気にあふれた町なのかな……。名前だけじゃよくわからない。ああでも、あたしの知ってる商業の町は活気がすごいから、この町でもそうなのかもしれない。
「わたしも行くのは初めてなんです。楽しみですね」
小さく笑う。これからやろうとしていることをわかっていないわけじゃなくて、ただ、気を張り詰め続けることがこんなんだということを、プリムラは知っているんだと思う。
「気を抜きたいところなんだけど、ねえプリムラ」
ただ、その前に、話しておきたいこともある。
人がいないところで。
「なんですか?」
「その、どうしてレミアはブロールって人だと思ったのかなって」
あたしは漠然と、火薬を作っている工場に関係する人だろうと思っていただけで、その中の個人にまで考えは至っていなかった。そもそも個人をそれほど知らないから、それは当然なんだけど、知っているからといって特定できるものでもあるまい。
「それはおそらく、イカガカ中央工場の工場長が彼だからでしょう。レミアさまもそう仰っていましたし」
それだけ……なのかな。
それだけの理由では、ちょっと弱いような気がする。
「中央工場くらいなんです、そういう先進的なことができるのは」
「え?」
「他の工場は基本的に中央工場の下請けのようなもので、工業都市とはいいつつも、ほとんど中央工場一強、いえ、工業都市が中央工場のための都市と言って過言ではないかもしれません」
それほどの……いや、違う。
ここだけじゃなく、他の都市もそうなんだと思う。
神聖都市もそうだった。宗教色が強い都市だからというのも当然あるけど、大聖堂を中心に町が動いていた。
「そこの責任者が彼――ブロールで、彼の指示なしに工場は動きません」
そして、〝彼〟がもたらした火薬の存在。
「確定、か」
ほぼ、という注釈はまだ外せないけれど。密造だって可能性としては十分にある。密造の密造、になるのかな。
「とはいえ、レミアさまはああ仰っていましたが、事実はどうかわかりません」
そう。
だから、余計に困る。レミアの言葉は、それだけの重みを常に持っているから。
「ですから、このテの会話をする時は、人がいない時にしましょう。そういう意味で、今この話題を出していただけたのはありがたいです」
「うん」
堅いなあ。
お城にいる時は気にならなかったけど、これからずっといっしょに行動していって、しかもお城にいた時みたいな関係じゃなく、協力していかなくちゃいけないのにこの堅さはどうだろう。
〝彼〟と話しているのを聞いた時とは雰囲気が違いすぎて……。まあでも、これは宿についてからでもいいか。別に急ぐ話でもないし。
「というわけで、このまま予定通り商業都市へ向かいます」
こうやって話している今も街道を歩き続けているわけなのだけど、この道を〝彼〟が旅のはじめに歩いたのだと思うと、少しだけ感慨深くもある。
「うん。とりあえずこの街道に沿って歩けばいいんでしょ?」
「はい。そのための街道ですから」
しばらく歩いていると、川を挟んだ向こう側に、クレーターのようなものがあった。それ自体はもう古いもののようで、草も生えていて、周りに馴染んでいた。それが目についたのは、ふと川に目をやったら見えたというだけのことだった。別に、クレーターがあったからといってどうってこともない。
ん……待って。
冷静に考えたら、この状況はおかしくない?
そう気づいたら――気持ちがムズムズしてたまらない。
「ねえ……静かすぎると思わない?」
「静かすぎる、ですか」
きょとんと首を傾げる。
「つい先日、あれだけの戦いをふっかけてきたのに……全隊が本当に撤退したのかな?」
あの子はああ言ってたし、実際撤退はさせたけど、どこまで撤退したのかはわからない。撤退したと言って、どこかに潜んでいる可能性だって十分にある。いや可能性としてはそっちのほうが高いんじゃ……。
「どうでしょうか。そう言われれば気になってきますね」
気になる。
「でも気になって歩みを止めるわけにはいきませんよ。レミアさまにはもう今の話を伝えておきましたから、わたしたちはわたしたちの仕事をしましょう」
「え? いつの間に?」
あたしと話している間、魔法を使っているような素振りは全然なかった。
「簡単な言葉なら、口に出したりせずに相手に伝えられるんです」
「そうなんだ」
「はい。ですから、声に出さずに相談するときには便利ですね」
「?」
どういう状況だろ。
疑問に思うと同時、プリムラの空気がピリッと引き締まる。
「例えば――こんなふうに」
『前』
その言葉につられて、あたしは今になってやっと、その存在に気づいた。
それは久々に見た――〝不吉〟の姿だった。




