安寧へと向かう世界
三月五日。
イタリア、ナポリ。
ナポリ市街から南に幾らか下った半島にあるソレントの街に、ボーグ連邦と繋がるゲートが開かれた。
ヴェスヴィオ火山が身おろすこの街は、欧州各国を始め、ゲートがもたらす利益に群がる政治家や経済屋どもで賑わった。
いくつものリゾートが立ち並ぶソレント。
ソレント市街からさらに奥へ行った半島突端部に防波堤を築き、その中にゲートを設置した。
艦船と鉄道による移動が可能である。
また、CERNを始めとする各国の研究者もわらわらと集まっていた。
彼らの関心はゲートそのものだ。
物理的な距離では測れない位置にある両界を、無理矢理接点を作っているのではないかという仮説が唱えられ、電磁波や地震波といった物理的観測だけでなく、神学者や宗教家をも呼び、何かしらの手がかりを得ようとした。
が、公表されたものは何もなかった。
ドイツ、マイセン。
白衣のマッドなサイエンティストたちが紫煙をくゆらせる。
「このゲート。構造はつかめたか?」
「いいえ、申し訳ございません。日本や南極のゲートの資料と突き合わせても、材質、サイズ、地形などに共通項は見当たらず、徹夜で研究中です」
「そうか」
禿頭の男は葉巻をクリスタルの灰皿に置く。
「焦ってもろくなことはない。急いで、体を壊さぬ程度に急ぎ結果を出せ」
「は」
禿頭はディスプレイを見やる。
ナポリゲートの開通を喜ぶ市民の声を取り上げる報道だ。
(ゲートの奥への立ち入りは未だ認められず。呑気なものだな。これで平和になる、だと?橋頭堡の確保が容易になり、負けやすくなるだけだ。まぁイタ公がどうなろうと関心はないがな。盾としては役立つだろう)
ナポリゲートを通しての交流が始まるのは四月になってからであった。
一方、佐賀県に設置されたゲートは更に規模を拡大しつつあった。
プレハブの入国管理局は豪華なプレハブになり、人口減少により放棄された畑をつぶしてい滑走路が敷かれた。
南極、ナポリと違い、海に面していないゲートであるため艦船の出入りが不可能だが、ナッソーの海軍戦力は南極から佐世保基地まではるばる遠路を移動することになった。
なぜ地上に置かれたかというと防衛上の都合である。
他二つのような半水没型ゲートでは、ダイバーによる突破が可能となる。
ゲート保護のための防波堤も必須だ。
内海の地中海ならともかく、南極海の荒波からゲートを守るのは大変だという。
また、地上ならフジツボ掃除の手間もない。
そして日本のインフラは病的なまでに整備されており、船で運ぶしかできないようなものは少ない。
別にガスや油を輸出入するわけではないのだ。
それにそのような物ならパイプラインを置ける。
ナポリゲートは欧州全体が利用しやすくする必要があったし、南極ゲートも同様だった。
だが日本ゲートはナッソーと日本を結ぶだけであり、政府としては中国を交易に一枚噛ませる気はさらさらない。
ロシアもとうてい信頼できる隣国ではなく、伊万里港や唐津港を経由させることで手間を増やし、交易をすべて日本の管理下に置くものとする腹づもりである。
東南アジア諸国も、異世界と交流したければ日本に頭を下げる必要がある。
「その結果、佐賀は物流の拠点となり経済は浮揚。山内を取られたので武雄と有田間の行き来が難しくなったが伊万里や鹿島を経由すればなんとでもなる。佐賀西部はナッソーの警備兵が摘発を兼ねて警備するから治安も酷くはなるまい。野次馬が増えるのは面倒だが、金を落としてくれればいい。あと、国から玄海原発をプルサーマルでぶん回す許可も降りた。電力不足で発展ができないということもない。佐賀平野に風力発電機を生やす計画や、佐賀大学の海洋温度差発電、波力発電の研究にも予算がついた。ナッソーの大学とも共同研究の要請があった。何もない佐賀が、フロンティアになる。私は時の知事として嬉しく思う」
佐賀県知事、鈴谷正雄は執務室で秘書に語る。
「佐賀がもう一度日本史に登場するぞ」
「..知事、私は久留米出身なのでイマイチ分かりかねます」
ちなみに佐賀の鳥栖市と、福岡の久留米市を交換すればいい感じになるというローカルジョークがある。
福岡県でもパッとしない久留米と、九州の中心部にありジャンクションや新幹線など、交通の要衝であり佐賀県内のくせして珍しく発展している鳥栖を交換すればバランスが取れるというものだ。
八十四万人の佐賀県民の中でも七万人が鳥栖市民だ。
久光製薬の本社も鳥栖だ。
通信販売大手密林社の物流センターもある。
「福岡から鳥栖、そして山内までのラインを整備すれば、ゲートがある限り佐賀は世界の中枢にいられる」
「他力本願ですね。そして中心部に寄生する、との表現が正しいのでは?」
「ぐぬぬ」
それでも発展すれば給料も増えるでしょうから、ぜひとも佐賀を発展させるべきですね、と秘書はにこやかに言って去っていった。
面会のアポが入っている。
相手は経済産業省のお役人様だ。
三月二十五日。
ナッソー、イルフナート。
ナッソー首都のこの街に、日本国大使館が開所された。
大使は熊野壮一郎。
伊勢外務大臣の閥で、出身大こそパッとしないが、国際法局を牛耳る気位ばかり高い東大卒閥の連中より真面目に働くと評判。
国際法局も外務大臣閥ではあれ、腹にイチモツ抱えた陰険野朗と悪名高い。
無能ではないのだが。
ただ熊野は政治経済には秀でているのだが、軍事や科学には疎いのが欠点。
サポートする人事も層を厚くされていた。
「 Örvendek。私がこの度赴任した熊野です。両国友好のため、全力を尽くす所存でありますので、どうかご助力願います」
大使館の応接間でアルデルト首相と挨拶する。
「こちらの空気は、いかがですか?」
「カラリと晴れて、気持ちがよいですね。ここに来る途中に見かけた市民の顔に翳りはなく、希望に満ちていました。本当に、いいところで仕事ができそうです」
ロヴァーズ=イレーネはその席にはいなかった。
日本の外交官と喫茶で話をしていたのだ。
「久しぶりね」
「ですね」
矢矧だ。
紅茶を飲みながらタルトを切り分ける。
以前の船上の会議で使われたのと同じような二叉のフォークでだ。
下手に力を加えると折れてしまいそうなフォーク。
三叉よりも安定性にかける。
「私個人としては、二叉よりは三叉がいいと考えるの。バランスがいいでしょ?」
「二叉のほうが私はいいと思う。折れるかもしれない緊張感が、かえって堕落させない」
「二叉は折れてしまえばもう使えないわ」
「折れたら直すさ。それに、三本目の心当たりがあるのかい?ロシアも中国も、あまり長い付き合いをしたい友人ではない」
「アルマタ連邦なら、同じ島国ですし交流も深い。なにより大陸の政治とはいつも距離を置いてきたわ」
アルマタはナッソーとおなじく島国で、大陸の反対側だ。
「アルマタはイギリスと接近していました。イギリスはロシアより悪どい連中だが、道理は通じる。これで四叉を組めば、大陸二つを両岸から圧迫できる」
「経済レベルでの緊密な連携さえあれば、軍事的圧力なしでも、否、なしのほうがよっぽどよく大陸を干せますわ」
イレーネの狐耳が嬉しそうにピコピコ動く。
腹黒いことを考えている証拠だろう。
矢矧は彼女のミトコンドリアが内呼吸をしているときは、だいたい腹黒いことを考えているということを発見していた。
またイレーネのほうでも、矢矧がまばたきをしているときはほぼ例外なく悪いことを考えているということを看破していたりする。
「すでに四人で食ってしまったために彼らに食わせるタルトはない、というわけだ」
「せっかく来てくださったのだから、せめて砂糖を売ってもらいましょう。次のケーキ、次の次のケーキのために」
十分ほど後、イレーネと別れた矢矧はバザーに立ち寄った。
雑多に露店が立ち並ぶそこは、意外と落ち着いた。
「そこな兄さん、買ってきな?」
客引きの声も賑やかだ。
「あー、無視しないでくださいよーもー」
「安いよ安いよ!」
「刺身包丁半額だよー」
矢矧はとりあえず肉でも買うことにした。
「嬢ちゃん、モモ肉くりゃれ」
「はいはーい」
まだ若いその少女は、言葉も覚束ないようだった。
「移民かい?」
「..はい。日本から」
阿武隈は深夜ホームレス街を抜け出し、郊外の飲み屋を目指した。
イルフナートは中心部と郊外に分けられる。
中心部は国政の中心。
夜間人口は一万を割る。
そして郊外が中心部で働く者たちのベッドタウンだ。
中心部の日本大使館がある通りには他の大使館も並ぶところ。
警備は厳重だ。
身なりはホームレスの彼女が入れるわけはない。
だから別の場所に呼び出した。
一件の郊外の飲み屋。
彼女の後ろでガラリと戸が開き、若い女将がいらっしゃいと声をかけた。
入ってきたのは矢矧だ。
阿武隈は昼のうちに接触した矢矧に手紙を渡していた。
内容は彼女がこれまでに見聞した世界の記述と今夜会いたいとのこと。
「異世界見聞録、いかがでしたか?」
「物価の変動や政治の変化。なかなか貴重な情報を感謝する」
「へへっ」
矢矧は事前のブリーフィングで内務省のエージェントが一人異世界に偶然流れていることを聞かされていた。
「よくもまぁ、生きてこれたな」
「私は優秀ですから」
ドヤ顔。
「今はホームレスか?」
「ええ。連絡が取れるまではホームレスの中にいようかと思っていました。しばらくはまだホームレス区にいますので、連絡をいただければイルフナートのどこへなりと案内しますよ。軍司令部の裏口の鍵の在処から、高級ホテルのエレベーターシャフトへの地下通路まで」
「よく調べたな」
エージェントですから。
阿武隈は能代や鬼怒には一歩及ばないが、由良などと並び一等のエージェントだ。
毎晩警備(軽度のストーキングとも言う)をしている彼女のファンクラブの目を盗んで抜け出し、何食わぬ顔で諜報活動を行って帰ってくるなどお手の物だ。
「夕刻のうちに日本へ君の生存の一報を入れておいた。明日には返答が来るはずだ。大使館へのパスも申請中。私見だが、君はこっちの諜報の中心となるだろうから大使館としては最大限の便宜をはかるつもりだ」
ケンブリッジ。
レイラ=エリーと長月忠三はサイトを歩いていた。
ちなみにキャンパスというのは米のプリンストン大学から使われた言葉であり、それ以前の大学ではキャンパスという語は使われないのだそうだ。
長月は日本からの留学生。
「今日はどこか行かない?」
長月はごく自然な仕草でレイラの腰に手を回す。
三十メートル後ろでは一塊の男子学生が嫉妬の炎を燃やす。
「ごめんなさい。今日も用事があるの」
「あいつらじゃないよな?」
長月が嫉妬マスク連中を振り向くことなく親指で示す。
「まさか、私はあなた一筋。今日もいつものバイトよ」
「また今度誘うよ」
ひらひらと手を振り、長月は駐輪場の方へ歩いていった。
何も知らない彼には悪い事をしているとは思う。
ドアを開けてレイラは迎えに来た先輩の隣に乗り込む。
長月が遠くから気にしているようだったので、軽く笑みを投げかけておいた。
「いくらクリーンとはいえ、気をつけなさいよ」
「先輩こそ、お熱なんでしょう?しかもダーティな相手と」
「フフフ、いいジョークね。今からでも殺してあげようかしら?」
「そうしたら先輩が嫉妬深い私の彼に殺されちゃいますよ」
ベンツを乗り回す先輩、ヴァレリー=メディロスはエリーをそのままロンドンへ連れて行く。
長月は自転車で寮へ戻っていった。
ケンブリッジからロンドンまでは一時間二十分。
その間、車中の二人はまるで姉妹のように話した。
「そうそう。料理長ったら塩と砂糖を間違えたのよ。しかもわざとじゃなくて。プディングを口にした一課長が死にかけてたわ。いくらなんでも入れ過ぎよってね」
「料理長ってただのデブいノロマなオジサンにしか見えないのに、意外とやり手ですね。一課長がやられましたかー。明日は我が身とはいえ、いい気味です」
「あなたはどうなの?」
「大学ではとくになにも。研究所に侵入したバカを三名ほど駆除したくらいです」
「どうしようもないくらい平常運転ね」
ロンドン市内にあるMI6本部。
そこへはしかし行かず、ロンドン塔の近くの地下駐車場に入る。
車を下り(ガルウィングのドアだ。ちなみに彼女の車のガルウィングを壁で削ってしまった者はこれまでに二名いる)、リフトのボタンをとある順序で押し、本来あるはずのない地下階へリフトが降りていく。
真っ白な廊下に出る。
網膜認証と指紋認証をパスし、警備の人間のチェックを受ける。
昨年怪しげな日本人オフィサー二人組に押し入られて以来、機械だけに頼った方式を改めたのだ。
距離感が狂うような真っ白な廊下を歩き、目的のドアをIDカードで開放。
いつもの諜報四課のオフィスだ。
「Hello, Boss.」
「エディは休み?」
「今日から休暇で日本ですよ。なんでもジャパニメーションの同人誌即売会があるらしく」
「コミケってこの季節だっけ?」
「オンリーイベントだと言ってました」
「なんのことだからサッパリだし、説明も欲しくないわね」
エドワード=サイフレットがいないことをすっかり失念していた四課長。
他に忘れてることがあるかもしれない。
「何か報告はあるかしら?」
「Negative.今のところお嬢がデートに行く余裕はあります」
今は彼らが遂行中の陰謀で、なおかつ喫緊のものはない。
「じゃぁエリー、よろしく」
「はい」
エリーは自らのデスクにつく。
ケンブリッジ大学での防諜、諜報の途中報告だ。
「エリー嬢のカレシ、ナガツキだったか?あいつもお嬢の旦那と同類だったりはしないのか?」
「彼は違います。お父さんが提督Admiralでお母さんが司書らしいです。本人の周りを洗いざらい調べましたが、怪しいところはありませんでした。彼のプロフィール、全部言えますよ?」
「ストーカーとどう違うんだ?」
「愛です」
ストーカーそのものじゃねーか、と一同の意見は一致を得た。
「そういや最近お嬢の旦那は静かだな。まさか死んだのか?」
旦那、能代とヴァレリーの関係を皆はそう揶揄する。
かつてこの警備厳重なオペレーティングルームに押し入った日本人とはまさしく彼のことだ。
もう一人は現在行方不明のアメリカ精鋭CIAオフィサー、ウィリアム=コーンウォリスを手玉に取った多重スパイの鬼怒。
いわば日本内務省オフィサーの双璧だ。
「今は様態も落ち着いて日本へ搬送されたわ」
昨年十月に行われた米軍による南米に展開したボーグ連邦軍への核攻撃。
民間人の迅速な保護を行ったボーグ連邦の評価はアメリカのそれと反比例で上昇した。
米国政府は否定しているが、すでに誰も信じていない。
その非道を阻止せんがために能代は尽くし、能わず被曝した。
半身を大きく損壊し、米軍の捕虜になるのを避けるべく英国原潜によってスペインまで運ばれた。
能代回収と原潜アンブッシュへの引き渡しを行い、被害調査の陣頭指揮をとったのはヴァレリーだ。
彼女も被曝したが、健康に影響はそこまでない。
毎週病院で診察を受けてはいるが、寿命が大幅に減ったということはないらしい。
せいぜい癌のリスクぐらいだ。
「きっとあいつは死なないわ」
「見ろよ、惚気けやがった」
「メスの顔だぜ」
「チョロイン乙」
「チョローン」
完全防音のはずの四課オペレーティングルームから、十六連撃打撃音が漏れた。
永遠のゼロ、正月から見てきました。
原作を思い出し、開始三分で泣きそうになりました。
宮部氏の卓越した空戦技術が特攻に使われるのが純粋に悲しかった。
一航戦の生き残りとして21型を操り、グラマンの群れを単機振り切り米機動部隊のVT信管による集中砲火を墜落寸前の超々低高度飛行で回避。
エセックス級至近で被弾しながらも、40mmの近接防空火砲をくぐり抜けて急降下。
原作に不要な脚色を加えることなく、感動を映像化してくれました。
お勧めです。