また、明日
日曜午後2時。
それは、1週間で最も時の流れが遅くなる時間帯。
卒業式を1ヶ月後に控えた、そんな2月のある日。僕は暖房が効き過ぎたリビングで、ソファーに寝そべって、何となくテレビを見ていた。 そんな僕に、キッチンでパッチワークをしている母さんが時折やって来ては
「シン、あんたテレビばっかり見てないで、勉強もしなさいよ」
と言って、去って行く。
確かに、クラスのみんなは今、必死になって勉強しているだろう。公立の高校入試は目前まで迫っている。
でも僕には、そんなの関係ない。僕は小さな頃から好きだったバスケで、県内でも有名な私立校の推薦に受かったんだ。
それに、こうやってダラダラできるのも今の内だ。高校に入学すれば、否が応でも勉強ばかりだろう。だからこそ、残り少ない自由な時を謳歌したいのだ。尤も、今味わっているのは倦怠感だけど。
テレビでは、相変わらず芸能人が、知らない町で知らない人と知らない作業をしている。
くだらない。そう思った時、電話が鳴った。
「シーン、出て頂戴」
何だよ。僕にグチグチ言う暇があるなら、自分で出ればいいだろ。とは言わずに、
「分かった」
と言って、僕は受話器を取った。
「もしもし、片倉ですが」
「もしもし、小田原です。シン君?お父さんか、お母さんいらっしゃる?」
電話の向こうで、四十くらいの女が話しかけきた。
「はい、変わります」
多分、同じクラスの小田原の母親だろう。僕は母さんを呼ぶ。
「母さん、小田原さんから電話」
母さんは、パッチワークを一旦止めて、すっ飛んで来た。電話、というだけでコレだ。
僕はまたソファーに座る。チャンネルを変えてみた。画面の中で、男が二人の女に言い寄られている。なかなかの修羅場だな。でも昼ドラに興味はない。もう一度変える。今度はニュースだ。どこかの学校の、入試の模擬テストの様子が映し出された。
「えっ、そうなんですか」
「まぁ、本当に」
母さんの声が聞こえる。かなり深刻そうだ。何かあったんだろうか。
画面の中で、時計のベルが鳴った。テスト終了。教室内が一気に騒がしくなる。懐かしい光景だ。つい最近まで僕だって受験生だったのに、もう懐かしみを帯びている。解説が入って、映像が切り替わった。
「シン、来なさい」
いつの間にか電話を終えていた母さんが、僕を呼んだ。何の用だろう。僕は、テレビを切った。
「シン、落ちついてよく聞きなさい」
いつになく真剣な母さんの声。嫌な予感がする。
「何だよ」
何か悪い事が起こったんだ。それは、母さんの表情から安易に察せられた。
「あのね、トモ君のお父さん……お亡くなりになったんだって……」
「えっ……」
一瞬、何の事か分からなかった。トモのおじさんが?なぜ?いつ?
「今日の朝、車で会社へ向かっている最中、事故に遭ったらしいの。すぐに病院に運ばれたそうだけど、もう………」
トモ。前沢友尋は、僕の親友で、同じクラス。近所に住んでいて、いわゆる幼なじみ。家族ぐるみで付き合っていた。僕もおじさんにはお世話になった。(僕と違って)運動が全くダメな両親に変わって、よくスキーや釣りやキャンプに連れて行ってくれたんだ。そんなおじさんがなぜ?
あれだけ聞けば、もう十分だ。体中の血が、全部無くなったみたいだ。
ショックだった。まるで自分の父親が死んだかのようだ。僕にとって、初めて感じる身近な死。それがトモのおじさんだなんて……。
僕は、フラフラとリビングを出た。階段を上って、自室の扉を開く。一人になりたかった。実の所、おじさんが死んだというのは信じられない。だってあんなに生き生きしていたのに。いつだって
「シンは、ホンマにバスケがうまいな」
って褒めてくれたのに……。
ふと携帯電話を見ると、アキからメールが来ていた。
――トモのお父さんのコト、聞いた?
僕は急いで返信する。
――今聞いた。
アキ。徳永秋穂も、クラスは違うが、僕達の幼なじみだ。肩より少し長めのサラサラした黒髪に、大きな瞳。昔から明るいヤツで、僕の家の隣に住んでいる。そして二年前からはトモの彼女だ。
確かあの二人は、僕の知らない間に付き合っていた。それを知った時は、仲間外れにされたみたいで何か嫌だった。ずっと三人でいたのに。だから、あの時祝福してあげられなかったのを後悔している。
僕は、ベッドに横になりながら思う。アキは今、何を思っているのだろう。明日、どんな顔をして学校へ行くのだろうか。
次の日。今夜はおじさんの通夜があるらしい。
「俺も行く」
と言ったら、母さんは、数珠を出してくれた。
学校へ行く間は、僕はずっと無言だった。校舎に入って、三年二組の前を通り過ぎた時、窓からチラリとアキが見えた。一瞬目が合う。ドキッとした。その目は少し赤く、睫は濡れていたからだ。不謹慎だけど、その姿は美しく見えた。
アキが泣くのを見るのは、何年振りだろう。僕には、アキがトモを想って泣いているのか、おじさんを偲んで泣いているのか分からなかった。
三年五組の教室に入ると、みんなが僕を見た。何人かの女子は泣いている。それを見て、少しムカついた。
何でお前らが泣いてんだ。アキの方が悲しいのに。
僕が席に着くと、祐輔や達也が寄って来た。
「お前、今日の通夜、行くか?」
「ああ、行く。近所だし、世話になったからな」
朝の先生の話では、やはりトモの事が出た。
「前沢は、今が辛い時だ。受験も近いし、支えてやれよ」
そんな薄っぺらな事しか話さない担任を、僕は冷めた目で見ていた。
当たり前だけど、トモの机は一日中空席だった。
家へ帰ると、母さんが慌ただしく動いていた。こんなに早く父さんがいることにも驚いた。二人とも通夜の手伝いへ行くらしい。
「シン、夕飯はテーブルにあるから。温めて食べてね。あと、出る時は戸締まりを忘れず」
「分かってるって。それより、早く行かなくていいのかよ」
最後まで慌ただしかった二人が出て行くと、急に静かになった。 時間があるので、僕は机に向かった。宿題を終わらせると、テーブルの上にあったハンバーグを温めた。
少し早めの夕飯。僕は、ニュースを見ながら一人で食べた。
食べ終わって食器を流しに置いた時、ニュースが交通事故を報道しだした。よく見知った駅前の大通りが映し出される。もしかしたら、と思った。
やはり、トラックに追突されて死んだのは前沢宏さん、トモの父さんだった。
ニュースは、母さんが説明した事より多くの事実を語る。信号待ちしていたおじさんの車に、制限速度オーバーのトラックが突っ込んだきたこと、運転手は酒を飲んでいたこと。
僕は、どうしようもない苛立ちが込み上げてきた。トラックの運転手へではない。確かにトラックの運転手は許すことはできない。でも違う。僕は、自分自身に苛立っていた。 この時、僕は初めておじさんが死んだのだと痛感した。僕の頭の冷静な部分がそれを認めたんだ。そんなことを思う自分が嫌だった。心のどこかでは、まだ生きている、そう思いたかった。
七時五分。僕は学ランの上にコートを着込んで、外へ出た。吐息が白い。二月の夜はまだまだ寒かった。
早めに家を出たつもりだったけど、センターは人で一杯だった。入り口までの行列に並ぶと、達也に会った。他にも中学のヤツらが何人もいる。僕らは、子供だからって理由で、先に中へ入れてもらった。
玄関には、トモがいた。僕を見つけて駆け寄って来る。
「来てくれたんだ」
思ったより元気そうだった。でも僕には、父親を亡くした友達を慰める、ていう言葉が出てこない。とっさに
「アキ、泣いてたぞ」
と、言っていた。
トモは、
「そうかぁ」
と言って、表情を曇らせた。
そこでトモと別れ、会場に入った。既に人で一杯だったけど、なんとか祐輔や省吾の側に座れた。
「ほら、見てみ。オカティーいるぞ」
省吾の指す方向を見ると、
「マジだ」
オカティーがいた。
オカティーとは、去年の僕らの担任、吉岡先生のことだ。生徒からも人気があったのに、四月に離任していった。
オカティーだけではない。小学校の校長や、当時の担任までいる。様々な人がおじさんの死に、何かを感じてここにいる。同じ時間を共有している。そう思ったら、不思議な感じがした。
間もなく坊さんが入場して、読経が始まった。僕には、何を言っているのか分からなかった。
前方を見ると、学ランを着たトモの後ろ姿と、遺族の人達が見えた。トモの姉さんもいる。そういえばアイツ、長男だったんだ。
僕は、おじさんの冥福と、トモ達の幸せを、心から祈った。
次に、女子に囲まれたアキを見た。少し肩を震わせている。やっぱり泣いていた。
足が痺れ出した頃、喪主であるおばさんの挨拶が始まった。トモ達は会場を出て行く。涙ながらに話すおばさん。そして通夜が終わった。
会場を出ようとした僕は、どこにいたのか母さんに呼び止められた。
「シン、お母さん達まだ帰られないから、アキちゃん送ってあげなさい。男の子なんだから」
「わかった。アキは?」
「もう出てるんじゃない?」
疑問系かよ、とは言わずに、外に出る。祐輔達と別れた。
やはり外は寒かった。出口付近で、トモ達が缶コーヒーを配っていた。そこでアキを見つけた。トモからコーヒーを貰っている。
「シン君、久しぶり。来てくれたんだ」
と言われて、僕はトモの姉さんからコーヒーを貰った。温かかった。
「歩美さん、それトモにも言われた」
「そうかぁ。でも来てくれてありがとうね」
「それは言われなかった」
石段を降りたところにアキがいた。僕を待っててくれていたみたいだ。
「帰るか」
そう言って並んで歩き出した。
でも、僕はすぐに困ってしまった。アキと二人っきりなんて、本当に久し振りだ。
「合格おめでとう。シンなら受かるって思ってた」
ふいにアキが言った。
「ああ、サンキュ」
そう返したものの、すぐ無言。昔はくだらない事でも語り合っていたのに。
しばらく白い息を見ていた僕に、またアキが言った。
「見て、星がキレイだよ」
「星?」
「うん」
見上げてみると、確かに綺麗だった。
「うわっ、マジだ」
冬の澄んだ空気によって、他の季節より遥かに輝いている星達。手を伸ばせば届きそう、とまではいかないけど、本当に綺麗だった。そして、
「でしょう?」
と言って、子供のように喜ぶキミ。目が合うと、微笑んでくれた。
僕は、苦しくなった。星とは違って、手を伸ばせば届く距離にいる、というのに。キミは、あの笑顔も全てトモのものなんだ。
僕は下を向いて歩き出す。こんな顔を、見られたくなかった。この想いを悟られたくなかった。
僕はバカなんだ。昔からずっと好きだった。トモと付き合い始めた後も、ずっとキミだけを見ていたなんて。
「実はね、ずっと言いたかったことがあるんだ。この先、言えないような気がするから今言うね」
アキから言い出すのはこれで三度目。自分で話題を振れない僕は、情けなくなった。
「何だよ」
アキは、目を背けた。
「私の初恋の人は……シンなんだ」
何だって?!
心臓がドクン、と脈打つ。体中の血が一気に全身を巡った。おじさんが死んだって聞いとき並みの衝撃だ。
「シンって、昔からカッコ良かったんだよね。勉強も出来るし、運動も出来るし、いつも守ってくれたし」
放心状態の僕。それでも、アキの言葉は、一句一言胸に刻み込まれた。
「それに何と言ってもバスケ!バスケをしている時のシンって本当にカッコ良いんだから」
アキは、自分の事を自慢するかの様に、無邪気に語る。
これ以上聞いたら後戻り出来ないっていう気持ちと、もっと聞きたいという、相反する二つの気持ちが、僕の中で闘っていた。そんな僕を残して、アキは続ける。
「知ってた?シンってモテるんだよ。私のクラスでも、狙ってる子、沢山いるんだから」
「へぇ。俺ってモテるんだ」
「だからこそトモに付き合って欲しいって言われた時、迷ったんだ。一年生の終わりの時。あの頃のシン、本当にバスケ一本だったから。
シンにとって、バスケって翼なんだよね。それがあれば、どんな壁でも乗り越えられる。どんな大空でも自由に羽ばたけるんだよ。
だから、私のワガママでシンを振り回したくなかったの」
そうか。あの時、今より遥かに近い位置に、アキはいたんだ。でも僕はやっぱりバカだったから気付かなかった。
「ハハ、何だよそれ。言ってくれりゃ良かったのに。俺はいつでもOKだぜ」
僕には、これしか言えなかった。この言葉の中に込めた僕の想いに、キミが気付かないことを祈る。
「まぁ、でも今はトモが一番だし」
「うぉ、コイツ言いやがった。それ、トモに言ってやろ」
「あー、ヤメて。言わないで。お願い」
「どうしよっかなぁ」
「もぉ!」
昔みたいな言い合い。でも、昔とは違う。キミはトモを見て、僕は一人ぼっち。
でも、いいんだ。僕の中で、キミへの想いが、少しずつ溶けていくのが分かった。しかし、これからもキミは僕の心の中で、一番に輝き続けるだろう。
いつの間にか、アキの家の前だった。
「送ってくれて、ありがとうね。また、明日」
「おう」
僕は、アキが扉の向こうへ消えるまで、ずっと見ていた。多分、今日の日は忘れないだろう。おじさんの通夜があって、星が綺麗で、そして……。
「また、明日か……」
僕は、そっと呟く。
明日もトモは来ないだろう。それを抜かせば、またいつも通りの日常。
僕は、歩美さんに貰ったコーヒーを一気に飲んだ。もう冷めていた。
もう一度、アキの家を見る。アキの部屋に明かりが灯った。
さよなら、アキ。また、明日。
僕は、自分の家へ帰っていった。