神崎一人旅へ
金曜日の夕暮れ、サイトは持っていた筆をパレットに置くとおおきく背伸びをした。
水曜日からキャンバスに雑木林の絵の下書きをいれ、今日の朝から油絵で色を塗り始めた。ジェッソが下塗りしてあったので
画用紙の上に乗せられる色と違ってキャンバスの上に付けられた色はすっと馴染むように木枠に溶け込んでいった。今日一日でキャンバス
全体に軽く色が付いたのでサイトはしばし充実感に浸っていた。教室を見渡すと腕組をして考え事をしている神崎にサイトは声をかけた。
「ともちゃんどうしたの?絵のことでなんか、悩んでるとか?」
神崎は腕組を解いてサイトに答えた。
「うーん、悩みって程じゃないんだけど...なんか魚に勢いがないって言うか、躍動感がない、って言うか...おれに技術力がない、ってだけなのかね。」
サイトは立ち上がり、自虐的に笑う神崎の絵を覗き込んだ。背景の水に色は付けられているが、魚やラッコなどの生き物にはまだ色が付けられて
いなかった。なるほど。サイトは神崎の言いたいことが理解できた。そしてサイトはそれを口に出した。
「つまり魚達がリアルにこの水槽の中を泳いでいるって見る人に実感させられない、ってことでともちゃんは悩んでるんじゃないかな?だったら実際にその魚を見てくるのが一番だよ。オレも自然を描くために山に登ったし。」
サイトの話を聞いて「へぇ、山登りしたんだ」と感心すると少し考え込んだ後、こう言った。
「おれも登別にある水族館に行って見ようかな。あそこならサメもラッコもいるし。前々から一人旅をしたいと思ってたんだ。」
神崎の話を聞いて「え?ひとりで水族館見に行くの?」と含み笑いをしながらサイトが言うと「じゃあ、他に誰が見に行きたいんだよ」
とすこし恥ずかしそうに神崎は答えた。そして話をまとめるように神崎は続けた。
「よし、とりあえず明日とあさっての二日で登別の水族館に行って実際に生き物達を見てくるよ。いまから旅館が取れるかわかんないけど。」
神崎の意見を聞いて近くを歩いていた松野が「それはいい考えだね。神崎も僕たちに影響されて美術部員らしくなってきた」と言うと
「少なくともまっつんには影響されてねぇよ」と神崎は松野を茶化した。その後サイトに「良いアイデア出してくれてありがとな」と礼を言うと
サイトは「いやいや、遠近法の出し方について教えてもらったお礼ですから」と手を横に振りながら微笑んだ。
「そろそろ夏休みも折り返し地点だからな。こういう下見的な事をするんなら早いほうがいいからな。気づけたことをサイトに感謝するんだな。」
なぜか話をまとめるように加わってきた条一郎をサイトがぼうっと見つめると神崎は条一郎の絵を指差し、「そんなことより条一郎は自分の絵を
まとめることを考えろよ」と笑いながら言った。条一郎の絵はいまだに色がつけられておらず、何度も、何度もキャンバスに下書きを
している後が黒く残っていたからだ。条一郎はとぼとぼと自分の席に戻ると「俺もベトナムに行ってみようかな」とベトナム生まれの
ガラス製カラスの置物を見てため息をついた。