木を見て森も見て
水曜日の朝、サイトは油絵で描いた画用紙を他のものに色が付かないよう紙袋に入れ「風たちぬ通学路」を登っていた。
今日で夏休み10日目。北海道の高校の夏休みは25日しかない。制作期間中盤に差し掛かるのにサイトのキャンバスには何も描かれていない。
ペースアップが必要だ。そんなことを考えながら階段を登り美術室のドアを開けた。
「みんな、おはようございます、ってうお!?」
サイトは大和の机の横に置かれた人体模型を見て度肝を抜かれた。「理科部の人が...絵を描くのに必要だからって言ったら...貸してくれたんだ...」
模型の横からひょいと顔を出して大和が笑う。あのなぁ、おまえ。サイトは膝に手を置くと「おまえ、まさかこれを描くつもりなのかよ」と
内臓むき出しのマネキンを見て言った。「全部ではないけど...グロにもリアリティが必要だと思ってね...」もう勝手にしろ。サイトが教室を
見渡すと松野の絵にはもうキャンバス全てに色が付いている。「おお~、まっつん早いねぇ~」サイトが声をあげると松野は振り返り
「サイトもそろそろ描かなくて大丈夫?油絵は乾くまで時間が掛かるから先倒しで計画は進めたほうがいいよ。」と忠告した。それを聞いて
「だいじょぶ、なんとかするから」とサイトは言い、準備室に向かって歩きだした。あっ、と言って立ち止まると近くにいた条一郎が
「今日は舞先輩がいないから大丈夫だよ」と教えてくれた。ドアに手を掛けると思い出したように条一郎がサイトの背中に言う。
「部屋の中に布が掛かった絵があるけど、それは見たら死ぬ絵だって舞先輩から言われてるから。くれぐれも変な気を起こさないようにな。」
条一郎の話を聞いてサイトはうなづいた。その呪いの絵は舞先輩の描きかけのヌード画だろう。見たい気持ちもあったがまだ死にたくは
なかったのでサイトはロッカーを開け、横目で布の掛かったその絵を睨みながら木炭と練り消しゴムを取り出した。準備室から出るとサイトは教室の
真ん中で絵を描こうとしている神崎に声をかけた。水彩画のボードに鉛筆で下書きが施されている。うっすらとした線を見てサイトは尋ねた。
「これ、もしかして水族館の絵?」
縦書きで描かれているその絵には小魚の魚群やラッコやイルカの海洋生物、そしてサメやアナゴなどが描かれていた。神崎が含み笑いをして答えた。
「そう、水族館のオールスター勢ぞろい、ってわけ。まぁ、ラッコやサメを同じ水槽じゃ飼えないんだけどね。それはファンタジー、ってことにしといてくれ。」
神崎の絵を見下ろしてサイトはほぇーと息を漏らした。「まさに夏休みにふさわしい題材だよな」後ろの方で条一郎が言うと、
「そういう条一郎は早く自分の絵に取り掛かれよ」と神崎が茶化した。条一郎の絵は置物の構図がうまく取れていないのか、書き直した
木炭の黒い跡がキャンバスを汚していた。上から絵の具を塗るため問題ないがどれが本当の線なのかわからなくなってしまうくらいだ。
サイトはみんなを見渡すと意を決したように発言した。
「ねぇ、みんな、ちょっと聞いてくれ。」部員達がサイトに体を向ける。サイトは紙袋から画用紙を出して言った。
「俺、3日間家で油絵を描いてたんだけどなかなかうまくまとまらなかったんだ。今からみんなに見せるから、どんなことでもいいから
絵の感想を教えて欲しいんだ。」
サイトの話を聞いて条一郎が唾を飲み込む。自分の描いた絵をいわゆる同業者に見てもらって評価してもらうというのはとても勇気のいること
だと悟っていたからだ。それは発表会や大会などのフォーマルな場とは違い、私情の混じった暴言まがいの言葉が飛び出す可能性がある。
しかしサイトはその様なことを言われても真正面から受け入れようと思っていた。そのぐらいサイトの油絵は不安定のよちよち歩きで
今後の方向性が見えていなかった。どんなことでもいい。前に進むためのステップが欲しい。大和が描かれた木を指差して言う。
「なんか、全体的に絵のバランスが悪くない?これじゃどの木が前にあるのか分かりづらいんじゃないかな...」
うぐ、こいつには指摘されたくなかった。いや、今後のためにもここは真摯に受け止めよう。次に松野が言った。
「うーん、なんかこう、急いで、急いで描こうと思って雑になってる気がするなぁ。油絵は色を塗り重ねてく物だから焦らずに全体を見てから色を塗ったほうがいいよ。」
松野の意見を聞いてサイトはその通りです、と答えた。木を見て森を見ず。その言葉が実にこの絵にふさわしい。神崎が俺もいいかな、と手をあげる。
「別に忠告ってわけじゃないんだけどさ、俺が持ってる本に遠近法の出し方が載ってるからそれ見て参考にしたらいいよ。」
そういうと神崎はサイトに薄い本を手渡した。おお、ありがとう。ん?なんだこの本は?神崎が渡した本は熱帯魚の本だ。サイトが意味を
理解できないでいると「ほら、水草のページ読んでみ?」と促されたのでそのページを見ると水槽に植えられた水草の写真がたくさん載っていた。
それを見て神崎が説明した。
「この写真見てみ?手前に小さい草、奥に背の高い水草を植えて、真ん中に流木を置いて全体のバランスを整えてる。」
サイトがおおー、と感動すると「驚くのはまだ早い」といい、次の写真を指差した。その写真は今の水槽を横から見た絵だ。手前から奥に
向かって土が少しずつ高くなるように斜めに敷かれている。
「こうやって砂を撒くことによってより遠近感が出すことが出来るんだ。てか、聞いてねぇか。」
神崎は頭を掻いた。サイトはその本を食い入るように見つめていた。遠近感を出すためにこんなトリックがあるなんて知らなかった。
サイトは目を動かさず「ともちゃん、この本ちょっと貸して」と聞くと「ああ、いいよ。今回のおれの絵、遠近感、あんまり関係ないから」と返事が
返ってきた。雑木林と熱帯魚の水槽、意外なところでこの二つは=(イコール)でつながれた。やっと見つかった遠近法というピッケル。
サイトの胸の中でこの断崖絶壁に立ち向かう力強い道具が準備できたような気がしていた。
第1部で出てきた「遠近法の出し方」について触れなかったので、今回軽く神崎に説明させました。今回は1年生全員の絵の構成を紹介できたのでどんな風に作品を仕上げていくか、作者も楽しみです。