4. 痛みを回避していては
「嫉妬は愛の姉妹ですか……」
守衛さんは呟きながら、去っていくリッキーさんの背中へありがたそうに手を合わせてる。ついさっきその手は、必ず彼女を幸せにします! と誓って、リッキーさんとニギニギ握手したばかり。
わたしも拝んでおこう。聖なる光が出てたもん。きっとこうして、人は壷を買うのですね……。
めでたく一件落着して先輩方は帰途へ。
「ああ、忘れるところでした」
拝むあいだ脇に挟んでた制帽を整えつつ守衛さん、ぴしりと背筋を伸ばして警備員の顔に戻った。
「安香様が、用が済んだら寄るようにとおっしゃっていました」
「安香様って……大家さんの茶々さん? はい、分かりました。最上階の一番奥でしたよね。じゃ、失礼しまーす」
茶々さんのお部屋に行ったら、女の子の危機的状況に陥りそうな気もする。通常なら男所帯、リッキーさん大牙さんのお部屋で感じたい危機。
だけど哀しいかな、お二人のそばにいても、これっぽっちもそんな心配しなくて済んでしまいます。先輩方、特にリッキーさんが紳士的だからじゃなく、おっ、男同士でらぶらぶだから……莉子は圏外なのです、ううっ。
「高居さん、どちらへ? あっちです、あっち」
マンションへとぼとぼ向かっていたら、後ろから守衛さんに呼び止められた。振り向けば、あっちと示されているのは聖ウェズリー学院校舎。
わけが分からず棒になってるわたしの顔を覗き込んで、守衛さんはぽんと手を打った。
「ははあ、昨日のお宅も安香様のでしたか。高居さん、安香様はこのあたり一帯の大地主なんですよ。ここ聖ウェズリー学院の土地もです」
それはつまり……あのマンションだけでなく、学院の大家さんでもある、と?
「安香様は気さくな方ですから、私と同じ職場などとおっしゃいましたが、とんでもない。安香様は学院の常務理事でいらっしゃいます。就任なさったばかりですから、ご存知でない生徒さんも多いようですが……」
「きゃああ」
耳小骨に忌まわしい記憶が。女優さんですよね、なんて聞いてしまいました。
マンションでなく、聖ウェズリー学院校舎最上階の一番奥。ずどーんと鎮座まします重厚な木の扉に圧倒される。扉に負けてる場合じゃないんだけど。
茶々さんが学院の理事さんだなんて。教えてくださればよかったのになんて泣きついたら、また大牙さんに気づいてなかったのかボケって言われちゃうんだろうな。
ボケで墓穴……なんて駄洒落を思いついてみるのは現実逃避なのでしょう。
ノックしようとしたけど、ドアの向こうからかすかな声が聞こえた気がした。こそっと耳を寄せてみる。
「……らなくはない。だが男に振られた心の隙間は、万引きなぞというちっぽけな刺激で埋められるものではない。百も承知なのだろう? そう、おまえは賢い子羊だ」
きびっとした張りのある声、茶々さんだ。
「じゃあ、どうすればいいっていうんですか! 忘れろってみんな言うけど、できないからイライラしちゃって、それでつい……」
悲痛に言い返してるのは女生徒みたい。お説教されてるのかな?
「ふむ、万引きしてきたのは貴石付きのピアスだな。おまえが身に着けるのはまだ早い。なぜならおまえ自身が、この石に及んでいないからだ」
かたん、と椅子らしきものが鳴る音、そして足音。
「いいか――宝石の原石というものはな。身を削られる痛みを経て磨かれ、初めて輝くんだ。痛みを回避していては輝くことはできない。おまえという原石を石ころで終わらせるか、こうしてゴールドの台座に輝かせるか、それはおまえ次第だ」
しんなりとした沈黙のあと、ぐすぐすとすすり泣きが聞こえだした。
「す……すみませんでした、安香様。わたし、馬鹿なことをしました! ご迷惑をおかけして」
「よいのだ。我が土地の羊を導くのが、羊飼いの役目なのだからな……」
そろり、と視線をあげてみる。
重々しいドアの上、掲げられた札には、「生活指導室」と金文字で書かれていた。どんなに素行が悪くても、一度踏み入れたら洗脳されない生徒はいないという噂の。
洗脳の現場に居合わせてしまったようです。
「やあ、私の子うさぎ。待たせたな」
洗脳完了、名残惜しそうなハートの視線を注いでくる女生徒をさらりと追い出して、茶々さん――安香常務理事は招き入れてくれた。
壷を売るなら今のタイミングだっただろうに、邪魔してしまったかしらん。
今日の衣装はふりふりドレスシャツにスーツ。公演の控え室を訪ねた一ファンの気分になりかける。
「あの、あのあの、理事さんとは知らず大変失礼をっ」
「案ずるな。ハニー、おまえとは理事と生徒などという無粋な関係を望んではいないのだよ」
ならば、どういう……? と問い返す間もなく、たっぷりなまつ毛を冠した茶々さんの瞳がずずいと迫ってきた。
「何しろ、あやつらにおまえを雇わせたのは他ならぬ私だからな。バイト厳禁である聖ウェズリー学院、その生活指導教官が戒を犯したとなれば、おまえと私はそう……共犯者だ」
自信と余裕、秘密めいた禁断の色香が茶々さんの瞳から注入されてくる。人差し指は、わたしの下顎底からおとがい結節までをつつつとなぞる。映画などでは、この仕草の直後にききききキスなんて展開が待ち受けてたりするものですが。
いけません、先生と生徒どころか、理事と生徒です!
「さて、呼んだのは他でもない。あやつらのことだ」
ありがたくもすぐに指先は離れていき、茶々さんは腕を組んだ。どこか憂い顔だ。ほっとしかけた気持ちを慌てて引き締める。
「あやつらのメイドをする気なら、ひとつ指導しておこう。教学相長、だ」
出ました四字熟語――たぶん。忘れないよう、急いで学生手帳にメモする――ひらがなで。説明を待ち受けていたけど、ふっと唇の端で微笑まれただけ。出会ってからずっとハリウッド的に明朗な表情ばかりだった茶々さんだけに、弱い笑みの意外さは際立っていた。
スターが演技を終え、一人の、生身の人間に戻った瞬間のよう。
「意味は、そうだな……宿題にしておこう」
大事な宿題を出されたんだ、と思う。
だって四字熟語の意味なんて、辞書を調べたらすぐに分かること。それをわざわざ宿題にするってことは、茶々さんはキョウガクなんとか――覚えられない――を抽象的に、比喩的に使ったんじゃないのかな。
リッキーさんと大牙さんを理解するヒントみたいな。
だけど瞬きひとつのうちに、茶々さんの顔から曖昧さは吹き消えた。ありったけのバラを従えたみたいな鮮やかさで笑い、ひらりと身を翻す。
「さあ、道に迷った子羊が他にもいないか、見回りに行かねばな」
どうしてそこで当然のように、鞭を装備なさるんですか。学院を牧場と思ってらっしゃるのでしょうか。
やっぱり、聖ウェズリーは魔窟です。
メイドさんだもんね、とリッキーさんにもらった合鍵でマンションにお邪魔すると。リビングのソファで、大牙さんが眠っていました。
リッキーさんの膝枕にて。
「すっ、すすすすすみません、お邪魔いたしましたっ」
「いいの。大丈夫、スイッチ切れてるから。ちょっとやそっとじゃ起きないの」
安眠のお邪魔をいたしたつもりではなく、お二人のその、愛の現場をお邪魔してしまったつもりで言ったのですが。
カーン、とどこかで第三ラウンド開始のゴングが高らかに鳴る。
タイトル保持者リッキーさん、これが日常スタイルと言わんばかりに見せつけてくださいますね。平然と余裕ぶっこきの表情で、早くもチャレンジャー莉子を追い詰めてます。
負けない、今日は秘策――風邪に効くレシピ本を仕入れてきた。莉子の愛で大牙さんに、「失敗作だなんて疑って悪かったな」と言わせてみせましょう!
あれ? リッキーさんのアヤしい決め台詞がうつったかな。
「あ、そうだ莉子ちゃん。メイドさんに、ひとつだけお願いがあんの」
「はい、何でしょうか?」
てん、と首を傾けると、リッキーさんの黒髪に載る天使の輪が揺れた。チャンピオンの必殺技、おねだりモード発動だ。
「バナナは切らさないであげてね」
「…………」
たったひとつだけのお願いが、自分自身でなく、大牙さんの主食に関してなのですか。
わたしがはいと返事するのを信じて疑ってない、子犬みたいに無邪気な笑顔。国民的美少女だって顔負けの好感度。春の野に咲くたんぽぽのように、素朴で純粋でさりげなくて、何より温かい。
秘策は繰り出す前に露と散る。
そうか、大牙さんを手なずけるならバナナだった。レシピ本でなくバナナを買ってくるべきだった。すでに作戦負けしてる。
「了解いたしました……」
もしかしてタイトル戦と思ってるのは莉子だけで、リッキーさんにとってわたしはサンドバッグなんでしょうか。対戦者と認識されてないんでしょうか。
お父さん、お母さん。莉子は手足の生えたサンドバッグみたいです。だけど宝石の原石と同じように、身を殴られる痛みを経て初めて、相手にしてもらえるのかもしれません。
だから殴られても殴られても、ふんばっていきたいと思います。
あ、四字熟語思いついた……満身創痍。
次のページは拍手御礼(当時)の五コマイラスト集です。回避したい方はお手数ですが、目次に戻ってから第3ラウンドにお進みください。