3. 悪魔が天使の兄弟であるように
お母さん、ごめんなさい。莉子は初体験してしまいました――授業中の居眠りによる先生の注意を。友達談では豪快に突っ伏して寝息を立ててたそうで、とても見逃せるレベルではなかったそう。
教科書がちょっぴり波打ってる……きゃん。
「しかも、うなされてた。ドクター! とか、味噌汁! とか」
「あれは誰でも、むしろ起こさなきゃヤバイと思うって」
一時限目の終わった休み時間、心配する友達の声も眠気でかすんでいく。
「そう言いながら、手は雑巾しぼってた」
「あたしが見た時は、なんかかき回してた……あ」
まぶたの重さに勝てずにうとうとしてたけど、急に友達が慌てたのは分かった。がたがたっ、と椅子がうるさく鳴ったから。
「き、キヨイ先輩っ?」
「……清井ですわ。起きろなのよ、高居莉子」
ばちっ。
人間、ここまで急激に目覚めることが可能なんだ。そう感心しちゃうほどの切れの良さで眠気が覚めてみますれば、どーんと仁王立ちで見下ろしてくるのはセーラー服の短髪スポーツ少年――リッキー軍団高等部団長さん。今日も絶好調にブリザードを背負ってる。
椅子を吹き飛ばして直立不動。見回せば友達は団長さんの寒風におののいたか、はるか教室の隅で遠巻き状態。
あ、四字熟語思いついた……孤立無援。
「お、おはようございますです」
「リッキー様の欠席理由は風邪と聞いたですわよ。衛藤もだわよ」
鷹の瞳がすーっと細くなる。照準を絞っているかのよう。すみませんパトリオット内蔵してないので、スカッド発射しないでください。
「眠そうだな高居莉子……まさか看病疲れなのかですの」
はいと答えれば爆死する、と思った。
「いえっ、いえその」
「リッキー様の具合はどうなんだですの!」
びっくり……した。身の程知らずが、なんて言われると思ってたから。
予想外の言葉に恐る恐る窺えば、団長さんの瞳は揺れていて――あれはきっと、不安というもの。
「あ……」
この人は心配で心配で、ここまで駆けつけてきたんだ。保身を考えた自分が恥ずかしくて泣きたくなった。
「すみません、団長さ……キヨイ先輩」
「清井だわよ」
「今朝はもうだいぶ、熱が下がってましたから。大丈夫そうだったら遅刻で登校する、っておっしゃってました。大牙さんも」
「衛藤はどうでもいいのです。そうか、そうひどくないのかなのですね」
どうでもいいっておっしゃいますが、キヨイ先輩。リッキーさんがお相手ならば、大牙さんは一番どうでもよくない存在かと思われます――とは、さすがに言えない。
「はい。昨日はバスローブのまま、ぐったりなさってましたが……」
さーっと団長さんの顔色が変わった。青でなく、どうしてだか赤く。
「でもバナナを舐めるようにじっくりお召し上がりになって……」
「なんと……なんと凶悪な!」
理由はよく分かりませんが、団長さんは頭を抱えて悶絶してらっしゃいます。
「いえ、そこまで凶悪な風邪ウィルスってわけでもないと思いま……」
「おまえは凶悪の意味が分かってない! ですわね」
視線に握力があれば、間違いなくぎりぎりと首を締め上げられてる。凶悪と言えば残忍とかひどいとか、そんな意味だったと思うのですが。現国漢文古文が苦手な自覚はあるので、記憶違いかもしれません。
ひとしきり悩ましげにうめいていた団長さんは、ふと思い出したようにポケットへ手を入れた。まさかまたマーキングボール――かと思いきや小さな箱。葛根湯、麻黄湯、桔梗湯、小青竜湯などがばらばらと机に放出される。
「風邪に効くのを片っ端から持ってきたですわ。リッキー様にだ、衛藤はどうでもいいですのよ」
ひたすら念入りに除外されてる大牙さん。もしかして同棲してることバレてて、目の敵にされてるのかしらん。
「あの、直接お届けしたらリッキーさんも喜ぶかと……」
とたんに団長さんは、ぱああっと頬を染めてうろたえた。ばん、と威嚇するように、ごまかすように机を叩いたりなさって。
「それができれば、おまえに託したりしないですの!」
うわあ。
なんかじーんときちゃいました。団長さんってほんとにリッキーさんのこと好きなんだ。男子生徒に間違えたりしてごめんなさい、団長さんは恋する女の子です、莉子が保証します!
「お任せください。必ずお届けします、団長さ……キヨイ先輩!」
「……おまえも大概いい度胸だな……ですの」
「律ちゃんは、しんどそうだから……俺が仕方な、っくしょーい! うあー」
いつも以上にかったるそうな大牙さんが姿を見せたのは、六時限終了直後。盛大にしてお上品でないくしゃみに、教室中が振り返った。
「まあ! 衛藤さん、お加減が優れないのにここまで?」
「高居さんったら、ひょっとして衛藤先輩の弱みを握ってらっしゃるのかしら」
「わたくし、高居さんの弱みを握ってさしあげたくなって参りましたわ……」
陽気は日に日に暖かくなっていくのに、取り交わされるささやきは日に日に薄ら寒くなっていくようです。
「はいっ! 仕方なくですね、承知しております! 早く教室を出ましょう!」
いやいや迎えに来てもらったことを自己申告する虚しさも、命には代えられない。大牙さんをぎゅーっと押し出し押し出し。あっさり寄り切り。あれ?
「指輪を引き渡すそうだ。このあと、正門で待ち合わせてる」
寄り切られた大牙さんはいつもみたいに子猫づかみしてきたけど、全然力が入ってない。それどころか常に凍えそうに冷たい掌が、じんわり熱くて。引きずってくためじゃなくて、杖にして寄りかかるためみたい。
「大牙さんもまだ熱ありますよ!」
見れば手ぶら。依頼人さんに会うためだけに、学校まで出てきたんだ。
胸の奥が、かーっとした。
「どうしてですか? どうしてそこまで、依頼人さんにしてあげるんですか。愛のためって言ったって、大牙さんたちがこんなに犠牲を払うことありません!」
リッキーさんと大牙さんにとってはたぶん、お金なんて二の次。前回も今回も、報酬の話はついでみたいに取り決めてたし。親切で探し物するんだろうけど、寒中水泳したり風邪ひいたり、行き過ぎじゃないんだろうか。
「俺もそう思ってないわけじゃないぜ」
低い声に見上げると、熱があっても美しいラインを損なわない下顎骨。骨よ永遠なれ。さらに見上げると、オレンジのサングラスの裏にある少し虚ろな瞳にはどこか硬い光。首筋を覆う大牙さんの掌から、ふっと熱が抜けた気がする。
「贖罪に人生を捧げるならそれはむしろ、生に対する侮辱だ」
「えー。コックさんに失礼ですよー」
「……馬鹿野郎、食材じゃないっ」
これは人体骨格耐震実験かと思うほど、豪快にガンガン揺すられました。
「耐震強度0.7だ」
やっぱり測定してたんですか。
余震の残る脳でふらふらと、今度こそ引きずられながら正門にたどり着く。待ってたリッキーさんがぴゃぴゃっと手を振ってお迎え。意外と元気そう。
「朝に作っておいてくれてたリゾット、おいしかったよ。ありがと、莉子ちゃん」
作っておいた覚えはございます。おかゆなら。
「ぴったりアルデンテだったね。ふふっ、頼もしいメイドさんで嬉しいな」
つまりお米の芯が残ったままだったと。言えない、おかゆだなんて。にこっと笑顔で流して、リゾットってことにしちゃえ。
「案外、おかゆの失敗作じゃないのか」
ふふんと鼻先で笑う大牙さん、鋭い。風邪ついでに、動物的勘も鈍らせといてくれればいいのにい。
「神宮寺さん、衛藤さん」
ごまかそうとあわあわしてるとこを救ってくれたのは、背後からの男性の声。お助け登場、とばかりに素早く振り向いてみると。
「お疲れ様です!」
いたのは警備員の制服で敬礼してる、聖ウェズリー学院の守衛さん。
「そちらこそ、毎日お疲れ様です」
リッキーさんはちょこん、と可愛らしく敬礼を返したりしてる。一日署長のアイドルみたい。
あれ、今そこの植え込みで光ったのは……フラッシュ? キヨイ先輩、背が高すぎて隠れてません。
「早速ですが、こちらで間違いない?」
ブレザーのポケットから出したハンカチ、包みを開くリッキーさんの小指はこれまた微妙に立ってたりする。つやり現れた指輪は、昨日お二人が潮干狩りしてきたもの。
守衛さんが、四角い銀ぶちのめがねを直しながら指輪へ顔を寄せた……。
「ええっ! 依頼人さんって、学院の警備員さんだったんですか!」
「このボケ気づいてなかったのか……」
ぺこん、と頭を叩かれた。今のは中節骨でしょうか。
「無理ないです。お二方は初等部から通学なさってますが、高居さんは高等部からでしょう」
ひい、どうして名前を。
「当学院の生徒さんは資産家や名家のご子息、ご令嬢ばかりですから。顔や名前を覚えて、不審者を排除するのが門衛の務めであります」
顔見知りの、しかもこんな仕事熱心な守衛さんだって知ってたから、お二人はあえて寒中水泳もなさったんだ。大牙さんは食材がどうの、なんてよく分からないこと言ってたけど。
依頼人さん改め守衛さんは、指輪を握り締めて拝んだ。
「確かにこれです、間違いないです。ありがとうございます、ありがとうございます!」
興奮したようすにこっちまで嬉しくなって、思わずぐっと握ったこぶしを振っちゃった。
「わあ、よかったですね! 明日のプロポーズもうまくいくといいですね!」
ひくっ。
とたんに、喜び一色だった守衛さんの顔が引きつった。
「……馬鹿」
後ろから大牙さんの、しみじみとため息交じりの呟き。
「プロポーズですか……」
目には見えない。でも確かに暗雲がでんでろとわいて、守衛さんを取り巻き始めた。
「その資格が私にあるんでしょうか。余計な嫉妬で彼女を傷つけてしまうんじゃないだろうか……」
そういえば悩んでらしたんでした、このお方。大失言のフォローを求めあせってぐるぐる見回すと、リッキーさんの微笑みに出会いました。
菩薩様のようだった。とても静かなのに、心を強く持ってく引力があって。金箔が張ってあるわけじゃないのに、ほわんと黄金色に光ってて。その御光が、守衛さんを包囲していた暗雲を払い清めていく。
「フランスの政治家にして小説家、スタニスラス・ド・ブッフェルの言葉に、こういうのがあんの――」
大気になじんで降りてくる口調は、天からのお告げのよう。
「『悪魔が天使の兄弟であるように、嫉妬は愛の姉妹である』。一方がなければ、また一方もないの。嫉妬するのは、それだけ誰より愛してるってことだと思わない? 自信を持って、ねっ?」
気が付けば、守衛さんと一緒にカクカク頷いておりました。